ツイッターで瀬戸夏子の「短歌bot」を読んでいる。毎日おびただしい数の現代短歌が配信されてきて、目がくらむようだ。10月にスタートして約一ヶ月で2000首を越えている。どういうシステムか私にはよくわからないが、あらかじめまとめて入力しておいて、配信時間を設定しておくと、機械が自動的にランダムに配信してくれるようだ。自作だけではなくて、短詩型文学をこういうかたちで配信できるのだ。
短歌のbotはいろいろあるが、川柳でもbotがあるかどうか探してみると、あるにはあるのだが、江戸川柳だったり下ネタ川柳だったりするので、がっかりした。
ネットプリントというのもある。コンビニのコピー機でユーザー番号と予約番号を打ち込めば、プリントアウトされてくる。プリント代は一枚20円(白黒)だから、6枚としても120円。ただし、期間限定ということと、打ち出してみないとどんなものが出てくるか分からないので、当り外れはある。ためしに「ぺんぎんぱんつ」(しんくわ、田中まひる)を購入してみた。正岡豊の「秋ノ国トハ」から。
十月のはじめ
妻と
数年前に亡くなった
父の墓参りにいった
ちいさめの赤と白とのコンバイン動いて止まる田の秋である
ぼくたちがぼくたちのお金を払いぼくたちのお昼ごはんを食べる
大仏殿前でオオクワガタムシが尼に踏まれたなどという嘘
文学フリマは東京では定着しているらしくて、しばしば開催されている。
大阪でも昨年と今年、堺市の会場で開催された。二度とも行ってみたが、初体験だった昨年の方がインパクトは強かった。短詩型では短歌が中心の感じで、小説やマンガなども活気があるが、川柳からの参加はない。
従来の活字中心の誌面構成だけでは若い世代のフィーリングをひきつけることは無理だと強く感じた。こちらの頭の中が変わらないと、何も変わらない。
フリーペーパーというものもある。
同人誌でも冊子を作るのは大変だが、一枚または数枚の紙に作品を印刷して配信するのは簡単だし、廉価にできる。
7月に「大阪短歌チョップ」に行ったときに、会場には短歌のフリーペーパーがたくさん置いてあった。手にとってみたが、購入しようとか持って帰ろうとか思わなかったのは、掲載されている作品が玉石混淆だったからだろう。手軽にできる分だけ、編集の眼とか他者の眼とかが入りにくい。選を行わずに作品を全部掲載する場合はなおさらである。
今回は現代川柳の中味ではなくて、川柳をどう配信してゆくかという、外面的な問題を考えようとして話をはじめている。
マーケットが成立していない川柳においては、どのような形で作品を読者に届けるかは切実な問題である。短詩型の世界ではどのジャンルでも状況は同じだと言われるかもしれないが、書店に並んでいる俳句・短歌・川柳の量の差を見れば川柳の劣勢は一目瞭然である。
川柳の商業誌は現在「川柳マガジン」しか存在しないから、川柳の配信は結社誌・同人誌を通じて行なわれる。結社誌であれ同人誌であれ、従来の川柳誌はすべて作者がお金を出しあって川柳誌を作り、出来上がった作品を仲間内で読むという形態をとる。不特定多数の読者が雑誌を購入することはほとんどなくて、作品の文芸的価値が問われなくてすむ。マーケットが成立するためには作品に商品価値がなければならないが、お金を出して読みたい川柳作品、お金を出して話を聞きたい川柳人はきわめて稀だろう。
そういう中で川柳作品を配信しようとすれば、従来の紙媒体の句集・書籍だけではなくて、SNSを利用していく方向に進んでいかざるをえない。句会という座の文芸に馴染んできた川柳人にとっては苦手なSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だが、みんなが発信しないと情報の海の中で、川柳はますます埋没していってしまう。
12月20日に伊丹の柿衞文庫で「第三回俳句Gathering」が開催される。
ゲストに短歌同人誌「一角」の土岐友浩が来て話すことになっているので、若い世代の表現者たちが自分たちの作品をどのような形で配信しようとしているのか聞けるものと期待している。
川柳大会に高齢化した川柳人が何百人も集まったり、自分で会費を払って掲載された川柳誌の自作を眺めて自己満足にふけったり、ISBNコードのない句集を仲間内で配布したりしているだけでは、川柳は先細ってゆくだけである。
句会は魅力的な川柳イベントと連動してオープンなかたちで開催されることが必要となる。講演会や句会ライブ、ワークショップなどを仕掛けてゆくことも重要。参加型のイベントでないと人は集まらない。短歌・俳句に比べて後発の川柳にはまだ試みられていないことがいっぱいある。うまくいくという保証はどこにもないが、とにかく何かをやってみることが大切だろう。
『新現代川柳必携』(田口麦彦編、三省堂)が電子書籍として販売されることになったそうだ。丸善のeブックライブラリーのページから購入できる。こういう形の配信も今後増えてゆくことと思われる。
2014年11月28日金曜日
2014年11月14日金曜日
小島蘭幸川柳句集『再会Ⅱ』
天王寺の大阪市立美術館で「独立展」を見た。毎年、この時期に開催されるので楽しみにしている。独立美術協会の斎藤吾朗氏は画家で連句人でもある。画廊連句で知り合ってから、毎年展覧会の案内を送ってくれる。この人の絵を見にゆくのである。
今年は「富士に寿ぐ」が出品されていて、世界遺産登録にちなんだものか、富士を中心として清水港から伊豆の下田までパノラマのような世界が展開されている。彼は三河在住で、赤を基調とした独特の画風なので「三河の赤絵」として知られている。
全体の構想もさることながら、ディテールのおもしろさが抜群で、清水の次郎長がいたり、ペリーが来航していたり、太宰治が「富士には月見草が…」と呟いていたりする。富士浅間神社の信仰も描かれているが、古今東西のさまざまな登場人物たちが画面狭しとひしめきながら一堂に会しているのだ。そこにはメッセージ性がこめられている。
会場でもらった「独立ノート」第4号には「私のターニングポイント」として絹谷幸二のインタビューが載っている。むかし「日曜美術館」でこの画家が「土佐の絵金」のことを語っていたのを覚えている。絹谷はこんなふうに語っている。
「独立展の出品者の中にも、何年も何年も同じような絵を描いている人がいますよね。そういう人は質的な時間が多岐に渡っていない、つまり自分の絵を模写しているように見えます。独立展の場合は進取の気性に満ち、挑戦している絵でないといけません。新規な時間が生み出されていないということは存在がないということです」
「川柳塔」は今年創立90周年を迎え、10月4日に「第20回川柳塔まつり・川柳雑誌・川柳塔90周年記念川柳大会」が開催された。それにあわせて、主幹の小島蘭幸川柳句集『再会Ⅱ』が発行されている。
ひとすじの煙たかぶりなどはない
晩年の味方は一人あればよい
みんなみな幻正座してひとり
座禅組む急ぐことなどないこの世
精神力だけで立ってたのか葦よ
一喝をしてから眠れなくなった
序文のかわりに橘高薫風の「川柳塔の旗手 小島蘭幸」が収録されている。「川柳木馬」38号(昭和63年)の「次代を担う昭和2桁生まれの作家群像」に掲載されたものの再録である。
薫風はこんなふうに書いている。
「川柳界の動きは、明治三十年代の川柳復興期から、時代を先取りしたのは常に若者であったが、総じて微温的であった」「明治二十年代に生まれた作家たちの中で、麻生路郎、村田周魚、椙元紋太、川上三太郎、岸本水府、前田雀郎が六大家と呼称されるように傑出した。また、大正末期から昭和一桁生まれの作家が、昭和42年5月京都国際会議場で開催された平安川柳社十周年記念大会で、当時の新進として壇上に顔を並べた印象は今も鮮やかで、壇上で質問を受けた新進の人たちが、現在充実した指導力を各地で発揮している。そして、次代の川柳界を背負うのが、小島蘭幸の世代、つまり戦後生まれの団塊ではなかろうか」
昭和末年ごろまでの川柳界の状況論として読んでも興味深い。
小島蘭幸は昭和23年、広島県竹原市に生まれる。15歳で川柳をはじめ、竹原川柳会に入会した。昭和42年、川柳塔社・同人。平成22年、川柳塔社・主幹。
前掲の文章で、薫風は続けて次のように書いている。
「しかしながらまた、竹原川柳会を中央から指導していたのは清水白柳と菊沢小松園であり、その上に当時の川柳塔の主幹、中島生々庵がいて、三人ながら穏健保守の作風であったので、新進の蘭幸にはいささか不満な場合もあったのではなかろうか。これは、私が麻生路郎について指導を受けた当初に抱いたもので、私の作る古い句ばかり入選にして、自分では意欲的に作った斬新な句は没続き、全く考え込んでしまったのだが、数年を経て、その感覚的な斬新さが本物になってきたとき、続けさまに入選にして下さった」
川柳結社が若手を育てる機能を失っていなかった時代の姿がここにはある。
「川柳木馬」に掲載されたもうひとつの蘭幸論は、石原伯峯(広島川柳会会長)の「句集『再開』とそれからの蘭幸」である。『再会』は蘭幸が結婚を機に発行した第一句集である。この文章で伯峯が注目していたのは次の四句である。
僕の視野にカラスが一羽だけとなる
むかしむかしのやさしさがある藁の灰
いのちふたつあれば悪人にもなろう
うさぎの耳もわたしの耳も怖がり
蘭幸は竹原川柳会や川柳塔とともに歩んできた。そのことは、たとえば次のような句にも感じられる。
真夜中の酒よ六大家を想う
創刊号ひらくと波の音がする
恐ろしい人がいっぱいいた昭和
生々庵栞薫風路郎の忌
ライバルも私も痩せていた昭和
「蘭幸には社会を諷刺し、他人に敵対するような句はない。それはそれでよい。どんな対象であれ、無理につくることはないのである。言いたいことだけを言うことだ。饒舌は中味が薄くなるばかりである」
橘高薫風は蘭幸の作品についてこのように書いている。
昭和の川柳界には「恐ろしい人」がいっぱいいた。他人に敵対するというような表層的なことを言うのではないが、蘭幸にもまた「恐ろしい川柳人」になってほしいと思っている。
今年は「富士に寿ぐ」が出品されていて、世界遺産登録にちなんだものか、富士を中心として清水港から伊豆の下田までパノラマのような世界が展開されている。彼は三河在住で、赤を基調とした独特の画風なので「三河の赤絵」として知られている。
全体の構想もさることながら、ディテールのおもしろさが抜群で、清水の次郎長がいたり、ペリーが来航していたり、太宰治が「富士には月見草が…」と呟いていたりする。富士浅間神社の信仰も描かれているが、古今東西のさまざまな登場人物たちが画面狭しとひしめきながら一堂に会しているのだ。そこにはメッセージ性がこめられている。
会場でもらった「独立ノート」第4号には「私のターニングポイント」として絹谷幸二のインタビューが載っている。むかし「日曜美術館」でこの画家が「土佐の絵金」のことを語っていたのを覚えている。絹谷はこんなふうに語っている。
「独立展の出品者の中にも、何年も何年も同じような絵を描いている人がいますよね。そういう人は質的な時間が多岐に渡っていない、つまり自分の絵を模写しているように見えます。独立展の場合は進取の気性に満ち、挑戦している絵でないといけません。新規な時間が生み出されていないということは存在がないということです」
「川柳塔」は今年創立90周年を迎え、10月4日に「第20回川柳塔まつり・川柳雑誌・川柳塔90周年記念川柳大会」が開催された。それにあわせて、主幹の小島蘭幸川柳句集『再会Ⅱ』が発行されている。
ひとすじの煙たかぶりなどはない
晩年の味方は一人あればよい
みんなみな幻正座してひとり
座禅組む急ぐことなどないこの世
精神力だけで立ってたのか葦よ
一喝をしてから眠れなくなった
序文のかわりに橘高薫風の「川柳塔の旗手 小島蘭幸」が収録されている。「川柳木馬」38号(昭和63年)の「次代を担う昭和2桁生まれの作家群像」に掲載されたものの再録である。
薫風はこんなふうに書いている。
「川柳界の動きは、明治三十年代の川柳復興期から、時代を先取りしたのは常に若者であったが、総じて微温的であった」「明治二十年代に生まれた作家たちの中で、麻生路郎、村田周魚、椙元紋太、川上三太郎、岸本水府、前田雀郎が六大家と呼称されるように傑出した。また、大正末期から昭和一桁生まれの作家が、昭和42年5月京都国際会議場で開催された平安川柳社十周年記念大会で、当時の新進として壇上に顔を並べた印象は今も鮮やかで、壇上で質問を受けた新進の人たちが、現在充実した指導力を各地で発揮している。そして、次代の川柳界を背負うのが、小島蘭幸の世代、つまり戦後生まれの団塊ではなかろうか」
昭和末年ごろまでの川柳界の状況論として読んでも興味深い。
小島蘭幸は昭和23年、広島県竹原市に生まれる。15歳で川柳をはじめ、竹原川柳会に入会した。昭和42年、川柳塔社・同人。平成22年、川柳塔社・主幹。
前掲の文章で、薫風は続けて次のように書いている。
「しかしながらまた、竹原川柳会を中央から指導していたのは清水白柳と菊沢小松園であり、その上に当時の川柳塔の主幹、中島生々庵がいて、三人ながら穏健保守の作風であったので、新進の蘭幸にはいささか不満な場合もあったのではなかろうか。これは、私が麻生路郎について指導を受けた当初に抱いたもので、私の作る古い句ばかり入選にして、自分では意欲的に作った斬新な句は没続き、全く考え込んでしまったのだが、数年を経て、その感覚的な斬新さが本物になってきたとき、続けさまに入選にして下さった」
川柳結社が若手を育てる機能を失っていなかった時代の姿がここにはある。
「川柳木馬」に掲載されたもうひとつの蘭幸論は、石原伯峯(広島川柳会会長)の「句集『再開』とそれからの蘭幸」である。『再会』は蘭幸が結婚を機に発行した第一句集である。この文章で伯峯が注目していたのは次の四句である。
僕の視野にカラスが一羽だけとなる
むかしむかしのやさしさがある藁の灰
いのちふたつあれば悪人にもなろう
うさぎの耳もわたしの耳も怖がり
蘭幸は竹原川柳会や川柳塔とともに歩んできた。そのことは、たとえば次のような句にも感じられる。
真夜中の酒よ六大家を想う
創刊号ひらくと波の音がする
恐ろしい人がいっぱいいた昭和
生々庵栞薫風路郎の忌
ライバルも私も痩せていた昭和
「蘭幸には社会を諷刺し、他人に敵対するような句はない。それはそれでよい。どんな対象であれ、無理につくることはないのである。言いたいことだけを言うことだ。饒舌は中味が薄くなるばかりである」
橘高薫風は蘭幸の作品についてこのように書いている。
昭和の川柳界には「恐ろしい人」がいっぱいいた。他人に敵対するというような表層的なことを言うのではないが、蘭幸にもまた「恐ろしい川柳人」になってほしいと思っている。
2014年11月7日金曜日
江田浩司歌集『逝きし者のやうに』
江田浩司歌集『逝きし者のやうに』(北冬舎)について書いてみたい。
表現者は多かれ少なかれ先行の作品に影響を受けているものだが、この歌集は先人への追悼とオマージュそのものを主題としている。塚本邦雄・山中智恵子・近藤芳美・北村太郎・蕪村・村松友次・荒川修作…このように挙げてゆくと、江田の詩魂のありどころが浮かびあがってくる。かつて「精神のリレー」ということが言われたことがあったが、「魂のリレー」というようなものがこの歌集には感じられる。
江田は村松友次に俳諧を学び、塚本邦雄の影響を受けて短歌をはじめたという。従って彼は俳諧と短歌という両形式を知悉しているから、偏狭でありつつ総合的なのである。
先人に対する追悼歌を一首ずつ挙げてみよう。括弧内に誰に対する追悼なのかを示しておくが、章名は省略させていただく。
水上に死の立ち上がるごとくして詩魂を紡ぐ父は生きたり(塚本邦雄追悼)
夢の記に雨の躰を記すとき韻文はなほ香り立つかな(山中智恵子追悼)
揺るぎなき意志は焦土に吹く風を詩の原形の一つとなさむ(近藤芳美追悼)
水烟は立ちのぼるなりかぎろひのことばの修羅を生きる人らに(多田智満子追悼)
フーコーから話し始めし修作がジョン・ケージにて一息つきぬ(荒川修作追悼)
歎きなど莫迦らしくなる緊縛に身を任せたり一炊の夢(中川幸夫追悼)
江田は塚本邦雄を「父」と呼ぶ。精神的な父なのだろう。山中智恵子は母であろうか。
江田に俳諧を教えた村松友次は紅花の号をもつ俳人でもあった。「村松友次先生を哀悼する」の章から三首引用する。
降りしきる雪に古人の貧しさを讃へたまひし師は逝きたまふ
旅に病む芭蕉を説ける講義かな湖底に棲めるこゑはくれなゐ
紅花とふ俳号を虚子に賜りて風花のごとき俳句をなしぬ
村松紅花は連句界でも高名であった。
私が愛読したのは『芭蕉の手紙』『蕪村の手紙』『一茶の手紙』(大修館)の三部作である。
北村太郎は「荒地」の詩人であるが、詩集には「かげろう抄」という連句的な作品が収録されている。連句人として活躍した松村武雄は北村太郎の兄である。
「あをき夜に立つ」の章は手がこんでいて、蕪村の「北寿老仙をいたむ」に寄せたものである。この新体詩の先駆と言われる作品自体が北寿老仙(早見晋我)に対する追悼詩である。江田はそこにさらに自らの短歌を取り合わせる。たとえば、こんなふうに。
君あしたに去ぬ。ゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
砕けゆく言葉は風があがなへよ君あをき夜に立つと思へば
和歌をくずした俳諧、その俳諧をさらに崩した川柳を主なフィールドとしている私にとって、この歌集は「詩」や「韻文」に傾きすぎている。だから、次のような散文的な歌にであうと少しほっとする。
人生の七合目なりこれ以上いやな奴にはなるまいと思ふ
フラットな時代にあって、あえて屹立した言語表現にむかっていることは江田の独自性といってよい。表現者が創造の根拠とするのは、そのジャンルの伝統である。それは自ら選び取るものだから、同時代に限定されるものではなく、幽明境を異にする先人の仕事であっても生きて存在しているのだ。
もし、この歌集に対して俳諧的な読みを試みるとすれば、塚本邦雄も山中智恵子も北村太郎も、詠まれているすべての表現者たちは座の連衆であり、ひとつの祝祭空間を共有していることになる。
人生の半ばを過ぎて人の死が生きゆくことの一部となりぬ 江田浩司
向日葵のはじめての花蒼く冱えわがうちに生きゐたる死者の死 塚本邦雄
表現者は多かれ少なかれ先行の作品に影響を受けているものだが、この歌集は先人への追悼とオマージュそのものを主題としている。塚本邦雄・山中智恵子・近藤芳美・北村太郎・蕪村・村松友次・荒川修作…このように挙げてゆくと、江田の詩魂のありどころが浮かびあがってくる。かつて「精神のリレー」ということが言われたことがあったが、「魂のリレー」というようなものがこの歌集には感じられる。
江田は村松友次に俳諧を学び、塚本邦雄の影響を受けて短歌をはじめたという。従って彼は俳諧と短歌という両形式を知悉しているから、偏狭でありつつ総合的なのである。
先人に対する追悼歌を一首ずつ挙げてみよう。括弧内に誰に対する追悼なのかを示しておくが、章名は省略させていただく。
水上に死の立ち上がるごとくして詩魂を紡ぐ父は生きたり(塚本邦雄追悼)
夢の記に雨の躰を記すとき韻文はなほ香り立つかな(山中智恵子追悼)
揺るぎなき意志は焦土に吹く風を詩の原形の一つとなさむ(近藤芳美追悼)
水烟は立ちのぼるなりかぎろひのことばの修羅を生きる人らに(多田智満子追悼)
フーコーから話し始めし修作がジョン・ケージにて一息つきぬ(荒川修作追悼)
歎きなど莫迦らしくなる緊縛に身を任せたり一炊の夢(中川幸夫追悼)
江田は塚本邦雄を「父」と呼ぶ。精神的な父なのだろう。山中智恵子は母であろうか。
江田に俳諧を教えた村松友次は紅花の号をもつ俳人でもあった。「村松友次先生を哀悼する」の章から三首引用する。
降りしきる雪に古人の貧しさを讃へたまひし師は逝きたまふ
旅に病む芭蕉を説ける講義かな湖底に棲めるこゑはくれなゐ
紅花とふ俳号を虚子に賜りて風花のごとき俳句をなしぬ
村松紅花は連句界でも高名であった。
私が愛読したのは『芭蕉の手紙』『蕪村の手紙』『一茶の手紙』(大修館)の三部作である。
北村太郎は「荒地」の詩人であるが、詩集には「かげろう抄」という連句的な作品が収録されている。連句人として活躍した松村武雄は北村太郎の兄である。
「あをき夜に立つ」の章は手がこんでいて、蕪村の「北寿老仙をいたむ」に寄せたものである。この新体詩の先駆と言われる作品自体が北寿老仙(早見晋我)に対する追悼詩である。江田はそこにさらに自らの短歌を取り合わせる。たとえば、こんなふうに。
君あしたに去ぬ。ゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
砕けゆく言葉は風があがなへよ君あをき夜に立つと思へば
和歌をくずした俳諧、その俳諧をさらに崩した川柳を主なフィールドとしている私にとって、この歌集は「詩」や「韻文」に傾きすぎている。だから、次のような散文的な歌にであうと少しほっとする。
人生の七合目なりこれ以上いやな奴にはなるまいと思ふ
フラットな時代にあって、あえて屹立した言語表現にむかっていることは江田の独自性といってよい。表現者が創造の根拠とするのは、そのジャンルの伝統である。それは自ら選び取るものだから、同時代に限定されるものではなく、幽明境を異にする先人の仕事であっても生きて存在しているのだ。
もし、この歌集に対して俳諧的な読みを試みるとすれば、塚本邦雄も山中智恵子も北村太郎も、詠まれているすべての表現者たちは座の連衆であり、ひとつの祝祭空間を共有していることになる。
人生の半ばを過ぎて人の死が生きゆくことの一部となりぬ 江田浩司
向日葵のはじめての花蒼く冱えわがうちに生きゐたる死者の死 塚本邦雄