渡辺隆夫川柳句集『魚命魚辞』(邑書林)が上梓された。第五句集になる。タイトルはもちろん「御名御璽」をもじったもの。話の順序として第一句集から第四句集までを振り返ってみよう。
カラフルに国家が来ますピピッピピッ 『宅配の馬』
都鳥男は京に長居せず 『都鳥』
国歌として青い山脈唄いたい 『亀れおん』
介護犬の最期を看取るロボット犬 『黄泉蛙』
第一句集の国家批判、第二句集の京都批判を経て、第三句集では4句1セットによるテーマ詠によって批判対象が多様化し、第四句集では自ら作り出したキャラを風刺対象として批判するというキャラクター川柳の手法を編み出した。句集の題が哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類と変化しているのは隆夫一流の諧謔である。そして今回は魚類。巻頭の句は次のようなものである。
ブリューゲル父が魚の腹を裂く
フランドルの画家ピーター・ブリューゲル(父)には、「大きな魚は小さな魚を食う」という有名な版画がある。大きな魚の口には小さな魚が、小さな魚の口からもっと小さな魚が…その連鎖がおびただしく続いている。ブリューゲルには父と子がおり、またピーターとヤンがいて紛らわしい。従って掲出句は「ブリューゲル/父が魚の腹を裂く」と切れるのではなく(もちろんそう読んでもかまわないが)、「ブリューゲル父が/魚の腹を裂く」と読むのがいいようだ。版画に戻ると、画面には鋸ナイフで大魚の腹を裂く人物が描かれている。裂いた魚の腹からも小さな魚がこぼれ落ち、その魚もやはり口に小さな魚をくわえている。ナイフを持った男は帽子を被っていて表情が見えないが、もし彼が帽子をとって振り返ったとしたら、きっと渡辺隆夫の顔をしているに違いない。堺利彦はこの句集の解説で掲出句について「これからブリューゲル(父)の絵のように、小魚(句)が腹(句集)から溢れ出てくることへの読者に対する〈挨拶〉」と述べている。
『魚命魚辞』は『亀れおん』の場合のように四句で1セットになっているわけではないが、中には見開きページでモチーフが決まっている場合も散見される。
春の葬軍歌も出たり屁も出たり
夏は京鱧の骨切るアルバイト
硬直の紡錘体が秋の魚
冬川が冬の男と擦れ違う
ビルの上足高々と古賀春江
高熱の小夜子ヤマグチ夏の月
アンジェラ・アキたとえば夜の黒椿
頬被りてめえ松方弘樹だな
春夏秋冬とか固有名詞をモチーフとして、作句されている。
新機軸を出しているのは、「フレンチカンカン」「出羽三山」の章で、海外詠、旅行詠に挑戦している。
昔からネッシーなんて興味ないんだ
羽黒山現世は歩く杉である
ところで、これまで渡辺隆夫の川柳はさまざまなものを風刺し笑いのめしてきたのであるが、『魚命魚辞』における風刺対象はどのようになっているだろうか。
佐世保より現川狂各位に告ぐ
原潜VS現川 決着の時きたる
盧溝橋から始まる男の一生
全山これ昭和桜でありしかな
ヤマト轟沈さぁ竜宮だ乙姫だ
鳥帰るあらまテポドンどこ行くの
テポドンに紅の豚ぶちかまし
選挙と介護どっち大事かバカ息子
横綱の品格ヒール狒つ狒っ狒
風刺対象はさまざまだが、「テポドン」はすでに『亀れおん』で詠まれているし、現代川柳は原潜と対決するほどのパワーなど持ち合わせてはいないのだ。「現川狂」は「日川協」と「現俳協」をミックスしたイメージかも知れない。思う存分風刺できるような確固とした権威そのものが現代ではとても成立しにくくなっている。そのような情況の中でなお風刺対象を求め続ける渡辺隆夫の営為は一種の悲壮感をすら感じさせる。
かつて社会性川柳というものがあった。社会性を詠むことがストレートに川柳表現たりえた時代があったのである。けれども、現在、社会性を詠むことは大仰で時代錯誤を伴うものになってしまいがちである。渡辺隆夫の表現は当然屈折したものになってゆく。
『魚命魚辞』は渡辺隆夫の川柳の集大成である。
集大成であるだけに、それほどフレッシュではない部分も混在している。「おーい亀だれの葬儀だモシモシ」など、急に『亀れおん』に戻ったかのような感じがする。
序文を書いている森田緑郎は神奈川県現代俳句協会会長で「海程」の同人である。森田はこんなふうに述べている。
《俳壇では平成十年十年前後に「重くれ」と「軽さ・形式」についての対立論争があった。ここでいう「重くれ」とは〈作者の生き方や志向性〉といった思いの深さを指し、「軽さ」については〈軽妙、洒脱、平明〉を力点においた、形式と言葉の調和をねらった句の味である》
《要するに戦後派を中心とした主体的な生き方や存在者としての志向的な思いである。それに対して最短定型詩という鮮明な形式への復活とその形式が生み出す言葉の透明性、しなやかさにあろう》
森田はこのように述べたあと、渡辺隆夫の川柳は「ライトバース」というよりむしろ「ヘビーバース」であると言う。(俳誌「雲」46号〈「軽み」をどうとらえるか―これからの俳句のために―〉でも森田緑郎はライトバースについて言及している。)
渡辺がかつて同人だった「ぶるうまりん」6号(2007年5月)では「重くれと軽み」という特集をしている。渡辺は〈川柳に見る「重くれと軽み」〉という文章を書いて、新興川柳・革新川柳・現代女流川柳の三期のそれぞれにおける「重くれ派」と「軽み派」を挙げている。新興川柳期の重くれ派は田中五呂八、軽み派は鶴彬。革新川柳期の重くれ派は河野春三、軽み派は中村冨二。現代女流川柳の重くれ派は樋口由紀子、軽み派は広瀬ちえみ、という独断と偏見を述べたあと、渡辺はこんなふうに言う。
〈長年、重くれに親しんだ人から見れば、軽みは屁のようなものだし、軽み派人生を歩んできた人にとっては、重くれは本当にウットウシイ。重くれにしては軽い「重かる」とか、軽みにして重くれる「軽おも」といったものがありそうに思うのだが、次句はどうであろうか。
湯殿より人死にながら山を見る 吉岡実
大晩春泥ん泥泥どろ泥ん 永田耕衣〉
ちなみに『魚命魚辞』には「森敦に月山 吉岡実には湯殿山」の句も収録されている。
さて、渡辺の句集は「重かる」であろうか、「軽おも」であろうか。
川柳の武器のひとつである批評性は価値の多様化した現代ではきわめて発揮しにくい。その中で重いテーマを軽薄な形で表現し続けている渡辺の仕事はきわめて孤独なものだというのがかねてからの私の見方である。
第五句集で脊椎動物シリーズが終わったので、これがラスト句集になるのではと心配していたが、あとがきに「さて、『魚命魚辞』を読んで、代り映えしないとオナゲキの皆さまには、次回こそ、必ずオッタマゲルゾと予告して、ごあいさつに代えます」とあるのを読んで安心した。生物学者でもある隆夫のことだから、昆虫類をはじめとしていくらでもタイトル名には事欠かないだろう。
昭和史を他山の石とはせぬぞ、御意
魚命魚辞、また勅語かと朕びびる
2011年2月25日金曜日
2011年2月18日金曜日
さやえんどうとも添寝とも
今回は1月・2月の川柳誌・俳誌から4冊ご紹介する。
川柳誌「Leaf」第3号(1月1日発行)は同人4人の作品と互評を中心に、新企画も取り入れた誌面構成になっている。まず、同人作品から。
さやえんどうとも添寝とも書き送り 畑美樹
茶会果て僧侶は肉を吊りにゆく 吉澤久良
つづきにも戸惑いやがて背中を噛む 兵頭全郎
ゲラ刷りの海に両手をついている 清水かおり
互評のうち清水かおりによる「畑美樹を読む」から引用してみる。
〈主題がそうである場合を除いて性を意識しながら書く作者はいない。ごく自然に個人の意識など関係のない細胞のせめぎあいの中に性は主張してくる。畑はそういうものに抗わない。受け入れるものは受け入れ、受け入れたものに飲み込まれることもない〉〈この「さやえんどう」「添寝」という物と事を「とも」という接続助詞で同時配置したことで畑の哲学や言語学や経験のようなものがそこに浮かびあがってくる〉
新企画の一つはテーマ詠に同人外(今回は湊圭史)が参加していること。湊は「言語論としての川柳」を書いて、4同人それぞれの言葉と現実に対する差異を指摘している。
新企画の二つ目は先行する川柳人の作品(今回は石田柊馬)を取り上げて10句選と句評を掲載していることである。
ホームページでも同人作品に対する句評が進行中のようだ。
http://live-leaf.com/
「触光」21号(2月1日発行)、野沢省悟が「便所の落書き」というタイトルで寺山修司のサインを紹介している。1959年(昭和34年)、山村祐の旅館夕月荘で歌人・俳人・川柳人が集まったときに寺山が書いたもののコピーである。このときの参加者は山村祐・奥室和市・松本芳味・青田煙眉・寺山修司・三須浩司・柴田義彦・古川克己・瓜生島清・加藤克己の10名だったという。この場で寺山は次のように語ったと言われる
「短歌は歌謡曲になれ、俳句は呪文になれ、川柳は便所の落書きになれ」
これが川柳界では有名な「便所の落書き」発言である。川柳に対する蔑視とも受け取れるし、川柳に対する寺山流のエールとも受け取れるので、物議をかもした。野沢は若いころはこの言葉に反発したが、現在は寺山の川柳に対するほのかな愛情を感じると述べている。
「触光」は青森で発行されている柳誌。会員作品から。
決心というほどでない爪を切る 斉藤幸男
明け渡す椅子に転がす濡れた石 滋野さち
人混みを歩くと柔になる鱗 瀧正治
降りつもる何もなかったから童話 吉田州花
銀行が消えてしまった北の街 高田寄生木
釘の匂いの女が通り過ぎてゆく 野沢省悟
また、時事川柳にも力を入れており、渡辺隆夫が選をしている。
陰口はウィキリークスが狙ってる 船水葉
一兵卒に誰も敵わぬ 瀧正治
酒飲むと海老は真逆に反るらしい 濱山哲也
ずれている開門拷問水戸黄門 小林こうこ
一筆啓上「北京では今×××××」 山川舞句
次に「円錐」第48号(1月30日発行)をご紹介。澤好摩を発行人とし、山田耕司・今泉康弘などを擁する俳誌である。
寒たまご切るに斜面のうまれけり 山田耕司
坂の上の雲に縫い目があるぞ諸君 今泉康弘
朝ぼらけクロツラヘラサギてんでんこ 入船誠二
桃の日のデパートに象をりしころ 栗林浩
「検証・昭和俳句史Ⅱ」では三橋鷹女について澤好摩と山田耕司が対談。連載「エリカはめざむ」は今泉康弘による渡邊白泉の評伝。栗林浩の連載「入門・攝津幸彦と田中裕明」など、現代俳句の良質の達成を検証・継承していこうとする姿勢がうかがえる。書評に安井浩司『空なる芭蕉』、高橋龍『異論』を取り上げているのにも注目した。
雁行くや空の高さに海あれど 安井浩司
蚊帳外し俺は大工の子だと言ふ 高橋龍
最後に俳誌「子燕」(しえん)第5号(2月10日発行)。この雑誌は平成22年6月に「白燕」が終刊したあと、俳句・連句・随筆を三本柱として創刊された。この三つは橋閒石のめざしていたことでもある。ここでは連句作品から文韻歌仙「春宵や」の冒頭部分だけ紹介する。
春宵やこの糸底の語るもの 中島布弓美
遠き彼方に蛙鳴く声 赤松勝
柳葉の遁走曲に送られて 井上邦久
同誌は橋閒石の連句を顕彰することも目指しているようで、「白燕」(36号および244号)に掲載された寺崎方堂と橋閒石の両吟〈物名「魚」歌仙〉を掲載している。その発句から第三まで。
鶯の餌振ふ午後の曇かな 方堂
渋茶さめたる盆の草餅 閒石
大樺の肌白々と春暮れて 堂
各句に魚名を詠み込んでいて、発句が「うぐひ」、脇が「さめ」、第三が「はたしろ」というわけである。
以上、少し気ままに柳誌・俳誌を逍遥してみたが、短詩型の言葉の世界は広いものである。
川柳誌「Leaf」第3号(1月1日発行)は同人4人の作品と互評を中心に、新企画も取り入れた誌面構成になっている。まず、同人作品から。
さやえんどうとも添寝とも書き送り 畑美樹
茶会果て僧侶は肉を吊りにゆく 吉澤久良
つづきにも戸惑いやがて背中を噛む 兵頭全郎
ゲラ刷りの海に両手をついている 清水かおり
互評のうち清水かおりによる「畑美樹を読む」から引用してみる。
〈主題がそうである場合を除いて性を意識しながら書く作者はいない。ごく自然に個人の意識など関係のない細胞のせめぎあいの中に性は主張してくる。畑はそういうものに抗わない。受け入れるものは受け入れ、受け入れたものに飲み込まれることもない〉〈この「さやえんどう」「添寝」という物と事を「とも」という接続助詞で同時配置したことで畑の哲学や言語学や経験のようなものがそこに浮かびあがってくる〉
新企画の一つはテーマ詠に同人外(今回は湊圭史)が参加していること。湊は「言語論としての川柳」を書いて、4同人それぞれの言葉と現実に対する差異を指摘している。
新企画の二つ目は先行する川柳人の作品(今回は石田柊馬)を取り上げて10句選と句評を掲載していることである。
ホームページでも同人作品に対する句評が進行中のようだ。
http://live-leaf.com/
「触光」21号(2月1日発行)、野沢省悟が「便所の落書き」というタイトルで寺山修司のサインを紹介している。1959年(昭和34年)、山村祐の旅館夕月荘で歌人・俳人・川柳人が集まったときに寺山が書いたもののコピーである。このときの参加者は山村祐・奥室和市・松本芳味・青田煙眉・寺山修司・三須浩司・柴田義彦・古川克己・瓜生島清・加藤克己の10名だったという。この場で寺山は次のように語ったと言われる
「短歌は歌謡曲になれ、俳句は呪文になれ、川柳は便所の落書きになれ」
これが川柳界では有名な「便所の落書き」発言である。川柳に対する蔑視とも受け取れるし、川柳に対する寺山流のエールとも受け取れるので、物議をかもした。野沢は若いころはこの言葉に反発したが、現在は寺山の川柳に対するほのかな愛情を感じると述べている。
「触光」は青森で発行されている柳誌。会員作品から。
決心というほどでない爪を切る 斉藤幸男
明け渡す椅子に転がす濡れた石 滋野さち
人混みを歩くと柔になる鱗 瀧正治
降りつもる何もなかったから童話 吉田州花
銀行が消えてしまった北の街 高田寄生木
釘の匂いの女が通り過ぎてゆく 野沢省悟
また、時事川柳にも力を入れており、渡辺隆夫が選をしている。
陰口はウィキリークスが狙ってる 船水葉
一兵卒に誰も敵わぬ 瀧正治
酒飲むと海老は真逆に反るらしい 濱山哲也
ずれている開門拷問水戸黄門 小林こうこ
一筆啓上「北京では今×××××」 山川舞句
次に「円錐」第48号(1月30日発行)をご紹介。澤好摩を発行人とし、山田耕司・今泉康弘などを擁する俳誌である。
寒たまご切るに斜面のうまれけり 山田耕司
坂の上の雲に縫い目があるぞ諸君 今泉康弘
朝ぼらけクロツラヘラサギてんでんこ 入船誠二
桃の日のデパートに象をりしころ 栗林浩
「検証・昭和俳句史Ⅱ」では三橋鷹女について澤好摩と山田耕司が対談。連載「エリカはめざむ」は今泉康弘による渡邊白泉の評伝。栗林浩の連載「入門・攝津幸彦と田中裕明」など、現代俳句の良質の達成を検証・継承していこうとする姿勢がうかがえる。書評に安井浩司『空なる芭蕉』、高橋龍『異論』を取り上げているのにも注目した。
雁行くや空の高さに海あれど 安井浩司
蚊帳外し俺は大工の子だと言ふ 高橋龍
最後に俳誌「子燕」(しえん)第5号(2月10日発行)。この雑誌は平成22年6月に「白燕」が終刊したあと、俳句・連句・随筆を三本柱として創刊された。この三つは橋閒石のめざしていたことでもある。ここでは連句作品から文韻歌仙「春宵や」の冒頭部分だけ紹介する。
春宵やこの糸底の語るもの 中島布弓美
遠き彼方に蛙鳴く声 赤松勝
柳葉の遁走曲に送られて 井上邦久
同誌は橋閒石の連句を顕彰することも目指しているようで、「白燕」(36号および244号)に掲載された寺崎方堂と橋閒石の両吟〈物名「魚」歌仙〉を掲載している。その発句から第三まで。
鶯の餌振ふ午後の曇かな 方堂
渋茶さめたる盆の草餅 閒石
大樺の肌白々と春暮れて 堂
各句に魚名を詠み込んでいて、発句が「うぐひ」、脇が「さめ」、第三が「はたしろ」というわけである。
以上、少し気ままに柳誌・俳誌を逍遥してみたが、短詩型の言葉の世界は広いものである。
2011年2月11日金曜日
ゼロ年代の川柳
「ゼロ年代」(2000年~2009年)が終了して、「テン年代」とか「ポスト・ゼロ年代」とか言われるが、このような呼び方に反発や違和感をもつ向きもあるようだ。西暦10年ごとに区切るよりはもっと大きなスパンでとらえた方がよいのではないかということらしい。けれども、「昭和俳句」「平成俳句」などのような呼び方との違いは、「ゼロ年代」という区切り方をすると、ジャンルを横断しての共時的比較が可能になるという点である。特に川柳の場合は、年代的把握意識に乏しいから、「ゼロ年代川柳」というとらえ方で見えてくる光景があるのではないかと期待できる。
ゼロ年代の考察に入る前に、その前提となりそうな話題を振り返っておきたい。
短歌誌「井泉」37号(2011年1月1日発行)のリレー評論では〈短歌の「修辞レベルでの武装解除」を考える―95年以降の表現の変質について―〉というテーマで、荻原裕幸と彦坂美喜子の評論が掲載されている。
「修辞レベルでの武装解除」というのは穂村弘著『短歌の友人』(河出書房新社)に出てくる言葉である。穂村はこんなふうに書いている。
《90年代の後半から時代や社会状況の変化に合わせるように世界観の素朴化や自己意識のフラット化が起こり、それに基づく修辞レベルでの武装解除、すなわち「うた」の棒立ち化が顕著になったのではないか》(「棒立ちの歌」)
《定型意識の共有化や共通資産としての技法といった短歌の「枠組み」を充分理解している作者が、〈私〉の実感を盛り込むための一回性の破調の方にしばしば傾く。この意識的な武装解除、或いは棒立ちのポエジーの選択ともいうべき事態に私は驚きを感じる。彼らは自らの実感に対して忠実であるために意識的に短歌の素人になっているのだ》(「短歌的武装解除のこと」)
穂村のこの認識をベースとして、「95年以降の表現の変質」という問題設定が生まれてくる。彦坂美喜子は「別のリアリズムが生まれている」で、「例えば今橋愛は1976年生まれ。95年には18歳。永井祐は1981年生まれだから95年には14歳である。かれらの作品が生まれる背景には、90年代後半の社会的環境の影響があるのではないかと考えるからである」と述べている。そのような社会環境の変化として、彦坂は「大きな物語の崩壊」とネット社会における感性の変化を挙げている。
ゼロ年代の短歌表現を代表するのは永井祐であるらしい。彦坂の引用しているのは次のような歌である。
会わなくても元気だったらいいけどな 水たまり雨粒でいそがしい 永井祐
おじさんは西友よりずっと小さくて裏口に自転車をとめている
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね
彦坂は「何かが変わったとすれば、レトリックを駆使した歌がどこか作り物めいて見えるということである。むしろどこにでも、誰にでも言葉そのままに伝わる表現に安心する。そこには強固な主体も、作者の意識的な身振りも影を潜め、ごく狭くて浅い了解可能な表現のうえにしか共感を持てない現在の心象があるのではないか」と述べて、「近代自然主義リアリズム」とは「別のリアリズム」が生まれていることを論じている。
もう一人の論者である荻原裕幸は「私と口語とレトリック」で、1995年以降の短歌の情況を「情報の共有や即時的な伝達を求める場の問題」としつつ、「私をめぐる表現の、変容の一形態」と捉えている。「私」を「集合内の属性として突きつめてゆく思考」(たとえば、女歌という場合のように、女性的な要素を自覚的にモチーフに組み込んでゆくこと)から「私は他の誰でもなく私であるという感覚」へ向かっているというのである。ここでも引用されているのは永井祐である。
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
テレビメールするメールするぼくをつつんでいる品川区
以上、『井泉』のリレー評論における「95年以降」というとらえ方について見てきた。それでは「ゼロ年代の川柳表現」はどのようなものであろうか。
「バックストローク」33号掲載の「詩性川柳の実質」では、石田柊馬が「ゼロ年代川柳」を本格的に論じている。残念ながら「ゼロ年代川柳人」と呼べるような若手川柳人は存在せず、川柳におけるゼロ年代は40代から70代までの中高年川柳人が当事者なので、石田柊馬も言うようにフレッシュとは言えない。
石田はまず先行世代の川柳に遡り、ゼロ年代川柳の傾向を80年代以降に先鞭をつけた存在として渡辺隆夫をあげている。
煤払うとき元号を落とすなよ 渡辺隆夫
おぼろ夜に馬飛び込んで大射精
服を脱がせて案山子に何をするのです
鬱々うっぷん仕事に励みましょう
《近代川柳は個人の「思いを書く」文芸であったが、渡辺は、いわば近代川柳の〈書き方〉の必須条件であった作者の存在!を句の表面から蹴り飛ばした》と石田はコメントしている。ここに、短歌ジャンルとは異なる川柳固有の事情がある。
近代川柳は「作者の思い」を書くという形で「私川柳」に特化したが、それが袋小路に入りこむにつれて、その超克の方向が探られるようになった。石田によれば《 近代川柳は、作者の存在、その「思い」への執着が強くて、川柳らしい〈書き方〉を軽んじたり忘れたりするほどの傾向があった。とりわけ私川柳は、川柳的な〈書き方〉を二義的にしていた 》という。それに対して、渡辺隆夫の川柳は「川柳的な書き方」と「外向きの表現法(外向性)」を取り戻したというのだ。現代短歌の一部が「修辞的な武装解除」へ向かったのとは逆に、現代川柳においては近代川柳を止揚するためには前近代的な狂句の手法を取り入れる必要があったことになる。石田に即して言えば、「近代的自我表出の〈書き方〉」から「現代的な川柳の〈書き方〉」へ。歌人のいう「私は他のだれでもなく私であるという感覚」「生の一回性の感情」は、川柳の場合「思いを書く」という一点に矮小化され、しかも若手川柳人による「私」の更新も期待できない情況の中で飽和状態に達していたのである。ゼロ年代川柳とはそのことに対する中高年川柳人による打開の試みにほかならない。
石田はゼロ年代の川柳について「方向性のバラツキ」「不安定で、個々の作者に揺り戻しが生じないとも言い切れず、明日に続くとも言えない」と述べる一方、「いままでの川柳の枠を広げるスパイラルが描かれる可能性」も否定していない。石田が挙げているのは、次のような作品である。
内海氏がもう一人いる月の裏 兵頭全郎
カマキリの唐揚げミカエルの調書 湊圭史
十六夜亜細亜のおこげ美味かりし きゅういち
盗掘の穴だから語尾変化するよ 横澤あや子
ゴリラだと岡山西署に出頭す 江口ちかる
夜が明けて筆頭家老フラダンス 森茂俊
蚊柱が立つ累代の臍の位置 井上一筒
血早振神将不定愁訴群 吉澤久良
短歌における「武装解除」に対して、川柳においては「現代的な川柳の書き方」が模索されているとしたら、それは興味深い現象ではないだろうか。
ゼロ年代の考察に入る前に、その前提となりそうな話題を振り返っておきたい。
短歌誌「井泉」37号(2011年1月1日発行)のリレー評論では〈短歌の「修辞レベルでの武装解除」を考える―95年以降の表現の変質について―〉というテーマで、荻原裕幸と彦坂美喜子の評論が掲載されている。
「修辞レベルでの武装解除」というのは穂村弘著『短歌の友人』(河出書房新社)に出てくる言葉である。穂村はこんなふうに書いている。
《90年代の後半から時代や社会状況の変化に合わせるように世界観の素朴化や自己意識のフラット化が起こり、それに基づく修辞レベルでの武装解除、すなわち「うた」の棒立ち化が顕著になったのではないか》(「棒立ちの歌」)
《定型意識の共有化や共通資産としての技法といった短歌の「枠組み」を充分理解している作者が、〈私〉の実感を盛り込むための一回性の破調の方にしばしば傾く。この意識的な武装解除、或いは棒立ちのポエジーの選択ともいうべき事態に私は驚きを感じる。彼らは自らの実感に対して忠実であるために意識的に短歌の素人になっているのだ》(「短歌的武装解除のこと」)
穂村のこの認識をベースとして、「95年以降の表現の変質」という問題設定が生まれてくる。彦坂美喜子は「別のリアリズムが生まれている」で、「例えば今橋愛は1976年生まれ。95年には18歳。永井祐は1981年生まれだから95年には14歳である。かれらの作品が生まれる背景には、90年代後半の社会的環境の影響があるのではないかと考えるからである」と述べている。そのような社会環境の変化として、彦坂は「大きな物語の崩壊」とネット社会における感性の変化を挙げている。
ゼロ年代の短歌表現を代表するのは永井祐であるらしい。彦坂の引用しているのは次のような歌である。
会わなくても元気だったらいいけどな 水たまり雨粒でいそがしい 永井祐
おじさんは西友よりずっと小さくて裏口に自転車をとめている
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね
彦坂は「何かが変わったとすれば、レトリックを駆使した歌がどこか作り物めいて見えるということである。むしろどこにでも、誰にでも言葉そのままに伝わる表現に安心する。そこには強固な主体も、作者の意識的な身振りも影を潜め、ごく狭くて浅い了解可能な表現のうえにしか共感を持てない現在の心象があるのではないか」と述べて、「近代自然主義リアリズム」とは「別のリアリズム」が生まれていることを論じている。
もう一人の論者である荻原裕幸は「私と口語とレトリック」で、1995年以降の短歌の情況を「情報の共有や即時的な伝達を求める場の問題」としつつ、「私をめぐる表現の、変容の一形態」と捉えている。「私」を「集合内の属性として突きつめてゆく思考」(たとえば、女歌という場合のように、女性的な要素を自覚的にモチーフに組み込んでゆくこと)から「私は他の誰でもなく私であるという感覚」へ向かっているというのである。ここでも引用されているのは永井祐である。
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
テレビメールするメールするぼくをつつんでいる品川区
以上、『井泉』のリレー評論における「95年以降」というとらえ方について見てきた。それでは「ゼロ年代の川柳表現」はどのようなものであろうか。
「バックストローク」33号掲載の「詩性川柳の実質」では、石田柊馬が「ゼロ年代川柳」を本格的に論じている。残念ながら「ゼロ年代川柳人」と呼べるような若手川柳人は存在せず、川柳におけるゼロ年代は40代から70代までの中高年川柳人が当事者なので、石田柊馬も言うようにフレッシュとは言えない。
石田はまず先行世代の川柳に遡り、ゼロ年代川柳の傾向を80年代以降に先鞭をつけた存在として渡辺隆夫をあげている。
煤払うとき元号を落とすなよ 渡辺隆夫
おぼろ夜に馬飛び込んで大射精
服を脱がせて案山子に何をするのです
鬱々うっぷん仕事に励みましょう
《近代川柳は個人の「思いを書く」文芸であったが、渡辺は、いわば近代川柳の〈書き方〉の必須条件であった作者の存在!を句の表面から蹴り飛ばした》と石田はコメントしている。ここに、短歌ジャンルとは異なる川柳固有の事情がある。
近代川柳は「作者の思い」を書くという形で「私川柳」に特化したが、それが袋小路に入りこむにつれて、その超克の方向が探られるようになった。石田によれば《 近代川柳は、作者の存在、その「思い」への執着が強くて、川柳らしい〈書き方〉を軽んじたり忘れたりするほどの傾向があった。とりわけ私川柳は、川柳的な〈書き方〉を二義的にしていた 》という。それに対して、渡辺隆夫の川柳は「川柳的な書き方」と「外向きの表現法(外向性)」を取り戻したというのだ。現代短歌の一部が「修辞的な武装解除」へ向かったのとは逆に、現代川柳においては近代川柳を止揚するためには前近代的な狂句の手法を取り入れる必要があったことになる。石田に即して言えば、「近代的自我表出の〈書き方〉」から「現代的な川柳の〈書き方〉」へ。歌人のいう「私は他のだれでもなく私であるという感覚」「生の一回性の感情」は、川柳の場合「思いを書く」という一点に矮小化され、しかも若手川柳人による「私」の更新も期待できない情況の中で飽和状態に達していたのである。ゼロ年代川柳とはそのことに対する中高年川柳人による打開の試みにほかならない。
石田はゼロ年代の川柳について「方向性のバラツキ」「不安定で、個々の作者に揺り戻しが生じないとも言い切れず、明日に続くとも言えない」と述べる一方、「いままでの川柳の枠を広げるスパイラルが描かれる可能性」も否定していない。石田が挙げているのは、次のような作品である。
内海氏がもう一人いる月の裏 兵頭全郎
カマキリの唐揚げミカエルの調書 湊圭史
十六夜亜細亜のおこげ美味かりし きゅういち
盗掘の穴だから語尾変化するよ 横澤あや子
ゴリラだと岡山西署に出頭す 江口ちかる
夜が明けて筆頭家老フラダンス 森茂俊
蚊柱が立つ累代の臍の位置 井上一筒
血早振神将不定愁訴群 吉澤久良
短歌における「武装解除」に対して、川柳においては「現代的な川柳の書き方」が模索されているとしたら、それは興味深い現象ではないだろうか。
2011年2月4日金曜日
「難解」問題は権力闘争だったのか
「バックストローク」33号(2011年1月25日)が発行された。9年目を迎えて表紙を一新し、あらたなスタートを切っている。読みどころはいろいろあるが、注目すべきは関悦史が〈「難解」な川柳が読みたい〉を書いていることである。これには以下のような経緯がある。
昨年の「俳句界」7月号の特集「この俳句さっぱりわからん?」に関は「在ることは謎、謎は魅惑」という文章を執筆している。その中で彼は次のように述べている。
「俳句に限ったことではないが、最終的に大きな謎へと開けていない作品など一度接すれば事足りてしまう。古典と化す作品とは長期に渡り魅惑的なわからなさを産出し続ける作品に他ならない」
関悦史はまたウェブマガジン「週刊俳句」の「俳句時評」(2010年8月15日)で、難解句について「昨日の難解が今日の平易というのは俳句に限ったことではない」「それよりも気にかかるのは詩(俳句)は一義的に理解されるものでなければならない、されるのが当然であるという前提が無意識にあるようだということだ」と書いて、そもそも「難解」という言葉が批評用語として意味を持つのかを問いかけている。
また彼はネットの「閑中俳句日記(別館)」(2010年8月18日)でも「バックストローク」29号(第3回BSおかやま川柳大会特集)に触れて、「川柳の方も“難解”問題があるようだ」として、石部明の次の発言を引用している。
《個性のありそうな新人の何人かに注目していても、結局は個性のない、しかし大会などではよく抜ける平凡な書き手になってしまう。これは受け皿の問題でしょう。少し個性的な句を書き始めると「そんな独りよがりの句では、バックストロークで評価されても大会では通用しませんよ」とか自分たちの世界に引き戻してしまう。》(発行人石部明の大会での発言)
そして関悦史は次のようにコメントしている。
〈“難解”が排されると驚異的なもの、綺想的なものはその居場所を失ってしまうので、読む側としてはいささか興が失せる〉
〈川柳作品の場合は特に、『優雅に叱責する自転車』等のエドワード・ゴーリーの不条理絵本や稲垣足穂の「一千一秒物語」、あるいはある時期以降の眉村卓のSFショートショート(『ポケットのABC』『ポケットのXYZ』『最後のポケット』『ふつうの家族』)みたいに変な状況、奇妙なイメージが合理的説明や物語性に回収されずにそのまま投げ出されていてその解放感を楽しむような作品と同列に享受すればいいのではないかと思うのだが〉
これらの文章をふまえて、「バックストローク」編集部から「現代川柳は難解か」というテーマで関に原稿依頼をしたのであった。
関は「セレクション柳人」シリーズに目を通したうえで、「ことさら難解と呼ばなければならないような読解不能な作品はほとんど見当たらなかった」と述べている。川柳界で「難解」と見なされている作品が、短詩型の別のジャンルから見れば難解でも何でもないということは、いったい何を意味するのであろうか。
「難解」に関しては、川柳側の事情というものもある。
たとえば、木津川計の『人生としての川柳』(角川学芸ブックス)には「難解」に関して次のような記述がある。
木津川が紹介しているのは新家完司が「川柳マガジン」2008年9月号で述べた難解句についての考察である。以下は新家完司の意見である。
まず「読み手の責任」として新家は次の2点を挙げる。
①読み解く力が足りない。
②感性から生まれた句を理詰めで解こうとしている。
次に「作者の責任」としては、次の諸点である。
①伝達性を無視している。
②難しい句の方が上等だと思っている。
③想いも言葉も整理できていない句をだしている。
④二物衝撃の取り合わせが離れすぎている。
新家も、新家を引用している木津川も「難解句」を頭から否定しているわけではないが、川柳界の一般的雰囲気を代表しているだろう。
「川柳が近付く事の出来ない別世界であってはならない」(椙元紋太)とか「佳句佳吟一読明快いつの世も」(近江砂人)などに共感を覚える川柳人は現在でも多いはずである。
そのような川柳界の雰囲気に対して、関悦史の外部からの眼差しは十分衝撃的でありうる。
問題は関のいう「難解」とは何かということに尽きる。
彼は川柳について、〈メッセージのレベルで何を言っているのかがわからなければ鑑賞できないと考える読者は、俳句・短歌よりも多いのではないか。その結果、隠喩や寓意的表現のいちいちを散文的、合理的な意味性に一対一対応させようとし、無理な深読みが発生することになる〉と指摘している。このことは、「難解」と言われる川柳作品を、「いや、難解ではなくて、こういう意味なんだよ」と解説しようとするときに、陥りやすい陥穽である。
ところで、関悦史の文章を受けて、西原天気は「週刊俳句」第197号(2011年1月30日)の【柳誌を読む】のコーナーで「バックストローク」33号に触れ、〈「難解」をめぐる権力闘争〉という文章を書いている。西原がまず反応したのは、関悦史の文章の次のような部分である。
〈俳句も川柳も読者の大部分が実作者と思われるが、川柳作家たちの中にも川柳はわかりやすくなければならないという通念を根強く持つ人たちが少なからずおり、詩的テクストとしての高度化を目指す句に対し違和感を表明する。そしてそれがしばしば鑑賞者個人の読解力が及ばないというだけにとどまらず、こういうものは川柳(俳句)の本道ではないというセンタリング、価値判断に直結することになる。/この場合「難解」だという表明、難解さの指弾とそれへの反論はひとつの権力闘争なのだ。川柳は「文学」になりたいのかなりたくないのかといいう、ジャンル内の無意識的相克が発現する場に立ちあらわれる言葉が「難解」の一語なのである〉
うーむ、「難解」問題は「権力闘争」だったのか。確かにそのような言い方をすることもできるが、川柳界では従来、句をきちんと読むという習慣に乏しく、句評もあまり発達していない。従って、「読み」を充実させ、批評を確立すれば、「難解」問題はある程度解消するのではないかと思っていたのだが、「権力闘争」であれば勢力の力学に従うことになってしまう。
そもそも西原は川柳に対する次のような疑問を以前から抱いていたという。
〈難解な句と「誰にもわかる」句のあいだの溝は、俳句にもある。しかし、俳句の場合、その両極は、溝があるとはいえ、まだ地続きのようにも思える。いわゆる前衛的な作風(関は九堂夜想を例として挙げている)の句群と、例えば「おーいお茶」俳句とは、細い線ではあっても、まだ繋がりを見出せるように思うのだ。溝はあっても、決定的に断絶しているわけではない〉〈ところが、川柳の場合、この「バックストローク」誌に掲載された川柳と、例えばサラリーマン川柳とのあいだには、俳句の場合よりもはるかに深くて広い溝があるように思える〉〈それならば、「難解な川柳」だけが、川柳全体から隔絶し、離れ小島のように存在すると見ればいいのか〉
以上が「難解川柳」に対する、西原天気の情況分析である。いや、川柳にはそのような溝はないのだ、と言いたいところだが、そのための材料を持ち合わせていない。時系列によって順次発生してきたはずの様々な川柳が、現時点において同時並行的に存在しているのだ。
さて、本稿の冒頭近くで引用した関のいう「長期に渡り魅惑的なわからなさを産出し続ける作品」について、私は高柳重信の言った「誤解を生む力」のことを思い出す。言語表現は多彩で多様な「誤解」(「俗解」ではない)を生み出すことによって創造性を発揮する、というのだ。逆に、「俗解」にからめとられるような作品は「二流の作品」である。
落日をゆく落日をゆく真赤(あか)い中隊 富澤赤黄男
賑やかな骨牌の裏面(うら)のさみしい絵
これらの作品は「俗解」を生みやすく、人気のある句になりそうなのを嫌って、赤黄男は『天の狼』には収録しなかったのだ、と重信は言う。
川柳の「一読明快」は「俗解」であることが多い。意味性による川柳の解釈は無理な深読みに陥りがちである。「平明で深みのある作品」を書くことはむつかしい。それらの困難や陥穽を越えて真の意味の「難解な川柳」が実現するときを待ちたい。
昨年の「俳句界」7月号の特集「この俳句さっぱりわからん?」に関は「在ることは謎、謎は魅惑」という文章を執筆している。その中で彼は次のように述べている。
「俳句に限ったことではないが、最終的に大きな謎へと開けていない作品など一度接すれば事足りてしまう。古典と化す作品とは長期に渡り魅惑的なわからなさを産出し続ける作品に他ならない」
関悦史はまたウェブマガジン「週刊俳句」の「俳句時評」(2010年8月15日)で、難解句について「昨日の難解が今日の平易というのは俳句に限ったことではない」「それよりも気にかかるのは詩(俳句)は一義的に理解されるものでなければならない、されるのが当然であるという前提が無意識にあるようだということだ」と書いて、そもそも「難解」という言葉が批評用語として意味を持つのかを問いかけている。
また彼はネットの「閑中俳句日記(別館)」(2010年8月18日)でも「バックストローク」29号(第3回BSおかやま川柳大会特集)に触れて、「川柳の方も“難解”問題があるようだ」として、石部明の次の発言を引用している。
《個性のありそうな新人の何人かに注目していても、結局は個性のない、しかし大会などではよく抜ける平凡な書き手になってしまう。これは受け皿の問題でしょう。少し個性的な句を書き始めると「そんな独りよがりの句では、バックストロークで評価されても大会では通用しませんよ」とか自分たちの世界に引き戻してしまう。》(発行人石部明の大会での発言)
そして関悦史は次のようにコメントしている。
〈“難解”が排されると驚異的なもの、綺想的なものはその居場所を失ってしまうので、読む側としてはいささか興が失せる〉
〈川柳作品の場合は特に、『優雅に叱責する自転車』等のエドワード・ゴーリーの不条理絵本や稲垣足穂の「一千一秒物語」、あるいはある時期以降の眉村卓のSFショートショート(『ポケットのABC』『ポケットのXYZ』『最後のポケット』『ふつうの家族』)みたいに変な状況、奇妙なイメージが合理的説明や物語性に回収されずにそのまま投げ出されていてその解放感を楽しむような作品と同列に享受すればいいのではないかと思うのだが〉
これらの文章をふまえて、「バックストローク」編集部から「現代川柳は難解か」というテーマで関に原稿依頼をしたのであった。
関は「セレクション柳人」シリーズに目を通したうえで、「ことさら難解と呼ばなければならないような読解不能な作品はほとんど見当たらなかった」と述べている。川柳界で「難解」と見なされている作品が、短詩型の別のジャンルから見れば難解でも何でもないということは、いったい何を意味するのであろうか。
「難解」に関しては、川柳側の事情というものもある。
たとえば、木津川計の『人生としての川柳』(角川学芸ブックス)には「難解」に関して次のような記述がある。
木津川が紹介しているのは新家完司が「川柳マガジン」2008年9月号で述べた難解句についての考察である。以下は新家完司の意見である。
まず「読み手の責任」として新家は次の2点を挙げる。
①読み解く力が足りない。
②感性から生まれた句を理詰めで解こうとしている。
次に「作者の責任」としては、次の諸点である。
①伝達性を無視している。
②難しい句の方が上等だと思っている。
③想いも言葉も整理できていない句をだしている。
④二物衝撃の取り合わせが離れすぎている。
新家も、新家を引用している木津川も「難解句」を頭から否定しているわけではないが、川柳界の一般的雰囲気を代表しているだろう。
「川柳が近付く事の出来ない別世界であってはならない」(椙元紋太)とか「佳句佳吟一読明快いつの世も」(近江砂人)などに共感を覚える川柳人は現在でも多いはずである。
そのような川柳界の雰囲気に対して、関悦史の外部からの眼差しは十分衝撃的でありうる。
問題は関のいう「難解」とは何かということに尽きる。
彼は川柳について、〈メッセージのレベルで何を言っているのかがわからなければ鑑賞できないと考える読者は、俳句・短歌よりも多いのではないか。その結果、隠喩や寓意的表現のいちいちを散文的、合理的な意味性に一対一対応させようとし、無理な深読みが発生することになる〉と指摘している。このことは、「難解」と言われる川柳作品を、「いや、難解ではなくて、こういう意味なんだよ」と解説しようとするときに、陥りやすい陥穽である。
ところで、関悦史の文章を受けて、西原天気は「週刊俳句」第197号(2011年1月30日)の【柳誌を読む】のコーナーで「バックストローク」33号に触れ、〈「難解」をめぐる権力闘争〉という文章を書いている。西原がまず反応したのは、関悦史の文章の次のような部分である。
〈俳句も川柳も読者の大部分が実作者と思われるが、川柳作家たちの中にも川柳はわかりやすくなければならないという通念を根強く持つ人たちが少なからずおり、詩的テクストとしての高度化を目指す句に対し違和感を表明する。そしてそれがしばしば鑑賞者個人の読解力が及ばないというだけにとどまらず、こういうものは川柳(俳句)の本道ではないというセンタリング、価値判断に直結することになる。/この場合「難解」だという表明、難解さの指弾とそれへの反論はひとつの権力闘争なのだ。川柳は「文学」になりたいのかなりたくないのかといいう、ジャンル内の無意識的相克が発現する場に立ちあらわれる言葉が「難解」の一語なのである〉
うーむ、「難解」問題は「権力闘争」だったのか。確かにそのような言い方をすることもできるが、川柳界では従来、句をきちんと読むという習慣に乏しく、句評もあまり発達していない。従って、「読み」を充実させ、批評を確立すれば、「難解」問題はある程度解消するのではないかと思っていたのだが、「権力闘争」であれば勢力の力学に従うことになってしまう。
そもそも西原は川柳に対する次のような疑問を以前から抱いていたという。
〈難解な句と「誰にもわかる」句のあいだの溝は、俳句にもある。しかし、俳句の場合、その両極は、溝があるとはいえ、まだ地続きのようにも思える。いわゆる前衛的な作風(関は九堂夜想を例として挙げている)の句群と、例えば「おーいお茶」俳句とは、細い線ではあっても、まだ繋がりを見出せるように思うのだ。溝はあっても、決定的に断絶しているわけではない〉〈ところが、川柳の場合、この「バックストローク」誌に掲載された川柳と、例えばサラリーマン川柳とのあいだには、俳句の場合よりもはるかに深くて広い溝があるように思える〉〈それならば、「難解な川柳」だけが、川柳全体から隔絶し、離れ小島のように存在すると見ればいいのか〉
以上が「難解川柳」に対する、西原天気の情況分析である。いや、川柳にはそのような溝はないのだ、と言いたいところだが、そのための材料を持ち合わせていない。時系列によって順次発生してきたはずの様々な川柳が、現時点において同時並行的に存在しているのだ。
さて、本稿の冒頭近くで引用した関のいう「長期に渡り魅惑的なわからなさを産出し続ける作品」について、私は高柳重信の言った「誤解を生む力」のことを思い出す。言語表現は多彩で多様な「誤解」(「俗解」ではない)を生み出すことによって創造性を発揮する、というのだ。逆に、「俗解」にからめとられるような作品は「二流の作品」である。
落日をゆく落日をゆく真赤(あか)い中隊 富澤赤黄男
賑やかな骨牌の裏面(うら)のさみしい絵
これらの作品は「俗解」を生みやすく、人気のある句になりそうなのを嫌って、赤黄男は『天の狼』には収録しなかったのだ、と重信は言う。
川柳の「一読明快」は「俗解」であることが多い。意味性による川柳の解釈は無理な深読みに陥りがちである。「平明で深みのある作品」を書くことはむつかしい。それらの困難や陥穽を越えて真の意味の「難解な川柳」が実現するときを待ちたい。