吉田類の『酒場詩人の流儀』(中公新書)を読んだ。
テレビでときどき「吉田類の酒場放浪記」を見ているので、俳句と酒の好きなおじさん程度に思っていたが、読んでみると筋がね入りのナチュラリストであり、山登りや釣りや昆虫の話が満載で興味深かった。
吉田が高知県仁淀川町の出身だということも知った。こんな一節がある。
「誰かから『清酒と合うおススメの料理は何?』と尋ねられれば、〝ウツボのしゃぶしゃぶ〟と即答するほど気に入っている。平皿へ白牡丹の花びらみたいに盛り付けて供されれば、元のウツボの姿とはほど遠い。厚めにスライスされた白身を、箸にとって10秒ほど熱湯へくぐらせる。フグのしゃぶしゃぶと似た食感が得られ、柚子ポン酢との相性も申し分ない」
うーん、「ウツボのしゃぶしゃぶ」か。
私は高知に何度か行ったが、そのたびにウツボのから揚げを食べそこなった。宴会の一次会で飲み過ぎて、二次会でウツボが出るころにはもう訳がわからなくなっているからだ。まして、ウツボのしゃぶしゃぶである。食べるチャンスがあれば逃がさないようにしたい。
吉田類は北海道とも縁が深い。五十嵐秀彦の句集『無量』の帯文を吉田が書いている。
「川の外科医」と言われる福留脩文が「近自然工法」で川を再生させる話も印象的である。
ビブリオバトルについてあちこちで耳にするようになって、学校の読書教育の場でも関心が高まっている。公式サイトによると、次のようなルールになっている。
1.発表参加者が読んで面白いと思った本を持って集まる。
2.順番に一人5分間で本を紹介する。
3.それぞれの発表の後に参加者全員でその発表に関するディスカッションを2~3分行う。
4.全ての発表が終了した後に「どの本が一番読みたくなったか?」を基準とした投票を参加者全員で行い,最多票を集めたものを『チャンプ本』とする。
昨年七月の「大阪短歌チョップ」でも、「この歌集がすごい!」という歌集紹介コーナーがあったが、川柳でも句集紹介に応用できるかもしれない。
先日のセンター試験の国語の問題で、佐々木敦の『未知との遭遇』という文章が出題された。ツイッターとインターネットの問題に言及されていて、ネット上でもちょっとした話題になった。
佐々木はこんなふうに書いている。
「ネット上で教えを垂れる人たちは、特にある程度有名な方々は、他者に対して啓蒙的な態度を取るということに、一種の義務感を持ってやってらっしゃる場合もあるのだろうと思います。僕も啓蒙は必要だと思うのですが、どうも良くないと思うのは、ともするとネット上では、啓蒙のベクトルが、どんどん落ちていくことです」
掲示板やブログには「~について教えてください」という書き込みがよくある。佐々木はこれを「教えて君」と呼び、教えてあげる人を「教えてあげる君」と呼ぶ。自分で調べればすぐわかることを、質問者と解答者がいっしょになって川が下流に流れるように、どんどんものを知らない人へと向かってゆく。この事態を指して佐々木は「啓蒙のベクトルが落ちる」と言うのだ。
センター試験の問題には(注)がついていて、「ツイッター」には「インターネットにおいて『ツイート』や『つぶやき』と呼ばれる短文を投稿。閲覧できるサービス。なお、閲覧したツイートに反応して投稿することを『リプライを飛ばす』などという」とある。十代の受験生には必要ない注だが、ツイッターに馴染みのうすいものにとっては、「そうなんだ」と理解しやすいかもしれない。
問題はこのリプライである。佐々木の文章を続ける。
「ツイッターでも、ちょっとしたつぶやきに対して『これこれはご存知ですか?』というリプライを飛ばしてくる人がいますが、つぶやいた人は『教えてあげる君』に教えられるまでもなく、それは知っていて、その上でつぶやいたのかも知れない。だから僕は『教えて君』よりも『教えてあげる君』の方が、場合によっては問題だと思います」
ところで、インターネットにおいて顕著に見られる問題は「君の考えたことはとっくに誰かが考えた問題」であるということ。
「ではどうして自分が考えたことをすでに考えた誰かが必ずといっていいほど存在するのか。それは要するに、過去があるから、大袈裟に言えば、人類がそれなりに長い歴史を持っているから、です」
「しかしわれわれは過去のすべてを知っているわけではない。だからオリジナルだと思ってリヴァイバルをしてしまうことがある。それゆえ生じてくる問題にいかに対すればいいのか」
「単純な答えですが、順番はともかくとして、自力で考えてみること、過去を参照することを、ワンセットでやるのがいいのだと思います」
さらに、佐々木は「盗作、パクリをめぐる問題」に触れている。
「意識せずして過去の何かに似てしまっているものに、誰かが気付いて『これって○○だよね』という指摘をする。それを自分自身の独創だと思っていた者は、驚き、戸惑う。しかし、その一方では、意識的な盗作をわからない人たちもいるわけです。明らか意識的にパクっているのだけれども、受け取る側のリテラシーの低さゆえに、オリジナルとして流通してしまう、ということもしばしば起こっている」
他人のツイートをパクって、自分が考えたことのようにして発信する人がいるらしい。「パクツイ」と言って、ツイートのパクリである。リツイートするのではなく、自分のツイートとして素知らぬ顔で発信する人がけっこういるそうだ。何のためにそんなことをするのか。何でもいいから注目されたい、という気持がベースにあるのだろう。パクツイがばれるとそれなりの制裁を覚悟しなければならないが、他人の考えたコンテンツをパクって自分の手柄として配信することは、さまざまな場面で見られることかも知れない。
センター試験問題の(注)には「リテラシー 読み書き能力。転じて、ある分野に関する知識を活用する基礎的な能力」とある。
2015年1月30日金曜日
2015年1月23日金曜日
ほぼむほん論
蘆花・徳冨健次郎に有名な「謀反論」がある。
明治44年2月1日、旧制一高で行なった準公開講演である。大逆事件で幸徳秋水ら12名の処刑が行なわれた8日後のことだった。
「実に思いがけなく今明治四十四年の劈頭において、我々は早くもここに十二名の謀反人を殺すこととなった。ただ一週間前の事である」(岩波文庫『謀反論』)
蘆花は幸徳秋水たちとは立場を異にすると述べつつも、「諸君、幸徳君らは時の政府に謀反人と見做されて殺された。諸君、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である」と語りかける。
「我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀反しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して」
川柳カード叢書の第一巻として、昨年九月に『ほぼむほん』が刊行された。きゅういちの第一句集である。
私が解説を書いたことでもあり、今まであえて取り上げなかったが、感想・書評も出尽くしたようなので、このあたりでふり返ってみたい。
いったい川柳の句集が出ても、私信はともかくとして、川柳人から書評・感想が公表されることは少ない。いきおい外部の、たとえば俳人からの視線をリサーチすることになる。
まず、西村麒麟による感想から(2014-09-22 きりんの部屋)。
FAX受信ヴォっと膨らむ冷蔵庫
〈 これ好きですね。ヴォッて感じがなんかよくわかる。〉
バッティングフォームがとても浄土宗
〈 これも大好き。なんかわかるし笑ってしまう。この「なんだか面白い」のすごく奇妙で良いものがたくさん詰まっているのがこの句集です。〉
〈 〉内が麒麟さんの感想。こんな感じで句が取り上げられている。全部紹介できないのが残念である。
次に、大井恒行のブログから(「大井恒行の日日彼是」2014年9月23日)。
遠雷や全ては奇より孵化した きゅういち
〈上掲の句について小池正博は解説で「『孵化』は昆虫や鳥の場合に使う。ヒトが生まれるにしても、鳥獣虫魚と同じ相で眺められている。『奇』はマイナス・イメージではない。すべての起動力は『奇』にあるという認識である」と述べる。その結びには「司祭かの虚空にバックドロップか」の句を引いて「きゅういちという覆面レスラーは虚空に言葉のバックドロップを仕掛ける。その技はときに掛け損なうこともあるが、見事に決まる場合は心地よい。観客はそれを楽しめばいいのだ」と記している。
楽しみついでに気が付いたことだが、最近の『鹿首』第6号の「鹿首 招待席 川柳」に「無題」と題してきゅういちが20句を寄稿している。以下に数句挙げておこう。
歩道より最上階へさざ波さざ波
教室の装置としてのうわごと
連綿も手の湿り気も握り寿司
又貸しの魂魄がほら水浸し
言葉使いの自由さにおいては、俳句よりもどうやら自由度、想像力の幅が大きいようである。
『ほぼむほん』は「ほぼ」と記すからにはどうやら「謀反」には至らない「むほん」なのだろう。〉
川柳人からの感想もある。瀧村小奈生はこんなふうに(「そらいろの空」2014年9月22日)。
幾何学の都市に破調を連れまわす きゅういち
〈おや?と思う素敵な表紙の本が届いた。「ほぼむほん」え?なんだかかわいい響きである。「ほぼ謀反」に変換するまでの一瞬が楽しい。何に対する謀反なのだろう。社会?時代?運命?もちろんそういう要素がないわけではないと思うが、それら全部をひっくるめた自分の存在そのものに対する「ほぼむほん」のような気がしてならない。だから謀反は永遠に続く。ずうっと。きゅういちさんは、謀反的な行為として書き続けていくということなのじゃないかなあと思った。掲出句も存在に対する自意識をうかがわせる。ビルが林立する街中に立つと、まっすぐで平行な線が空間に並び立っている。たとえば、交差点で信号待ちをしている人の存在は、ちいさな破調だろう。無機質の中の有機質。圧倒的なものとあやういもの。完全と不完全。その「破調」を「連れまわす」自覚が、さわやかでたくましく感じられた。〉
ネット上にはこのほかにもいくつか感想が出ているが、句集名の「ほぼ」に触れているものが多い。「謀反」と断言してしまうことへの羞恥が作者に「ほぼむほん」と言わせているのだろう。解説で私は宮沢賢治の「やまなし」の連想から「くらんぼん」説を唱えてみたが、当っているかどうか怪しい。
「むほん」と「ほぼむほん」のはざまに、きゅういちの川柳は存在するのだろう。
「川柳カード」7号に榊陽子が書評を書いている。
〈 あの日きゅうちゃんに質問した。「何に対して謀反なん?世の中?川柳?」「・・・自分にかなあ。」きゅうちゃんはほぼかっこいい。〉
句集を出したあと、自分自身のためのブックレビューを作っておくことは必要である。
第一句集を出したあと、次の句集を出すまでには一層の創作の苦しみがつきまとうものだが、この句集には、きゅういちの初心があり、そういう句集をもつ川柳人は幸福なのである。
明治44年2月1日、旧制一高で行なった準公開講演である。大逆事件で幸徳秋水ら12名の処刑が行なわれた8日後のことだった。
「実に思いがけなく今明治四十四年の劈頭において、我々は早くもここに十二名の謀反人を殺すこととなった。ただ一週間前の事である」(岩波文庫『謀反論』)
蘆花は幸徳秋水たちとは立場を異にすると述べつつも、「諸君、幸徳君らは時の政府に謀反人と見做されて殺された。諸君、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である」と語りかける。
「我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀反しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して」
川柳カード叢書の第一巻として、昨年九月に『ほぼむほん』が刊行された。きゅういちの第一句集である。
私が解説を書いたことでもあり、今まであえて取り上げなかったが、感想・書評も出尽くしたようなので、このあたりでふり返ってみたい。
いったい川柳の句集が出ても、私信はともかくとして、川柳人から書評・感想が公表されることは少ない。いきおい外部の、たとえば俳人からの視線をリサーチすることになる。
まず、西村麒麟による感想から(2014-09-22 きりんの部屋)。
FAX受信ヴォっと膨らむ冷蔵庫
〈 これ好きですね。ヴォッて感じがなんかよくわかる。〉
バッティングフォームがとても浄土宗
〈 これも大好き。なんかわかるし笑ってしまう。この「なんだか面白い」のすごく奇妙で良いものがたくさん詰まっているのがこの句集です。〉
〈 〉内が麒麟さんの感想。こんな感じで句が取り上げられている。全部紹介できないのが残念である。
次に、大井恒行のブログから(「大井恒行の日日彼是」2014年9月23日)。
遠雷や全ては奇より孵化した きゅういち
〈上掲の句について小池正博は解説で「『孵化』は昆虫や鳥の場合に使う。ヒトが生まれるにしても、鳥獣虫魚と同じ相で眺められている。『奇』はマイナス・イメージではない。すべての起動力は『奇』にあるという認識である」と述べる。その結びには「司祭かの虚空にバックドロップか」の句を引いて「きゅういちという覆面レスラーは虚空に言葉のバックドロップを仕掛ける。その技はときに掛け損なうこともあるが、見事に決まる場合は心地よい。観客はそれを楽しめばいいのだ」と記している。
楽しみついでに気が付いたことだが、最近の『鹿首』第6号の「鹿首 招待席 川柳」に「無題」と題してきゅういちが20句を寄稿している。以下に数句挙げておこう。
歩道より最上階へさざ波さざ波
教室の装置としてのうわごと
連綿も手の湿り気も握り寿司
又貸しの魂魄がほら水浸し
言葉使いの自由さにおいては、俳句よりもどうやら自由度、想像力の幅が大きいようである。
『ほぼむほん』は「ほぼ」と記すからにはどうやら「謀反」には至らない「むほん」なのだろう。〉
川柳人からの感想もある。瀧村小奈生はこんなふうに(「そらいろの空」2014年9月22日)。
幾何学の都市に破調を連れまわす きゅういち
〈おや?と思う素敵な表紙の本が届いた。「ほぼむほん」え?なんだかかわいい響きである。「ほぼ謀反」に変換するまでの一瞬が楽しい。何に対する謀反なのだろう。社会?時代?運命?もちろんそういう要素がないわけではないと思うが、それら全部をひっくるめた自分の存在そのものに対する「ほぼむほん」のような気がしてならない。だから謀反は永遠に続く。ずうっと。きゅういちさんは、謀反的な行為として書き続けていくということなのじゃないかなあと思った。掲出句も存在に対する自意識をうかがわせる。ビルが林立する街中に立つと、まっすぐで平行な線が空間に並び立っている。たとえば、交差点で信号待ちをしている人の存在は、ちいさな破調だろう。無機質の中の有機質。圧倒的なものとあやういもの。完全と不完全。その「破調」を「連れまわす」自覚が、さわやかでたくましく感じられた。〉
ネット上にはこのほかにもいくつか感想が出ているが、句集名の「ほぼ」に触れているものが多い。「謀反」と断言してしまうことへの羞恥が作者に「ほぼむほん」と言わせているのだろう。解説で私は宮沢賢治の「やまなし」の連想から「くらんぼん」説を唱えてみたが、当っているかどうか怪しい。
「むほん」と「ほぼむほん」のはざまに、きゅういちの川柳は存在するのだろう。
「川柳カード」7号に榊陽子が書評を書いている。
〈 あの日きゅうちゃんに質問した。「何に対して謀反なん?世の中?川柳?」「・・・自分にかなあ。」きゅうちゃんはほぼかっこいい。〉
句集を出したあと、自分自身のためのブックレビューを作っておくことは必要である。
第一句集を出したあと、次の句集を出すまでには一層の創作の苦しみがつきまとうものだが、この句集には、きゅういちの初心があり、そういう句集をもつ川柳人は幸福なのである。
2015年1月16日金曜日
世界は広い El Mund es grande.
年末から年始にかけて、いろいろな句会やイベントに参加する機会があった。また手元の俳誌・柳誌などを読んでいると、さまざまな人がさまざまな発信をしていることがわかる。そういう刺激を受けながら今年のプランをさまざま考えてみたが、その中にはかたちになりそうなものもあるし、かたちにならずに消えてゆくものもある。まとまりがつかないままに、手元の俳句や川柳の諸誌を紹介してゆきたい。
阪神淡路大震災から20年が経過して、1月17日がまたやってくる。
神戸から出ている現代詩の同人誌「ア・テンポ」46号は小特集「阪神淡路大震災から20年」を掲載している。
その特集とは関係ないが、巻頭の赤坂恒子の俳句から。
炎ゆる残照へたむろして頬杖 赤坂恒子
一期なる彼のコスモスへ遠回り
ラスクサクサクサクと時雨のち晴れ
小雪の日は乱調の海に在り
長続きいたさぬ忿怒雪こんこ
昨年四月、高知の「川柳木馬35周年大会」に行ったときに、味元昭次と知り合った。それ以来「蝶」を送っていただいている。たむらちせいのあとを継いで、現在は味元さんが編集人・代表者である。
昨年11月に「第38周年蝶俳句大会」が開催された。味元はこんなふうに書いている。
「本誌はルーツである同人誌と結社誌の中間を行く俳誌だと私は認識しています。誌として〈俳句はこういうものだ〉といった硬直した考えを押し付ける俳誌ではありません。難しいことですが、一人一人が〈自分の俳句〉を自分の頭で考えて書いて下さるのが理想です」(味元昭次「蝶」211号)
「蝶」には土佐高校の十代の作者が育っている。
人間は細胞なのだ冬紅葉 川村貴子
テレビの中のみみずくがウオッと鳴く 宮崎玲奈
「蝶俳句会」発行の『昭和の俳句を読もう』は、「蝶」157号(2006年1月)からはじまった連載を冊子にまとめたものである。第一回の中村草田男をはじめ阿部完市、折笠美秋、中村苑子、林田紀音夫など昭和の俳人54人の作品が30句ずつ収録されている。
紹介文もおもしろく、例えば飯島晴子のページでは、「もし女がユーモアに溢れていれば、赤ん坊などというものはパン粉をまぶしてフライにしてしまうだろう」とか、常識的な俳句に対して「五七五の念仏の山」とか、知的操作だけの新奇な作品に対して「単細胞に電流を流したようなもの」とかいう晴子の言葉が紹介されている。
現代俳句のアンソロジーとして、俳句会のテクストにも使えそうだ。
みずぎわのはんもっくのようなひとがすき 須藤徹
「ぶるうまりん」は須藤徹没後も継続して発行されている。
その29号の巻頭に須藤徹の句が掲載されている。平成25年6月、須藤最後の句会での作品らしい。
この号には前号に続いて「まるかじりインタヴュー渡辺隆夫の世界(後編)」が掲載されている。聞き手は歌人の武藤雅治。武藤はこんなふうに発言している。
「隆夫さんは、非人称と無名性について触れていますよね。短詩型でいう人称は、多くは、一人称を指しているかと思いますが、一口に一人称と言っても『生身の我』『社会人としての我』『創作された我』と三つぐらいの『我』というものが考えられます。こういう人称を離れた非人称というのはありうるのか?」
川柳誌「凛」60号は渡辺自身の文章を掲載。
この時評でも取り上げたことがある「川柳使命論争」について、隆夫自身が書いている。
くりかえしになるが、経緯を紹介すると
ふる里は戦争放棄した日本 大久保真澄
について、隆夫が「この句には川柳の使命のようなものが濃縮されている」(「触光」37号)と書いたことについて、「触光」38号で広瀬ちえみや芳賀博子から「川柳の使命」という言い方に対する疑問が呈された。それを受けて、隆夫自身は次のように書いている。
「二人の女史に指摘されてはじめて、私は『使命』というコトバを安易に使用していたことに気がついた。『川柳とはなんでもありの五七五』などとチャランポランを吹聴してきた男が、『使命』などというウソくさい言葉を並べて、こりゃなんじゃらほい、と思ったに違いない。それほど、この戦争放棄の句は私をしてクソマジメな男に回帰させたのである」
「人間というものは気をつけていないと、すぐマジメになってしまう」とは隆夫自身の言葉だが、渡辺隆夫という人は自己を客観視できる人だということを改めて感じた。
「川柳・北田辺」第51回句会報。
くんじろうの「放蕩言」に曰く。
「…趣味の会だから本気で作らないのなら、そこから本物の川柳など生まれて来るはずがない。本物が出て来なければいずれ川柳は滅びる。何十万人の人が川柳と称して五七五を作ろうと、もはやそこに川柳は無かろう。昔良き時代に詠まれた先輩方の句をなぞって、さもそれらしい顔をしているだけなら、そこに独創性など存在するはずもない。決して伝統川柳を否定しているのではない。独創性の無さ、個性の乏しさを憂いているのである」
同句会報の作品から。
白鳥をたった一人で干している 榊陽子
貝塚の貝を全身貼りつける 竹井紫乙
半身はミイラ半身は国宝 田久保亜蘭
つぎはぎブギウギひょうたんつぎもどき 酒井かがり
口紅を狼煙にできるものならば 森田律子
今年も元気のでる川柳時評を書いてゆきたい。そのためには、まず自分が元気でなければならない。
阪神淡路大震災から20年が経過して、1月17日がまたやってくる。
神戸から出ている現代詩の同人誌「ア・テンポ」46号は小特集「阪神淡路大震災から20年」を掲載している。
その特集とは関係ないが、巻頭の赤坂恒子の俳句から。
炎ゆる残照へたむろして頬杖 赤坂恒子
一期なる彼のコスモスへ遠回り
ラスクサクサクサクと時雨のち晴れ
小雪の日は乱調の海に在り
長続きいたさぬ忿怒雪こんこ
昨年四月、高知の「川柳木馬35周年大会」に行ったときに、味元昭次と知り合った。それ以来「蝶」を送っていただいている。たむらちせいのあとを継いで、現在は味元さんが編集人・代表者である。
昨年11月に「第38周年蝶俳句大会」が開催された。味元はこんなふうに書いている。
「本誌はルーツである同人誌と結社誌の中間を行く俳誌だと私は認識しています。誌として〈俳句はこういうものだ〉といった硬直した考えを押し付ける俳誌ではありません。難しいことですが、一人一人が〈自分の俳句〉を自分の頭で考えて書いて下さるのが理想です」(味元昭次「蝶」211号)
「蝶」には土佐高校の十代の作者が育っている。
人間は細胞なのだ冬紅葉 川村貴子
テレビの中のみみずくがウオッと鳴く 宮崎玲奈
「蝶俳句会」発行の『昭和の俳句を読もう』は、「蝶」157号(2006年1月)からはじまった連載を冊子にまとめたものである。第一回の中村草田男をはじめ阿部完市、折笠美秋、中村苑子、林田紀音夫など昭和の俳人54人の作品が30句ずつ収録されている。
紹介文もおもしろく、例えば飯島晴子のページでは、「もし女がユーモアに溢れていれば、赤ん坊などというものはパン粉をまぶしてフライにしてしまうだろう」とか、常識的な俳句に対して「五七五の念仏の山」とか、知的操作だけの新奇な作品に対して「単細胞に電流を流したようなもの」とかいう晴子の言葉が紹介されている。
現代俳句のアンソロジーとして、俳句会のテクストにも使えそうだ。
みずぎわのはんもっくのようなひとがすき 須藤徹
「ぶるうまりん」は須藤徹没後も継続して発行されている。
その29号の巻頭に須藤徹の句が掲載されている。平成25年6月、須藤最後の句会での作品らしい。
この号には前号に続いて「まるかじりインタヴュー渡辺隆夫の世界(後編)」が掲載されている。聞き手は歌人の武藤雅治。武藤はこんなふうに発言している。
「隆夫さんは、非人称と無名性について触れていますよね。短詩型でいう人称は、多くは、一人称を指しているかと思いますが、一口に一人称と言っても『生身の我』『社会人としての我』『創作された我』と三つぐらいの『我』というものが考えられます。こういう人称を離れた非人称というのはありうるのか?」
川柳誌「凛」60号は渡辺自身の文章を掲載。
この時評でも取り上げたことがある「川柳使命論争」について、隆夫自身が書いている。
くりかえしになるが、経緯を紹介すると
ふる里は戦争放棄した日本 大久保真澄
について、隆夫が「この句には川柳の使命のようなものが濃縮されている」(「触光」37号)と書いたことについて、「触光」38号で広瀬ちえみや芳賀博子から「川柳の使命」という言い方に対する疑問が呈された。それを受けて、隆夫自身は次のように書いている。
「二人の女史に指摘されてはじめて、私は『使命』というコトバを安易に使用していたことに気がついた。『川柳とはなんでもありの五七五』などとチャランポランを吹聴してきた男が、『使命』などというウソくさい言葉を並べて、こりゃなんじゃらほい、と思ったに違いない。それほど、この戦争放棄の句は私をしてクソマジメな男に回帰させたのである」
「人間というものは気をつけていないと、すぐマジメになってしまう」とは隆夫自身の言葉だが、渡辺隆夫という人は自己を客観視できる人だということを改めて感じた。
「川柳・北田辺」第51回句会報。
くんじろうの「放蕩言」に曰く。
「…趣味の会だから本気で作らないのなら、そこから本物の川柳など生まれて来るはずがない。本物が出て来なければいずれ川柳は滅びる。何十万人の人が川柳と称して五七五を作ろうと、もはやそこに川柳は無かろう。昔良き時代に詠まれた先輩方の句をなぞって、さもそれらしい顔をしているだけなら、そこに独創性など存在するはずもない。決して伝統川柳を否定しているのではない。独創性の無さ、個性の乏しさを憂いているのである」
同句会報の作品から。
白鳥をたった一人で干している 榊陽子
貝塚の貝を全身貼りつける 竹井紫乙
半身はミイラ半身は国宝 田久保亜蘭
つぎはぎブギウギひょうたんつぎもどき 酒井かがり
口紅を狼煙にできるものならば 森田律子
今年も元気のでる川柳時評を書いてゆきたい。そのためには、まず自分が元気でなければならない。
2015年1月2日金曜日
榎本冬一郎と藤井冨美子
『藤井冨美子全句集』(文学の森)が刊行された。
藤井は俳誌「群蜂」の主宰。榎本冬一郎を師と仰ぎ、榎本が亡くなったあと「群蜂」を継承した。全句集には『海映』『氏の神』『花びら清し』『木の国抄』の四句集のほか〈『木の国抄』以後〉の句も収録されている。和田悟朗の序、「藤井冨美子鑑賞」として樋口由紀子・丸山巧・楠本義雄の文章、堀本吟の「藤井冨美子論」が添えられている。
樋口はこんなふうに書いている。
「関西には津田清子、藤井冨美子、八木三日女などの穏やかであるが、芯が一本通った女性俳人がいる。事象をしっかりと見据える彼女らは総じてカッコイイ。根っこが太く深く、誰にも媚びず、女であることに甘えない。同性として、同じ関西人として憧れの誇らしい存在である」
関西女性俳人としては、もうひとり澁谷道を挙げるべきだろう。八木三日女は惜しくも昨年2月に亡くなった。
かつて「社会性俳句」というものがあった。
初期の藤井もその影響を受けている。第一句集『海映』(うみはえ)から。
寒土で一本酸素ボンベの仮死つづく 藤井冨美子
冷え極む鋼材巡視の人影濃し
団交や平炉を囲む荒き霧
官憲へも降るメーデーの紙吹雪
鋼塊積みし汽笛南風に負けるなよ
雷鳴の工区瞬時がみなぎれり
昭和30年ごろの句である。このとき作者は住友金属に在職。
『海映』の解説で川崎三郎は次のように書いている。
「どの作品にもみられる『炉工』や『鉄』など用語の生硬な語感は藤井氏の特徴の一つといってしかるべきであろう。しかし、このような組織と人間への衝迫はかなりアクチュアルな指向をもってとらえられてはいるが、それは現象的なイデオロギーや革命などとは少しく違っているといえよう。藤井氏にとっては、製鋼煙に被われた底辺層で生きる人間の個としての存在の把握が精一杯の作業だったのであり、それと同時に、そういう階層に対する社会的な自覚、連帯感を基調にして、終始リアリズムの方法で迫るという、徹底した自己形成をはかっていたのである」
川崎は冨美子の今後について、社会性から更に内面的な深化への方向性を予見していた。「さりげなく、それでいて容赦なく過ぎ去っていく平板な日常の時間の流れの中から、いかにクライシス(危機感)を感受するか」というところに川崎は詩の本質を見ている。
以後の藤井冨美子はほぼ川崎のいうような軌跡をたどったと思われる。
藤井を語るには榎本冬一郎のことを語らなければならない。
榎本は和歌山県の田辺市で生まれた。近くに南方熊楠の家があったという。
生駒に転居したり、生地の田辺に戻ったりしたあと、大阪へ。いろいろ生活の苦労があったようだ。山口誓子に師事し、「天狼」創刊に同人参加。その一年後に高橋力らと「群蜂」を創刊して主宰となる。
冬一郎の第二句集『鋳造』(ちゅうぞう)には山口誓子の序が収録されている。
誓子はまず「こんどの句集の『鋳造』という題名は、冬一郎氏が俳句によって自己の人間像を打ち建てることを云うのであろう」と書いている。では、どこにそれを打ち建てるのか。「庶民の中に」というのが冬一郎の答えだ、と誓子は言う。
「庶民の中に自己の人間像を打ち建てるというのは、単に自己の周囲の庶民を素材とすることではない。庶民の心を吾が心とし、吾が心を庶民の心とすることである。『私たち』を『私』として詠い、『私』を『私たち』として詠うことである。これは俳句に於ける新しい分野である。ただしかし、自己を見つむる短詩型の詩歌にあっては、究極に於ては『私』を詠うのであるから、その『私』をどのように『私たち』にかかわらせ、からませるかが問題として残る」
誓子は冬一郎の俳句を「難渋なる『庶民性の俳句』」と呼び、「詠う面に於て庶民性があっても、伝わる面に於ては庶民性が欠ける。庶民を詠って庶民から離れることになる」と批評している。誓子自身は「私は、俳句はまず個人が詠えなくてはならないと思う。その上で庶民を詠い、更に社会を詠うべきであると思う。個人が詠えなくてどうして庶民や社会が詠えようか」という立場のようである。
「社会性俳句」の時期における「私」と「私たち」との関係をめぐる議論である。今の眼から見ても興味深いものを感じるので紹介してみた。
拳銃を帯びし身に触れ穂絮とぶ 榎本冬一郎
「拳銃」は単なる素材ではない。
冬一郎は警官であった。昭和16年から昭和30年まで、彼は大阪府警に勤務し、その後大阪府立大学に出向した。冬一郎の社会性俳句として有名なものにメーデー俳句がある。
メーデーの明日へ怒れるごとく訣る
メーデーの中やうしなふおのれの顔
メーデーのあとなお昼や白き広場
最後の句集『根の祖國』の解説で松井牧歌は次のように書いている。
「冬一郎のメーデー作品は、警官の立場から、いや民主警察の警察官が一人の詩人に立ち返って、メーデーの群集に包囲されつつ表出した臨場感あふれる作品であった。しかし、メーデーという労働者の祭典に、警察官は職務上、労働者と対峙して臨まざるを得ない。この孤独と寂寥の渦中で警察官の心情を詠いあげたのが、冬一郎のメーデー俳句である」
評価は二分されている。
「新しい社会性俳句の出現」という評価と「労働者の祭典を単に敵視した立場で捉えているにすぎない」という批判である。
次の句は第四句集『尻無河畔』から。
定時断水犬も女も乳房重し
これも松井牧歌の解説から引用する。
「大阪湾にそそぐ尻無川流域に、戦前から沖縄の人たちの集落があった。河畔に屑鉄撰場、炭焼窯、解船場が並び、内湾沿いに貯木場、その背後はベニヤ工場と馬小屋が連なっていた。デルタ地帯の中央部を見ると、ラワン材が何本も浮かぶ貯木池と粗末な製材工場のたたずまいがあった」
集落をたずねた瞬間から冬一郎は気持ちをひかれ、以後いくたびも訪問したという。
昭和40年代以降、冬一郎は『時の軸』『故郷仏』『根の祖國』と土俗的な世界へ回帰してゆく。アクチュアリティは失われ、そのぶん言葉と物との関係が深化してゆく。
「夥しいコトバによって隔てられている『ものたち』に、できるだけ親密に皮接して、そこから逆にコトバを捉えようとした」(『時の軸』あとがき)
このような冬一郎の俳句の軌跡を受け継ぎながら、藤井冨美子は自らの俳句世界を詠み続けてきたのだ。『木の国抄』のあとがきに曰く。
「この句集は、全ての肉親と永別した日からの私の心を写す鏡となった。身がまえて生きる方法よりも、ひょっとしたら、淡々と歩むなかで自分の心の置きどころが見えてくるのではないか、と気づかせてくれた年月でもあった。けれん味なく暮しぶりを見究めてゆくことの大切さを教えられたといえる」「そして、先師榎本冬一郎の文学性に追いつく道でもあろう」
和歌山市の加太には「流し雛」で有名な淡嶋神社がある。1989年6月、群蜂40周年記念大会で神社の境内に冬一郎の句碑を建立した際に、冨美子は次の句を詠んでいる。師弟の句を並べて紹介しよう。
明るさに顔耐えている流し雛 冬一郎
ふふむ花芯にこもれる怒濤かな 冨美子
私は本来このような師弟関係をキモチワルイと感じる人間である。けれども、冬一郎と冨美子に限っては、そこに文学的な継承の在り方を認めることができる。両者のベースには関西前衛俳句の精神があるからだ。
「戦後三十年を経ても、人間の生命を奪った戦時体験は忘れよう筈はありません」(藤井冨美子『海映』あとがき)
藤井は俳誌「群蜂」の主宰。榎本冬一郎を師と仰ぎ、榎本が亡くなったあと「群蜂」を継承した。全句集には『海映』『氏の神』『花びら清し』『木の国抄』の四句集のほか〈『木の国抄』以後〉の句も収録されている。和田悟朗の序、「藤井冨美子鑑賞」として樋口由紀子・丸山巧・楠本義雄の文章、堀本吟の「藤井冨美子論」が添えられている。
樋口はこんなふうに書いている。
「関西には津田清子、藤井冨美子、八木三日女などの穏やかであるが、芯が一本通った女性俳人がいる。事象をしっかりと見据える彼女らは総じてカッコイイ。根っこが太く深く、誰にも媚びず、女であることに甘えない。同性として、同じ関西人として憧れの誇らしい存在である」
関西女性俳人としては、もうひとり澁谷道を挙げるべきだろう。八木三日女は惜しくも昨年2月に亡くなった。
かつて「社会性俳句」というものがあった。
初期の藤井もその影響を受けている。第一句集『海映』(うみはえ)から。
寒土で一本酸素ボンベの仮死つづく 藤井冨美子
冷え極む鋼材巡視の人影濃し
団交や平炉を囲む荒き霧
官憲へも降るメーデーの紙吹雪
鋼塊積みし汽笛南風に負けるなよ
雷鳴の工区瞬時がみなぎれり
昭和30年ごろの句である。このとき作者は住友金属に在職。
『海映』の解説で川崎三郎は次のように書いている。
「どの作品にもみられる『炉工』や『鉄』など用語の生硬な語感は藤井氏の特徴の一つといってしかるべきであろう。しかし、このような組織と人間への衝迫はかなりアクチュアルな指向をもってとらえられてはいるが、それは現象的なイデオロギーや革命などとは少しく違っているといえよう。藤井氏にとっては、製鋼煙に被われた底辺層で生きる人間の個としての存在の把握が精一杯の作業だったのであり、それと同時に、そういう階層に対する社会的な自覚、連帯感を基調にして、終始リアリズムの方法で迫るという、徹底した自己形成をはかっていたのである」
川崎は冨美子の今後について、社会性から更に内面的な深化への方向性を予見していた。「さりげなく、それでいて容赦なく過ぎ去っていく平板な日常の時間の流れの中から、いかにクライシス(危機感)を感受するか」というところに川崎は詩の本質を見ている。
以後の藤井冨美子はほぼ川崎のいうような軌跡をたどったと思われる。
藤井を語るには榎本冬一郎のことを語らなければならない。
榎本は和歌山県の田辺市で生まれた。近くに南方熊楠の家があったという。
生駒に転居したり、生地の田辺に戻ったりしたあと、大阪へ。いろいろ生活の苦労があったようだ。山口誓子に師事し、「天狼」創刊に同人参加。その一年後に高橋力らと「群蜂」を創刊して主宰となる。
冬一郎の第二句集『鋳造』(ちゅうぞう)には山口誓子の序が収録されている。
誓子はまず「こんどの句集の『鋳造』という題名は、冬一郎氏が俳句によって自己の人間像を打ち建てることを云うのであろう」と書いている。では、どこにそれを打ち建てるのか。「庶民の中に」というのが冬一郎の答えだ、と誓子は言う。
「庶民の中に自己の人間像を打ち建てるというのは、単に自己の周囲の庶民を素材とすることではない。庶民の心を吾が心とし、吾が心を庶民の心とすることである。『私たち』を『私』として詠い、『私』を『私たち』として詠うことである。これは俳句に於ける新しい分野である。ただしかし、自己を見つむる短詩型の詩歌にあっては、究極に於ては『私』を詠うのであるから、その『私』をどのように『私たち』にかかわらせ、からませるかが問題として残る」
誓子は冬一郎の俳句を「難渋なる『庶民性の俳句』」と呼び、「詠う面に於て庶民性があっても、伝わる面に於ては庶民性が欠ける。庶民を詠って庶民から離れることになる」と批評している。誓子自身は「私は、俳句はまず個人が詠えなくてはならないと思う。その上で庶民を詠い、更に社会を詠うべきであると思う。個人が詠えなくてどうして庶民や社会が詠えようか」という立場のようである。
「社会性俳句」の時期における「私」と「私たち」との関係をめぐる議論である。今の眼から見ても興味深いものを感じるので紹介してみた。
拳銃を帯びし身に触れ穂絮とぶ 榎本冬一郎
「拳銃」は単なる素材ではない。
冬一郎は警官であった。昭和16年から昭和30年まで、彼は大阪府警に勤務し、その後大阪府立大学に出向した。冬一郎の社会性俳句として有名なものにメーデー俳句がある。
メーデーの明日へ怒れるごとく訣る
メーデーの中やうしなふおのれの顔
メーデーのあとなお昼や白き広場
最後の句集『根の祖國』の解説で松井牧歌は次のように書いている。
「冬一郎のメーデー作品は、警官の立場から、いや民主警察の警察官が一人の詩人に立ち返って、メーデーの群集に包囲されつつ表出した臨場感あふれる作品であった。しかし、メーデーという労働者の祭典に、警察官は職務上、労働者と対峙して臨まざるを得ない。この孤独と寂寥の渦中で警察官の心情を詠いあげたのが、冬一郎のメーデー俳句である」
評価は二分されている。
「新しい社会性俳句の出現」という評価と「労働者の祭典を単に敵視した立場で捉えているにすぎない」という批判である。
次の句は第四句集『尻無河畔』から。
定時断水犬も女も乳房重し
これも松井牧歌の解説から引用する。
「大阪湾にそそぐ尻無川流域に、戦前から沖縄の人たちの集落があった。河畔に屑鉄撰場、炭焼窯、解船場が並び、内湾沿いに貯木場、その背後はベニヤ工場と馬小屋が連なっていた。デルタ地帯の中央部を見ると、ラワン材が何本も浮かぶ貯木池と粗末な製材工場のたたずまいがあった」
集落をたずねた瞬間から冬一郎は気持ちをひかれ、以後いくたびも訪問したという。
昭和40年代以降、冬一郎は『時の軸』『故郷仏』『根の祖國』と土俗的な世界へ回帰してゆく。アクチュアリティは失われ、そのぶん言葉と物との関係が深化してゆく。
「夥しいコトバによって隔てられている『ものたち』に、できるだけ親密に皮接して、そこから逆にコトバを捉えようとした」(『時の軸』あとがき)
このような冬一郎の俳句の軌跡を受け継ぎながら、藤井冨美子は自らの俳句世界を詠み続けてきたのだ。『木の国抄』のあとがきに曰く。
「この句集は、全ての肉親と永別した日からの私の心を写す鏡となった。身がまえて生きる方法よりも、ひょっとしたら、淡々と歩むなかで自分の心の置きどころが見えてくるのではないか、と気づかせてくれた年月でもあった。けれん味なく暮しぶりを見究めてゆくことの大切さを教えられたといえる」「そして、先師榎本冬一郎の文学性に追いつく道でもあろう」
和歌山市の加太には「流し雛」で有名な淡嶋神社がある。1989年6月、群蜂40周年記念大会で神社の境内に冬一郎の句碑を建立した際に、冨美子は次の句を詠んでいる。師弟の句を並べて紹介しよう。
明るさに顔耐えている流し雛 冬一郎
ふふむ花芯にこもれる怒濤かな 冨美子
私は本来このような師弟関係をキモチワルイと感じる人間である。けれども、冬一郎と冨美子に限っては、そこに文学的な継承の在り方を認めることができる。両者のベースには関西前衛俳句の精神があるからだ。
「戦後三十年を経ても、人間の生命を奪った戦時体験は忘れよう筈はありません」(藤井冨美子『海映』あとがき)