「川柳カード」創刊記念大会の翌日、上本町で一泊したメンバーを中心に奈良を散策した。大会会場の上本町からは近鉄線で乗り換えなしで行けるので便利である。参加者は青森・仙台・高知・福岡・熊本など関西圏以外の川柳人が多いので、奈良公園の定番コースを案内することにした。三年前の「バックストロークin大阪」のときは薬師寺・唐招提寺を案内して萩が満開だったことを思い出す。
まず興福寺国宝館の阿修羅像に会いにゆく。
興福寺国宝館には天龍八部衆・釈迦十大弟子・山田寺仏頭・天灯鬼・龍灯鬼などの名品がそろっている。改装中の2009年から東京をはじめ各地を阿修羅像が巡回し、盛況であったようだ。阿修羅が奈良に里帰りしたあとは、国宝館の回りに行列ができたが、それもいまは落ちついて静かに阿修羅と対面することができる。
改装以前の国宝館の様子について、「MANO」9号に加藤久子の次の感想がある。
「国宝館の奥まったところに阿修羅像は置かれていた。ガラスを隔てて、白っぽい光の中で、阿修羅像は人々の視線に曝されていた」
現在そんなことはなく、ライトが当てられる中に阿修羅は魅力的で美しくたたずんでいる。
高校生のころ、「倫理・社会」の教科書の口絵に阿修羅像の写真が載っていて、授業などそっちのけでその写真を見つめていたものだ。阿修羅は眉根をきゅっと寄せて必死に何かを求めている。本来、阿修羅は闘争の神で帝釈天との激しい戦いを繰り返している。その彼が善心に立ち戻って仏法に帰依しているのである。いつ訪れても阿修羅の前からは立ち去り難い。そこには少年のひたむきさがあるからだ。
もう一体、国宝館で私の御贔屓の仏像は龍灯鬼である。龍灯鬼を眺めていると俳諧性ということを思い浮かべる。水原秋桜子の『葛飾』には天灯鬼・龍灯鬼を詠んだ句が収められている。
人が焼く天の山火を奪ふもの (天灯鬼) 水原秋桜子
おぼろ夜の潮騒つくるものぞこれ(龍灯鬼)
格調高いがこの句だけから像そのもののイメージを思い浮かべるのは困難だろう。
平成10年に亡くなった「奈良番傘」の片岡つとむは奈良の仏像をよく詠んでいる。
仲良しになれそうなのが龍灯鬼 片岡つとむ
まなざしがどこか阿修羅に似ている娘
こちらは親しみやすいが平俗な感じ。片岡つとむはこの他に千手観音や執金剛神像、十大弟子、広目天なども詠んでいる。
木心乾漆孔雀の翅のよう千手 片岡つとむ
憤怒像執金剛に尽きるとか
十大弟子のひとりは髯を蓄える
邪鬼二匹踏まえ広目天の筆
国宝館を出て、戒壇院へ向かう。当初の予定では奈良博物館の敷地にある森鷗外の旧居跡を通ってゆこうと思っていたが、時間が押しているのでカットした。鷗外は帝室博物館の館長として奈良に滞在しており、東京の自宅に送った手紙は鷗外の家族愛を伝えるものである。いま残っているのは旧居の門だけである。
戒壇院へ行く途中に写真家・入江泰吉の家がある。亡くなったあとも「入江泰吉」の表札がかかったままになっている。奈良を撮った写真は土門拳と並んで有名だが、知らない人は通り過ぎてしまいそうな、さりげないたたずまいだ。
戒壇院の四天王像のうち、私のお目当ては広目天である。阿修羅像の少年のまなざしも愛惜すべきであるが、人はいつまでも阿修羅のような表情ができるわけではなく、やがて中年になってゆくのである。広目天は中年の叡智を感じさせる像である。阿修羅と広目天、この二人の間にある人間の幅広さ、深さを思う。
堀辰雄の『大和路・信濃路』では広目天の印象をこんなふうに語っている。
僕は一人きりいつまでも広目天の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌を見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈しい。…
「そうだ、これはきっと誰か天平時代の一流人物の貌をそっくりそのまま模してあるにちがいない。そうでなくては、こんなに人格的にできあがるはずはない。…」
そうおもいながら、こんな立派な貌に似つかわしい天平びとは誰だろうかなあと想像してみたりしていた。
堀辰雄は誰を想像したかは書いていない。
あと、会津八一の『鹿鳴集』の中に有名な歌がある。
びるばくしや まゆねよせたる まなざしを まなこにみつつ あきの のをゆく
「びるばくしや」は広目天のこと(梵語らしい)。
四天王の着ている鎧の肩口にはライオンの顔のデザインになっている。ヘラクレスの獅子退治に遠源をもつ、シルクロードにつながる意匠である。獅噛(しがみ)だったかな。生半可な知識で同行の人たちに説明したのだが、あとで戒壇院の栞を読むと「身にまとう甲冑は遠く中央アジアの様式で、文化の広大なることを物語っている」とあってホッした。
次に挙げるのは今回の奈良行とは関係なく、2006年11月の「点鐘散歩会」の作品から。
広目天の筆ぬけ落ちるイジメ対策 本多洋子
増長天ジョニーデップの瞳です 阪本高士
二歳から聖徳太子だったんだ 吉岡とみえ
最後の句は興福寺国宝館の聖徳太子像を詠んだものだろう。
戒壇院を出たあと、一行は二手に分かれ、先に駅前の昼食場所へゆく方と足をのばして二月堂までゆく方とになった。
東大寺大仏殿の裏側を回って、講堂跡の礎石を眺めながらゆく。奈良でもっとも廃墟という感じがする場所である。
そして、二月堂の回廊をゆっくり上がってゆく。お水取りのときに、練行衆が松明をもって上がってゆくように。
二月堂からは奈良市街が一望できる。
小林秀雄は一時期、志賀直哉を頼って奈良に滞在していたことがある。長谷川泰子、中原中也との三角関係に疲れ、東京から逃げてきた小林がプルーストの原書を読みながら寝転がっていたという茶店が確か二月堂のあたりにあったはずだ。
高畑の志賀直哉の旧居は、今回のルートから外れるので案内できなかった。
タクシーで奈良駅前に戻った私たちは、一足先に昼食場所に来ていた先発グループと合流した。前夜の大会の懇親会ではあまり上等のお酒が飲めなかったので、ここで奈良のお酒をたっぷり飲もうというわけである。私のお勧めは春鹿と豊祝。
前日の大会の余韻のなかで、川柳の友人たちと歓談は続くのであった。
2012年9月21日金曜日
池田澄子と樋口由紀子
9月15日(土)に大阪・上本町で「川柳カード」創刊記念大会が開催され、川柳人をはじめ俳人・歌人を含めて109名の参加者があった。7月に発行された創刊準備号に続き、創刊記念大会も開催されて、「川柳カード」(発行人・樋口由紀子、編集人・小池正博)という新しい川柳誌がスタートしたことになるが、実は創刊号はまだ発行されていない。
本誌は昨年11月に終刊した「バックストローク」の後継誌と見られているようだが、新誌を立ち上げる以上、「バックストローク」とも少し異なった川柳活動を歩むのは当然である。そのひとつの志向が広く短詩型文学の世界に「川柳」を発信しようとすることで、今回の大会に俳人の池田澄子を招いて樋口由紀子が対談したのはその現れである。
樋口のエッセイ集『川柳×薔薇』(ふらんす堂)に池田澄子が帯文を書いている。樋口は「豈」の同人としての経歴が長く、池田とはごく親しい関係にある。「豈」51号(2011年2月)は「池田澄子のすべて」という特集を組んでいるが、樋口はそこに「池田澄子の固有性」という文章を書いている。この文章は「固有性と独自性―池田澄子小論」と改題されて『川柳×薔薇』にも収録されている。
一方、池田澄子の方は「川柳」をどう見ているのであろうか。
『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)が上梓されたときに、池田は「豈」34号(2001年11月)に書評を書いている。この書評については、後に触れる。
こういう両人の交流をふまえて、今回の対談が実現したことになる。ローマは一日にしてならず。
池田澄子はあちこちで対談しているが、記憶に新しいのは昨年の「ユリイカ」10月号に掲載された「たのしくさびしく青臭く」という対談で、聞き手は佐藤文香である。そこにはこんなやり取りがある。
佐藤 いま代表句を訊かれたら何と答えますか?
池田 代表句はやっぱり一番新しい句ということになってほしい。こないだ何かで代表句について書いてくれと言われて「一番新しい句集の最後のほうの句」って書きました(笑)。でもあなただって自分の代表句がどれかなんて気にしないでしょ?自分から言うなんて恥ずかしいよね。
佐藤 そうですね(笑)。
池田 毎回これが代表句って気持で書いてるもんね。
佐藤 そういう気持ちってすごく作家的だと思うんです。むしろ俳句を始めてすぐの人ほど、句会で褒められた特選の句を言ってまわりますよね(笑)。
池田は「俳句研究」で阿部完市の句を見て「あっ!」と思って俳句を始めたという。やがて三橋敏雄に師事することになる。このあたりの経緯を池田は繰り返し語っている。
今回の樋口との対談でも、話の順序として「じゃんけんで負けて蛍に生れたの」「ピーマン切って中を明るくしてあげた」の句が紹介されたが、この句ばかりを取り上げられると、確かに「ほかの句はダメなの?」と言いたくなるだろう。
「川柳カード」における対談は、池田をフォローしてきた者にとってはそれほど新鮮味はなかったかも知れないが、肝心なことは川柳人が池田の肉声を聞くことができたという点である。池田の話は終始実作から遊離することがなかったし、川柳人が共感をもって耳を傾けたのもその点であろう。
池田の俳句に向かう姿勢・言葉に対する姿勢として、聞き手の樋口が特に引用したのは次の二点である。
「少しの言葉で成り立つ俳句は技が恃みであり、取り立てて技と思わせない技こそ必要とする形式である」(『休むに似たり』)
「人の書いた言葉にそうだなあと思い、自分の書いた言葉にそれでいいの?ホントにそれでいいの?を繰り返している私」(『自句自解』)
川柳人である樋口由紀子が池田澄子に共振するところも、このあたりにあるのだろう。
ここで、『現代川柳の精鋭たち』の書評に話を戻すと、池田は「豈」34号で次のように書いていた。
「私の俳句は川柳に近いところもあると思われているかもしれず、自分でもそんな感じがしないでもないのだけれど、ほんの少しも、川柳を書こうと思ったことはない。俳句に近いと思われる川柳を書いている方々は、逆の意味で同じ思いを抱いておられるのだろう」
ここには実作者にとって微妙な意識が語られている。
そして、『現代川柳の精鋭たち』の読後感について、次のように書かれている。
「大雑把に言えば具象性の希薄さ。それとも、それが現代川柳の詩性とされているのだろうか。詩性の深さは、具象からの遠さに比例するか。見るからに異次元めかすことが、詩性であるか。イメージの飛躍は魅力だが、着地せずに飛んだままのナルシシズムは、空虚である」
池田澄子が当時と同じ考えであるかどうかはわからない。しかし、「言葉は作者の甘えや錯覚に冷淡である」という考えは変わっていないだろう。
大会にも参加していた正岡豊はツイッターで「かつては俳句を書くということは川柳を書かないということだった」という感覚について述べている。
いまはそのような感覚は崩れていて、俳句・川柳という峻厳な区別は若い表現者には意識されていない。俳句と川柳の違いを常に俳句側から突きつけられてきた川柳側の人間として、私はそんな感覚はなくなってよかったと思っている。ジャンル意識なしに、表現者として向き合える状況が一部の俳人・川柳人の間でようやく生まれてきたからだ。
実作者として俳句なり川柳を書いているときに、それぞれの表現者は確固とした手ごたえをもって作品を書いているだろう。しかし、「川柳とは何か」「俳句とは何か」と問い詰めると事態は曖昧になってくる。
池田澄子と樋口由紀子との対談には、実作者としての経験から遊離することのない確かさがあった。ひょっとしてこの対談が、川柳人が他ジャンルの表現者に対して身構えることも疑心暗鬼になることもなく真っ直ぐに向き合うための、その契機になるのではないか。両人の対談を聞きながらそんなことを考えた。
語りえないことというものはある。語りたくないこともまた存在する。この日の対談の詳細は、「川柳カード」創刊号(11月下旬発行)に掲載される。
本誌は昨年11月に終刊した「バックストローク」の後継誌と見られているようだが、新誌を立ち上げる以上、「バックストローク」とも少し異なった川柳活動を歩むのは当然である。そのひとつの志向が広く短詩型文学の世界に「川柳」を発信しようとすることで、今回の大会に俳人の池田澄子を招いて樋口由紀子が対談したのはその現れである。
樋口のエッセイ集『川柳×薔薇』(ふらんす堂)に池田澄子が帯文を書いている。樋口は「豈」の同人としての経歴が長く、池田とはごく親しい関係にある。「豈」51号(2011年2月)は「池田澄子のすべて」という特集を組んでいるが、樋口はそこに「池田澄子の固有性」という文章を書いている。この文章は「固有性と独自性―池田澄子小論」と改題されて『川柳×薔薇』にも収録されている。
一方、池田澄子の方は「川柳」をどう見ているのであろうか。
『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)が上梓されたときに、池田は「豈」34号(2001年11月)に書評を書いている。この書評については、後に触れる。
こういう両人の交流をふまえて、今回の対談が実現したことになる。ローマは一日にしてならず。
池田澄子はあちこちで対談しているが、記憶に新しいのは昨年の「ユリイカ」10月号に掲載された「たのしくさびしく青臭く」という対談で、聞き手は佐藤文香である。そこにはこんなやり取りがある。
佐藤 いま代表句を訊かれたら何と答えますか?
池田 代表句はやっぱり一番新しい句ということになってほしい。こないだ何かで代表句について書いてくれと言われて「一番新しい句集の最後のほうの句」って書きました(笑)。でもあなただって自分の代表句がどれかなんて気にしないでしょ?自分から言うなんて恥ずかしいよね。
佐藤 そうですね(笑)。
池田 毎回これが代表句って気持で書いてるもんね。
佐藤 そういう気持ちってすごく作家的だと思うんです。むしろ俳句を始めてすぐの人ほど、句会で褒められた特選の句を言ってまわりますよね(笑)。
池田は「俳句研究」で阿部完市の句を見て「あっ!」と思って俳句を始めたという。やがて三橋敏雄に師事することになる。このあたりの経緯を池田は繰り返し語っている。
今回の樋口との対談でも、話の順序として「じゃんけんで負けて蛍に生れたの」「ピーマン切って中を明るくしてあげた」の句が紹介されたが、この句ばかりを取り上げられると、確かに「ほかの句はダメなの?」と言いたくなるだろう。
「川柳カード」における対談は、池田をフォローしてきた者にとってはそれほど新鮮味はなかったかも知れないが、肝心なことは川柳人が池田の肉声を聞くことができたという点である。池田の話は終始実作から遊離することがなかったし、川柳人が共感をもって耳を傾けたのもその点であろう。
池田の俳句に向かう姿勢・言葉に対する姿勢として、聞き手の樋口が特に引用したのは次の二点である。
「少しの言葉で成り立つ俳句は技が恃みであり、取り立てて技と思わせない技こそ必要とする形式である」(『休むに似たり』)
「人の書いた言葉にそうだなあと思い、自分の書いた言葉にそれでいいの?ホントにそれでいいの?を繰り返している私」(『自句自解』)
川柳人である樋口由紀子が池田澄子に共振するところも、このあたりにあるのだろう。
ここで、『現代川柳の精鋭たち』の書評に話を戻すと、池田は「豈」34号で次のように書いていた。
「私の俳句は川柳に近いところもあると思われているかもしれず、自分でもそんな感じがしないでもないのだけれど、ほんの少しも、川柳を書こうと思ったことはない。俳句に近いと思われる川柳を書いている方々は、逆の意味で同じ思いを抱いておられるのだろう」
ここには実作者にとって微妙な意識が語られている。
そして、『現代川柳の精鋭たち』の読後感について、次のように書かれている。
「大雑把に言えば具象性の希薄さ。それとも、それが現代川柳の詩性とされているのだろうか。詩性の深さは、具象からの遠さに比例するか。見るからに異次元めかすことが、詩性であるか。イメージの飛躍は魅力だが、着地せずに飛んだままのナルシシズムは、空虚である」
池田澄子が当時と同じ考えであるかどうかはわからない。しかし、「言葉は作者の甘えや錯覚に冷淡である」という考えは変わっていないだろう。
大会にも参加していた正岡豊はツイッターで「かつては俳句を書くということは川柳を書かないということだった」という感覚について述べている。
いまはそのような感覚は崩れていて、俳句・川柳という峻厳な区別は若い表現者には意識されていない。俳句と川柳の違いを常に俳句側から突きつけられてきた川柳側の人間として、私はそんな感覚はなくなってよかったと思っている。ジャンル意識なしに、表現者として向き合える状況が一部の俳人・川柳人の間でようやく生まれてきたからだ。
実作者として俳句なり川柳を書いているときに、それぞれの表現者は確固とした手ごたえをもって作品を書いているだろう。しかし、「川柳とは何か」「俳句とは何か」と問い詰めると事態は曖昧になってくる。
池田澄子と樋口由紀子との対談には、実作者としての経験から遊離することのない確かさがあった。ひょっとしてこの対談が、川柳人が他ジャンルの表現者に対して身構えることも疑心暗鬼になることもなく真っ直ぐに向き合うための、その契機になるのではないか。両人の対談を聞きながらそんなことを考えた。
語りえないことというものはある。語りたくないこともまた存在する。この日の対談の詳細は、「川柳カード」創刊号(11月下旬発行)に掲載される。
2012年9月14日金曜日
同じ現実を見ているはずなのに川柳はなぜ遅れていくのだろう
短歌誌「井泉」47号が届いた。
永井祐歌集『日本の中でたのしく暮らす』の書評を彦坂美喜子が書いている。
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
永井祐と言えば真っ先に思い出す歌である。逆に言えば、私はこの歌以外に永井のことは何も知らない。永井の歌集名となったのは次の歌である。
日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる 永井祐
「日本の中でたのしく暮らす」というフレーズを私はイロニーと受け取ってしまう。たぶん多くの川柳人もそうだろう。「たのしいはずのない現実」と「たのしく暮らす」という言葉との落差が反語や皮肉を産みだすのだと…。けれども、彦坂は次のように述べる。
「道化、イロニー、ふざけている……歌集名からから想像するこのような感じは、歌集の作品を読む限りどこにも見当たらない。『日本の中でたのしく暮らす』という言葉そのままに、そこにはいっさい余計な思念は含まれていないことがわかる。むしろ、このストレートさは、外部がない彼らの現在そのものの象徴のようである」
うーむ、イロニーではなかったのか。そう思うと、この歌はおそろしい。「ぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる」も短歌的喩ではないのだろう。
「井泉」に連載の「ガールズ・ポエトリーの現在」で喜多昭夫は柴田千晶を取り上げている。柴田千晶といえば、藤原龍一郎とのコラボレーションで東電OLを詠んだ作品を真っ先に思い出すが、喜多は柴田千晶について次のように言う。
「柴田千晶の作品が好きだ。そこには紛れもなく『現代』が描かれているから。今、私たちが息を吸い込んでいる『時代』の空気感がありありと感じられるから。やはり文学は絵空事であってはならない。時代の痛みを表現しなければならないのだ」
冬帽の手配師蟹江敬三似 柴田千晶
風花の倉庫うつむくフィリピーナ
全人類を罵倒し赤き毛皮行く
田口麦彦は「川柳研究」に「誌上Twitter」というコーナーを連載している。今年の5月号のタイトルは「いま変わらずにいつ変わる」、6月号は「時代の感性を磨く」となっている。昭和28年に西日本を襲った大災害に遭遇したことがきっかけとなって、その体験を詠むことから川柳を始めた田口は、「いまこそ変革の時」と訴えている。
「人間生きているかぎり、立ち止まったままの停滞は許されない」「今でジョーシキと思っていることを勇気を持って見直すことから一歩がはじまる」(「川柳研究」5月号)
けれども、田口がいうような新しい川柳表現にはなかなかお目にかからない。同じ現実を見ているはずなのに、なぜ川柳は遅れてゆくのだろう。もちろん表層的な時事句は量産されているが、現実と川柳形式とが何かのヴェールによって隔てられているような気がする。
もう一度、「井泉」に戻ると、「リレー小論・短歌は生き残ることができるか」に山田航が「もっといろんな人に会いたい」という文章を書いている。ここでも永井祐の短歌が引用されている。
『とてつもない日本』を図書カードで買ってビニール袋とかいりません 永井祐
そして、山田はこんなふうに述べている。
「自分の思いを理解してくれる者だけで周囲を固めて世界を築こうとして、本当に他者を描いているなんていえるのだろうか」「短歌が生き残る手段があるとしたら、たとえ仮構であってもより広い社会層の人々の声を掬い上げて多面的な抒情を表現してゆくことが、大きな有効性を持っていると思う」
すぐれた表現者が現れない限り、批評は何もできないのだ。
永井祐歌集『日本の中でたのしく暮らす』の書評を彦坂美喜子が書いている。
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
永井祐と言えば真っ先に思い出す歌である。逆に言えば、私はこの歌以外に永井のことは何も知らない。永井の歌集名となったのは次の歌である。
日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる 永井祐
「日本の中でたのしく暮らす」というフレーズを私はイロニーと受け取ってしまう。たぶん多くの川柳人もそうだろう。「たのしいはずのない現実」と「たのしく暮らす」という言葉との落差が反語や皮肉を産みだすのだと…。けれども、彦坂は次のように述べる。
「道化、イロニー、ふざけている……歌集名からから想像するこのような感じは、歌集の作品を読む限りどこにも見当たらない。『日本の中でたのしく暮らす』という言葉そのままに、そこにはいっさい余計な思念は含まれていないことがわかる。むしろ、このストレートさは、外部がない彼らの現在そのものの象徴のようである」
うーむ、イロニーではなかったのか。そう思うと、この歌はおそろしい。「ぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる」も短歌的喩ではないのだろう。
「井泉」に連載の「ガールズ・ポエトリーの現在」で喜多昭夫は柴田千晶を取り上げている。柴田千晶といえば、藤原龍一郎とのコラボレーションで東電OLを詠んだ作品を真っ先に思い出すが、喜多は柴田千晶について次のように言う。
「柴田千晶の作品が好きだ。そこには紛れもなく『現代』が描かれているから。今、私たちが息を吸い込んでいる『時代』の空気感がありありと感じられるから。やはり文学は絵空事であってはならない。時代の痛みを表現しなければならないのだ」
冬帽の手配師蟹江敬三似 柴田千晶
風花の倉庫うつむくフィリピーナ
全人類を罵倒し赤き毛皮行く
田口麦彦は「川柳研究」に「誌上Twitter」というコーナーを連載している。今年の5月号のタイトルは「いま変わらずにいつ変わる」、6月号は「時代の感性を磨く」となっている。昭和28年に西日本を襲った大災害に遭遇したことがきっかけとなって、その体験を詠むことから川柳を始めた田口は、「いまこそ変革の時」と訴えている。
「人間生きているかぎり、立ち止まったままの停滞は許されない」「今でジョーシキと思っていることを勇気を持って見直すことから一歩がはじまる」(「川柳研究」5月号)
けれども、田口がいうような新しい川柳表現にはなかなかお目にかからない。同じ現実を見ているはずなのに、なぜ川柳は遅れてゆくのだろう。もちろん表層的な時事句は量産されているが、現実と川柳形式とが何かのヴェールによって隔てられているような気がする。
もう一度、「井泉」に戻ると、「リレー小論・短歌は生き残ることができるか」に山田航が「もっといろんな人に会いたい」という文章を書いている。ここでも永井祐の短歌が引用されている。
『とてつもない日本』を図書カードで買ってビニール袋とかいりません 永井祐
そして、山田はこんなふうに述べている。
「自分の思いを理解してくれる者だけで周囲を固めて世界を築こうとして、本当に他者を描いているなんていえるのだろうか」「短歌が生き残る手段があるとしたら、たとえ仮構であってもより広い社会層の人々の声を掬い上げて多面的な抒情を表現してゆくことが、大きな有効性を持っていると思う」
すぐれた表現者が現れない限り、批評は何もできないのだ。
2012年9月7日金曜日
きゅういちの10句を読む
俳誌「船団」に芳賀博子が連載している「今日の川柳」、今月発行の94号では湊圭史を取り上げている。湊はデイヴィッド・G・ラヌー著『ハイク・ガイ』(三和書籍)の翻訳者として知られるが、3年ほど前から川柳も作りはじめ、「ふらすこてん」「バックストローク」などに作品を発表している。評論の分野でも活躍し、『新撰21』『俳コレ』などのほか、ウェブマガジン「詩客」にも時々「俳句時評」を書いている。昨年の「バックストロークin名古屋」でパネラーをつとめたことは記憶に新しい。
芳賀は湊にインタビューした上で、彼の作品とあわせて「ふらすこてん」同人の作品も紹介しているが、こういう形で「ふらすこてん」が広く短詩型の世界に紹介されることは歓迎すべきことである。「ふらすこてん」の主宰者である筒井祥文は川柳の句会回りには熱心だが、川柳のワクを超えた表現の世界に対してアピールすることには必ずしも熱心とは言えないからである。
さて、「ふらすこてん」の同人に〈きゅういち〉という川柳人がいる。本名は宮本久だが、〈きゅういち〉の名で同誌を中心に川柳作品を発表している。「川柳木馬」130・131号の「前号句評」など他誌にも文章を発表しているから、ご存じの方も多いことだろう。仕事が忙しいようで、句会・大会にはあまり顔を見せることがない。川柳人はあちこちの句会を回ることによって名が知られてゆき、選者をつとめる経験を重ねることによって階梯を登ってゆく。きゅういちの場合は、そういう階梯を踏んでいないから、大多数の川柳人の作品とは無縁のところで川柳活動を続けている。句会回りにあまり熱心ではない私が言うのもおかしいが、そこにはある種の危険性を孕んでいないこともない。句会に染まらないことは独自の表現世界をもつことであるが、同時に「川柳」から遊離する諸刃の刃となるからだ。
私は今まで彼の作品を読むたびに、何か腑に落ちないものを感じていた。表現意図と言葉が釣り合っていないというか、何故このような作品を書くのだろうという感じがぬぐえなかったのである。ところが、「ふらすこてん」23号(9月1日発行)のきゅういち作品を読むと、テーマと言葉が拮抗していて充実した作品世界を切り開いている。筒井祥文が巻頭作品においているのも頷けるのである。
今回は、きゅういちの10句を私なりに読んでみたい。
慎みの梨のほとりへ嫁ぎます
嫁いでゆく女性の口調で語られている。けれども、「慎みの梨のほとり」へ嫁ぐのだという。慎ましい女性が慎ましく嫁いでゆくとも読めるが、慎ましくない女性が心を入れ替えることにしたと読んだ方がよさそうだ。
「梨」の別名を「ありの実」という。「無し」という音を忌んでのことである。「慎みの梨」というようなものが実体として存在すれば、それはそれでおもしろいだろうが、一句は「慎みがない」という言葉から発想されている。
そうすると、この女性は心を入れかえて慎み深くなったのでは更々なく、慎みの無い態度を貫いていることになる。
ともあれ一人の女性が嫁いでゆく。次に起こるのは出産という事態である。
黄を帯びた刃先産み付けられてをり
「黄を帯びた刃先」を産むのだという。
昆虫が葉に卵を産み付けるように、人の肉体が無機的な刃物を産む。刃物を産んだとき生身の体は傷つくだろう。それはひとつの受苦であると同時に、産み付けられたものが他者を攻撃するために用いられてゆく。
《子宮内砂漠》に月の満ち行くや
砂漠の月というイメージがある。あるいは「月の砂漠」という歌がある。
子宮の内部風景を見たことはないが、それは砂漠のようなものかも知れない。そこに月が出ている。けれども、「月が満ちる」という言葉は出産の場面でもよく使われる。そうすると、この月は偽物の月なのだ。
月が満ちて出産のときが近づいてゆく。
代理母に白湯を注げば午後のキオスク
出産するのは代理母かもしれない。
カップラーメンにお湯を注ぐと食品が出来上がるように、代理母の子宮を借りて子どもが製造される。人間的な行為と即物的な行為が重ねあわされている。
今回のきゅういちの作品は、常にダブル・イメージによって作られている。二つの文脈が一つの句に圧縮されているのだ。
キオスクでカップ麺にお湯を注いでいる人がいる。お湯がぬるくて食べにくいことも多々ある。
頬杖に舫う脱法物の義母
代理母の次は脱法ハーブ。母という存在も脱法ハーブのようなものか。
「舫う(もやう)」だから船をつなぐのだろう。つなぐこととそれを拒むものがせめぎ合っている感じがする。
母子手帳醤油の樽に狂れる月
「狂れる」は「狂える」の誤植なのか、それとも「おぼれる」と読ませるのか。
「母子手帖」で切れるのだろうが、母子手帳が醤油に濡れているイメージも浮かぶ。平穏な世界にズレや違和が生じている。
遠雷や全ては奇より孵化をした
「孵化」は昆虫や鳥の場合に使う。ヒトが生まれるにしても、鳥獣虫魚と同じ相で眺められている。
「奇」は「奇跡」か「奇矯」か「奇人」か。マイナス・イメージとばかりは言い切れない。この「奇」に積極的な意味を込めたとすれば、この句が10句全体を支える役割を果たしている。
生まれなさい外に気球が待ってます
生まれたものは母の胸に抱かれるのだろうか。いや、そうではなくて気球に乗ってさらに遠くの場所に連れていかれるのである。
気球に乗ってこの世に生まれてくるとも読めるが、私はその読みは取らなかった。
臨月のキャベツ担いで走る婆
臨月のキャベツを担いで走るのは産婆であろうか。
ここにも妊婦とキャベツとを等質に見る目がはたらいている。
発注と違う嬰児よ安らかに
この句について筒井祥文は「『安らかに』眠れという。が、それは生きてのことか殺されてのことか。ここいらが川柳である。『発注と違う』は既にモノ扱いである」と選評を書いている。
発注したモノが届くように、ヒトは生まれてくる。時には発注したモノとは異なる製品が届くこともある。
「誕生」という命を産みだす事態をきゅういちは冷徹に描ききっている。それは過酷なこの世界を反語的に問い直すことでもある。川柳人の根底にある世界との違和をきゅういちは表現しきったのである。
遠雷や全ては奇より孵化をした きゅういち
芳賀は湊にインタビューした上で、彼の作品とあわせて「ふらすこてん」同人の作品も紹介しているが、こういう形で「ふらすこてん」が広く短詩型の世界に紹介されることは歓迎すべきことである。「ふらすこてん」の主宰者である筒井祥文は川柳の句会回りには熱心だが、川柳のワクを超えた表現の世界に対してアピールすることには必ずしも熱心とは言えないからである。
さて、「ふらすこてん」の同人に〈きゅういち〉という川柳人がいる。本名は宮本久だが、〈きゅういち〉の名で同誌を中心に川柳作品を発表している。「川柳木馬」130・131号の「前号句評」など他誌にも文章を発表しているから、ご存じの方も多いことだろう。仕事が忙しいようで、句会・大会にはあまり顔を見せることがない。川柳人はあちこちの句会を回ることによって名が知られてゆき、選者をつとめる経験を重ねることによって階梯を登ってゆく。きゅういちの場合は、そういう階梯を踏んでいないから、大多数の川柳人の作品とは無縁のところで川柳活動を続けている。句会回りにあまり熱心ではない私が言うのもおかしいが、そこにはある種の危険性を孕んでいないこともない。句会に染まらないことは独自の表現世界をもつことであるが、同時に「川柳」から遊離する諸刃の刃となるからだ。
私は今まで彼の作品を読むたびに、何か腑に落ちないものを感じていた。表現意図と言葉が釣り合っていないというか、何故このような作品を書くのだろうという感じがぬぐえなかったのである。ところが、「ふらすこてん」23号(9月1日発行)のきゅういち作品を読むと、テーマと言葉が拮抗していて充実した作品世界を切り開いている。筒井祥文が巻頭作品においているのも頷けるのである。
今回は、きゅういちの10句を私なりに読んでみたい。
慎みの梨のほとりへ嫁ぎます
嫁いでゆく女性の口調で語られている。けれども、「慎みの梨のほとり」へ嫁ぐのだという。慎ましい女性が慎ましく嫁いでゆくとも読めるが、慎ましくない女性が心を入れ替えることにしたと読んだ方がよさそうだ。
「梨」の別名を「ありの実」という。「無し」という音を忌んでのことである。「慎みの梨」というようなものが実体として存在すれば、それはそれでおもしろいだろうが、一句は「慎みがない」という言葉から発想されている。
そうすると、この女性は心を入れかえて慎み深くなったのでは更々なく、慎みの無い態度を貫いていることになる。
ともあれ一人の女性が嫁いでゆく。次に起こるのは出産という事態である。
黄を帯びた刃先産み付けられてをり
「黄を帯びた刃先」を産むのだという。
昆虫が葉に卵を産み付けるように、人の肉体が無機的な刃物を産む。刃物を産んだとき生身の体は傷つくだろう。それはひとつの受苦であると同時に、産み付けられたものが他者を攻撃するために用いられてゆく。
《子宮内砂漠》に月の満ち行くや
砂漠の月というイメージがある。あるいは「月の砂漠」という歌がある。
子宮の内部風景を見たことはないが、それは砂漠のようなものかも知れない。そこに月が出ている。けれども、「月が満ちる」という言葉は出産の場面でもよく使われる。そうすると、この月は偽物の月なのだ。
月が満ちて出産のときが近づいてゆく。
代理母に白湯を注げば午後のキオスク
出産するのは代理母かもしれない。
カップラーメンにお湯を注ぐと食品が出来上がるように、代理母の子宮を借りて子どもが製造される。人間的な行為と即物的な行為が重ねあわされている。
今回のきゅういちの作品は、常にダブル・イメージによって作られている。二つの文脈が一つの句に圧縮されているのだ。
キオスクでカップ麺にお湯を注いでいる人がいる。お湯がぬるくて食べにくいことも多々ある。
頬杖に舫う脱法物の義母
代理母の次は脱法ハーブ。母という存在も脱法ハーブのようなものか。
「舫う(もやう)」だから船をつなぐのだろう。つなぐこととそれを拒むものがせめぎ合っている感じがする。
母子手帳醤油の樽に狂れる月
「狂れる」は「狂える」の誤植なのか、それとも「おぼれる」と読ませるのか。
「母子手帖」で切れるのだろうが、母子手帳が醤油に濡れているイメージも浮かぶ。平穏な世界にズレや違和が生じている。
遠雷や全ては奇より孵化をした
「孵化」は昆虫や鳥の場合に使う。ヒトが生まれるにしても、鳥獣虫魚と同じ相で眺められている。
「奇」は「奇跡」か「奇矯」か「奇人」か。マイナス・イメージとばかりは言い切れない。この「奇」に積極的な意味を込めたとすれば、この句が10句全体を支える役割を果たしている。
生まれなさい外に気球が待ってます
生まれたものは母の胸に抱かれるのだろうか。いや、そうではなくて気球に乗ってさらに遠くの場所に連れていかれるのである。
気球に乗ってこの世に生まれてくるとも読めるが、私はその読みは取らなかった。
臨月のキャベツ担いで走る婆
臨月のキャベツを担いで走るのは産婆であろうか。
ここにも妊婦とキャベツとを等質に見る目がはたらいている。
発注と違う嬰児よ安らかに
この句について筒井祥文は「『安らかに』眠れという。が、それは生きてのことか殺されてのことか。ここいらが川柳である。『発注と違う』は既にモノ扱いである」と選評を書いている。
発注したモノが届くように、ヒトは生まれてくる。時には発注したモノとは異なる製品が届くこともある。
「誕生」という命を産みだす事態をきゅういちは冷徹に描ききっている。それは過酷なこの世界を反語的に問い直すことでもある。川柳人の根底にある世界との違和をきゅういちは表現しきったのである。
遠雷や全ては奇より孵化をした きゅういち