お白粉をつけて教授の鰊蕎麦 飯田良祐(以下、同じ)
「白粉」「教授」「鰊蕎麦」、いずれも日常にある物や人である。別に異常なものではない。
けれども、この三つの単語を繋ぎあわせると、そこには尋常でない光景が浮かび上がる。
白粉をつけているのは教授だろう。女性の教授とも考えられるが、男性教授が白粉をしていると読んだ方がおもしろい。男でも化粧をすることはあって、たとえばニュースキャスターは男性であってもテレビ映りのために薄化粧をすることがあるらしい。この場合は職業目的であるが、この句の教授は何のために化粧しているのだろう。
しかも、その教授が鰊蕎麦を食べている。
「お白粉をつけた教授が」ではなくて、「お白粉をつけて」で少し切れる。作者の視線はまず白粉に向けられている。川柳では食べ物などの日常的なものをよく取り合わせる。良祐の句にも「大福餅」「串カツ」「クラッカー」などの食べ物が出てくる。衣食住は生活詩としての川柳には不可欠の素材であって、しばしば使われる。
人は白粉をつけ化粧することで日常とは次元の異なる世界にヴァージョン・アップする。それなのに、鰊蕎麦という日常次元にダウンしてしまう。その落差が何となくおかしい。
ビニール袋の中のカサカサの勃起
そんなものをビニール袋の中へ入れられても困る。ノーマルな恋愛関係であれば、カサカサのとは言わないだろう。スーパーで買い物をすると、商品をビニール袋に入れて持ち帰る。水漏れしないように、水分が逃げないように、品物は包みこまれる。冷蔵庫に入れる場合はラップをかけて保存する。みずみずしい状態に鮮度が保たれる。けれども、この句の場合は乾いている。ドライである。欲望はある。けれども、その欲望が人間的なつながりに結びついてゆかない。欲望は恋人たちを結びつけたり、欲望の結果、子どもが産まれたりする。欲望自体には良いも悪いもなく、ある意味で生の原動力かもしれない。その欲望さえ本物かどうか、疑わしい。避妊具のなかで、欲望は痛ましいまま宙吊りになっているのだ。
公定歩合にさしこんでみたプラグ
現実に生きる人間として、経済問題は重要である。金利とか円高・円安とか年金とか。人はパンのために生きるものにあらず、とは言いながら、生活できなければ文芸もなにもない。ヒト・モノ・情報・カネ。同じように暮らしているつもりでも、運・不運によって経済的格差が生まれたりする。情報を人より先に握っただけで、巨万の富を得たりする世の中である。良祐は自分の事務所をもっていたから、部下たちの生活のことも考えなければならなかった。状況に翻弄されながら、ふとプラグでも差し込んでやろうか、という怒りが生まれる。火花でも散るだろうか。何の影響もないだろうか。人生設計をむちゃくちゃにした者たちに一矢報いることができるだろうか。
庭のない少年からの速達便
「庭のない少年」とは何だろう。アパートなどに住んでいて住まいに庭をもたない少年だろうか。そういうふうに読んでもいいが、川柳の意味性ということを考えると、この庭は内面的なものであるように思えてくる。
庭には植木や花々や野菜などが植えられていて、水やりや手入れが大変であるが、ちょっとした食材を栽培する実利的な役割のほかに、土をいじったり花を育てたりすることで気分転換や安らぎを得ることもできる。その人の庭がある精神の状態を表しているととらえると、たとえば箱庭療法では、箱庭の中にいろいろな玩具を並べることによってカウンセリングの一助になったりする。禅寺の枯山水になると石や砂が象徴的な意味をもったりする。
さて、「庭のない少年」から速達が届いた。いったいどう返事をすればよいのだろうか。速達だから、緊急性を要する内容かもしれない。こちらも「庭のない大人」であって、適切なアドヴァイスなんてできるはずがないのである。
ほうれん草炒めがほしい餓鬼草紙
「地獄草紙」や「餓鬼草紙」などの絵巻や断簡がある。「地獄草紙」には糞尿地獄など、往生要集に書かれているような、様々な地獄が登場する。「病草紙」というのもある。たとえば、不眠症の女。みんなが眠りこけている深夜、ひとり目ざめている女の顔は不安に満ちている。餓鬼は修羅など六道のひとつである。水を飲もうとして泉に触れると、水は火となって、餓鬼は永遠の渇きに苦しめられる。餓鬼草紙を見ながらふとホウレンソウが食べたくなったのだろうか。あまり食欲がわく状況とも思えない。「ほうれん草炒めがほしい」のは作者であり、餓鬼ではない。しかし、何となく餓鬼が「ほうれん草炒めがほしい」と言っているような感じもする。自分も一匹の餓鬼であり、ほうれんそう炒めとビールがあればしばしの憩いの時間がもてるかも知れない。ふと垣間見せた良祐のやさしさだろう。
母死ねとうるさき月と酌み交わす
母は憎悪の対象であろうか。
娘と母との関係において、娘が母を憎むことはエレクトラ・コンプレックスと呼ばれている。逆に、息子が母を愛するのがエディプス・コンプレックスのはずだが、良祐の句では母への憎悪が詠まれている。
寺山はつ著『母の螢』という本がある。はつは寺山修司の母である。寺山が写真集を出すというので、母をモデルにした。
「何で私なの。お化けの写真集でも作るの?」
「まあ、似たようなものなんだけど…」
というので、京王ホテルで撮影する。「ここでは半分喧嘩でした。脱がされたり、塗りたくられたり、いい玩具にされた感じでした」とはつは書いている。
写真集が出来上がる。グロテスクな写真がいろいろあって、「ぼくの母は、若い男と駆け落ちをして…」などまことしやかに書いてあった。もちろん虚構である。
母が激怒するのを、修司はポカンと見ていたという。
自転車は白塗り 娼婦らの明け方
まだ二十代のころ、難波から天王寺まで深夜の街を歩いたことがある。
もう何も覚えてはいないが、それなりに鬱屈した気持があったのだろう。
難波のジャズ喫茶を出たあと、知らない道をずんずん歩いていった。天王寺公園の近くまで来たころ、闇の中にそれほど若くもない女が立っていて、目があった。女は私に呼びかけた。
「おにいさん…」
街娼であった。
この句では「自転車は白塗り」と言っているが、白塗りなのは娼婦だろう。明け方の空が黒からブルーに変ろうとするころ、娼婦たちは何を思っているのだろうか。
ちなみに「朝日劇場」連作は初出では次の十句になっている。「男娼が大外刈りの串カツ屋」という句が私はけっこう気に入っている。
自転車は白塗り 娼婦らの明け方
ガニマタでポテトサラダが座る席
半券は揉みしだかれて歌謡ショー
八宝菜二百円也酒の穴
男娼が大外刈りの串カツ屋
稲刈りが始まる通天閣展望台
友情や梅焼はいつも生煮え
作務衣脱ぎすて 尿(しし)臭い猫
病い犬明日は大安ジャンジャン町
ビリケンの頭 南瓜は鬱王
大福をかぶり貞操帯はずし
「かぶる」とは「かぶりつく」(食いつく)という意味である。
大福餅にかぶりつくのは男であろうか、女であろうか。
餅を食べながら貞操帯を外す。外すのはもちろん貞操帯を付けたのとは別人である。貞操帯を取り付けたものと貞操帯を外したもの、これも別人であろう。
澁澤龍彦の本で読んだような気がするが、貞操帯には鍵がついていて、旅行に出かける夫はその鍵をもったまま出かけて行く。難儀なことである。
この句の人物はどうやって貞操帯をはずしたのであろうか。別に私が心配することはないのだが、それほどきちんとした貞操帯ではなかったのだろう。
大福餅は食べないといけないし、貞操帯も外さなければならないとなると、いそがしいことである。食欲と性欲をパラレルに捉えている。
斜め右に木耳ラーメンは淫靡
「木の耳」と書いて「きくらげ」とは考えて見ればおもしろい命名である。
ラーメンにはいろいろなものが入っていて、たとえば「ナルト」は鳴門の渦潮から来ている。ここでは斜め右に木耳が入っていた。
この「斜め右」という位置が微妙である。「斜め下」でもなく、「中央」でもない。少し位置をずらしたところに木耳がある。
このラーメンを作者は「淫靡」と言い切った。ある種の川柳は、ひとつの断言である。なぜそう言えるのかという根拠は示されない。作者が淫靡だと感じた。別の感じ方、捉え方はもちろんありうる。従来の川柳では、読者の共感を得られるような普遍性に基づいた書き方がされることが多かった。もちろん、それは一つの書き方であるが、普遍性はなくても作者の独自な感性を言い切る書き方も成立する。問題はそのような断言が一句の中で効果的に働いているどうか、ということである。
そう考えるとき、「斜め右」という位置が有効に働いてくる。「木耳」の「耳」という文字も何やら意味ありげに見えてくるのだ。
張り込みの途中で確定申告
こういうことは現実にはありえない。
けれども、実際にあればおもしろいなと思う。
職務怠慢なのだけれど、そう目くじらを立てるには及ばない。
松本清張の短編に「張り込み」というのがある。
指名手配の男が昔関係のあった女のところに立ち寄るのではないかと、二人の刑事が張り込みをしている。女は吝嗇な夫のもとで窮屈な生活をしている。その生活ぶりを刑事は見つめている。もし、指名手配の男がやって来たら、女はどのような行動に出るのか。
清張は社会派だが、良祐の句はそんな深刻なものではない。少しでもお金が戻ってきたら居酒屋にでも行けるだろう。
夢が人生を食い破ることもあれば、現実が文学を殺すこともある。だが、私は良祐が死んだとは思っていない。疑うものは飯田良祐句集を見ればよい。
2015年2月20日金曜日
兵頭全郎の川柳
「川柳木馬」143号の巻頭言(「一塵窓」)で清水かおりが「高知県短詩型文学賞」について述べている。受賞作品が難解であるという意見があるらしい。清水は川柳部門の「難解」がこの十数年間でどう変化したのか、次のような作品を例に挙げている。
償いの縄がするする降りてくる 大破(平成8年度)
老いるのは切ない川は蛇行する 望(平成10年度)
砂の国巨象が足を踏み入れる 鮎美(平成15年度)
自惚れはないか真っ赤な唐辛子 知華子(平成16年度)
ギター掻く第六弦は父であり 浩佑(平成23年度)
明日の子へひみつひみつの国渡す 郁子(平成25年度)
そして清水は次のようにコメントする。
「読み手が思う難解はおおむね比喩、暗喩の解釈についてであるが、作品上大きな変化は感じられない」「どんな文芸の現場にも『難解』は存在する。たびたび論の俎上に上げられる現代川柳のそれは、比喩の解りづらさから、言葉と言葉の飛躍の距離へと少しずつ変化をしてきているという状況がある」
比喩・暗喩(メタファー)は結局のところ「意味性」につながる。〈「暗喩(意味)」から「言葉の飛躍」へ〉という清水の分析は、現代川柳の先端的情況に対応している。
さて、本号では「作家群像」のコーナーに兵頭全郎の60句が掲載されている。
その巻頭句と前掲の「高知県短詩型文学賞」と比べてみるとおもしろい。
償いの縄がするする降りてくる 海地大破
足並みを揃えて竜が降りてくる 兵頭全郎
「償いの縄」は「償いという縄」で「縄」は「償い」の比喩である。縄だから「するする降りてくる」という言葉につながるので、意味的には「償い」が目の前にあらわれるという状況である。「私」(作中主体)が償いをするのか、誰かが「私」(作中主体)に償うために縄を降ろしてくれたのか、どちらとも読めるが、それは大きな問題ではない。
一方、全郎の句では「竜」は意味に置き換えられない。暗喩と受け取って無理に意味に置き換えて読むこともできるが、きっとつまらない読みになってしまうだろう。これを挨拶句として読むと、たとえば年賀状にこの句が書いてあれば、新年の挨拶になる。
湊圭史は次のように書いている。
「一見ふつうの歳旦のあいさつ句に見えて、しかしなぜ『足並みを揃えて』くるのかを立ち止まって考えると、一句から歳旦にあたって不可欠な目出度さがすーっと、風から空気が抜けるように、抜け出ていくような気がする。読後振り返ってみると、手ごたえのある句の『中心』的なものがなかったことに気づかされる。句の中の言葉がひとつの意味や読みに集約されていくのが通常のかたちでの作品の『読み』だとすれば、兵頭全郎の句とはどこかでそうした解釈的な『読み』を拒むように書かれているのだ」
再び海地大破の句と比較すると、大破の句には「償い」という意味の中心が存在するのに対して、全郎の句では「竜」は一義的な意味を提示しない。「足並みを揃えて」という部分にかすかに意味性が感じられるが、これを全体主義批判などと結びつけるのは読みすぎだろう。意味の中心がなく、しかも一句全体として何かを詠んでいる。そのような書き方が意識的にされていることになる。
受付にポテトチップス預り証
狼尾男カバンの中の灰
船頭を触れれば溶ける糸で編む
当駅一等地に遮音室はある
夜姫に光の当たる夜がくる
馬術部に預けた砂を返してもらう
湊圭史と江口ちかるが解説を書いていて、湊の文章はすでに引用したが、湊はさらに「取り合わせ」と「取りはやし」という用語を使って注目すべきことを言っている。
俳句では「取り合わせ」「配合」ということが言われる。「二物衝撃」という言葉もある。
「発句は取り合わせものなり」とは芭蕉の有名なことばだが、「取りはやし」とは「取り合わせ」た二つの要素をいかに一句のなかで結びつけるのか、ということらしい。
全郎の句は「二物衝撃」や「意表」をねらっているのではない、と湊は見ている。
「全郎の『取りはやし』の主要パターンのひとつは、二つの要素の異質性を『ぶつからないように』強調するところにある」
「全郎句の『取りはやし』では、各句のなかの二つの直線は簡単に互いを位置づけられないように配置されている。平行も交差もしない『ねじれ』の位置に置かれていると言い換えてもよい」
「全郎句の言葉は一句のなかでも、一つの平面に収束していかないで、読者の読みを複数のバラバラの方向に連れていこうとするのだ」
全郎は「作者の言葉」でこんなふうに書いている。
「伝達の道具としての言葉から伝達の機能を抜くとどうなるのか」
「私はこう思う」ではなくて「読んでくれた方がそこで感じた気持ち」こそが作品の真価になる。そう思いながら彼は「ガラスの小瓶」を作っている、というのだ。
では、「ガラスの小瓶」(作品)をどのように作るのか。
「私はこう思う」を出発点にしないならば、出発点は言葉しかない。
従来の全郎作品はテーマとなる「言葉」をまず決めて、そこから連作を書き上げるという傾向が強かった。そこに彼の作品のおもしろさと同時に単調さがあった。今回の60句は多彩であり、新鮮な感じがした。
ただこのような書き方を続けるのは困難な作業だから、ふと気が弱ったときには、たとえば「寝言ではあるが鋭いご指摘で」のような意味性にもたれた句が混じってくることになる。「蜘蛛の巣のどこから補助線をひくか」は隠喩と読まれても仕方がない書き方である。
「私はこう思う」を出発点にしない書き方にはまだまだ可能性がある。
冒頭に紹介した清水かおりの認識に重ねて言えば、現代川柳の先端部分は西脇順三郎の詩学の方向性で進んでいるのだ。即ち〈意味から言葉の飛躍へ〉。
償いの縄がするする降りてくる 大破(平成8年度)
老いるのは切ない川は蛇行する 望(平成10年度)
砂の国巨象が足を踏み入れる 鮎美(平成15年度)
自惚れはないか真っ赤な唐辛子 知華子(平成16年度)
ギター掻く第六弦は父であり 浩佑(平成23年度)
明日の子へひみつひみつの国渡す 郁子(平成25年度)
そして清水は次のようにコメントする。
「読み手が思う難解はおおむね比喩、暗喩の解釈についてであるが、作品上大きな変化は感じられない」「どんな文芸の現場にも『難解』は存在する。たびたび論の俎上に上げられる現代川柳のそれは、比喩の解りづらさから、言葉と言葉の飛躍の距離へと少しずつ変化をしてきているという状況がある」
比喩・暗喩(メタファー)は結局のところ「意味性」につながる。〈「暗喩(意味)」から「言葉の飛躍」へ〉という清水の分析は、現代川柳の先端的情況に対応している。
さて、本号では「作家群像」のコーナーに兵頭全郎の60句が掲載されている。
その巻頭句と前掲の「高知県短詩型文学賞」と比べてみるとおもしろい。
償いの縄がするする降りてくる 海地大破
足並みを揃えて竜が降りてくる 兵頭全郎
「償いの縄」は「償いという縄」で「縄」は「償い」の比喩である。縄だから「するする降りてくる」という言葉につながるので、意味的には「償い」が目の前にあらわれるという状況である。「私」(作中主体)が償いをするのか、誰かが「私」(作中主体)に償うために縄を降ろしてくれたのか、どちらとも読めるが、それは大きな問題ではない。
一方、全郎の句では「竜」は意味に置き換えられない。暗喩と受け取って無理に意味に置き換えて読むこともできるが、きっとつまらない読みになってしまうだろう。これを挨拶句として読むと、たとえば年賀状にこの句が書いてあれば、新年の挨拶になる。
湊圭史は次のように書いている。
「一見ふつうの歳旦のあいさつ句に見えて、しかしなぜ『足並みを揃えて』くるのかを立ち止まって考えると、一句から歳旦にあたって不可欠な目出度さがすーっと、風から空気が抜けるように、抜け出ていくような気がする。読後振り返ってみると、手ごたえのある句の『中心』的なものがなかったことに気づかされる。句の中の言葉がひとつの意味や読みに集約されていくのが通常のかたちでの作品の『読み』だとすれば、兵頭全郎の句とはどこかでそうした解釈的な『読み』を拒むように書かれているのだ」
再び海地大破の句と比較すると、大破の句には「償い」という意味の中心が存在するのに対して、全郎の句では「竜」は一義的な意味を提示しない。「足並みを揃えて」という部分にかすかに意味性が感じられるが、これを全体主義批判などと結びつけるのは読みすぎだろう。意味の中心がなく、しかも一句全体として何かを詠んでいる。そのような書き方が意識的にされていることになる。
受付にポテトチップス預り証
狼尾男カバンの中の灰
船頭を触れれば溶ける糸で編む
当駅一等地に遮音室はある
夜姫に光の当たる夜がくる
馬術部に預けた砂を返してもらう
湊圭史と江口ちかるが解説を書いていて、湊の文章はすでに引用したが、湊はさらに「取り合わせ」と「取りはやし」という用語を使って注目すべきことを言っている。
俳句では「取り合わせ」「配合」ということが言われる。「二物衝撃」という言葉もある。
「発句は取り合わせものなり」とは芭蕉の有名なことばだが、「取りはやし」とは「取り合わせ」た二つの要素をいかに一句のなかで結びつけるのか、ということらしい。
全郎の句は「二物衝撃」や「意表」をねらっているのではない、と湊は見ている。
「全郎の『取りはやし』の主要パターンのひとつは、二つの要素の異質性を『ぶつからないように』強調するところにある」
「全郎句の『取りはやし』では、各句のなかの二つの直線は簡単に互いを位置づけられないように配置されている。平行も交差もしない『ねじれ』の位置に置かれていると言い換えてもよい」
「全郎句の言葉は一句のなかでも、一つの平面に収束していかないで、読者の読みを複数のバラバラの方向に連れていこうとするのだ」
全郎は「作者の言葉」でこんなふうに書いている。
「伝達の道具としての言葉から伝達の機能を抜くとどうなるのか」
「私はこう思う」ではなくて「読んでくれた方がそこで感じた気持ち」こそが作品の真価になる。そう思いながら彼は「ガラスの小瓶」を作っている、というのだ。
では、「ガラスの小瓶」(作品)をどのように作るのか。
「私はこう思う」を出発点にしないならば、出発点は言葉しかない。
従来の全郎作品はテーマとなる「言葉」をまず決めて、そこから連作を書き上げるという傾向が強かった。そこに彼の作品のおもしろさと同時に単調さがあった。今回の60句は多彩であり、新鮮な感じがした。
ただこのような書き方を続けるのは困難な作業だから、ふと気が弱ったときには、たとえば「寝言ではあるが鋭いご指摘で」のような意味性にもたれた句が混じってくることになる。「蜘蛛の巣のどこから補助線をひくか」は隠喩と読まれても仕方がない書き方である。
「私はこう思う」を出発点にしない書き方にはまだまだ可能性がある。
冒頭に紹介した清水かおりの認識に重ねて言えば、現代川柳の先端部分は西脇順三郎の詩学の方向性で進んでいるのだ。即ち〈意味から言葉の飛躍へ〉。
2015年2月13日金曜日
雛壇の一番下には
先週ご案内した5月17日の「現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」の件、ホームページを立ち上げたのでご覧いただければ幸いである。
http://senryu17.web.fc2.com/
さて今回は川柳誌を逍遥しながら、気になる作品を読んでみることにしたい。
雛壇の一番下の舌濡れる 青砥和子
「触光」41号掲載。
「雛壇の一番下」と「舌濡れる」を「の」で繋いでいる。
雛壇の一番下には何があるのだろう。
これを、たとえば五人囃子だとすると、笛を吹いている雛人形の舌が濡れているように見える、という写生の句になる。
一番下が雛壇の最下段ではなくて、さらにその下に存在するもの、段全体を支えているものだとすると、それが「舌」だというのは何やら妖しい雰囲気となる。
「一番下の舌」と書いてあるが、この「の」に前後をつなぐ役割はあまりなくて、一種の切れだとすると、「雛壇の一番下」と「舌濡れる」は別のことになり、この舌は見ている人の舌だとか、女の子の舌だとかいう解釈が生まれる。
「下」「舌」の発音の共通性から一句が出来ているので、それをおもしろいと思うか、わざとらしいと思うかによって読者の受け止め方は異なってくる。
青砥和子は瀬戸市在住の川柳人。川柳をはじめて9年ほどになるという。同号の「触光の作家」というコーナーに青砥が取り上げられていて、彼女はこんなふうに書いている。
「そろそろと作句して、自分の思いがなんとか十七文字であるから言葉で伝わらないもどかしさ、描写の難しさをしみじみ感じている。更につきまとう既視感。快感を知ったが故に迷路に深くはまり込んでしまったようだ。しかし、幸いにもその迷路は、私にとって今は不快」ではない」
掲出句はそういう試行・迷路の中で生まれた一句だと読める。
オオバコもアザミも私の子ではなく 滋野さち
「触光」41号から、もう一句。
むつかしい言葉は何も使われていないのだが、案外わかりくい句である。
オオバコもアザミも野に咲く雑草である。そういう雑草の立場に共感して「オオバコもアザミも私の子」というのなら、よく分かるのだが、ここでは「私の子ではなく」と言って突き放している。
植物だから私の子ではないのは当然である。では、このオオバコやアザミは喩なのだろうか。川柳的喩・メタファーとして植物はよく使われる。けれども、この句ではメタファーとして使われているのでもないようだ。
この句のベースにあるのは何らかの断念の気持ちであるように思う。自然との共生ではなくて、断絶の思いなのだろう。
「触光」今号から滋野は誌上句会の選を担当している。題は「煙」。次に挙げるのは滋野が秀作選んだ句のひとつ。
あのけむり地方葬送かも知れぬ 小暮健一
滋野は選評の中でこんなふうに書いている。
「感動は人それぞれです。つまらないと言う人もいれば、同じ句を名句だと言う人もいます。選者の好みで、何点とか順位を決められて、人の目に触れることなく、句が捨てられてしまうのは、理不尽な気がします」「目の前のくすぶる煙に拘らず、視野を広く想を飛ばし、ことばにすることが作句の大切な要素ではないでしょうか」
大阪府交野市で「川柳交差点」という句会が毎月開催されている。代表・嶋澤喜八郎。この2月の例会で第94回となる。その様子が「川柳交差点」95号に掲載されている。ここでは井上一筒の作品を紹介しよう。
河童逃げ込んだニジェール共和国 井上一筒
梅田から地下鉄で行く淡路島
一筒の句の作り方がうかがえる。
一句目は「河童」という題。『遠野物語』や芥川龍之介の小説に登場する河童だが、遠くニジェールへと飛躍させている。
二句目は「可笑しい」という題。梅田から淡路島まで地下鉄で行けたらおもしろいだろうという、ありえないことを詠んでいる。
ちなみに「河童」の選者は筒井祥文で、祥文の軸吟は「飛行機を降りてきたのは皆カッパ」。また、「可笑しい」の選者は酒井かがりで、軸吟は「ウルトラマンなのに三分以上甘えてる」。それぞれ句会を楽しんで遊んでいる様子が伝わってくる。
井上一筒(いのうえ・いーとん)。号は麻雀のピンズの一にちなむ。
本多洋子のホームページ「洋子の部屋」から。
死ぬときはびわこになると思います 本多洋子
ガラスの蝶の透ける血の道海へ海へ
前者は第19回杉野十佐一賞の大賞作品。
後者は1995年の川柳公論大賞作品。
この20年の間に本多洋子の軌跡がある。
http://senryu17.web.fc2.com/
さて今回は川柳誌を逍遥しながら、気になる作品を読んでみることにしたい。
雛壇の一番下の舌濡れる 青砥和子
「触光」41号掲載。
「雛壇の一番下」と「舌濡れる」を「の」で繋いでいる。
雛壇の一番下には何があるのだろう。
これを、たとえば五人囃子だとすると、笛を吹いている雛人形の舌が濡れているように見える、という写生の句になる。
一番下が雛壇の最下段ではなくて、さらにその下に存在するもの、段全体を支えているものだとすると、それが「舌」だというのは何やら妖しい雰囲気となる。
「一番下の舌」と書いてあるが、この「の」に前後をつなぐ役割はあまりなくて、一種の切れだとすると、「雛壇の一番下」と「舌濡れる」は別のことになり、この舌は見ている人の舌だとか、女の子の舌だとかいう解釈が生まれる。
「下」「舌」の発音の共通性から一句が出来ているので、それをおもしろいと思うか、わざとらしいと思うかによって読者の受け止め方は異なってくる。
青砥和子は瀬戸市在住の川柳人。川柳をはじめて9年ほどになるという。同号の「触光の作家」というコーナーに青砥が取り上げられていて、彼女はこんなふうに書いている。
「そろそろと作句して、自分の思いがなんとか十七文字であるから言葉で伝わらないもどかしさ、描写の難しさをしみじみ感じている。更につきまとう既視感。快感を知ったが故に迷路に深くはまり込んでしまったようだ。しかし、幸いにもその迷路は、私にとって今は不快」ではない」
掲出句はそういう試行・迷路の中で生まれた一句だと読める。
オオバコもアザミも私の子ではなく 滋野さち
「触光」41号から、もう一句。
むつかしい言葉は何も使われていないのだが、案外わかりくい句である。
オオバコもアザミも野に咲く雑草である。そういう雑草の立場に共感して「オオバコもアザミも私の子」というのなら、よく分かるのだが、ここでは「私の子ではなく」と言って突き放している。
植物だから私の子ではないのは当然である。では、このオオバコやアザミは喩なのだろうか。川柳的喩・メタファーとして植物はよく使われる。けれども、この句ではメタファーとして使われているのでもないようだ。
この句のベースにあるのは何らかの断念の気持ちであるように思う。自然との共生ではなくて、断絶の思いなのだろう。
「触光」今号から滋野は誌上句会の選を担当している。題は「煙」。次に挙げるのは滋野が秀作選んだ句のひとつ。
あのけむり地方葬送かも知れぬ 小暮健一
滋野は選評の中でこんなふうに書いている。
「感動は人それぞれです。つまらないと言う人もいれば、同じ句を名句だと言う人もいます。選者の好みで、何点とか順位を決められて、人の目に触れることなく、句が捨てられてしまうのは、理不尽な気がします」「目の前のくすぶる煙に拘らず、視野を広く想を飛ばし、ことばにすることが作句の大切な要素ではないでしょうか」
大阪府交野市で「川柳交差点」という句会が毎月開催されている。代表・嶋澤喜八郎。この2月の例会で第94回となる。その様子が「川柳交差点」95号に掲載されている。ここでは井上一筒の作品を紹介しよう。
河童逃げ込んだニジェール共和国 井上一筒
梅田から地下鉄で行く淡路島
一筒の句の作り方がうかがえる。
一句目は「河童」という題。『遠野物語』や芥川龍之介の小説に登場する河童だが、遠くニジェールへと飛躍させている。
二句目は「可笑しい」という題。梅田から淡路島まで地下鉄で行けたらおもしろいだろうという、ありえないことを詠んでいる。
ちなみに「河童」の選者は筒井祥文で、祥文の軸吟は「飛行機を降りてきたのは皆カッパ」。また、「可笑しい」の選者は酒井かがりで、軸吟は「ウルトラマンなのに三分以上甘えてる」。それぞれ句会を楽しんで遊んでいる様子が伝わってくる。
井上一筒(いのうえ・いーとん)。号は麻雀のピンズの一にちなむ。
本多洋子のホームページ「洋子の部屋」から。
死ぬときはびわこになると思います 本多洋子
ガラスの蝶の透ける血の道海へ海へ
前者は第19回杉野十佐一賞の大賞作品。
後者は1995年の川柳公論大賞作品。
この20年の間に本多洋子の軌跡がある。
2015年2月6日金曜日
現代川柳ヒストリア+川柳フリマ
今回は時評ではなくて宣伝・広報となるが、ご了解いただきたい。
今年の5月17日(日)、大阪・上本町の「たかつガーデン」で川柳のフリーマーケットを開催することになった。次に掲げるのはその挨拶文。
近年、現代川柳の句集の出版が盛んになってきました。
インターネットなどで注文することができますが、句集の作者と読者が直接交流できる場はそれほど多くありません。
一方で「文学フリマ」が開催され、短歌や俳句、現代詩やアニメなどの出版物を求めて読者が集まる状況が生まれています。川柳でも、句会・大会以外に不特定の人たちが集まって交流するという場がもてないものでしょうか。
現代川柳の歩みをふりかえりつつ、句集やフリーペパーを仲立ちとする交流の場を求めて、次のような集いをもつことにしました。
お申込みなしにご参加いただけますし、ご都合に応じて会場の出入りはご自由です。
また、趣旨にご賛同いただける場合は出店をお願い致します。
では、会場でお目にかかりましょう。
具体的な内容については今後、多少の変更はあるかも知れないが、ほぼ次のように計画している。
日時 2015年5月17日(日) 13:00~17:00
場所 たかつガーデン 3Fカトレア
川柳フリマ 13:00~17:00
○出店料1000円
机1台分のスペースを60cm×180cmを提供・机2台希望の場合は2000円
出店の申し込みは4月30日まで(申込は小池正博まで)。
○入場無料 ご都合のよい時間帯にご来場ください。
○物品販売 あざみエージェント・川柳マガジン・邑書林・飯塚書店・三省堂ほか
○フリーペーパー・コーナーを1机用意します。フリーペーパーは当日ご持参ください(出店料無料)。参加者に自由にお持ち帰りいただきます。
開催時間帯であれば自由に出入りできる。また、川柳人だけでなく、短詩型文学に関心のある方なら、誰でも参加できるので多数ご来場いただきたい。入場は無料だが、受付で案内パンフレットをご購入いただければありがたい。
フリマと並行して展示・句集紹介・対談なども予定している。
まず、「雑誌でたどる現代川柳の歩み」として、次のような現代川柳誌を展示する。
「鴉」「天馬」「馬」「流木」「でるた」「縄」「無形像」「現代川柳」「せんば」「短詩」「森林」「海図」「鷹」「不死鳥」「川柳ジャーナル」「視野」「平安」「魚」「藍」「バックストローク」など。
これらは非売品。川柳に関心がある方なら垂涎の同人誌のはず。実物は単なる古雑誌にすぎないが、私にとってはお宝の数々である。
名前は聞いたことがあるが、実物は見たことがない雑誌が大半だろう。たとえば、「鴉」は中村冨二が発行していた川柳誌でガリ版刷。河野春三の「天馬」や「馬」。「川柳ジャーナル」以前の「海図」「鷹」「不死鳥」など。葉書川柳の「視野」。女性川柳の先駆けとなった飯尾マサ子の「魚」など、その時代の川柳人の息吹が伝わってくる。
14:00~14:30にパワーポイントを使って展示品の解説をするので、興味のある方は私の解説を聞いてください。
続いて14:30~15:30に、句集紹介・作者サイン会。
田口麦彦『新現代川柳必携』をはじめ、句集を紹介しながら、作者と読者が直接、交歓し
あうコーナー。
田口麦彦さんが熊本から来阪の予定。サインが欲しい方はどうぞ。
あと、句集の魅力を推薦者が持ち時間五分で語るコーナーなどを予定している。これは、
いま流行りのビブリオ・バトルの形式をまねたもの。ただし、バトル・投票はしません。
推薦句集・ゲストなどは現在交渉中なので、誰に会えるかわからないサプライズがあるかも。
16:00~17:00 「川柳をどう配信するか」は天野慶さんと小池正博の対談コーナー。
ネット短歌・ケータイ短歌・ツイッターなど、現代短歌の発信の仕方を紹介しながら、こ
れから川柳をどう配信していくことができるかを考える。
天野慶(あまの・けい)さんは歌人で「短歌人」所属。奈良市在住。「ケータイ短歌」番組スタート時からゲスト歌人として出演。著書に『百人一首百うたがたり』(幻冬舎エデュケーション)『百人一首・短歌・俳句』(ポプラ社)『だめだめママだめ!』(絵・はまのゆか 文・天野慶 ほるぷ出版)などがある。昨年7月の「大阪短歌チョップ」の企画にも参加していた方なので、短歌の発信の仕方についていろいろ尋ねてみたい。
この企画は「川柳カード」とは関係なく、私が個人的に計画しているものである。
スタッフを募集中なので、ご協力いただける方はご連絡ください。
また、出店ご希望の方は、店名と出店の意志表示をいただければ、机のスペースを用意し
ます。出店料は当日徴収。
あと、フリーペーパーについては当日会場に持参していただければ、展示させていただく。
出店料はいただかないが、無料配布となるのでご了解を。
会場は開催時間帯であれば出入り自由なので、ご都合のいい時間帯にきていただければ幸
いである。川柳だけでなく短詩型文学に関心のある方々にとって、人・物・情報の集まる
ひとつの場になればと思っている。
近いうちに専用ホームページを立ち上げる予定なので、情報はそこからも発信する。
主催 現代川柳ヒストリア(小池正博)
連絡先
〒594-0041 和泉市いぶき野2-20-8 小池正博
TEL・FAX 0725-56-2895
今年の5月17日(日)、大阪・上本町の「たかつガーデン」で川柳のフリーマーケットを開催することになった。次に掲げるのはその挨拶文。
近年、現代川柳の句集の出版が盛んになってきました。
インターネットなどで注文することができますが、句集の作者と読者が直接交流できる場はそれほど多くありません。
一方で「文学フリマ」が開催され、短歌や俳句、現代詩やアニメなどの出版物を求めて読者が集まる状況が生まれています。川柳でも、句会・大会以外に不特定の人たちが集まって交流するという場がもてないものでしょうか。
現代川柳の歩みをふりかえりつつ、句集やフリーペパーを仲立ちとする交流の場を求めて、次のような集いをもつことにしました。
お申込みなしにご参加いただけますし、ご都合に応じて会場の出入りはご自由です。
また、趣旨にご賛同いただける場合は出店をお願い致します。
では、会場でお目にかかりましょう。
具体的な内容については今後、多少の変更はあるかも知れないが、ほぼ次のように計画している。
日時 2015年5月17日(日) 13:00~17:00
場所 たかつガーデン 3Fカトレア
川柳フリマ 13:00~17:00
○出店料1000円
机1台分のスペースを60cm×180cmを提供・机2台希望の場合は2000円
出店の申し込みは4月30日まで(申込は小池正博まで)。
○入場無料 ご都合のよい時間帯にご来場ください。
○物品販売 あざみエージェント・川柳マガジン・邑書林・飯塚書店・三省堂ほか
○フリーペーパー・コーナーを1机用意します。フリーペーパーは当日ご持参ください(出店料無料)。参加者に自由にお持ち帰りいただきます。
開催時間帯であれば自由に出入りできる。また、川柳人だけでなく、短詩型文学に関心のある方なら、誰でも参加できるので多数ご来場いただきたい。入場は無料だが、受付で案内パンフレットをご購入いただければありがたい。
フリマと並行して展示・句集紹介・対談なども予定している。
まず、「雑誌でたどる現代川柳の歩み」として、次のような現代川柳誌を展示する。
「鴉」「天馬」「馬」「流木」「でるた」「縄」「無形像」「現代川柳」「せんば」「短詩」「森林」「海図」「鷹」「不死鳥」「川柳ジャーナル」「視野」「平安」「魚」「藍」「バックストローク」など。
これらは非売品。川柳に関心がある方なら垂涎の同人誌のはず。実物は単なる古雑誌にすぎないが、私にとってはお宝の数々である。
名前は聞いたことがあるが、実物は見たことがない雑誌が大半だろう。たとえば、「鴉」は中村冨二が発行していた川柳誌でガリ版刷。河野春三の「天馬」や「馬」。「川柳ジャーナル」以前の「海図」「鷹」「不死鳥」など。葉書川柳の「視野」。女性川柳の先駆けとなった飯尾マサ子の「魚」など、その時代の川柳人の息吹が伝わってくる。
14:00~14:30にパワーポイントを使って展示品の解説をするので、興味のある方は私の解説を聞いてください。
続いて14:30~15:30に、句集紹介・作者サイン会。
田口麦彦『新現代川柳必携』をはじめ、句集を紹介しながら、作者と読者が直接、交歓し
あうコーナー。
田口麦彦さんが熊本から来阪の予定。サインが欲しい方はどうぞ。
あと、句集の魅力を推薦者が持ち時間五分で語るコーナーなどを予定している。これは、
いま流行りのビブリオ・バトルの形式をまねたもの。ただし、バトル・投票はしません。
推薦句集・ゲストなどは現在交渉中なので、誰に会えるかわからないサプライズがあるかも。
16:00~17:00 「川柳をどう配信するか」は天野慶さんと小池正博の対談コーナー。
ネット短歌・ケータイ短歌・ツイッターなど、現代短歌の発信の仕方を紹介しながら、こ
れから川柳をどう配信していくことができるかを考える。
天野慶(あまの・けい)さんは歌人で「短歌人」所属。奈良市在住。「ケータイ短歌」番組スタート時からゲスト歌人として出演。著書に『百人一首百うたがたり』(幻冬舎エデュケーション)『百人一首・短歌・俳句』(ポプラ社)『だめだめママだめ!』(絵・はまのゆか 文・天野慶 ほるぷ出版)などがある。昨年7月の「大阪短歌チョップ」の企画にも参加していた方なので、短歌の発信の仕方についていろいろ尋ねてみたい。
この企画は「川柳カード」とは関係なく、私が個人的に計画しているものである。
スタッフを募集中なので、ご協力いただける方はご連絡ください。
また、出店ご希望の方は、店名と出店の意志表示をいただければ、机のスペースを用意し
ます。出店料は当日徴収。
あと、フリーペーパーについては当日会場に持参していただければ、展示させていただく。
出店料はいただかないが、無料配布となるのでご了解を。
会場は開催時間帯であれば出入り自由なので、ご都合のいい時間帯にきていただければ幸
いである。川柳だけでなく短詩型文学に関心のある方々にとって、人・物・情報の集まる
ひとつの場になればと思っている。
近いうちに専用ホームページを立ち上げる予定なので、情報はそこからも発信する。
主催 現代川柳ヒストリア(小池正博)
連絡先
〒594-0041 和泉市いぶき野2-20-8 小池正博
TEL・FAX 0725-56-2895