佐藤文香が『俳句を遊べ』の中で「打越」という言葉を使ってから、私の周囲の川柳人のあいだでも「打越」の考え方がちらほら話題になっている気配である。私は連句人でもあるから、連句用語の「打越」をあまり安易に使ってほしくない気持ちもある一方、そこを入り口として連句精神が普及していくなら歓迎すべきだとも思う。
本日は連句論を展開するつもりはなく、野間幸恵の句集『WATER WAX』についての感想を書いてみたい。この句集は早くからいただいていたが、今までゆっくり読む時間がとれなかった。野間とは五月の「川柳フリマ」のときに会ったが、短い立ち話をしたにとどまる。会場には句集の解説を書いている柳本々々も来ていた。野間の句集は『ステンレス戦車』『WOMAN』も手元にあって、拙著『蕩尽の文芸』では野間について次のように触れている。
「 琴線は鳥の部分を脱いでゆく 野間幸恵
この句を私は『琴線→鳥の部分→脱いでゆく』の三つの部分に解体して読んでいるのだが、それを連句の三句の渡りに変換すれば、たとえば次のようになるかも知れない。
琴線はわが故郷の寒椿
鳥の部品を包む冬麗
うすもののように記憶を脱いでゆく
前句と付句の二句の関係性、三句の渡りの関係性を、もし一句で表現しようとすれば、線条的な意味の連鎖はいったん解体され、日常次元を超えた言葉の世界がそこに成立する。そのことによって、作品は広い時空を獲得することができる。一句によって表現できるスケールは本来、大きなものであるはずだ」(「川柳の飛翔空間」)
文中の三句の渡りは私が勝手に考えたもので、野間の俳句とは無関係なので、念のため。私の考えは基本的には変わっていないが、『WATER WAX』では野間の言葉の関係性はさらに自在に展開している。たとえば、こんなふうに。
耳の奥でジャマイカが濡れている 野間幸恵
音感やタランチュラが澄んでいる
キリンの音楽で不在を考える
胞子など子供の手から暮れてゆく
ブナの森小さくたたんでしまいけり
紅茶とは誰もいない庭である
もう二度と馬は霧で出来ている
酒樽のふつつかに帰りたいだろう
この世でもあの世でもなく耳の水
私の好みから言えば二物の取り合わせより「三句の渡り」を一句の中で実現している句がおもしろいと思う。それを一句として成功させるには繊細な言語感覚を必要とする。三段切れなどは児戯に類するのだ。
こういう書き方の遠源は攝津幸彦だろう。
路地裏を夜汽車と思う金魚かな 攝津幸彦
そういえば、攝津は野間の次の句を「私の好きな女流俳句」の一句として挙げていた(『俳句幻景』)。
一反木綿雨後をふくらむジャック&ベティ 野間幸恵
そして攝津は「俳句の方法による一行詩の自律に挑み、幾多の男性俳人が敗れ去った荒野で、ねばり強く言葉と交換する幸恵」とコメントしている。
ただし、「三句の渡り」理論から言えば、掲出句は「一反木綿」と「ジャック&ベティ」が固有名詞の打越となり、必ずしも成功しているとは言えない。
手を洗う鯨へ愛を切り子かな 『ステンレス戦車』
左京区を上がる恥骨は打ちどころ 『WOMAN』
うっとりとアンモナイトを遅れるか 『WATER WAX』
先日、「川柳カード」12号の合評会があって、同人・会員作品を改めて読み直した。その中に次の句があった。
本堂に密度の雨がオスとメス 榊陽子
カンガルーは腐った水蜜桃だよ
なお父はテレビの裏のかわいそうです
天狗俳諧の書き方は昔からあるが、効果的な作品にどう高めてゆくか、それぞれの作者の腐心するところだろう。
五月に話したときに野間は「急に句が書けなくなるときがある」と言った。「私はまだそういうレベルにまで到達していません」と答えた私を、彼女は「謙遜する人は苦手だ」とあっさり切り捨てた。野間の句集のあとがきにはこんなふうに書いてある。
「言葉で描く世界はいつもミラクル。最大と最小が隣り合わせ。その中で『私』など全く不要で、大切なのは『関係性』だと思っています」
2016年9月24日土曜日
2016年9月16日金曜日
口語短歌と文語短歌
明後日9月18日(日)に「文学フリマ大阪」が堺市産業振興センターで開催される。文学フリマは東京をはじめ各地で開催されているが、大阪では第四回となる。「川柳カード」の出店は昨年に続き二回目となるが、川柳からのブースは他に見当たらないので、川柳界から唯一の出店となる(ただし、「現代川柳かもめ舎」の朝妻久美子が「現代川柳ミュウミュウ」を「うたつかい」のブースで委託販売するらしい)。「川柳カード」のブースは六条くるると神大短歌会に挟まれて開店しているのでご来店をお待ちする。「川柳カード」バックナンバーと川柳カード叢書『ほぼむほん』『実朝の首』(『大阪のかたち』は品切れ)、小池正博句集『水牛の余波』『転校生は蟻まみれ』、兵頭全郎句集『n≠0』などのほか、フリーペーパー「THANATOS石部明」2/4、榊陽子「虫だった」を配布予定。
さて、俳誌「里」特集「この人を読みたい」に毎号注目しているが、9月号では堀下翔が小原奈実の短歌を取り上げている。堀下は「文語短歌の現在」で現代短歌の潮流を次のようにとらえている。
「先鋭化してゆく社会のありようを、五・七・五・七・七の定型のみを恃みとして、そこに埋没しかねない個人の実感において書く、そうした潮流がそこにはあった」
「重要なのは、1980年代。90年代生まれの世代の書き手たちが担うこの新たなメインストリームに、口語表現を前提としている節が見られる点だ」
このような潮流の中で、小原奈実は90年代生まれの歌人でありながら文語短歌の書き手である。文語表現をとるのが大勢である俳句サイドの堀下が小原に関心を持つ理由もここにあるのだろう。
往来の影なす道に稚き鳥発てばみづからをこぼしてゆきぬ 小原奈実
堀下の文章を読みながら、口語表現を主流とする川柳サイドにいる私は、現代短歌における文語短歌の在り方というより、逆に、それでは口語短歌とはいつごろから書かれているのかということに改めて関心を持った。口語短歌は「俵万智以後」にできたものではなく、「穂村弘以後」のものでもない。かつて口語短歌を書くことが、一種の「前衛」であった時代があったのだ。
私の手元にあるのは現代短歌全集・第21巻『口語歌集/新興短歌集』(改造社・昭和6年)。その中から西村陽吉と西出朝風の作品を紹介したい。
モウパツサンは狂つて死んだ 俺はたぶん狂はず老いて死ぬことだらう 西村陽吉
かあんかあんと遠い工場の鎚の音 真夏の昼のあてない空想
何か大きなことはないかと考へる空想がやがて足もとへかへる
三十を二三つ越してやうやうに ここに生きてる自分がわかつた
俺が死んだ次の瞬間もこの土手の櫻の並木は立つてゐるだろ
他人のことは他人のことだ 自分のことは自分のことだ それきりのことだ
「死ぬ時に子供等の事は?」「思はない。死んでく自分だけがいとしい。」 西出朝風
第一のその夜にすでに相容れぬ互を知つた二人だつたが。
これはまたなんて素晴らしい話題でせうこなシヤボンの話。磨き砂の話。
夢二氏が假りの住まひの縁さきに竹を四五本植ゑるさみだれ。
「手紙くらゐよこせばいいに。」「それぞれに自分の事にいそがしいから。」
一生にまたこの上の濃い色を見る日があるか、深藍の海。
西村陽吉は大正14年(1925)、口語短歌雑誌「芸術と自由」を創刊。大正15年(1926)には全国の口語歌人大会が上野公園で開かれた。西村の「芸術と自由社」(東京)のほか渡辺順三の「短歌革命社」(東京)、松本昌夫の「新時代の歌人社」(東京)、青山霞村の「カラスキ社」(京都)、清水信の「麗日詩社」(奈良)の共催だったという。この大会で「新短歌協会」が結成され、「芸術と自由」はその機関誌となったが、昭和3年(1928)に「新短歌協会」は口語短歌の形式と内容をめぐる論争を経て分裂。歌集『晴れた日』など。
西出朝風は口語短歌の草分け的存在で、大正3年(1914)全国初の口語短歌誌「新短歌と新俳句」(のちに「明日の詩歌」と改題)を創刊。妻の西出うつ木も口語歌人。
この時代の短歌史についてはプロレタリア短歌・新興短歌・口語短歌が錯綜してややこしいが、興味のある方は木俣修『昭和短歌史』などを参照していただきたい。
大正末~昭和初期の口語短歌は現在の口語短歌とはバックグラウンドが異なるが、ジャンルと時代を越えた視点をもっておくことは無意味ではない。川柳人の高木夢二郎は「新興川柳と口語歌」(「氷原」昭和3年8月)で「口語歌と川柳と其各々が詩として我々の生活表現のどの部分を各々が的確になし得るかとの問題を私は久しい以前から考へて見た」と述べて、口語短歌と新興川柳とを比較している。
口語と文語の違いは文体の問題であって、どちらが「前衛」的かとも言えない。口語が前衛的であった時代もあるし、文語が前衛的であった時代もある。しかも、短詩型のそれぞれのジャンルによって事情が異なっている。「新興短歌/新興俳句/新興川柳」を統一的にながめ、それが戦後の「前衛」、さらに「現代」にどうつながっているのか、誰か明らかにしてもらえないものだろうか。
さて、俳誌「里」特集「この人を読みたい」に毎号注目しているが、9月号では堀下翔が小原奈実の短歌を取り上げている。堀下は「文語短歌の現在」で現代短歌の潮流を次のようにとらえている。
「先鋭化してゆく社会のありようを、五・七・五・七・七の定型のみを恃みとして、そこに埋没しかねない個人の実感において書く、そうした潮流がそこにはあった」
「重要なのは、1980年代。90年代生まれの世代の書き手たちが担うこの新たなメインストリームに、口語表現を前提としている節が見られる点だ」
このような潮流の中で、小原奈実は90年代生まれの歌人でありながら文語短歌の書き手である。文語表現をとるのが大勢である俳句サイドの堀下が小原に関心を持つ理由もここにあるのだろう。
往来の影なす道に稚き鳥発てばみづからをこぼしてゆきぬ 小原奈実
堀下の文章を読みながら、口語表現を主流とする川柳サイドにいる私は、現代短歌における文語短歌の在り方というより、逆に、それでは口語短歌とはいつごろから書かれているのかということに改めて関心を持った。口語短歌は「俵万智以後」にできたものではなく、「穂村弘以後」のものでもない。かつて口語短歌を書くことが、一種の「前衛」であった時代があったのだ。
私の手元にあるのは現代短歌全集・第21巻『口語歌集/新興短歌集』(改造社・昭和6年)。その中から西村陽吉と西出朝風の作品を紹介したい。
モウパツサンは狂つて死んだ 俺はたぶん狂はず老いて死ぬことだらう 西村陽吉
かあんかあんと遠い工場の鎚の音 真夏の昼のあてない空想
何か大きなことはないかと考へる空想がやがて足もとへかへる
三十を二三つ越してやうやうに ここに生きてる自分がわかつた
俺が死んだ次の瞬間もこの土手の櫻の並木は立つてゐるだろ
他人のことは他人のことだ 自分のことは自分のことだ それきりのことだ
「死ぬ時に子供等の事は?」「思はない。死んでく自分だけがいとしい。」 西出朝風
第一のその夜にすでに相容れぬ互を知つた二人だつたが。
これはまたなんて素晴らしい話題でせうこなシヤボンの話。磨き砂の話。
夢二氏が假りの住まひの縁さきに竹を四五本植ゑるさみだれ。
「手紙くらゐよこせばいいに。」「それぞれに自分の事にいそがしいから。」
一生にまたこの上の濃い色を見る日があるか、深藍の海。
西村陽吉は大正14年(1925)、口語短歌雑誌「芸術と自由」を創刊。大正15年(1926)には全国の口語歌人大会が上野公園で開かれた。西村の「芸術と自由社」(東京)のほか渡辺順三の「短歌革命社」(東京)、松本昌夫の「新時代の歌人社」(東京)、青山霞村の「カラスキ社」(京都)、清水信の「麗日詩社」(奈良)の共催だったという。この大会で「新短歌協会」が結成され、「芸術と自由」はその機関誌となったが、昭和3年(1928)に「新短歌協会」は口語短歌の形式と内容をめぐる論争を経て分裂。歌集『晴れた日』など。
西出朝風は口語短歌の草分け的存在で、大正3年(1914)全国初の口語短歌誌「新短歌と新俳句」(のちに「明日の詩歌」と改題)を創刊。妻の西出うつ木も口語歌人。
この時代の短歌史についてはプロレタリア短歌・新興短歌・口語短歌が錯綜してややこしいが、興味のある方は木俣修『昭和短歌史』などを参照していただきたい。
大正末~昭和初期の口語短歌は現在の口語短歌とはバックグラウンドが異なるが、ジャンルと時代を越えた視点をもっておくことは無意味ではない。川柳人の高木夢二郎は「新興川柳と口語歌」(「氷原」昭和3年8月)で「口語歌と川柳と其各々が詩として我々の生活表現のどの部分を各々が的確になし得るかとの問題を私は久しい以前から考へて見た」と述べて、口語短歌と新興川柳とを比較している。
口語と文語の違いは文体の問題であって、どちらが「前衛」的かとも言えない。口語が前衛的であった時代もあるし、文語が前衛的であった時代もある。しかも、短詩型のそれぞれのジャンルによって事情が異なっている。「新興短歌/新興俳句/新興川柳」を統一的にながめ、それが戦後の「前衛」、さらに「現代」にどうつながっているのか、誰か明らかにしてもらえないものだろうか。
2016年9月10日土曜日
大会の終焉―玉野市民川柳大会
今夏7月3日に「第67回玉野市民川柳大会」が開催され、京都・大阪からも多数の川柳人が参加した。今年の選者には「川柳カード」同人が多かったことはこのブログでも触れたことがある。
大会報が8月初旬に届いたが、開いてみて衝撃が走った。「お知らせ」が挟んであり、玉野市民川柳大会は今回をもって終了するというのだ。
「玉野市民川柳大会は多くの川柳作家に可愛いがられ、親しまれ、また期待されてきましたが、この67回大会をもって終わらせて頂きます。参加された方々をはじめ、多くの仲間たちには誠に申し訳ないことですが、当玉野の会員の高齢化、減少は如何ともしがたく、ここ数年来の最大の問題点でありましたが、改善するに至りませんでした。また市の文化施設の老朽化、移転、会場問題など、第67回大会の反省から、『終了は止むを得ない』と結論が出されました」
何事も永遠に続くものではないから、いつかは終わるときがやって来る。句会も同人誌も同じである。しかし、川柳の場合、終焉は突然やって来る。
玉野市民川柳大会はそこに行けば現代川柳の動向がわかり、いま活躍している川柳人が大勢集まり、自分の句を試すことができて、川柳の現在位置を確かめることができる、そのような大会だった。そして、そのような大会は私の経験する範囲ではちょっと他に見当たらないのである。
個人的な書き方になるが、私がはじめて玉野市民川柳大会に参加したのは、平成15年の第54回大会であった。兼題「へだたり」の選をして特選に選んだのが片野智恵子の「遠景にぷかりぷかりと泣き虫ピアノ」だった。共選の草地豊子が選んだ特選は石田柊馬の「あちらでしょビュッフェの黒とかうじうじとか」。このとき私は柊馬の「西麻布の麻は元気にしてますか」も選んでいない。この時点で私には柊馬の句のおもしろさが分かっていなかったのであり、未熟な選をしたことがあとあとまでトラウマとなった。
このころ玉野では前夜に懇親会があり、瀬戸内国際マリンホテルに泊まって、夜遅くまで海辺のスナックで飲んだ。玉野の夜の海を眺めていたことを覚えている。
その後、玉野には毎年行っているが、発表誌からいくつかの句を並べてみたい。
杉並区の杉へ天使降りなさい 石田柊馬(第54回・2003年)
妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬(第55回・2004年)
君は何族と聞いてくるマリア・カラス 畑美樹(第55回・2004年)
にんげんに羽約束の摩天楼 清水かおり(第56回・2005年)
遠回りしては西脇症候群 飯田良祐(第57回・2006年)
出産の馬苦しんでいる朧 石部明(第58回・2007年)
爆弾処理にカフカさん産婆さん 高田銀次(第59回・2008年)
背鰭立ち上げて境界線にする 富山やよい(第60回・2009年)
乙女らは海のラ音を聞いている 内田万貴(第61回・2010年)
悪事完遂すて猫をひょいと抱く 筒井祥文(第62回・2011年)
想い馳せると右頬にインカ文字 内田万貴(第63回・2012年)
ブレイクショットから木星が動かない 兵頭全郎(第64回・2013年)
天井の人で溢れる誕生日 榊陽子(第65回・2014年)
挽歌だろう頬に畳の跡がある 酒井かがり(第66回・2015年)
だらだらのばす七月の座高 中西軒わ(第67回・2016年)
玉野市民川柳大会の歴史を書き留めておこうと思ったものの、その時々の出来事がいろいろ思い出されて客観的に書くことが難しい。振り返ってみると、私はこの大会に育てられたのだということを改めて意識する。
前田一石は第40回からこの大会を受け継いでいる。男女共選というのが特徴で、毎回どのような組み合わせになるか、一石はあれこれ頭を悩ませたことだろうが、それが彼の楽しみでもあった。一石をはじめスタッフの方々のこれまでの持続的な努力に敬意を表したい。
蛇足だが、「共選」の在り方もこれから再検討するべき時期に来ているかもしれない。男女という区分は今の時代にそぐわないとも考えられ、今後どのような共選がいいのか、どのような大会が求められているのかが「玉野以後」の課題となるだろう。
大会報が8月初旬に届いたが、開いてみて衝撃が走った。「お知らせ」が挟んであり、玉野市民川柳大会は今回をもって終了するというのだ。
「玉野市民川柳大会は多くの川柳作家に可愛いがられ、親しまれ、また期待されてきましたが、この67回大会をもって終わらせて頂きます。参加された方々をはじめ、多くの仲間たちには誠に申し訳ないことですが、当玉野の会員の高齢化、減少は如何ともしがたく、ここ数年来の最大の問題点でありましたが、改善するに至りませんでした。また市の文化施設の老朽化、移転、会場問題など、第67回大会の反省から、『終了は止むを得ない』と結論が出されました」
何事も永遠に続くものではないから、いつかは終わるときがやって来る。句会も同人誌も同じである。しかし、川柳の場合、終焉は突然やって来る。
玉野市民川柳大会はそこに行けば現代川柳の動向がわかり、いま活躍している川柳人が大勢集まり、自分の句を試すことができて、川柳の現在位置を確かめることができる、そのような大会だった。そして、そのような大会は私の経験する範囲ではちょっと他に見当たらないのである。
個人的な書き方になるが、私がはじめて玉野市民川柳大会に参加したのは、平成15年の第54回大会であった。兼題「へだたり」の選をして特選に選んだのが片野智恵子の「遠景にぷかりぷかりと泣き虫ピアノ」だった。共選の草地豊子が選んだ特選は石田柊馬の「あちらでしょビュッフェの黒とかうじうじとか」。このとき私は柊馬の「西麻布の麻は元気にしてますか」も選んでいない。この時点で私には柊馬の句のおもしろさが分かっていなかったのであり、未熟な選をしたことがあとあとまでトラウマとなった。
このころ玉野では前夜に懇親会があり、瀬戸内国際マリンホテルに泊まって、夜遅くまで海辺のスナックで飲んだ。玉野の夜の海を眺めていたことを覚えている。
その後、玉野には毎年行っているが、発表誌からいくつかの句を並べてみたい。
杉並区の杉へ天使降りなさい 石田柊馬(第54回・2003年)
妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬(第55回・2004年)
君は何族と聞いてくるマリア・カラス 畑美樹(第55回・2004年)
にんげんに羽約束の摩天楼 清水かおり(第56回・2005年)
遠回りしては西脇症候群 飯田良祐(第57回・2006年)
出産の馬苦しんでいる朧 石部明(第58回・2007年)
爆弾処理にカフカさん産婆さん 高田銀次(第59回・2008年)
背鰭立ち上げて境界線にする 富山やよい(第60回・2009年)
乙女らは海のラ音を聞いている 内田万貴(第61回・2010年)
悪事完遂すて猫をひょいと抱く 筒井祥文(第62回・2011年)
想い馳せると右頬にインカ文字 内田万貴(第63回・2012年)
ブレイクショットから木星が動かない 兵頭全郎(第64回・2013年)
天井の人で溢れる誕生日 榊陽子(第65回・2014年)
挽歌だろう頬に畳の跡がある 酒井かがり(第66回・2015年)
だらだらのばす七月の座高 中西軒わ(第67回・2016年)
玉野市民川柳大会の歴史を書き留めておこうと思ったものの、その時々の出来事がいろいろ思い出されて客観的に書くことが難しい。振り返ってみると、私はこの大会に育てられたのだということを改めて意識する。
前田一石は第40回からこの大会を受け継いでいる。男女共選というのが特徴で、毎回どのような組み合わせになるか、一石はあれこれ頭を悩ませたことだろうが、それが彼の楽しみでもあった。一石をはじめスタッフの方々のこれまでの持続的な努力に敬意を表したい。
蛇足だが、「共選」の在り方もこれから再検討するべき時期に来ているかもしれない。男女という区分は今の時代にそぐわないとも考えられ、今後どのような共選がいいのか、どのような大会が求められているのかが「玉野以後」の課題となるだろう。