川柳誌「バックストローク」は2003年1月に創刊された。年4回の発行をきちんと積み重ね、現在すでに33号まで出ている。「バックストローク」の特徴は、雑誌の発行と大会などのイベントとを連動させることによって「現代川柳の運動体」ともいうべき役割を果たしていることである。今年は4月9日に「第4回バックストロークおかやま大会」、9月17日には「バックストロークin名古屋」と二つの大会が予定されている。今回はこの雑誌の足かけ9年の歩みについて、大会で語られた印象的な言葉を中心に振り返ってみることにしよう。
1 「この句のどこが悪意なの?」と広瀬ちえみは言った。
発行人の石部明は創刊と同時に大会を開くことを考えていたという。「バックストロークinきょうと」は2003年9月に開催。テーマは「川柳にあらわれる悪意について」、パネラーは石田柊馬・広瀬ちえみ・樋口由紀子・筒井祥文・松本仁。パネラーの一人である広瀬ちえみの代表句に次の作品がある。
もうひとり落ちてくるまで穴はたいくつ 広瀬ちえみ
まるで不条理演劇を見るような作品である。司会はこの句を取り上げて、これこそ悪意の句ですねと水を向けたのに対して、広瀬は「この句のどこが悪意なんでしょうか」としれっと反問したのには驚いた。「悪意っていうのは、自分の核のようなところに潜んでいるんだ」とも彼女は言った。
2 「人間というものは気をつけていないとすぐ真面目になってしまう」(渡辺隆夫)
「バックストロークin東京」は2005年5月に開催。テーマは「軽薄について」。司会・堺利彦、パネラーは浅沼璞・中西ひろ美・渡辺隆夫・畑美樹であった。
渡辺隆夫は基調報告で「京都の〈悪意〉の対句として、お江戸の〈軽薄〉とは大変いい組み合わせだ」と語った。隆夫が「軽薄」の例句として挙げたのは次のような作品。
屋根から落ちて賑やかに死ぬ 武玉川・十八篇
この花を折るなだろうと石碑みる 柳多留・十篇
婚礼はおやもむすめも痛いこと 末摘花・初篇
秋さびしああこりゃこりゃとうたへども 高柳重信
犯した少女の靴ぺったんこぺったんこ 北野岸柳
二枚舌だから どこでも舐めてあげる 江里昭彦
渡辺の発言の白眉は「人間というものは気をつけていないとすぐ真面目になってしまう」と述べたところ。「バックストローク」誌で確かめてみたところ、テープ起こしには載っていないが、妙に記憶に残っている。聴衆からは「エエかげんにせえよ」の野次も聞かれたが、渡辺隆夫に興味をもつ人は(もたないかも知れないが)、第5句集『魚命魚辞』をひもといていただきたい。
東京大会の懇親会には「豈」の筑紫磐井・池田澄子などが応援に参加し、今は亡き長岡裕一郎も来てくれたことを思い出す。
3 「俳句の場合、解釈の手がかりとして季語があるが、それがない川柳の場合は自由な反面どう読んでいくのだろうか」(渡辺誠一郎)
「バックストロークin仙台」は2007年5月開催。テーマは「川柳にあらわれる虚について」。パネラーは小池正博・渡辺誠一郎・Sin・石田柊馬・樋口由紀子。
俳誌「小熊座」の渡辺誠一郎は「空蝉の軽さとなりし骸かな」(片山由美子)という句を取り上げて、作者は「骸」(むくろ)を「空蝉の死骸」として詠んだというが、「人間の亡骸」と解釈することもできると述べた。この発言から句の「読み」ということを改めて意識させられた。
川柳では大山竹二に次の句がある。
かぶと虫死んだ軽さになっている 大山竹二
この句はかぶと虫を詠んでいるのではなくて、作者の病涯を詠んでいるのである。俳句の読みと川柳の読みに差異はあるのか、ないのかという問題である。
あのとき訪れた仙台も今回の震災で大きな影響を受けた。一日も早い復興を祈っている。
4 「作者の『私』に信頼が置かれていない。誰かに考えさせられ、誰かに書かされているのではないかという疑いと不安の中で、信じられる瞬間的なことしか書けなくなってきている」(彦坂美喜子)
「バックストロークin大阪」は2009年9月開催。シンポジウムのテーマは「私のいる川柳/私のいない川柳」。司会・兵頭全郎、パネラーは小池正博・彦坂美喜子・樋口由紀子・吉澤久良。
それまでの3回の大会を受けて、このときのテーマは川柳の「私性」の問題を正面から取り上げた。彦坂の報告は現代短歌の私性を語ることによって川柳を照射するものであった。
現在の「バックストローク」の理論水準は、こうしたシンポジウムや大会の経験の上に成り立っていることを改めて感じる。
5 「自分が選ぶときに大きな基準があることがわかりました。それはその句が社会にどれだけ貢献しないかということです」(佐藤文香)
2007年7月に〈『石部明集』の出版を祝う会〉が開催され、その二次会の席上で石部は「岡山川柳大会」の構想を明らかにした。こうして「第1回BSおかやま川柳大会」が翌2008年4月にスタートする運びとなった。スピーチ「あなたの意見で川柳は変わる」(石部明)。
以下、「第2回BSおかやま川柳大会」(2009年4月)、鼎談「寺尾俊平と定金冬二の世界を語る」(石田柊馬・石部明・樋口由紀子)。「第3回BSおかやま川柳大会」(2010年4月)対談「石部明を三枚おろし」(司会・小池正博 樋口由紀子・石部明)。
「BSおかやま川柳大会」の売りは同一の題について2人の選者による共選が1題設定されていることである。昨年の第3回は佐藤文香・石田柊馬共選。このとき佐藤文香の発言は川柳人にとってもインパクトのあるものだった。その余波はいまも続いていて、石田柊馬は「バックストローク」33号で次のように書いている。
〈「自分が選ぶときに大きな基準があることがわかりました。それは、その句がこの社会にどれだけ貢献しないか、ということです。風刺はともすると社会の役に立ってしまう。真面目にでも奔放にでも、遊び上手な作品に魅力を感じるということです」。これは一人の俳人が自分の俳句をどのように認識しているかというところから、川柳を照射してくれた言葉と言える〉
6 「だし巻き柊馬」?
さて、「第4回BSおかやま川柳大会」が2週間後に迫っている。鼎談「だし巻き柊馬」で今回は石田柊馬が俎上に上る。
「バックストローク」では石田柊馬が毎号、同人作品評を書いている。ただ盲点は、柊馬自身を評することができない点である。石部明はそのことを随分気にしていたので、「バックストローク」27号では「石田柊馬をやっつけろ」という特集を組んだ。その際に柊馬論を書いた中から、今回は清水かおりと畑美樹が石田柊馬と鼎談をする。
また、関悦史と草地豊子の共選も見どころである。関悦史は震災にもかかわらず参加、川柳人との交流が楽しみである。
今秋には「バックストロークin名古屋」が9月に開催されることになっている。シンポジウム「川柳が文芸になるとき」(小池正博・樋口由紀子・畑美樹・荻原裕幸・湊圭史)。
現代川柳はひとつの文学運動になりうるだろうか。
2011年3月25日金曜日
2011年3月18日金曜日
時をかける書評
大震災が東日本を襲い、被災されたみなさまには心からお見舞いを申し上げたい。このような時には改めて文芸の無力さを自覚する。「週刊俳句」203号が俳句記事の掲載を取りやめたのはひとつの見識であったが、このささやかなブログは今週も書き継ぐことにした。私にできるのはそれしかないからである。
電子媒体が普及する世の中だが、紙の本に対する愛着は残り続けるだろう。私も古本屋を回るのが好きである。ところで、古書店の棚に川柳関係の本が目立って並ぶときがある。それは嬉しい半面、少し悲哀を感じさせるものでもある。川柳の蔵書が急に古本市場に出るということは、その所蔵者の死を意味することが多いからである。川柳に関心のない人にとっては、貴重な川柳資料も単なるガラクタにすぎない。川柳人の死後、蔵書は家人によってすぐさま売り払われてしまうのが常なのだ。
そういう経緯があったのかどうかはわからないが、最近手に入れた古書に『川柳手ほどき』(喜月庵柳汀、大正15年)がある。
大正15年と言えば、木村半文銭の『川柳作法』も同じ年に刊行されており、新興川柳運動が高まりつつあった時期である。『川柳手ほどき』は川柳入門書であるが、当時の時代背景を反映して、「川柳界の動静」の章では次のように書かれている。
「現在の日本の川柳界には、新旧思想の二潮流があります。即ち革新川柳を標榜するものと、現状維持を主張する旧踏派との二派であります。前者は川柳を一般芸術にまで進め度いと思ふ人々の運動であり、主義の現はれでありまして、その主張を概括して申しますと川柳の実質が余りに人間としての皮相と低調と無力であるのを慨いて、その内容に自己を打ち込まうとしたのであります。由来川柳といふものは、自分と云ふものを遊ばす事は出来るのでありますが、更らに、一歩深く、自分といふものを表現する事は出来難いとされて居たのであります。それは在来の川柳の歩み方では、自分の生活に現れてくる苦悩、感情思想などは、これを表現する事は絶対にゆるされてゐなかつたのです。それは川柳に対する一般的傾向が遊戯気分であり、娯楽本位であつて、川柳そのものは、実生活の余技として一つの趣味に固定してゐたからであります」
川柳は自分というものを遊ばせることはできるが、自分というものを表現することはできない―とは、なかなか面白い言い方ではないか。そのような従来の川柳観を打ち破って革新川柳が生れたのだと著者は述べている。ここでいう「革新川柳」とは「新興川柳」のことを指している。
「其の革新派の人々によつて生れた新川柳は在来の川柳と、十七音の律格を相同じくするのみで、内容とか表現法に至つては、全然趣きを異にして、あの唾棄すべき駄洒落、卑猥なる言ひ現し方、一口噺しと質を同じうする形容など、極く上調子の川柳の実質が、直観となり、神秘となり、象徴となり、哲学となつて,汎ゆる最新の学説と共に、人間に帰り人間に自覚した、真の人間の声が、川柳の本質に含まれる様になつたので古来の川柳から見る時は、世の中の酢いも甘いも知り尽した人が、若い屁理屈にこだはつて片意地を張る青二才を見た時の様な感じがするだらうと思われるのですが、それだけ革新と云ふ新運動の力が、川柳の内容にまで、強烈なる力と光と熱とを与へてゐるのであります」
「狂句百年の負債」という言葉がある。「川柳を堕落せしめた罪悪人は四世川柳であると迄絶叫する人があれども、それは四世川柳ばかりの罪ではなく、半分は社会の罪であろう」と本書にある通り、化政期以後の川柳は駄洒落に流れたと言われる。それが明治の新川柳によって近代化を果たし、大正期の新興川柳に至って直観・神秘・象徴・哲学の領域まで包含するようになった。それは酸いも甘いも噛み分けた粋人からは青二才と感じられるだろうと言うのである。一方、保守派の動向はどうだろうか。
「最近の傾向では保守派(旧踏派)の人々の中にも一つの悩みが有るらしく、多少共動かねばならないと思ふ心の現れが、幾分とも見られるのであります。かかる状態にある人は極く小部分の人々である様ですが、在来の川柳、所謂旧川柳の、無力と非常識とを大分自認して来たのは事実であります。極端に言へば『斯うしては居られない』といふ焦燥と苦慮が払われて来たのであります」
伝統派の人が「本当の伝統主義」に拠っているのではない。江戸中心の伝統主義を保持する人もいるが、漠然と「川柳は理屈ぽくないのがよい」とか「近頃の新しい川柳は川柳らしくない」という無定見の人が多いと著者は言う。何だか大正時代の話ではなく、今日の話のような気もしてくる。
「斯く現時の川柳界には此の二大潮流があり、両勢力である二派以外には川柳の存在も無く価値も無いのでありますが、多数の中には、此の二大潮流の中間主義を採つてやれ漸進主義だとか、穏健派などと称する人などもあり、甚だしいのになると、革新派系の川柳もものし、保守系の川柳も作ると云ふ二刀法の人もあつて、現在の川柳界は非常な混乱状態に陥つてゐるのです」
なかなか辛辣な書き方である。「漸進主義」「穏健派」「二刀法(二刀流)」の側にもそれなりの言い分はあるのだろうが、この著者が革新川柳の側にかなりの理解をもっていることがうかがえる。以下「新興川柳大家の作品鑑賞」が続き、新興川柳の8人の作品を紹介している。
スヰッチの右と左にある世界 森田一二
空間を立派に占めて雛が出る 渡辺尺蠖
事もなく黄菊の色の浮く夜明け 古屋夢村
毒草と知らず毒草咲きほこり 田中五呂八
言ふまでもなく唇のかはく恋 島田雅楽王
我と我足を急がせあてもなし 白石維想楼
墓石の上で小雀二羽の恋 宮島龍二
天井へ壁へ心へ鳴る一時 川上日車
けれども、その一方で古川柳の妙味も捨てがたいとしているところが、本書のバランス感覚であろう。
続く「川柳を作るにつきての注意」では「可笑しみ」「穿ち」「軽み」の三要素を挙げ、この三要素だけでは新時代の今日の流れに合っていくことは至難だと述べている。
「すればどうすれば時流に添ひて川柳の本質に反かぬ新時代の川柳を作る事が出来るかと云ふに、前述の三要素以外に真実味、超越味、写実味、感覚味などの詠まれたものが最もよいと思ひます」
「真実味」「超越味」「写実味」「感覚味」!?
これらの要素は木村半文銭が『川柳作法』で説いたものではなかったか。
ここに至って、この入門書が新興川柳の影響下に書かれたものだということが明らかになる。三要素を超越する川柳観である。かといって三要素を否定しているのでもないから、伝統川柳と新興川柳の両面をバランスよく配した川柳入門書と言うことができるだろう。
最後に「上達法」の部分から引用する。
「川柳を習ふ人の中で、川柳の持つ総ての良い点を、一人で引き受けて行かなければならないと考へる人もあるでしやうが、此れは自己を知らない行き方です。川柳に這入つてからは第一の先決問題は、自分の長所と云ふものを知る即ち自己の天分を早く知ることが最大用件であります。そうして掴み得た自己の天分を守り育てて熱心にやりさえすれば比較的早く進む事が出来るのです」
今回はラベンダーの香りを求めて「時をかける書評」を試みたのだが、そこで出会うのはやはりその時代における血の出るような問題なのである。
電子媒体が普及する世の中だが、紙の本に対する愛着は残り続けるだろう。私も古本屋を回るのが好きである。ところで、古書店の棚に川柳関係の本が目立って並ぶときがある。それは嬉しい半面、少し悲哀を感じさせるものでもある。川柳の蔵書が急に古本市場に出るということは、その所蔵者の死を意味することが多いからである。川柳に関心のない人にとっては、貴重な川柳資料も単なるガラクタにすぎない。川柳人の死後、蔵書は家人によってすぐさま売り払われてしまうのが常なのだ。
そういう経緯があったのかどうかはわからないが、最近手に入れた古書に『川柳手ほどき』(喜月庵柳汀、大正15年)がある。
大正15年と言えば、木村半文銭の『川柳作法』も同じ年に刊行されており、新興川柳運動が高まりつつあった時期である。『川柳手ほどき』は川柳入門書であるが、当時の時代背景を反映して、「川柳界の動静」の章では次のように書かれている。
「現在の日本の川柳界には、新旧思想の二潮流があります。即ち革新川柳を標榜するものと、現状維持を主張する旧踏派との二派であります。前者は川柳を一般芸術にまで進め度いと思ふ人々の運動であり、主義の現はれでありまして、その主張を概括して申しますと川柳の実質が余りに人間としての皮相と低調と無力であるのを慨いて、その内容に自己を打ち込まうとしたのであります。由来川柳といふものは、自分と云ふものを遊ばす事は出来るのでありますが、更らに、一歩深く、自分といふものを表現する事は出来難いとされて居たのであります。それは在来の川柳の歩み方では、自分の生活に現れてくる苦悩、感情思想などは、これを表現する事は絶対にゆるされてゐなかつたのです。それは川柳に対する一般的傾向が遊戯気分であり、娯楽本位であつて、川柳そのものは、実生活の余技として一つの趣味に固定してゐたからであります」
川柳は自分というものを遊ばせることはできるが、自分というものを表現することはできない―とは、なかなか面白い言い方ではないか。そのような従来の川柳観を打ち破って革新川柳が生れたのだと著者は述べている。ここでいう「革新川柳」とは「新興川柳」のことを指している。
「其の革新派の人々によつて生れた新川柳は在来の川柳と、十七音の律格を相同じくするのみで、内容とか表現法に至つては、全然趣きを異にして、あの唾棄すべき駄洒落、卑猥なる言ひ現し方、一口噺しと質を同じうする形容など、極く上調子の川柳の実質が、直観となり、神秘となり、象徴となり、哲学となつて,汎ゆる最新の学説と共に、人間に帰り人間に自覚した、真の人間の声が、川柳の本質に含まれる様になつたので古来の川柳から見る時は、世の中の酢いも甘いも知り尽した人が、若い屁理屈にこだはつて片意地を張る青二才を見た時の様な感じがするだらうと思われるのですが、それだけ革新と云ふ新運動の力が、川柳の内容にまで、強烈なる力と光と熱とを与へてゐるのであります」
「狂句百年の負債」という言葉がある。「川柳を堕落せしめた罪悪人は四世川柳であると迄絶叫する人があれども、それは四世川柳ばかりの罪ではなく、半分は社会の罪であろう」と本書にある通り、化政期以後の川柳は駄洒落に流れたと言われる。それが明治の新川柳によって近代化を果たし、大正期の新興川柳に至って直観・神秘・象徴・哲学の領域まで包含するようになった。それは酸いも甘いも噛み分けた粋人からは青二才と感じられるだろうと言うのである。一方、保守派の動向はどうだろうか。
「最近の傾向では保守派(旧踏派)の人々の中にも一つの悩みが有るらしく、多少共動かねばならないと思ふ心の現れが、幾分とも見られるのであります。かかる状態にある人は極く小部分の人々である様ですが、在来の川柳、所謂旧川柳の、無力と非常識とを大分自認して来たのは事実であります。極端に言へば『斯うしては居られない』といふ焦燥と苦慮が払われて来たのであります」
伝統派の人が「本当の伝統主義」に拠っているのではない。江戸中心の伝統主義を保持する人もいるが、漠然と「川柳は理屈ぽくないのがよい」とか「近頃の新しい川柳は川柳らしくない」という無定見の人が多いと著者は言う。何だか大正時代の話ではなく、今日の話のような気もしてくる。
「斯く現時の川柳界には此の二大潮流があり、両勢力である二派以外には川柳の存在も無く価値も無いのでありますが、多数の中には、此の二大潮流の中間主義を採つてやれ漸進主義だとか、穏健派などと称する人などもあり、甚だしいのになると、革新派系の川柳もものし、保守系の川柳も作ると云ふ二刀法の人もあつて、現在の川柳界は非常な混乱状態に陥つてゐるのです」
なかなか辛辣な書き方である。「漸進主義」「穏健派」「二刀法(二刀流)」の側にもそれなりの言い分はあるのだろうが、この著者が革新川柳の側にかなりの理解をもっていることがうかがえる。以下「新興川柳大家の作品鑑賞」が続き、新興川柳の8人の作品を紹介している。
スヰッチの右と左にある世界 森田一二
空間を立派に占めて雛が出る 渡辺尺蠖
事もなく黄菊の色の浮く夜明け 古屋夢村
毒草と知らず毒草咲きほこり 田中五呂八
言ふまでもなく唇のかはく恋 島田雅楽王
我と我足を急がせあてもなし 白石維想楼
墓石の上で小雀二羽の恋 宮島龍二
天井へ壁へ心へ鳴る一時 川上日車
けれども、その一方で古川柳の妙味も捨てがたいとしているところが、本書のバランス感覚であろう。
続く「川柳を作るにつきての注意」では「可笑しみ」「穿ち」「軽み」の三要素を挙げ、この三要素だけでは新時代の今日の流れに合っていくことは至難だと述べている。
「すればどうすれば時流に添ひて川柳の本質に反かぬ新時代の川柳を作る事が出来るかと云ふに、前述の三要素以外に真実味、超越味、写実味、感覚味などの詠まれたものが最もよいと思ひます」
「真実味」「超越味」「写実味」「感覚味」!?
これらの要素は木村半文銭が『川柳作法』で説いたものではなかったか。
ここに至って、この入門書が新興川柳の影響下に書かれたものだということが明らかになる。三要素を超越する川柳観である。かといって三要素を否定しているのでもないから、伝統川柳と新興川柳の両面をバランスよく配した川柳入門書と言うことができるだろう。
最後に「上達法」の部分から引用する。
「川柳を習ふ人の中で、川柳の持つ総ての良い点を、一人で引き受けて行かなければならないと考へる人もあるでしやうが、此れは自己を知らない行き方です。川柳に這入つてからは第一の先決問題は、自分の長所と云ふものを知る即ち自己の天分を早く知ることが最大用件であります。そうして掴み得た自己の天分を守り育てて熱心にやりさえすれば比較的早く進む事が出来るのです」
今回はラベンダーの香りを求めて「時をかける書評」を試みたのだが、そこで出会うのはやはりその時代における血の出るような問題なのである。
2011年3月11日金曜日
アヴァンギャルドと伝統
岡本太郎の話題を最近よく目にする。生誕100年ということらしく、「芸術新潮」3月号で特集されているし、東京国立近代美術館では「岡本太郎展」が始まった。大阪難波の高島屋で岡本の壁画が修復され展示されたニュースも記憶に新しい。川柳界では太郎の両親を詠んだ句「かの子には一平が居たながい雨」(時実新子)が有名である。岡本太郎と言えば「アヴァンギャルド」。今回は『岡本太郎著作集』(講談社)を読みながら、アヴァンギャルドの精神について考えてみたい。
拙著『蕩尽の文芸』(まろうど社)でも触れているが、終戦直後、「夜の会」という集まりが花田清輝と岡本太郎によってはじめられた。岡本が自転車に乗って花田のところに訪ねていったのが両者の邂逅だったというのは、いかにも戦後間もないころの雰囲気を感じさせる。けれども、『岡本太郎著作集』第1巻・埴谷雄高の解説によると、花田の本を読んで感心したことを岡本が「人間」(当時発行されていた雑誌)の編集者に話すと、それを伝え聞いた花田がさっそく岡本の家を訪れたのだという。
昭和22年夏、「夜の会」は銀座の焼け残ったビルの地下ではじまった。このビルのことは椎名麟三の『永遠なる序章』にも描かれている。参加者は花田・岡本のほかに椎名麟三・梅崎春生・野間宏・埴谷雄高・佐々木基一・安部公房・関根弘など。ここから戦後の文学運動が始まったのである。
『岡本太郎著作集』に話を戻すと、第1巻には『今日の芸術』『アヴァンギャルド芸術』などが収録されている。『今日の芸術』は今読んでもとてもおもしろい。たとえばこんな調子で書かれている。
〈 1953年、パリとニューヨークで個展をひらきました。出発するまえ、私はある場所で講演をしたのですが、いろいろ話をしたあとで、聴衆の一人から、「こんどあちらへ行かれて、何を得てこられるでしょうか?」という質問が出ました。「いや、こちらが与えに行くんです」と、私が返事をしたら、満場がドッと笑いました。私はきわめてマジメに言ったのに、意外にも大笑いされて腹だたしくなりました 〉
また、戦後間もないころ、岡本は惰性的な画壇を身をもって打ち壊そうとして、新聞に爆弾的芸術宣言を書いた。曰く、「絵画の石器時代は終わった。ほんとうの絵画は私からはじまる」―この原稿を読んだあるジャーナリストが「こんなものを活字にしたらたいへんだ。悪いことは言わない。おやめなさい」と忠告した。岡本は「だれかがやらなければ何も始まらない」と逆にそのジャーナリストを説き伏せた。ジャーナリストは感動し、「私はあなたといっしょに飛び出して死にたくはないが、しかし味方です。ぜったいに援護射撃はします」と誓い、握手をして別れた。援護射撃は結局なかったが。
さて、『今日の芸術』で岡本太郎が提唱した芸術三原則は次のようなものである。
うまくあってはいけない。
きれいであってはいけない。
ここちよくあってはならない。
岡本はアヴァンギャルドとモダニズムを厳しく区別している。
〈 芸術は、つねに新しく創造されねばならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、独自に先端的な課題をつくりあげ前進していく芸術家はアヴァンギャルドです。これにたいして、それを上手にこなして、より容易な型とし、一般によろこばれるのはモダニズムです 〉
これと対応して岡本の言説で注目すべきは、「技術」と「技能」を区別していることだ。
〈 技術は、つねに古いものを否定して、新しく創造し、発見していくものです。つまり、芸術について説明したのと同じに、革命的ということがその本質なのです 〉
〈 技能は、まさに技術とは正反対の性格をおびています。古いものを否定してどんどん前進していくのではなくて、同じことを繰りかえし繰りかえし、熟練によって到達するのが技能です 〉
そして、岡本の芸術論の核心をなすのが「対極主義」である。抽象芸術の合理性とシュールレアリスムの非合理主義という二極をともに精神の中にかかえこもうというのである。両者の中間をとるというような中庸・折衷ではない。次に引用するのは『アヴァンギャルド芸術』の一節である。
〈 私はこれを対立する二極として一つの精神の中に捉え、しかもそれらを折衷、妥協させることなく、いよいよ引き離し、矛盾、対立を強調すべきだと思うのです。そこに真に積極的な新しい芸術精神の在り方を見いだすのです。それは決して機械的に分離することではありません。〉
「対極主義」は花田清輝の「楕円」にとてもよく似ている。
このようなアヴァンギャルド・岡本太郎が「伝統」というものに対峙するとどうなるだろうか。岡本が縄文土器を高く評価したことはよく知られている。弥生ではなく、縄文なのである。そのほか岡本が評価するのは光琳である。パリでアヴァンギャルド運動に参加していた岡本は、ラテン区の本屋のショーウインドウで光琳の「紅白梅流水図」を見て衝撃を受ける。岡本は光琳についてこんなふうに述べている。
〈 明快さの裏には、技術的に、また精神的に、のっぴきならない矛盾をはらんでいる。はげしい対立を克服して、いちだんと冴えた緊張があり、不動に見える相のもとには、生まなましい傷口が私には感じとれるのです。またあのような鋭さは、逆説的な方法によってこそ生かされていることも知らなければなりません 〉
〈 それはほんとうに革命的に創りだされる芸術の、絶対的な条件とさえいえる。その根本的な矛盾こそ、いつの時代のも、人間を生命の底からゆすって動かすのです 〉
ここにも彼の対極主義的な見方があらわれている。
私が高校生だった1970年ごろ、岡本太郎の「秋田」や堀田善衛の「インドで考えたこと」は現代国語の教科書の定番だった。のちに椎名誠が「インドでわしも考えた」を書いたのは堀田の文章のパロディである。
「秋田」は岡本の『日本再発見―芸術風土記』に収録されている文章だが、その最後に毎年秋田を訪れる一人の紳士との出会いが描かれている。
「それではあなたは人生の敗北者ですね」とぶしつけに言った。
「そうです。私みたいになっちゃ、いけません」うなずいた彼はむしろ嬉しそうだった。
この文章を教えた国語の教師は「こんなことを言う方がアホじゃ」と岡本のことを罵った。
岡本太郎著作集の第4巻には『日本の伝統』『日本再発見』などが収録され、岡本の伝統との対峙の仕方がうかがえる。『日本再発見』では秋田・長崎・出雲のほか京都や大阪にも来ている。
アヴァンギャルドはモダニズムとは違う、ということを岡本は繰り返し説いている。
近世に生まれた川柳は近代をくぐりぬけて現代的展開を目指している。
岡本と並ぶもうひとりのアヴァンギャルド・花田清輝の「前近代を否定的媒介にして近代を超克する」というテーゼは果たして現代川柳にあてはめることができるだろうか。
画家・岡本太郎の最高傑作は「傷ましき腕」(1936年)だろう。しかし、岡本太郎の精神に直接触れたい人は万博公園を訪れてみればよい。太陽の塔がそこに立っている。
拙著『蕩尽の文芸』(まろうど社)でも触れているが、終戦直後、「夜の会」という集まりが花田清輝と岡本太郎によってはじめられた。岡本が自転車に乗って花田のところに訪ねていったのが両者の邂逅だったというのは、いかにも戦後間もないころの雰囲気を感じさせる。けれども、『岡本太郎著作集』第1巻・埴谷雄高の解説によると、花田の本を読んで感心したことを岡本が「人間」(当時発行されていた雑誌)の編集者に話すと、それを伝え聞いた花田がさっそく岡本の家を訪れたのだという。
昭和22年夏、「夜の会」は銀座の焼け残ったビルの地下ではじまった。このビルのことは椎名麟三の『永遠なる序章』にも描かれている。参加者は花田・岡本のほかに椎名麟三・梅崎春生・野間宏・埴谷雄高・佐々木基一・安部公房・関根弘など。ここから戦後の文学運動が始まったのである。
『岡本太郎著作集』に話を戻すと、第1巻には『今日の芸術』『アヴァンギャルド芸術』などが収録されている。『今日の芸術』は今読んでもとてもおもしろい。たとえばこんな調子で書かれている。
〈 1953年、パリとニューヨークで個展をひらきました。出発するまえ、私はある場所で講演をしたのですが、いろいろ話をしたあとで、聴衆の一人から、「こんどあちらへ行かれて、何を得てこられるでしょうか?」という質問が出ました。「いや、こちらが与えに行くんです」と、私が返事をしたら、満場がドッと笑いました。私はきわめてマジメに言ったのに、意外にも大笑いされて腹だたしくなりました 〉
また、戦後間もないころ、岡本は惰性的な画壇を身をもって打ち壊そうとして、新聞に爆弾的芸術宣言を書いた。曰く、「絵画の石器時代は終わった。ほんとうの絵画は私からはじまる」―この原稿を読んだあるジャーナリストが「こんなものを活字にしたらたいへんだ。悪いことは言わない。おやめなさい」と忠告した。岡本は「だれかがやらなければ何も始まらない」と逆にそのジャーナリストを説き伏せた。ジャーナリストは感動し、「私はあなたといっしょに飛び出して死にたくはないが、しかし味方です。ぜったいに援護射撃はします」と誓い、握手をして別れた。援護射撃は結局なかったが。
さて、『今日の芸術』で岡本太郎が提唱した芸術三原則は次のようなものである。
うまくあってはいけない。
きれいであってはいけない。
ここちよくあってはならない。
岡本はアヴァンギャルドとモダニズムを厳しく区別している。
〈 芸術は、つねに新しく創造されねばならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、独自に先端的な課題をつくりあげ前進していく芸術家はアヴァンギャルドです。これにたいして、それを上手にこなして、より容易な型とし、一般によろこばれるのはモダニズムです 〉
これと対応して岡本の言説で注目すべきは、「技術」と「技能」を区別していることだ。
〈 技術は、つねに古いものを否定して、新しく創造し、発見していくものです。つまり、芸術について説明したのと同じに、革命的ということがその本質なのです 〉
〈 技能は、まさに技術とは正反対の性格をおびています。古いものを否定してどんどん前進していくのではなくて、同じことを繰りかえし繰りかえし、熟練によって到達するのが技能です 〉
そして、岡本の芸術論の核心をなすのが「対極主義」である。抽象芸術の合理性とシュールレアリスムの非合理主義という二極をともに精神の中にかかえこもうというのである。両者の中間をとるというような中庸・折衷ではない。次に引用するのは『アヴァンギャルド芸術』の一節である。
〈 私はこれを対立する二極として一つの精神の中に捉え、しかもそれらを折衷、妥協させることなく、いよいよ引き離し、矛盾、対立を強調すべきだと思うのです。そこに真に積極的な新しい芸術精神の在り方を見いだすのです。それは決して機械的に分離することではありません。〉
「対極主義」は花田清輝の「楕円」にとてもよく似ている。
このようなアヴァンギャルド・岡本太郎が「伝統」というものに対峙するとどうなるだろうか。岡本が縄文土器を高く評価したことはよく知られている。弥生ではなく、縄文なのである。そのほか岡本が評価するのは光琳である。パリでアヴァンギャルド運動に参加していた岡本は、ラテン区の本屋のショーウインドウで光琳の「紅白梅流水図」を見て衝撃を受ける。岡本は光琳についてこんなふうに述べている。
〈 明快さの裏には、技術的に、また精神的に、のっぴきならない矛盾をはらんでいる。はげしい対立を克服して、いちだんと冴えた緊張があり、不動に見える相のもとには、生まなましい傷口が私には感じとれるのです。またあのような鋭さは、逆説的な方法によってこそ生かされていることも知らなければなりません 〉
〈 それはほんとうに革命的に創りだされる芸術の、絶対的な条件とさえいえる。その根本的な矛盾こそ、いつの時代のも、人間を生命の底からゆすって動かすのです 〉
ここにも彼の対極主義的な見方があらわれている。
私が高校生だった1970年ごろ、岡本太郎の「秋田」や堀田善衛の「インドで考えたこと」は現代国語の教科書の定番だった。のちに椎名誠が「インドでわしも考えた」を書いたのは堀田の文章のパロディである。
「秋田」は岡本の『日本再発見―芸術風土記』に収録されている文章だが、その最後に毎年秋田を訪れる一人の紳士との出会いが描かれている。
「それではあなたは人生の敗北者ですね」とぶしつけに言った。
「そうです。私みたいになっちゃ、いけません」うなずいた彼はむしろ嬉しそうだった。
この文章を教えた国語の教師は「こんなことを言う方がアホじゃ」と岡本のことを罵った。
岡本太郎著作集の第4巻には『日本の伝統』『日本再発見』などが収録され、岡本の伝統との対峙の仕方がうかがえる。『日本再発見』では秋田・長崎・出雲のほか京都や大阪にも来ている。
アヴァンギャルドはモダニズムとは違う、ということを岡本は繰り返し説いている。
近世に生まれた川柳は近代をくぐりぬけて現代的展開を目指している。
岡本と並ぶもうひとりのアヴァンギャルド・花田清輝の「前近代を否定的媒介にして近代を超克する」というテーゼは果たして現代川柳にあてはめることができるだろうか。
画家・岡本太郎の最高傑作は「傷ましき腕」(1936年)だろう。しかし、岡本太郎の精神に直接触れたい人は万博公園を訪れてみればよい。太陽の塔がそこに立っている。
2011年3月4日金曜日
川柳の「場」はどこに?
ウェブマガジン「週刊俳句」が2月20日で200号を迎えた。西原天気と上田信治によって4年前にスタートしたときは、こんなに存在感のあるサイトになるとは予想できなかった。200号記念には「週俳アーカイヴ・私のオススメ記事」が掲載され、これまでの足跡を改めて振り返ることができる。また「週刊俳句編」による『新撰21』『超新撰21』の続編のような・そうでないようなアンソロジー(邑書林)が刊行予定だという。
「朝日新聞」の「俳句時評」(2月28日)で高山れおなは「週刊俳句」のことを次のように取り上げている。
〈2007年4月スタート、月刊誌なら17年かかるものを4年足らずでの達成で、週刊だから当然とはいえやはり凄い。もちろん本当に凄いのは、毎号一万三千、累計百七十万アクセスという数字の積み重ねが結果としてもたらしたインパクトの方だろう。その影響のうち特に重要なのは、俳句批評の場、より正確には俳句ジャーナリズムの場が、紙媒体からインターネットに重心を移したことと、二、三十代の新世代が著しく存在感を増したことだ〉
ここで問われているのは、「場」の問題である。
「場」の問題が重要なのは、単に作品発表の手段が変わるだけではなくて、それが表現の質を規定するかも知れないからである。
ウェブマガジンは原稿執筆から掲載までのスピードが紙媒体に比べて圧倒的に速い。何かのイベントがあった場合、そのレポートが数日内に、遅くても一週間後には掲載される。そのイベントに参加できなかった場合でも、おおまかな内容を情報として知ることができる。また複数のレポーターが記事を書く場合は、さまざまな視点から複合的にとらえることができて便利である。
ネットでなければ読む機会があまりない執筆者もいる。「週刊俳句」と同時期に進行していた「俳句空間―豈weekly」では冨田拓也の「俳句九十九折」が掲載されていた。「豈weekly」は100号で終刊したので、現在、冨田の文章を毎週読むという楽しみは得られないのが残念である。
「豈weekly」が終刊したあと、「海程」と「豈」同人による「俳句樹」がスタートしたが、今年の1月18日に公開されたあと、停止したままになっている。再開が望まれる。「俳句樹」の場合、結社色がやや強く、その分ウェブマガジンの強みを発揮しきれていないのだろう。
「週刊俳句」に話を戻すと、「週刊俳句は何ごとも主張しない」というのはひとつの明確なスタンスであった。「週刊俳句」がマンネリ感もなく200号を越えて進行中なのは、義務的に発行されているのではなくて、「おもしろいからやってみよう」という精神が生きているからだろう。その裏付けとして編集の労力とスキルがあるのは当然だが、祝祭的な楽しみが感じられるのは確かである。そういう精神が川柳には案外欠けている。
昨年、「現代詩手帖」6月号で「ゼロ年代の短歌100選・俳句100」が話題になったときに、なぜそこに川柳は入らないのかと思った川柳人は多かったはずだが、それでは自ら「ゼロ年代の川柳100選」を選んで発表してみようとした川柳人はほとんどいなかった。
ただ湊圭史が「s/c」で〈川柳誌「バックストローク」50句選&鑑賞〉を試みたのは勇気ある企画だった。川柳人は意外にフットワークの軽さをもっていない。
さて、「週刊俳句」が成功したからといって、もちろん従来の「結社誌」の存在意義がなくなったわけではない。冒頭に引用した高山れおなの文章に戻ると、高山はこんなふうに述べている。
〈紙媒体固有の強みとして浮かび上がってきたのは雑詠欄であり、電子メディアはそれに取って代わる機能をこれまでのところ構築し得ていない。つまり、差し当たって鼎の軽重を問われているのは、結社誌ではなく総合誌ということになるだろうか〉
結社の主宰の選句眼をめがけて、ただ主宰に読んでもらうためだけに投句を続けるというやり方は今後も残るだろう。ネットはそのような個と個のつながりではなく、作品批評や特集記事・レポートなどに強みを発揮するということだろう。ただ、ネットが作品の質まで変えてしまう可能性も否定できない。
ネットに関して情況が先行しているのは、短歌の場合である。
ネット短歌が盛んになってきた時期に、従来の歌壇で歌を詠んでいる歌人との落差の大きさが問題となった。その落差を埋め、両者の橋渡しができる位置にいる歌人が穂村弘だったが、穂村は「お風呂の水を混ぜる」という言い方をしていた。混ぜる役割を担う存在が必要なのである。
川柳に話を戻すことにしよう。問題なのは「座の文芸」ということの意味である。
近年「俳句や川柳は座の文芸である」という言い方を耳にするようになったが、本来「座の文芸」とは連句に関して言われるものであった。連句の座では前句に対して連衆が付句を付けるが、その際、前句を読んでその付筋や付味を考えなければならない。直観や連想で付句を付けてもかまわないが、問われた場合はその付句の付筋はおおむね説明できるものだろう。即ち、連句の座においては「読み→詠み」のサイクルが繰り返されるのである。
一方、川柳の句会・大会において、川柳人は「題」にもとづいて詠まれた句を選者に投句し、選者は出句された作品の中から一定数を選んで会場の参加者に向かって読みあげる。「読み」は「選」に特化されている。
川柳の句会システムを否定するわけではないが、「作句→選→発表誌」という一方通行だけではすでに参加者のニーズを受け止めきれない情況にきている。「新聞柳壇→結社入会」というプロセスも同様である。川柳は新しいシステムを模索する段階に入っているのではないか。「場」があるから「作品」が生れるのであり、「場」によって作品は規定される。刺激的な「場」がなければ川柳の更新も期待できないだろう。
「バックストローク」33号で石田柊馬は「スター待望論」について触れている。川柳の伝統を見据えていた中村冨二は「スター待望」を語ったというのだ。いま川柳に待望されるのは、すぐれた作品によって時代を一変するような川柳人ではない。従来の川柳の「場」を組み換え、新しいフィールドを構築するような存在が求められているのである。
「朝日新聞」の「俳句時評」(2月28日)で高山れおなは「週刊俳句」のことを次のように取り上げている。
〈2007年4月スタート、月刊誌なら17年かかるものを4年足らずでの達成で、週刊だから当然とはいえやはり凄い。もちろん本当に凄いのは、毎号一万三千、累計百七十万アクセスという数字の積み重ねが結果としてもたらしたインパクトの方だろう。その影響のうち特に重要なのは、俳句批評の場、より正確には俳句ジャーナリズムの場が、紙媒体からインターネットに重心を移したことと、二、三十代の新世代が著しく存在感を増したことだ〉
ここで問われているのは、「場」の問題である。
「場」の問題が重要なのは、単に作品発表の手段が変わるだけではなくて、それが表現の質を規定するかも知れないからである。
ウェブマガジンは原稿執筆から掲載までのスピードが紙媒体に比べて圧倒的に速い。何かのイベントがあった場合、そのレポートが数日内に、遅くても一週間後には掲載される。そのイベントに参加できなかった場合でも、おおまかな内容を情報として知ることができる。また複数のレポーターが記事を書く場合は、さまざまな視点から複合的にとらえることができて便利である。
ネットでなければ読む機会があまりない執筆者もいる。「週刊俳句」と同時期に進行していた「俳句空間―豈weekly」では冨田拓也の「俳句九十九折」が掲載されていた。「豈weekly」は100号で終刊したので、現在、冨田の文章を毎週読むという楽しみは得られないのが残念である。
「豈weekly」が終刊したあと、「海程」と「豈」同人による「俳句樹」がスタートしたが、今年の1月18日に公開されたあと、停止したままになっている。再開が望まれる。「俳句樹」の場合、結社色がやや強く、その分ウェブマガジンの強みを発揮しきれていないのだろう。
「週刊俳句」に話を戻すと、「週刊俳句は何ごとも主張しない」というのはひとつの明確なスタンスであった。「週刊俳句」がマンネリ感もなく200号を越えて進行中なのは、義務的に発行されているのではなくて、「おもしろいからやってみよう」という精神が生きているからだろう。その裏付けとして編集の労力とスキルがあるのは当然だが、祝祭的な楽しみが感じられるのは確かである。そういう精神が川柳には案外欠けている。
昨年、「現代詩手帖」6月号で「ゼロ年代の短歌100選・俳句100」が話題になったときに、なぜそこに川柳は入らないのかと思った川柳人は多かったはずだが、それでは自ら「ゼロ年代の川柳100選」を選んで発表してみようとした川柳人はほとんどいなかった。
ただ湊圭史が「s/c」で〈川柳誌「バックストローク」50句選&鑑賞〉を試みたのは勇気ある企画だった。川柳人は意外にフットワークの軽さをもっていない。
さて、「週刊俳句」が成功したからといって、もちろん従来の「結社誌」の存在意義がなくなったわけではない。冒頭に引用した高山れおなの文章に戻ると、高山はこんなふうに述べている。
〈紙媒体固有の強みとして浮かび上がってきたのは雑詠欄であり、電子メディアはそれに取って代わる機能をこれまでのところ構築し得ていない。つまり、差し当たって鼎の軽重を問われているのは、結社誌ではなく総合誌ということになるだろうか〉
結社の主宰の選句眼をめがけて、ただ主宰に読んでもらうためだけに投句を続けるというやり方は今後も残るだろう。ネットはそのような個と個のつながりではなく、作品批評や特集記事・レポートなどに強みを発揮するということだろう。ただ、ネットが作品の質まで変えてしまう可能性も否定できない。
ネットに関して情況が先行しているのは、短歌の場合である。
ネット短歌が盛んになってきた時期に、従来の歌壇で歌を詠んでいる歌人との落差の大きさが問題となった。その落差を埋め、両者の橋渡しができる位置にいる歌人が穂村弘だったが、穂村は「お風呂の水を混ぜる」という言い方をしていた。混ぜる役割を担う存在が必要なのである。
川柳に話を戻すことにしよう。問題なのは「座の文芸」ということの意味である。
近年「俳句や川柳は座の文芸である」という言い方を耳にするようになったが、本来「座の文芸」とは連句に関して言われるものであった。連句の座では前句に対して連衆が付句を付けるが、その際、前句を読んでその付筋や付味を考えなければならない。直観や連想で付句を付けてもかまわないが、問われた場合はその付句の付筋はおおむね説明できるものだろう。即ち、連句の座においては「読み→詠み」のサイクルが繰り返されるのである。
一方、川柳の句会・大会において、川柳人は「題」にもとづいて詠まれた句を選者に投句し、選者は出句された作品の中から一定数を選んで会場の参加者に向かって読みあげる。「読み」は「選」に特化されている。
川柳の句会システムを否定するわけではないが、「作句→選→発表誌」という一方通行だけではすでに参加者のニーズを受け止めきれない情況にきている。「新聞柳壇→結社入会」というプロセスも同様である。川柳は新しいシステムを模索する段階に入っているのではないか。「場」があるから「作品」が生れるのであり、「場」によって作品は規定される。刺激的な「場」がなければ川柳の更新も期待できないだろう。
「バックストローク」33号で石田柊馬は「スター待望論」について触れている。川柳の伝統を見据えていた中村冨二は「スター待望」を語ったというのだ。いま川柳に待望されるのは、すぐれた作品によって時代を一変するような川柳人ではない。従来の川柳の「場」を組み換え、新しいフィールドを構築するような存在が求められているのである。