倉阪鬼一郎の新著『元気が出る俳句』(幻冬社新書)では、前著『怖い俳句』と同じように自由律や現代川柳も取り上げられている。現代川柳からは定金冬二・前田一石・畑美樹の三人の句が収録されているが、ここでは前田一石について紹介してみたい。
風が吹いているあきらめることはない 前田一石
この句について倉阪は次のように述べている。
俳句のような「切れ」を持たない現代川柳ですが、この句には「切れのごときもの」があります。重苦しい人生の水に浸かっていた作者が、顔を上げてふっと息継ぎをするかのようなわずかなサイレントです。〈戻ってはならない道だ光っている〉〈花が咲いている僕の踏みはずした道だ〉〈遮断機があがる魚は光りだす〉〈てのひらに許せぬものがあり光る〉なども構造は同じです。
「人生の胸苦しさ」「重苦しい人生の水」というものが前提としてまず存在し、そこから息継ぎをするように困難な生を乗り切ってゆく。そういう意味で、倉阪はこの句を本書に収録したのだろう。倉阪は続いて次のようにコメントする。
労働運動の一環として演劇集団に加わっていた作者ですが、労働災害をテーマとする演劇だったがゆえに会社からも組合からも圧力を受け、発表の場を奪われてしまいます。さらに遠隔地への単身赴任を余儀なくされるなど、重い石を背負わされても、作者は川柳という一石を投じながら息継ぎをし、前を向いて進んでいきます。
セレクション柳人17『前田一石集』(邑書林)の年譜によると、一石は1954年、岡山県玉野市の造船所に入社、1959年に造船労組の演劇サークルに入団している。1965年、演劇サークルは業余劇団「炎」として自立したが、1971年には活動中止に追い込まれてしまう。1978年には兵庫県の篠山工場に出向を命じられる。
ちょうど「杜人」241号(2014年春号)に前田一石は「水車小屋夫婦の川柳」という一文を発表している。一石自身の言葉で当時の事情を語ってもらおう。
〈この頃から日増しに強まる造船所の合理化攻勢の中で、自分達の立場を維持しての日常活動、職場での動きが著しく制限され、稽古日とあわせた出張、残業、夜勤さらに職制を通しての個人攻撃などで「サークル」を離れる仲間が増えた。1963年造船所で起きた災害をテーマにして、サークル員全員での創作劇を公演したことから、その締め付けは、想定外のものとなった。〉
闘争がはじまる切りくずしが始まる 前田一石
モルモットにある日扉が開いている
ひとりになると心に鉄が組まれてゆく
当時詠まれた句であろう。そして、単身赴任のころの句は次のようなものである。
それはまじめに勤めてからの島送り
矢印の通りに父が流される
転がり出たのは単身寮の冷えた飯
また馬鹿になろうひとりの味噌汁よ
生の現実そのままの句であり、作品として評価されるかどうか分からないが、倉阪の言う「人生の胸苦しさ」「重苦しい人生の水」の実体が単なる言葉の上だけのことではないのが分かるだろう。
こういう句の書き方は現在ではあまり見られなくなっているが、現代のロストジェネレーション(ロスジェネ世代)の人たちがもし川柳形式で句を書くとすれば、どのような表現をとるだろうという関心を私は持っている。
さて、前田一石は単身赴任を数年で終え、玉野に戻ってくるのだが、彼の川柳との関わりは、1958年、造船所の川柳部に入部したときに始まる。このときは「前田十代」の号を用いていた。一年ほどしか続かなかったようだが、1966年、再度川柳に誘われ、本格的な川柳活動がスタートする。転機となったのは1967年、「涛の会」の結成である。前掲の『前田一石集』の解説で石部明はこんなふうに書いている。
〈当時の岡山の、ほぼ全県下を支配する大結社の横暴に我慢できない若手たちが「涛の会」という集団を結成し、前田一石もその発起人に名を連ねることになる。
僕の中身を抜く くぎぬきがない 前田十代(一石)
逃げて行く蟹が残した爪二つ 加地一光
飛躍してほらほらぼくが消えただろう 堀田まこと
など同人十三人による創刊号は、勢いだけの、熱気を孕んだ生硬な言葉の放出に過ぎないが、「くぎぬきがない」と書く一石にとって川柳は、組合活動の挫折によって失いかけたエネルギーを、再び照射する格好の対象だったのではないか。〉
「川柳木馬」46号(1990年10月)に掲載され、のちに『現代川柳の群像』上巻に収録された前田一石論で長町一吠は次のように述べている。
〈彼に逢った時、「永く川柳を書いてゆく気があるなら、十代という雅号は改める方がよい」と彼に忠告をした。黙って私の言うことを聞いていた彼は次の号から「一石」と改号する。彼の素直さに驚かされたが、彼の新しい出発であった。〉
「涛」は実質的な責任者だった堀田まことの挫折によって崩壊を始めるが、一石は「自分一人になっても涛は続ける」と言ったそうだ。若き日の一石の姿がそこにある。創刊時の発起人のうち、山本柳化と西川けんじは「ふあうすと」同人に、一石は「平安」の同人になる。独自の道を歩んだ加地一光はやがて川柳界から消えてゆく。どのジャンルでもそうだろうが、さまざまな理由から川柳をやめていったおびただしい人びとの存在に私は思いをはせることがある。
その後、一石は「平安」「黎明」「バックストローク」「川柳カード」などに参加して、川柳活動を持続しながら現在に至っている。
いま前田一石は「川柳玉野社」代表として、毎年7月に開催される「玉野市民川柳大会」の開催に精力を注いでいる。この大会では、ひとつの題について男女の選者が共選する。彼はその出題に1年間をかけると言われている。秀句が集まる大会として知られ、全国から川柳人が参加する。私自身もこの大会から刺激を受け続けてきた。前掲の「水車小屋夫婦の川柳」で一石は「玉野市民川柳大会」で生まれた特選句の中から次の7句を抽出している。
君は何族と聞いてくるマリア・カラス 畑美樹 (石田柊馬選)
鞘に雨垂れ九条は息を止め 清水かおり (樋口由紀子選)
どう言われましても真ん中には琵琶湖 畑山美幸 (飯田良祐選)
日の丸といろはを背中から剥がす 石田柊馬 (石川重尾選)
出産の馬苦しんでいる朧 石部明 (徳永政二選)
沖縄に折れたクレヨン雨ざらし 墨作二郎 (堀本吟選)
憂いまで三つ足りない螺子の穴 樋口由紀子 (石部明選)
今年、玉野市民川柳大会は65回目を迎える。7月6日(日)、サンライフ玉野で開催されることになっている。
最後に、「川柳カード」5号から、前田一石の近作を一句紹介しておこう。
火の海をいま紙人形が渡る 前田一石
2014年4月4日金曜日
桐生と土佐 ―「ku+」のことなど
「ku+」(クプラス)が創刊された。
昨年9月の「第2回川柳カード大会」、佐藤文香と樋口由紀子の対談でも話題になっていた俳誌である。好評のようで、すでに創刊号は品切れ状態。現在、増刷中だという。
読みどころはいろいろあるが、ここでは山田耕司の〈流産した「番矢と櫂の時代」をやっかいな鏡とする〉を紹介しよう。
1987年、飯田橋の旅館の一室に九人の俳人が集まった。これを小林恭二は「新鋭俳人の句会を実況大中継する」という題で発表、のちに『実用俳句青春講座』に収録されるが、山田耕司はこの句会のことから話をはじめている。
〈山田は、その当時の「顔」となる若手俳人は、番矢と櫂、この二人だと思っていた〉
そして、山田は小林の役割について次のように言う。
〈小林恭二は、あきらかに外からのまなざしを以て俳句の状況をながめていたはずだ〉〈旧来の俳句世界とは別のところにいる読者へのアプリケーションの役割をじゅうぶんに果たしたことだろう〉
夏石番矢と長谷川櫂。〈それは俳句が外側からの注視を受けていた時代の象徴となるはずだった。それまでの世代との関わりや、過去との断絶の現場を検証するための眺めのいい場所は、二人の周辺に形成されるはずだった〉
それでは、なぜ番矢と櫂の時代は成就しなかったのか。山田は結論を出していないが、こんなふうに述べている。
〈我等は、「人間的で」「めんどくさそうでもない」人間関係および従来の権威の枠組みの中で、自分の固有性をおぼろげながらに信じつつ形式の表層と付き合ってきたということになるのか〉
「クプラス」の発行人は高山れおな。編集人は高山・山田・上田信治・佐藤文香。発行所は桐生の山田方になっている。
高知から発行されている「蝶」という俳誌がある。
たむらちせいを中心とし、代表・編集は味元昭次。
私の手元にあるのは昨年11月に発行された204号だが、「川柳木馬」同人の西川富恵が「現代川柳の現場から」という文章を書いている。西川は多様な現代川柳を紹介したあと、次のように言う。
〈今川柳は文学性を極めようとすれば際限なく先鋭化し、堕落が始まれば底なしになるやも知れぬ。無限の可能性か破綻か。が、ここでは危ない綱渡りをしながらも無限の可能性に向かっている事にしておこう〉
歯切れの悪い言い方であり、私とは少し考え方が異なるが、西川の言おうとしていることは理解できる。「無限の可能性」でもなく「破綻」でもなく、着実に進んでゆくことが現代川柳の課題である。
「蝶」には今泉康弘が「新興俳句随想」を連載している。「ドノゴオトンカ考」以来、今泉の書くものには注目しているが、今泉と「蝶」との俳縁は、味元が「円錐」にも所属していることによるだろう。
味元は「私的俳句甲子園観戦記」を書いている。昨年八月の俳句甲子園について土佐高校を中心にレポートしたものである。
土佐高校の俳句同好会を牽引していると思われる宮崎玲奈の句を紹介しよう。
蓮池の花影ピエロかもしれぬ 宮崎玲奈
魔術師の帽子からでた夕焼空
内部犯行説の団栗散らばりて
4月19日(土)に高知市文化プラザで「第3回木馬川柳大会」が開催される。「川柳木馬」創立35周年記念大会である。その第一部のテーマは「ありえない17音字に逢えるかも」。味元昭次と小池正博がそれぞれ15分ほど話すことになっている。
昨年9月の「第2回川柳カード大会」、佐藤文香と樋口由紀子の対談でも話題になっていた俳誌である。好評のようで、すでに創刊号は品切れ状態。現在、増刷中だという。
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1987年、飯田橋の旅館の一室に九人の俳人が集まった。これを小林恭二は「新鋭俳人の句会を実況大中継する」という題で発表、のちに『実用俳句青春講座』に収録されるが、山田耕司はこの句会のことから話をはじめている。
〈山田は、その当時の「顔」となる若手俳人は、番矢と櫂、この二人だと思っていた〉
そして、山田は小林の役割について次のように言う。
〈小林恭二は、あきらかに外からのまなざしを以て俳句の状況をながめていたはずだ〉〈旧来の俳句世界とは別のところにいる読者へのアプリケーションの役割をじゅうぶんに果たしたことだろう〉
夏石番矢と長谷川櫂。〈それは俳句が外側からの注視を受けていた時代の象徴となるはずだった。それまでの世代との関わりや、過去との断絶の現場を検証するための眺めのいい場所は、二人の周辺に形成されるはずだった〉
それでは、なぜ番矢と櫂の時代は成就しなかったのか。山田は結論を出していないが、こんなふうに述べている。
〈我等は、「人間的で」「めんどくさそうでもない」人間関係および従来の権威の枠組みの中で、自分の固有性をおぼろげながらに信じつつ形式の表層と付き合ってきたということになるのか〉
「クプラス」の発行人は高山れおな。編集人は高山・山田・上田信治・佐藤文香。発行所は桐生の山田方になっている。
高知から発行されている「蝶」という俳誌がある。
たむらちせいを中心とし、代表・編集は味元昭次。
私の手元にあるのは昨年11月に発行された204号だが、「川柳木馬」同人の西川富恵が「現代川柳の現場から」という文章を書いている。西川は多様な現代川柳を紹介したあと、次のように言う。
〈今川柳は文学性を極めようとすれば際限なく先鋭化し、堕落が始まれば底なしになるやも知れぬ。無限の可能性か破綻か。が、ここでは危ない綱渡りをしながらも無限の可能性に向かっている事にしておこう〉
歯切れの悪い言い方であり、私とは少し考え方が異なるが、西川の言おうとしていることは理解できる。「無限の可能性」でもなく「破綻」でもなく、着実に進んでゆくことが現代川柳の課題である。
「蝶」には今泉康弘が「新興俳句随想」を連載している。「ドノゴオトンカ考」以来、今泉の書くものには注目しているが、今泉と「蝶」との俳縁は、味元が「円錐」にも所属していることによるだろう。
味元は「私的俳句甲子園観戦記」を書いている。昨年八月の俳句甲子園について土佐高校を中心にレポートしたものである。
土佐高校の俳句同好会を牽引していると思われる宮崎玲奈の句を紹介しよう。
蓮池の花影ピエロかもしれぬ 宮崎玲奈
魔術師の帽子からでた夕焼空
内部犯行説の団栗散らばりて
4月19日(土)に高知市文化プラザで「第3回木馬川柳大会」が開催される。「川柳木馬」創立35周年記念大会である。その第一部のテーマは「ありえない17音字に逢えるかも」。味元昭次と小池正博がそれぞれ15分ほど話すことになっている。