今週も「詩客」の話題になるが、「戦後俳句を読む」(5月18日)のコーナーで清水かおりが渡部可奈子の「水俣図」を取り上げている。清水の文章が「詩客」に掲載されるのは久しぶりのことであるし、その対象が渡部可奈子だというのも嬉しいことである。「水俣図」は10句の連作である。
弱肉のおぼえ魚の目まばたかぬ 渡部可奈子
抱かれて子は水銀の冷え一塊
夜な夜なうたい汚染の喉のかならず炎え
覚めて寝て鱗にそだつ流民の紋
つぎわけるコップの悲鳴 父が先
ぬめるは碗か あらぬいのちか夜を転がる
手から手へ屍はまみれゆくとしても
やわらかき骨享く いまし苦海の子
天までの月日の価 襤褸で払う
裸者のけむり低かれ 不知火よ低かれ
冒頭の句について、清水は次のように評している。
〈 掲出句、当時の社会的弱者を「弱肉のおぼえ」とした表現力に目を瞠るものがある。「おぼえ」という句語によってその裡なる無念が言いつくされている。まばたきをしない魚の目は水銀に侵され身体の自由を奪われた中毒患者のそれのように私たちには見える。公害病認定がされてからテレビで放映された水俣病患者のドキュメンタリー映像は衝撃的なものであった。句を読む度にそれが甦ってくるのは可奈子の高度な文学的描写によるものだろう。「水俣図」は可奈子が川柳ジャーナル時代に発表され、1974年に第3回春三賞になっている。一句一句にかけられた時間が伝わってくる句群である。 〉
そして最後に次のように指摘している。
〈 渡部可奈子の群作では「飢餓装束」が特に印象深く評価も高い。「飢餓装束」が内面昇華へ向かう厳しさを湛えた句群であるのに対して、「水俣図」は時事と向き合う川柳の表現の幅、深さを考えさせる。詩性川柳と呼ばれる句が社会や事象とかけ離れたものであるという川柳人の安易な認識を改めさせる作品と言えるだろう。 〉
渡部可奈子については清水の書いていることに尽きているのだが、「水俣図」が第三回春三賞を受賞していることに関して、手元にある「川柳ジャーナル」(1974年4月)から少し補足しておきたい。
まず主な選評を引用してみると、
「このところ執拗に水俣を歌いつづける可奈子の、意識の熱さを、ぼくはなおざりには思わない」「水俣のあの強烈なイメージに寄り掛り、それに支えられてはいないか、という弱点と危惧は拭えないにしても、また技巧的には不満の句が何句かあったにしても、積極的に捨てるべしと思う句はなかった。その現実から摘出すべき点を摘出して、可奈子は自分の作品にしている。一篇のエレジーとして美しく歌いあげなかった点を、むしろ評価したい」(松本芳味)
「社会性の句とは社会事象を詠むということでなく、その対象を自らに引きつけ、自らも傷つくということで作者のものとなる。作者が一々、その当事者になれる筈もないが、尚且つ、自己の対象への感動と剔抉が当事者のものとなり得ることを可奈子作品は示している」(河野春三)
「至難な社会的題材にたち向かって成功していることに、従来の彼女の作品傾向から考えても並々ならない努力が感じとれるが、単に努力だけでは達し得られない才能の豊かさが今後の展開を予約している」(山村祐)
など、おおむね好意的に評価されている。ただ、中村冨二だけが、「『弱肉』を推す。可奈子はボクの苦手で上手だが、その次点で終ってボクに届かない。おそらくボクが詩人の資格に欠けているのだと、頭を叩く」と距離を保った評をしているのが逆に印象に残る。
これらの評からうかがえることは、次の点である。
①「水俣」のような社会性テーマはそれまでの可奈子の作品傾向とは異質であること。
②にもかかわらずこのテーマに立ち向かった作者の姿勢が評価されていること。
③社会性とは対象を主体的に引き受け、その痛みを通じて内面化すべきものであること。
④しかも作品として成功しているのは作者の才能と言葉の力によること。
これらはほぼ妥当な考えとも思えるが、現時点からふりかえってみると、微妙な問題を含んでいるように思われる。③のような立場に立つと社会性と私性が同じものになってしまうからだ。というより、この時代に求められていたのは「社会性」と「私性」との統一という理念だったように思われる。社会性は主体によって血肉化されることによって表現として自律するというテーゼである。
春三賞受賞から10年以上過ぎた1986年に、細川不凍は「感銘深いことで忘れられないのは、『ジャーナル』昭和49年の『春三賞』を受賞した『水俣図』である」と述べたあと、可奈子について次のように書いている。(「川柳木馬」30号)
「可奈子には珍しい社会性濃厚の作品である。水俣を題材にした川柳作品で、この『水俣図』に比肩しうるものを僕は知らない。水俣病という暗澹たる社会的現実を、詩的現実にまで昂めて、川柳作品に定着させた手腕は、見事というほかはない。また、この『水俣図』には、彼女独自の美意識が働いていて、表現が美しい。美しいが故に哀切感窮まるのであり、大きな感動を喚ぶのである。批評(批判)精神を内包した抒情句といえる」
先に引用した松本芳味の受け取り方とは異なり、細川不凍は社会性と詩性の統一として評価している。さらに、不凍は次のように言う。
「他者の痛みに接近し、それを理解するには、自らの痛みを通してこそ可能となるものだ。水俣の痛みを、可奈子は自分の痛みとして、深く感じ取ったのだ。だからこそ書き得た『水俣図』十句なのである。彼女には、自分の痛みばかりでなく、他者の痛みをも受容し共有できる心的土壌が備わっているのだ」
このあたりが不凍による可奈子評価のポイントだろう。他者の痛みを受容する、受苦の思想である。
以上、渡部可奈子の「水俣図」について、川柳人たちのさまざまな評を引用してきた。どの評が正しく、どの評が誤っているということではない。「水俣図」評価の中にそれぞれの川柳人の川柳観がくっきりと立ち上がる。昔話をしているわけではないのだ。
2012年5月25日金曜日
2012年5月18日金曜日
問答体の相対化とは何か
はじめに「MANO」17号の反響について、いくつかのことを書きとめておきたい。
「詩客」の「俳句時評50回」(5月4日)に湊圭史が拙論「筒井祥文における虚と実」にふれて、次のように書いている。
「川柳にしろ、落語にしろ、説明ができるかどうかは別として、読み終え(話し終え)たところで、すとんと落ちるかどうかが重要である。さらに言えば、すとんと落ちて、しかも説明しようとするとその面白さが逃げてゆくようなものが上質なのだ。こうした句を紹介しようというのは、評者にとってはじつに厄介である」
その上で、湊は「弁当を砂漠にとりに行ったまま(筒井祥文)」についての小池の読みを引用したあと、次のように述べている。
「こうした一種の解題はじっさいの読みで起こる過程の引き延ばしでしかない。『弁当を~』の句が分かる読み手には、一読ですとんと、小池が丁寧になぞっている心的過程が過ぎて、やられたな、とニヤっと笑みが浮かぶはずだ。また、その読みとられの『速さ』こそが魅力の一端、いや大きな部分を占めているのだ。(もちろん、小池はそれを分かったうえで、あえてスローモーションで過程を見せている。)」
湊の言うように、川柳作品の読みの過程において、了解は一瞬の出来事である。同じことは選の過程についても言える。選者は一瞬で句を理解する。あるいは採る・採らないという理解(判断)をする。その過程をスローモーションのように解読してみせることが、果たして読みの作業に価するかどうか。とはいえ、「選は批評なり」と以心伝心の腹芸ですませるわけにもいかず、何らかの言語化は必要となる。このあたりがジレンマである。
湊の文章を受けて、山田耕司は次の週の「詩客」・「俳句時評51回」(5月11日)で「MANO」を取り上げている。
「川柳とは、さて、どのようなものなのかを説明しようにも、それはなかなかムズカシイ。いや、俳句とはなにか、ということだって語りきれない。実のところ、短詩型ということのシバリを踏まえた上で、さて、ソコから先をどう分別したものか、それはやっかいなことなのである。
やっかいなこととどう向かい合うか。
A やっかいだから、かかわらないでおく
B やっかいだけど、白黒つけなくちゃならないので、境界線にこだわる
C やっかいだなぁといって面白がる 」
その上で、山田は次のように述べる。
「ひとつの境域と別の境域とのかかわりあいの場においては、私たちの批評はその性質を露見させがちであるように思われるのであり、奇しくも『俳句時評』における湊さんの川柳評に、メカニックとオーガニックがほどよく融合している視線を感じるところがあり、それでことさら面白く拝読したのであった。」
やっかいだなぁといって面白がる人々が徐々に増えてきているのは心強い。
さて、川柳誌「ふらすこてん」21号の「一刀凌談」のコーナーで、石田柊馬は川柳の「一章に問答」について触れている。「一章に問答」とは、呉陵軒可有の川柳観として有名で、石田も引用している『川柳総合大事典(用語編)』の「問答の構造」に次のようにある。
「『一章に問答』は、附句独立の基本理念であり、構造としての川柳性そのものを指している。一章の中に、問と答というかたちで二つの概念を対立させ、その矛盾、葛藤にアイロニーを求めようとするもので、取合せ、配合と同義。また現代的な二物衝撃やモンタージュのもとをなす原理念として受け継がれている」
この「問答構造」について、石田は次のように言う。
「さては一ところに川柳人を止める制度であったかと、頷いたり反発したりするのだが、それが好きだったのだろうとの自問に、その通りでありましたと認めるよりない。句会のシステムなど問答体そのものだが、川柳の近代化の過程で、『問い』に一句の主意、『私の思い』が置かれると、他の文芸との差異が不透明、拘らなくてもなどと、自らの中途半端さが浮上する。さらに、問答体が、象徴性、象徴語を重用する文芸に仕向けていたかと、反芻に及ぶ」
石田柊馬一流の屈折に満ちた文章であるが、私なりに言葉を置き換えてみると、
①問答体は川柳が一句独立したときの基本だが、規範として作用すると反発を感じる。
②しかし、川柳人はけっこう問答体が好きである。
③題をテーマとして作句するという句会のシステムは問答体そのものである。
④問答構造の「問い」に「私の思い」を置き、「私の思い」が作品の意味性であるとすると、他ジャンル(たとえば「短歌」)との差異が不明確になり、「川柳が川柳であるところの川柳性」が曖昧になっていく。
というようなことになるだろうか。
この問答体からの逸脱・展開として、石田は湊圭史の作品を取り上げている。
虹をあおぐ前頭葉に残る足あと 湊圭史
滑舌のわるさ遮断機が降りるまで
頂点のあたりで赤んぼうが叫ぶ
倉庫のなか麦ひとつぶずつの影
「虹をあおぐ」の句について、読み解きたい誘惑も感じるが、湊は嫌がるだろう。石田は「発想の散文性が残っていると読むか、問答体の生煮えと見るか、意図的なものであれば、一句の構造とか問答体を揺さぶっているのかと思われる」と評している。また「問答体の途中で作句を止めた感」とも。
石田は最後に「問答体の相対化」という言葉を使っている。
問答体は「問」→「答」(解答付の問題集)というような単純なものではない。問答構造を基本として、さまざまなヴァリエーションが可能である。答えを出さずに途中で止めておく(読みを読者にあずける)やり方もある。多様な書き方は問答構造を揺さぶり、超克することによって表現の新たな地平を切り開いてゆくことができる。石田柊馬の批評はそういう射程距離をもっている。
訃報。5月16日、加藤郁乎が亡くなった。83歳。
「詩客」の「俳句時評50回」(5月4日)に湊圭史が拙論「筒井祥文における虚と実」にふれて、次のように書いている。
「川柳にしろ、落語にしろ、説明ができるかどうかは別として、読み終え(話し終え)たところで、すとんと落ちるかどうかが重要である。さらに言えば、すとんと落ちて、しかも説明しようとするとその面白さが逃げてゆくようなものが上質なのだ。こうした句を紹介しようというのは、評者にとってはじつに厄介である」
その上で、湊は「弁当を砂漠にとりに行ったまま(筒井祥文)」についての小池の読みを引用したあと、次のように述べている。
「こうした一種の解題はじっさいの読みで起こる過程の引き延ばしでしかない。『弁当を~』の句が分かる読み手には、一読ですとんと、小池が丁寧になぞっている心的過程が過ぎて、やられたな、とニヤっと笑みが浮かぶはずだ。また、その読みとられの『速さ』こそが魅力の一端、いや大きな部分を占めているのだ。(もちろん、小池はそれを分かったうえで、あえてスローモーションで過程を見せている。)」
湊の言うように、川柳作品の読みの過程において、了解は一瞬の出来事である。同じことは選の過程についても言える。選者は一瞬で句を理解する。あるいは採る・採らないという理解(判断)をする。その過程をスローモーションのように解読してみせることが、果たして読みの作業に価するかどうか。とはいえ、「選は批評なり」と以心伝心の腹芸ですませるわけにもいかず、何らかの言語化は必要となる。このあたりがジレンマである。
湊の文章を受けて、山田耕司は次の週の「詩客」・「俳句時評51回」(5月11日)で「MANO」を取り上げている。
「川柳とは、さて、どのようなものなのかを説明しようにも、それはなかなかムズカシイ。いや、俳句とはなにか、ということだって語りきれない。実のところ、短詩型ということのシバリを踏まえた上で、さて、ソコから先をどう分別したものか、それはやっかいなことなのである。
やっかいなこととどう向かい合うか。
A やっかいだから、かかわらないでおく
B やっかいだけど、白黒つけなくちゃならないので、境界線にこだわる
C やっかいだなぁといって面白がる 」
その上で、山田は次のように述べる。
「ひとつの境域と別の境域とのかかわりあいの場においては、私たちの批評はその性質を露見させがちであるように思われるのであり、奇しくも『俳句時評』における湊さんの川柳評に、メカニックとオーガニックがほどよく融合している視線を感じるところがあり、それでことさら面白く拝読したのであった。」
やっかいだなぁといって面白がる人々が徐々に増えてきているのは心強い。
さて、川柳誌「ふらすこてん」21号の「一刀凌談」のコーナーで、石田柊馬は川柳の「一章に問答」について触れている。「一章に問答」とは、呉陵軒可有の川柳観として有名で、石田も引用している『川柳総合大事典(用語編)』の「問答の構造」に次のようにある。
「『一章に問答』は、附句独立の基本理念であり、構造としての川柳性そのものを指している。一章の中に、問と答というかたちで二つの概念を対立させ、その矛盾、葛藤にアイロニーを求めようとするもので、取合せ、配合と同義。また現代的な二物衝撃やモンタージュのもとをなす原理念として受け継がれている」
この「問答構造」について、石田は次のように言う。
「さては一ところに川柳人を止める制度であったかと、頷いたり反発したりするのだが、それが好きだったのだろうとの自問に、その通りでありましたと認めるよりない。句会のシステムなど問答体そのものだが、川柳の近代化の過程で、『問い』に一句の主意、『私の思い』が置かれると、他の文芸との差異が不透明、拘らなくてもなどと、自らの中途半端さが浮上する。さらに、問答体が、象徴性、象徴語を重用する文芸に仕向けていたかと、反芻に及ぶ」
石田柊馬一流の屈折に満ちた文章であるが、私なりに言葉を置き換えてみると、
①問答体は川柳が一句独立したときの基本だが、規範として作用すると反発を感じる。
②しかし、川柳人はけっこう問答体が好きである。
③題をテーマとして作句するという句会のシステムは問答体そのものである。
④問答構造の「問い」に「私の思い」を置き、「私の思い」が作品の意味性であるとすると、他ジャンル(たとえば「短歌」)との差異が不明確になり、「川柳が川柳であるところの川柳性」が曖昧になっていく。
というようなことになるだろうか。
この問答体からの逸脱・展開として、石田は湊圭史の作品を取り上げている。
虹をあおぐ前頭葉に残る足あと 湊圭史
滑舌のわるさ遮断機が降りるまで
頂点のあたりで赤んぼうが叫ぶ
倉庫のなか麦ひとつぶずつの影
「虹をあおぐ」の句について、読み解きたい誘惑も感じるが、湊は嫌がるだろう。石田は「発想の散文性が残っていると読むか、問答体の生煮えと見るか、意図的なものであれば、一句の構造とか問答体を揺さぶっているのかと思われる」と評している。また「問答体の途中で作句を止めた感」とも。
石田は最後に「問答体の相対化」という言葉を使っている。
問答体は「問」→「答」(解答付の問題集)というような単純なものではない。問答構造を基本として、さまざまなヴァリエーションが可能である。答えを出さずに途中で止めておく(読みを読者にあずける)やり方もある。多様な書き方は問答構造を揺さぶり、超克することによって表現の新たな地平を切り開いてゆくことができる。石田柊馬の批評はそういう射程距離をもっている。
訃報。5月16日、加藤郁乎が亡くなった。83歳。
2012年5月11日金曜日
慶紀逸没後250年
北海道の俳句界に新しい動きがある。
5月12日(土)に五十嵐秀彦を中心とした俳句集団「itak」の旗揚げイベントが札幌で開催される。第1部シンポジウムのテーマは「あえて今、花鳥風月を考える」、パネラーは五十嵐のほかに平倫子(英文学者)、山田航(歌人)。第2部は句会。「itak」(イタック)とはアイヌ語で「言葉」という意味らしい。
五十嵐は「週刊俳句」(5月4日)に「俳句集団【itak】前夜」を書いている。彼は昨年の8月から「北海道新聞」の道内文学(俳句)時評を担当していて、次のような感想をもったということだ。
「この執筆が決まって以来、毎月文化部からたくさんの道内俳誌が送られてくる。それに目を通すようになって、困惑が深くなっていった。
そこには、俳句が並んでいる。
どれも立派な作品だと思う。けなすつもりはないし、かえって敬意を表したいほどだ。
だが、…止まっている。
十年、二十年、ひょっとしてもっと…。
時間が停止しているように思えてならないのだ。
評論の類いは一切といってもいいほど見当たらない。
ただただ俳句が並んでいるだけだ。
そして、主宰のエッセイ。短い仲間内の作品鑑賞。ほかになにがある?
なにもない」
五十嵐の困惑はとてもよく実感できる。
作品と作品鑑賞。閉ざされた内向きの世界である。他者の眼からの作品評価や批評がないということ。それは川柳の世界でもよく見られることである。
現状に対する不平不満は誰でも口にする。けれども、五十嵐のすごいところは次のように行動をおこそうとしたことだ。
「うすうす気づいてはいたが、これまであえて道外の動向だけ見るようにしてきたので、この現実はあらためてぼくを憂鬱な気分にさせた。
しかし、距離をおいて、評論家然として批判しているのでいいのか。
いいはずがない。
俳句評論を書きながらも、ぼくも実作者であるのだから、やるべきことをなにか考えなくてはならない。
答えはおのずと見えているように思えた」
他人が何かしてくれるのを待っているのではなくて、自分でできることから行動する。こういう姿勢に私はとても共感する。
明日の集りがどのようなものになるのか、ジャンルも地域も違うし、実際に参加するわけでもないけれど、遠くから注目している。
さて、川柳の世界では今年「慶紀逸没後250年」に当っている。
慶紀逸(1695年-1762年)。本名は椎名件人。江戸の御用鋳物師の家に生まれたが、俳諧の道に入り、江戸座の不角に学んだ。『武玉川』を刊行したことで知られている。
先日の5月8日に「慶紀逸250年記念講演句会」が開催された。東京台東区谷中の龍泉寺で法要があり、谷中コミュニティーセンターで講演句会があったらしい。記念講話「俳諧史から見た紀逸」(加藤定彦)「川柳と慶紀逸」(尾藤三柳)と句会。
「川柳さくらぎ」21号に尾藤一泉が「慶紀逸250年」を書いている。
「慶紀逸は、元禄8(1695)年生れ。江戸中期の俳諧師として宝暦期に『宗匠の随一』とまでいわれた人だが、俳文学書の中では、元禄俳諧(芭蕉などの世代)と中興俳諧(蕪村などの世代)の狭間で、ともすると暗黒時代のように記されていることがある。しかし、この時代にも魅力ある表現世界はあり、格調高い発句ばかりでなく、人情味溢れる平句の世界を示した『武玉川』などは、特筆に価するものと思う」
椎名家は幕府おかかえの鋳物師で、紀逸の鋳物師としての名は「椎名土佐」というらしいが、その作品は残っていない。関口芭蕉庵の正門を入ったところには紀逸の「夜寒の碑」がある。
二夜鳴きひと夜はさむしきりぎりす 四時庵紀逸
宝暦12年5月に68歳で没し、谷中の龍泉寺に葬られた。過去帳が現存するということだ。
『武玉川』を愛読する人は多く、このブログでも紹介したことがある。
神田忙人は『「武玉川」を読む』(朝日選書)で次のように書いている。
「『武玉川』はうつくしい詩情を後世のわれわれに残したまま跡を絶ち、『柳多留』はある意味では詩に抵抗して散文性をとりいれつつ川柳という特殊な型の小型文芸を確立して今に伝えることを可能にした」
『武玉川』と『柳多留』のあいだに川柳の可能性がある。
その幅の中で少し『武玉川』寄りの位置で作句できればいいなと思ったりする。
最後に訃報。片柳哲郎、4月28日没、86歳。
川柳人の死はあまり情報が入らないが、一時代を作った人である。
5月12日(土)に五十嵐秀彦を中心とした俳句集団「itak」の旗揚げイベントが札幌で開催される。第1部シンポジウムのテーマは「あえて今、花鳥風月を考える」、パネラーは五十嵐のほかに平倫子(英文学者)、山田航(歌人)。第2部は句会。「itak」(イタック)とはアイヌ語で「言葉」という意味らしい。
五十嵐は「週刊俳句」(5月4日)に「俳句集団【itak】前夜」を書いている。彼は昨年の8月から「北海道新聞」の道内文学(俳句)時評を担当していて、次のような感想をもったということだ。
「この執筆が決まって以来、毎月文化部からたくさんの道内俳誌が送られてくる。それに目を通すようになって、困惑が深くなっていった。
そこには、俳句が並んでいる。
どれも立派な作品だと思う。けなすつもりはないし、かえって敬意を表したいほどだ。
だが、…止まっている。
十年、二十年、ひょっとしてもっと…。
時間が停止しているように思えてならないのだ。
評論の類いは一切といってもいいほど見当たらない。
ただただ俳句が並んでいるだけだ。
そして、主宰のエッセイ。短い仲間内の作品鑑賞。ほかになにがある?
なにもない」
五十嵐の困惑はとてもよく実感できる。
作品と作品鑑賞。閉ざされた内向きの世界である。他者の眼からの作品評価や批評がないということ。それは川柳の世界でもよく見られることである。
現状に対する不平不満は誰でも口にする。けれども、五十嵐のすごいところは次のように行動をおこそうとしたことだ。
「うすうす気づいてはいたが、これまであえて道外の動向だけ見るようにしてきたので、この現実はあらためてぼくを憂鬱な気分にさせた。
しかし、距離をおいて、評論家然として批判しているのでいいのか。
いいはずがない。
俳句評論を書きながらも、ぼくも実作者であるのだから、やるべきことをなにか考えなくてはならない。
答えはおのずと見えているように思えた」
他人が何かしてくれるのを待っているのではなくて、自分でできることから行動する。こういう姿勢に私はとても共感する。
明日の集りがどのようなものになるのか、ジャンルも地域も違うし、実際に参加するわけでもないけれど、遠くから注目している。
さて、川柳の世界では今年「慶紀逸没後250年」に当っている。
慶紀逸(1695年-1762年)。本名は椎名件人。江戸の御用鋳物師の家に生まれたが、俳諧の道に入り、江戸座の不角に学んだ。『武玉川』を刊行したことで知られている。
先日の5月8日に「慶紀逸250年記念講演句会」が開催された。東京台東区谷中の龍泉寺で法要があり、谷中コミュニティーセンターで講演句会があったらしい。記念講話「俳諧史から見た紀逸」(加藤定彦)「川柳と慶紀逸」(尾藤三柳)と句会。
「川柳さくらぎ」21号に尾藤一泉が「慶紀逸250年」を書いている。
「慶紀逸は、元禄8(1695)年生れ。江戸中期の俳諧師として宝暦期に『宗匠の随一』とまでいわれた人だが、俳文学書の中では、元禄俳諧(芭蕉などの世代)と中興俳諧(蕪村などの世代)の狭間で、ともすると暗黒時代のように記されていることがある。しかし、この時代にも魅力ある表現世界はあり、格調高い発句ばかりでなく、人情味溢れる平句の世界を示した『武玉川』などは、特筆に価するものと思う」
椎名家は幕府おかかえの鋳物師で、紀逸の鋳物師としての名は「椎名土佐」というらしいが、その作品は残っていない。関口芭蕉庵の正門を入ったところには紀逸の「夜寒の碑」がある。
二夜鳴きひと夜はさむしきりぎりす 四時庵紀逸
宝暦12年5月に68歳で没し、谷中の龍泉寺に葬られた。過去帳が現存するということだ。
『武玉川』を愛読する人は多く、このブログでも紹介したことがある。
神田忙人は『「武玉川」を読む』(朝日選書)で次のように書いている。
「『武玉川』はうつくしい詩情を後世のわれわれに残したまま跡を絶ち、『柳多留』はある意味では詩に抵抗して散文性をとりいれつつ川柳という特殊な型の小型文芸を確立して今に伝えることを可能にした」
『武玉川』と『柳多留』のあいだに川柳の可能性がある。
その幅の中で少し『武玉川』寄りの位置で作句できればいいなと思ったりする。
最後に訃報。片柳哲郎、4月28日没、86歳。
川柳人の死はあまり情報が入らないが、一時代を作った人である。
2012年5月4日金曜日
岡田幸生句集『無伴奏』
「週刊読書人」(5月4日)の「ニューエイジ登場」に佐藤文香が「俳句…嗚呼、輝ける無駄」という文章を書いている。
「俳句は、役に立たないから好きです。役に立つというのは、たとえば新しいチョコレートの販売促進になったり、『車は急には止まれない!』という看板のように誰かを救おうとすることです。俳句は、そういったことに使うものではない。ある意味ピュアです」
「第3回BSおかやま川柳大会」(2010年4月)で佐藤文香は「自分が選ぶときに大きな基準があることがわかりました。それは、その句がこの社会にどれだけ貢献しないかということです。風刺はともすると社会の役に立ってしまう」と発言して川柳人を驚かせたが、俳句に対する佐藤のスタンスは2年前と少しも変わっていない。彼女にとってぶれることのない俳句観なのだろう。
紫陽花は萼でそれらは言葉なり 佐藤文香
歩く鳥世界にはよろこびがある
関悦史の句集『六十億本の回転する曲がった棒』(邑書林)が第三回田中裕明賞を受賞した。関は「宗左近賞」にもノミネートされていて、その残念会を開いている最中に田中裕明賞受賞の連絡が入ったという。
美少女キャラの嗚呼上すぎる口の位置 関悦史
ぶちまけられし海苔弁の海苔それも季語
死ンデナホ性トイフ修羅止マザリキ
口閉ぢてアントニオ猪木盆梅へ
関は評論・実作ともに現代俳句の先端をゆく存在である。
当ブログでも関の「『難解』な川柳が読みたい」(「バックストローク」33号)に触れて、「難解問題は権力闘争だったのか」というタイトルの文章を書いたことがあるが、今もって本ブログにおけるアクセスの最高数を記録していることを蛇足として報告しておきたい。
さて、歌人の発言に目を転じると、ホームページ「小説家になりま専科」の「その人の素顔」(4月24日)で穂村弘は池上冬樹の質問に答えて次のように発言している。
――ほかのジャンル、たとえば川柳についてはどう思われてますか。
穂村 非常に難しいジャンルですよね。俳句との関係性をどうしても意識せざるを得ない。いつもアイデンティティを、どこにあるのか、川柳というものだけが持っている川柳性というものは何かを、説明できないと本当はいけないと思うんですよ。俳句と同じ姿をしているんだから。
でもその部分がなぜか曖昧になっている気がしていて、だから、技法以前に川柳の川柳性というものが何か気になってしまうんです。一般的には人間が描かれていて風刺があるものが川柳とされますけど、それだけじゃないですからね。そういった意味で関心を持っています。
相変わらず俳句と川柳の違いについて川柳側に説明責任を求められている。川柳に対する関心の入口として、俳句との違いは大きなことなのだろう。入門書レベルよりもう少しすっきりしたかたちの啓蒙レベルでの説明を用意することが必要となる。
このような外向けの説明を常に求められるものに、たとえば「自由律俳句」がある。
先日、岡田幸生句集『無伴奏』(そうぶん社出版)を読む機会があった。1996年に発行された自由律の句集である。
無伴奏にして満開の桜だ 岡田幸生
見ているところを奥のミラーで見られていたか
きょうは顔も休みだ
通過電車ばかりで別れられない
あなたの影猫の影包んだ
鳶輝いたおしっこ
夏雲みたいにすずしい顔して化けてみたいな
蟄居蟄居と山鳥にいわれた
こんどうまれてくるときもそうかコスモス
はやくむかえにきてと書いてどこへいったか
雀の死骸の薄目あいている
無視した子猫消えてしまった
チベットの風に吹かれて下着も乾く
吊橋の星のなかをいく
住宅顕信以後の自由律俳句がどうなっているのか、私たちはあまり知らない。句集の中には五七五や七七のリズムの句もあり、また「~だった」という文体が多くて単調な部分もあるが、掲出句などは独自の世界を感じさせて好感をもった。
句集の「序」で北田傀子は岡田との出会いについて「随句がわかるかわからないかは体質の問題であって、今の若者(特に男性)にそんなものは実在していないような気がしていたのだったが、それが受けいれられる体質の若者が突然目の前に現れて私は驚いたのである」と述べている。
「随句」という用語は初めて聞くが、自由律俳句のことらしい。インターネットで検索してみると、随句のホームページも出てくる。北田によると、随句は一種の「ひらめき」(肉体感覚)で、平常の大和言葉(日常語・口語という意味か)による三節の韻文となる。私の理解している「自由律は一人一律あるいは一句一律」という説明と少し異なるが、「随句」と「自由律」ではニュアンスの差があるのだろう。
いささか旧聞に属するが、「俳句界」2010年12月号の特集「こんなに面白い!現代の自由律俳句」でも岡田幸生を含めた現代の自由律作品が取り上げられていた。
生返事の口紅つけている 岡田幸生
どの蟻もつかれていない隊商のラクダだ 塩野谷西呂
あじさいといっしょに萎びる 湯原幸三
裸 星降る 中原紫重
虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル 近木圭之介
「生返事」の句も句集『無伴奏』に収録されている。90年代に岡田幸生が自由律俳句のフィールドで単独に表現していたものは、ゼロ年代の短歌表現とも決して無縁ではないと思われる。単独者としての自己表現こそが文芸の本来の姿とはいうものの、良質の抒情はそれだけではなかなか評価されにくい時代なのだろう。
「俳句は、役に立たないから好きです。役に立つというのは、たとえば新しいチョコレートの販売促進になったり、『車は急には止まれない!』という看板のように誰かを救おうとすることです。俳句は、そういったことに使うものではない。ある意味ピュアです」
「第3回BSおかやま川柳大会」(2010年4月)で佐藤文香は「自分が選ぶときに大きな基準があることがわかりました。それは、その句がこの社会にどれだけ貢献しないかということです。風刺はともすると社会の役に立ってしまう」と発言して川柳人を驚かせたが、俳句に対する佐藤のスタンスは2年前と少しも変わっていない。彼女にとってぶれることのない俳句観なのだろう。
紫陽花は萼でそれらは言葉なり 佐藤文香
歩く鳥世界にはよろこびがある
関悦史の句集『六十億本の回転する曲がった棒』(邑書林)が第三回田中裕明賞を受賞した。関は「宗左近賞」にもノミネートされていて、その残念会を開いている最中に田中裕明賞受賞の連絡が入ったという。
美少女キャラの嗚呼上すぎる口の位置 関悦史
ぶちまけられし海苔弁の海苔それも季語
死ンデナホ性トイフ修羅止マザリキ
口閉ぢてアントニオ猪木盆梅へ
関は評論・実作ともに現代俳句の先端をゆく存在である。
当ブログでも関の「『難解』な川柳が読みたい」(「バックストローク」33号)に触れて、「難解問題は権力闘争だったのか」というタイトルの文章を書いたことがあるが、今もって本ブログにおけるアクセスの最高数を記録していることを蛇足として報告しておきたい。
さて、歌人の発言に目を転じると、ホームページ「小説家になりま専科」の「その人の素顔」(4月24日)で穂村弘は池上冬樹の質問に答えて次のように発言している。
――ほかのジャンル、たとえば川柳についてはどう思われてますか。
穂村 非常に難しいジャンルですよね。俳句との関係性をどうしても意識せざるを得ない。いつもアイデンティティを、どこにあるのか、川柳というものだけが持っている川柳性というものは何かを、説明できないと本当はいけないと思うんですよ。俳句と同じ姿をしているんだから。
でもその部分がなぜか曖昧になっている気がしていて、だから、技法以前に川柳の川柳性というものが何か気になってしまうんです。一般的には人間が描かれていて風刺があるものが川柳とされますけど、それだけじゃないですからね。そういった意味で関心を持っています。
相変わらず俳句と川柳の違いについて川柳側に説明責任を求められている。川柳に対する関心の入口として、俳句との違いは大きなことなのだろう。入門書レベルよりもう少しすっきりしたかたちの啓蒙レベルでの説明を用意することが必要となる。
このような外向けの説明を常に求められるものに、たとえば「自由律俳句」がある。
先日、岡田幸生句集『無伴奏』(そうぶん社出版)を読む機会があった。1996年に発行された自由律の句集である。
無伴奏にして満開の桜だ 岡田幸生
見ているところを奥のミラーで見られていたか
きょうは顔も休みだ
通過電車ばかりで別れられない
あなたの影猫の影包んだ
鳶輝いたおしっこ
夏雲みたいにすずしい顔して化けてみたいな
蟄居蟄居と山鳥にいわれた
こんどうまれてくるときもそうかコスモス
はやくむかえにきてと書いてどこへいったか
雀の死骸の薄目あいている
無視した子猫消えてしまった
チベットの風に吹かれて下着も乾く
吊橋の星のなかをいく
住宅顕信以後の自由律俳句がどうなっているのか、私たちはあまり知らない。句集の中には五七五や七七のリズムの句もあり、また「~だった」という文体が多くて単調な部分もあるが、掲出句などは独自の世界を感じさせて好感をもった。
句集の「序」で北田傀子は岡田との出会いについて「随句がわかるかわからないかは体質の問題であって、今の若者(特に男性)にそんなものは実在していないような気がしていたのだったが、それが受けいれられる体質の若者が突然目の前に現れて私は驚いたのである」と述べている。
「随句」という用語は初めて聞くが、自由律俳句のことらしい。インターネットで検索してみると、随句のホームページも出てくる。北田によると、随句は一種の「ひらめき」(肉体感覚)で、平常の大和言葉(日常語・口語という意味か)による三節の韻文となる。私の理解している「自由律は一人一律あるいは一句一律」という説明と少し異なるが、「随句」と「自由律」ではニュアンスの差があるのだろう。
いささか旧聞に属するが、「俳句界」2010年12月号の特集「こんなに面白い!現代の自由律俳句」でも岡田幸生を含めた現代の自由律作品が取り上げられていた。
生返事の口紅つけている 岡田幸生
どの蟻もつかれていない隊商のラクダだ 塩野谷西呂
あじさいといっしょに萎びる 湯原幸三
裸 星降る 中原紫重
虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル 近木圭之介
「生返事」の句も句集『無伴奏』に収録されている。90年代に岡田幸生が自由律俳句のフィールドで単独に表現していたものは、ゼロ年代の短歌表現とも決して無縁ではないと思われる。単独者としての自己表現こそが文芸の本来の姿とはいうものの、良質の抒情はそれだけではなかなか評価されにくい時代なのだろう。