このコーナーではいつも「短詩型文学全体の中での川柳」というスタンスで書くことが多いが、今回は川柳界内部の話題をいくつかひろってみたい。何冊かの柳誌を読みながら、特に、現代川柳における選句の基準について考えさせられることが多かった。
1月の柳誌の中でまず注目すべきは、「第15回杉野十佐一賞」が掲載されている「おかじょうき」(発行人・むさし、編集人・Sin)である。杉野十佐一(すぎの・とさいち)は青森県の川柳人。昭和26年に「おかじょうき川柳社」を設立、昭和54年に没するまで同社の代表をつとめた。
さて、今年の選者5人が選んだ特選句をまず紹介する。兼題は「音」である。
なかはられいこ選 親戚が来たビニールの音立てて 坂井冬子
樋口由紀子選 音たてず托鉢ひとりを羽交じめ 岡崎一也
広瀬ちえみ選 「不協和音ですか」エー出汁が取れます 能田勝利
高瀬霜石選 唇の動きはたぶんさようなら 赤平くみこ
むさし選 からっぽになってきれいな音がする ながたまみ
点数制によって〈「不協和音ですか」エー出汁が取れます〉が大賞を受賞した。
興味深いのはそれぞれの選者の特選句に対する選評である。
なかはられいこは〈「ビニール」と「親戚」を結びつけた言語センスのすばらしさ〉を評価し、樋口由紀子は「思いをうまく言葉にした川柳よりも言葉の持っている力を発揮した川柳の方に惹かれる」と述べている。広瀬ちえみは「読みをひろげれば、人間だっていろいろな性格が集まっていい集団になれるかもしれない。でもこれはなかなか難しいものが含まれてもいるのだが」「ひとつの作品が世界をひろげてくれ、なんといっても『不協和音』と『出汁』の組み合わせは驚異である」と書いている。高瀬霜石も「不協和音」の句に触れて、「エー」の部分は関西弁の「よい」という意味にも取れるが、「エー、そのココロは」というふうに落語的オチと読んでもおもしろいのではないかという。また霜石は「唇の動きは」の句について、「特選の句は、心に滲みた」「僕にとってはどっしりと重く、かつ救われる句でもあった」と述べている。むさしは「からっぽに」の句を「シンプルでありながらも深い感動を誘う句」であり「17音のどこにも難しい言葉が出て来ない、それでいながら読む者の心を強く揺さぶる」と評価している。
以上、それぞれの選者の川柳観の違いが垣間見えるものとなっている。「共感と驚異」という二分法で言えば、「共感」の方に重点をおくか、「驚異」の方に評価基準をおくか、ということになるだろうが、両者が混在することもありうる。「言葉」に注目する場合でも、「言語センス」「言葉の力」「組み合わせ」と微妙にそのニュアンスは異なっている。
杉野十佐一賞は現代川柳の動向を知る上で重要な賞であり、現在の川柳状況を端的に反映している点でも興味深い。
「風」(編集発行・佐藤美文)は休刊中と聞いていたが、今回81号が「十四字詩誌上大会発表号」として刊行された。
短句・七七形式の川柳は武玉川調とも呼ばれ、川柳界の一部で愛好されてきた。現在は「十四字」または「十四字詩」という名称で定着しつつある。埼玉の清水美江(しみず・びこう)はこの形式を愛用し、「風」誌の佐藤美文はその系譜をひいている。
巻頭、『誹諧武玉川』の作品が掲載されているので、何句か引用する。
雫の伝ふさほ鹿の角 『誹諧武玉川』
取付安い顔へ相談
夜ハ蛍にとぼされる草
利口になって飛ばぬ清水
おどりが済で人くさい風
さて誌上大会の兼題「メール」から。
時効のメール灰へ変身 藤田誠
メール開けると化粧濃くなる 原名幸雄
依存症かな肌身離さず 菊田啓子
メール集めて機を織ります 茂木かをる
メールで遊ぶボクじゃない僕 清水香代子
木偶のメールを風がさらった 加藤孤太郎
十四字は一句屹立させるのがむつかしいが、五七五定型よりさらに短い詩形として可能性のある分野である。
「ふらすこてん」(発行人・筒井祥文、編集人・兵頭全郎)が創刊3年目に入った。
13号の巻頭言に筒井祥文はこんなふうに書いている。
〈既に、伝統か革新かなどと悠長をいっている場合ではないのです。その前に作っているものが「川柳」なのか「川柳もどき」なのかの色分けをしなければならない時代に突入しているのです〉
文言だけを見ると「俳句」と「俳句に似たもの」論争と同じように受け取れるかも知れないが、祥文の真意は非伝統的な作品を排除しようというのではなく、伝統川柳を自称するものがすでに「川柳」ですらないほど崩壊しているという危機感にあるだろう。
「石の上にも3年」とは古い諺だが、一誌を立ち上げて3年目を見すえながら、祥文は次の一手を考えているのだろう。同人作品から。
世の中に門は三個と決められる 兵頭全郎
ネジ山へ薄き少女に手をひかれ 吉澤久良
懊悩に歯間刷子は行きつ戻りつ 上野勝彦
〈自問樹〉の実が爆ぜました乱とでました きゅういち
入国のカニの水虫検査せよ 壺内半酔
胴長の虫ドボンから這い上がる くんじろう
壬申の乱を問診票に書く 井上一筒
天気図の中の人魚は溺れている 富山やよい
さっきから停車するのは同じ駅 山田ゆみ葉
梟の明るい爪を我慢する 筒井祥文
『川柳木馬』126・127合併号は昨年9月に開催された「第2回木馬川柳大会」の発表誌である。ここでは事前投句「ひらく」をめぐって、林嗣夫・石田柊馬・吉澤久良の三者による合評を取り上げる。特に、次の2句をめぐるやり取りは、三者の読みの差異を際立たせていて興味深い。
モーゼの海を渡りゆく思惟 一羽
切開部分から出たのは液体の姉
「モーゼの海」について、吉澤は映画「十戒」にふれつつ、一般に抽象語を使うのは難しく、抽象語だけが浮き上がってしまう傾向があるが、この句では「思惟」という抽象語がモーゼの人物像と共鳴しあうことによって、そのような欠点から免れていると述べた。また、一字空けによって、視線が海の平面から空高く飛ぶ一羽の一点に集中すると評価した。林も「ひらく」という題からモーゼの海を着想した点を認め、イスラエルの民の道行きを「渡りゆく思惟」と的確な表現をしているが、「私の生活」から遠かったので取れなかったと述べた。石田は、思惟している一羽(ひとりの人間)がモーゼと同じようなことを考えようとしていると読むが、そこにナルシシズムを感じて取らなかったと言う。吉澤はこれに反論して、自分から離れてゆく虚構であってもまったくかまわない、問題となるのは一句の構造であり、「一羽」は作者自身ではなく、作者は「一羽」を外から(別の視点から)見ているのだと述べた。
次に、「切開部分」について、林は「川柳という言葉の領域を押し広げようとする意欲的な実験的な作品」と評価しつつも、「液体の姉」と書いて何が表現されるのだろうと疑義を呈した。石田はこの句に対して「川柳的な意表」を書いたものとし、こんな意表のつき方をしなくてもいいんじゃないかと述べた。これに対して、吉澤は「言葉と言葉の関係性」から言えば「液体の姉」は詩的であると評価した。
各選者の特選句を抜き出してみよう。ここでは選句基準を問題にしているので、作者名は書かず、選者名のみを表示する。
病める貝ひらけば真珠宿りたり 林嗣夫特選
本開くやさしい睡魔呼びたくて 石田柊馬特選
モーゼの海を渡りゆく思惟 一羽 吉澤久良特選
三人の選句基準には共通点もある、「私が私ではないものに出会った時の驚き」「意外性」(林嗣夫)、「言葉と言葉との関係性」「一句の虚構性」(吉澤久良)、「作品がどのように私の知らない世界を教えてくれるか」(石田柊馬)など。けれども具体的な選句においては差異が明らかになってゆく。「意表」「意外性」についても、「破壊するだけでは意味がない」という吉澤と「類句を怖れてはいけない」という林とではニュアンスが異なる。
もっともペシミスティックなのが石田柊馬である。彼の第一基準にあてはまる作品がないから、第二基準「言葉と言葉との関係性」によって選をするという。
「意表」をめぐって、言葉の破壊のみを目的とした意表をつくだけの作品なのか、それとも真に詩的飛躍に成功した作品なのか、その見極めが問われるところとなっている。
2011年1月28日金曜日
2011年1月21日金曜日
「私性」をめぐる若干の議論
短歌誌「ES」が創刊10年を迎え、第20号(2010年12月15日)を発行した。
編集発行人・加藤英彦、同人に天草季紅・江田浩司・桜井健司・山田消児などの気鋭のメンバーをそろえている。「ES」という誌名のあとに毎号異なる言葉を添え、たとえば19号は「ESそらみみ」、20号は「ESコア」である。
今回の20号の特集「現代短歌との闘争」では7本の評論をそろえていて、とても刺激的である。ここでは短歌の「私性」をめぐって、加藤英彦と山田消児の文章を取り上げてみたい。
加藤英彦の「幻の筆者への覚え書き―実在の作者から非在の筆者へ―」は次のような問いから始まっている。
「人はものを書くとき、なぜ筆名を用いるのか」
加藤は複数の筆名をもつ作家や寺山修司、覆面作家などの例を挙げながら、次のように述べている。
「実作者Aが、まったく別の人物として作家名Bを名のることは許されないのだろうか。生年詐称や性別詐称というとき「詐称」という言葉の裏には、実作者と作家名の一体性への抜きがたい信頼がある。筆名は許容するが、それは同一人である作者の実在を前提とした上での話なのだ。しかし、ひとりの人間が文学的虚構としてまったく別のもう一人を誕生させるなら、それを詐称とは呼ばないだろう。つまり、実在の作者=筆名の作家という等号を最初から外してしまうのだから、そこでは詐称されるべき実在自体が存在しない。このすべてを〈虚〉に帰結させようとする地点。本名も年齢も、性別も経歴も、いや自らの肉体すらも〈私〉の属性に過ぎないのであって、それは〈私〉そのものではないという場所。そんな場所があってもよいようにぼくには思える」
加藤はそのような例のひとつとして、1989年に「短歌研究」新人賞を受賞した久木田真紀のことを紹介している。「時間(クロノス)の矢に始めはあるか」30首の作者は、モスクワ生まれ、オーストリア在住の18歳の少女ということだった。やがて、この少女が実在しないという噂が流れ、少女の写真も偽物だったという。久木田真紀は歌壇から消えていった。8年後の1997年、雁書館から歌集『時間の矢に始まりはあるか』が出版された。作者名は藤沢螢となっていた。これもまた本名ではない。作者の氏名も性別も年齢も〈虚〉であったのだ。
いくつかの具体例を挙げながら、加藤は再び問う、「筆者とは誰か」と。
〈短歌は一人称の文学であると言われるが、これは作中の「われ」が作者である〈私〉の反映であるという近代以降の約束事であった。この作者である〈私〉は、筆名A=実作者Bという構図から、現実の作者と作中の「われ」とは同一であるという前提によって導かれたものである〉
この同一性を覆したのが前衛短歌であった。
〈作中の「われ」は必ずしも作者自身であるとは限らないし、ときにその「われ」が皇帝ネロであってもよいではないかという虚構への振幅のふれ具合が、表現の可能性を大きく広げたのだ〉〈それは作中の「われ」=実作者という一人称神話への対立軸として、積極的に虚構を導入しようとするものであった〉
ここには二つの短歌観が短歌史に即して要約されている。
前者から後者への移行はスムーズに行われたのではなく、「われ」という一人称を役者が役を演じる場合のような役割詩(「われ」が皇帝ネロというような場合)の段階をいったん挟まなければならなかった。
加藤の評論に戻ると、そもそも〈作中の「われ」=実作者〉という図式は本当なのか、と加藤は問う。「境涯詠」では〈作中の「われ」〉は現在でも作者自身と考えられている。作者も読者そう思っているのだ。けれども、加藤は「作中主体は実作者の無意識が描いた虚像」ではないかという立場から、次のように述べる。
「それは、鏡に映った〈私〉を自らの投影であると信じるか、それは私そのものではないと思うかの違いのようにもみえる。無数の鏡にうつるこの夥しい〈私〉の変容。ぼくは鏡に映った〈私〉とは作品化されたひとつの像であって、私そのものではないと思うのだが、〈私〉の投影であると考える人たちがいても不思議ではない。ただ、そうであるならばその無数の〈私〉を統御している存在とはいったい何なのか」
これは短歌のみならず短詩型文学の「私性」と「作者」をめぐる本質的な問いである。
山田消児の〈「僕」が「私」であること―短歌における当事者性と普遍性〉は加藤とも共通する問題意識を実作者としての立場によりひきつけて論じている。
山田の第二歌集『アンドロイドK』の歌の解釈をめぐって山田は語りはじめている。
まだ終わりそうもないから僕らは撃つ壁にかならず追いつめてから 山田消児
はじめてだったからいくたびもいくたびも生き返らないように殺した
これらの歌をめぐってなされた、時代のメタファーとか抑圧される少年像の代弁者、成り代わりなどの解釈に対して、山田はある違和感を表明している。〈作者が「僕」に成り代わっている〉とか〈作者が少年の代弁をする〉というのではなく、〈これらの歌の中にいる「僕」はそれでも私自身なのだ〉〈彼は自分かもしれない〉という感覚である。ことは作者と作中主体との関係にかかわっている。
山田が挙げているもう一つの具体例は、次のような歌をめぐるものである。
奪われてしまうものならばはじめからいらないたとえば祖国朝鮮 野樹かずみ
そんなこと忘れていたが父母はかつて日本の国民だった
それも遺品のひとつとなりし押捺の母の指紋が眠る引出し
この歌について、作者は在日朝鮮人だとして、その当事者性を評価する批評があった。けれども、作者は日本人であり、作中の「私」は当然「虚構の私」であると思っていたのだった。その一連の経緯を紹介したあとで、山田は次のように述べている。
「作者の素生や体験や人となりが作歌の段階で何らかの形で作品に影響を与えることは間違いないと思うし、本格的な歌人論を書く際にそこまでを視野に入れるアプローチのし方は大いにありうるだろう。だが、作品と読者との最初の出会いの時点においては、作者や作歌の背景に関する情報は、読みを歪ませるよけいな雑音でしかない。もし、個人情報抜きには鑑賞が成り立たない歌があったとすれば、それは文学作品以前の代物ということになるのではないか」
以上、短歌誌「ES」を読みながら、短歌における「私性」と「作者」の問題を瞥見してみた。では、俳句や川柳では、「私性」の問題はどのようにとらえられているのだろう。
まず、俳句では「超新撰21」竟宴の第2部で「私性」が少し話題になったことが思い浮かぶ。上田信治が提出した資料では、「新撰」「超新撰」世代の150句が「過去志向」「超越志向」「表面性」「私性」「空項」の五つに分類されている。その第4項〈私性=ノーバディな私による「私」語り〉には次のような句が挙げられていた。
蝸牛やごはん残さず人殺めず 小川軽舟
コンビにのおでんが好きで星きれい 神野紗希
空は晴れて自転車を磨く布はないのだ 山田耕司
円山町に飛雪私はモンスター 柴田千晶
梨を落とすよ見たいなら見てもいゝけど 外山一機
冬の金魚家は安全だと思う 越智友亮
俳句では「作者主体」と「作中主体」との区別が話題になることはあまりない。主語が書かれていない場合は、主語は作者であるという前提で読むのが暗黙の了解であろう。引用した句においても、おおむねそれで間違いなさそうだが、ここでは強烈な「私性」というものは感じとれず、上田が〈ノーバディな私による「私」語り〉の呼んだのもそのためだろう。
ただ、柴田千晶の句だけは虚構意識が濃厚である。作中主体が作者自身ではなくて、東電OLになっているのだ。「私」は柴田千晶ではなくて、「円山町」という地名の連想から東電OLだという読みになるだろう。「私はモンスター」というフレーズもそうでなければ意味をなさない。東電OL事件が起こったとき、多くの女性が「東電OLは私だ」と感じたという。ここには前述の山田消児の「彼は自分かもしれないという感覚」と共通するものがありそうだ。
翻って、川柳においては「私性」の問題はどのように考えられているのだろうか。
「バックストロークin大阪」(2009年9月)で〈「私」のいる川柳/「私」のいない川柳〉というシンポジウムが開催されたあと、川柳における「私性」の問題はそれほど深められてはいない。
山田消児は『短歌が人を騙すとき』(彩流社)に収録されている〈「私」に関する三つの小感〉で川柳についてこんなふうに書いている。
〈「私性」と言ったときに、短歌と川柳では意味するものが微妙にずれるのだろうかとも思う。より短い川柳では人一人の思いを十分に述べることがそもそも困難だという物理的制約も、その差を生み出す要因のひとつになっているのかもしれない〉
〈川柳作家たちが川柳について書いた文章には、「私性」のほかに「詩性」「社会性」といった言葉もしばしば登場する。おそらく、作家による個人差や時代による潮流の変化の中で、それらがせめぎ合い混じり合いながら現在の川柳状況が形作られてきたというのが実際のところなのだろう〉
このような短歌の視線を意識しながら、ここでは広瀬ちえみの作品を取り上げておきたい。
流れ着くワカメ、コンブを巻きつけて 広瀬ちえみ
爪切ってもらう檻から手を出して
ニワトリの声で電話に出てしまう
これらの句では主語が省略されている。では、作中主体は「私」であろうか。主語が省略されている場合は「私」を補って読む―そのような読み方がここでは必ずしも通用するとは限らない。広瀬ちえみの川柳において、作中主体は「私」であると同時に「私」を越えた存在でもあるという多義性をもっている。作中主体を意識的に隠すことによって多彩な実存のイメージが喚起されるのだ。
最後にもう一度、山田消児の文章から引用する。
「短歌における〈私〉とは、第一義的には、その作中限りにおける〈私〉だと、私は思っている。したがって、作者がもし自己の内面なり体験なりを、私的な告白ではなく文学として表現したいと思うなら、作中で一人歩きする〈私〉にどこまで自分を反映させていけるかに成否は懸かってくることになる。加えて、作中の〈私〉が、読者をもまた当事者として内部に取り込むだけの吸引力を持つ存在たりえたなら、歌はさらに凝縮された内実を具えることになるだろう。そのとき、〈私〉は、作中の〈私〉であると同時に、作者でもあり、また読者でもある複合的な〈私〉に変身しているはずだ」
実作者の経験に裏づけられた言説であり、その射程距離は深い。
短詩型文学の諸形式における「私性」の問題。その問題意識を共有しながら、実作者はそれぞれの表現領域で自らの作品世界を切り開こうとしているのである。
編集発行人・加藤英彦、同人に天草季紅・江田浩司・桜井健司・山田消児などの気鋭のメンバーをそろえている。「ES」という誌名のあとに毎号異なる言葉を添え、たとえば19号は「ESそらみみ」、20号は「ESコア」である。
今回の20号の特集「現代短歌との闘争」では7本の評論をそろえていて、とても刺激的である。ここでは短歌の「私性」をめぐって、加藤英彦と山田消児の文章を取り上げてみたい。
加藤英彦の「幻の筆者への覚え書き―実在の作者から非在の筆者へ―」は次のような問いから始まっている。
「人はものを書くとき、なぜ筆名を用いるのか」
加藤は複数の筆名をもつ作家や寺山修司、覆面作家などの例を挙げながら、次のように述べている。
「実作者Aが、まったく別の人物として作家名Bを名のることは許されないのだろうか。生年詐称や性別詐称というとき「詐称」という言葉の裏には、実作者と作家名の一体性への抜きがたい信頼がある。筆名は許容するが、それは同一人である作者の実在を前提とした上での話なのだ。しかし、ひとりの人間が文学的虚構としてまったく別のもう一人を誕生させるなら、それを詐称とは呼ばないだろう。つまり、実在の作者=筆名の作家という等号を最初から外してしまうのだから、そこでは詐称されるべき実在自体が存在しない。このすべてを〈虚〉に帰結させようとする地点。本名も年齢も、性別も経歴も、いや自らの肉体すらも〈私〉の属性に過ぎないのであって、それは〈私〉そのものではないという場所。そんな場所があってもよいようにぼくには思える」
加藤はそのような例のひとつとして、1989年に「短歌研究」新人賞を受賞した久木田真紀のことを紹介している。「時間(クロノス)の矢に始めはあるか」30首の作者は、モスクワ生まれ、オーストリア在住の18歳の少女ということだった。やがて、この少女が実在しないという噂が流れ、少女の写真も偽物だったという。久木田真紀は歌壇から消えていった。8年後の1997年、雁書館から歌集『時間の矢に始まりはあるか』が出版された。作者名は藤沢螢となっていた。これもまた本名ではない。作者の氏名も性別も年齢も〈虚〉であったのだ。
いくつかの具体例を挙げながら、加藤は再び問う、「筆者とは誰か」と。
〈短歌は一人称の文学であると言われるが、これは作中の「われ」が作者である〈私〉の反映であるという近代以降の約束事であった。この作者である〈私〉は、筆名A=実作者Bという構図から、現実の作者と作中の「われ」とは同一であるという前提によって導かれたものである〉
この同一性を覆したのが前衛短歌であった。
〈作中の「われ」は必ずしも作者自身であるとは限らないし、ときにその「われ」が皇帝ネロであってもよいではないかという虚構への振幅のふれ具合が、表現の可能性を大きく広げたのだ〉〈それは作中の「われ」=実作者という一人称神話への対立軸として、積極的に虚構を導入しようとするものであった〉
ここには二つの短歌観が短歌史に即して要約されている。
前者から後者への移行はスムーズに行われたのではなく、「われ」という一人称を役者が役を演じる場合のような役割詩(「われ」が皇帝ネロというような場合)の段階をいったん挟まなければならなかった。
加藤の評論に戻ると、そもそも〈作中の「われ」=実作者〉という図式は本当なのか、と加藤は問う。「境涯詠」では〈作中の「われ」〉は現在でも作者自身と考えられている。作者も読者そう思っているのだ。けれども、加藤は「作中主体は実作者の無意識が描いた虚像」ではないかという立場から、次のように述べる。
「それは、鏡に映った〈私〉を自らの投影であると信じるか、それは私そのものではないと思うかの違いのようにもみえる。無数の鏡にうつるこの夥しい〈私〉の変容。ぼくは鏡に映った〈私〉とは作品化されたひとつの像であって、私そのものではないと思うのだが、〈私〉の投影であると考える人たちがいても不思議ではない。ただ、そうであるならばその無数の〈私〉を統御している存在とはいったい何なのか」
これは短歌のみならず短詩型文学の「私性」と「作者」をめぐる本質的な問いである。
山田消児の〈「僕」が「私」であること―短歌における当事者性と普遍性〉は加藤とも共通する問題意識を実作者としての立場によりひきつけて論じている。
山田の第二歌集『アンドロイドK』の歌の解釈をめぐって山田は語りはじめている。
まだ終わりそうもないから僕らは撃つ壁にかならず追いつめてから 山田消児
はじめてだったからいくたびもいくたびも生き返らないように殺した
これらの歌をめぐってなされた、時代のメタファーとか抑圧される少年像の代弁者、成り代わりなどの解釈に対して、山田はある違和感を表明している。〈作者が「僕」に成り代わっている〉とか〈作者が少年の代弁をする〉というのではなく、〈これらの歌の中にいる「僕」はそれでも私自身なのだ〉〈彼は自分かもしれない〉という感覚である。ことは作者と作中主体との関係にかかわっている。
山田が挙げているもう一つの具体例は、次のような歌をめぐるものである。
奪われてしまうものならばはじめからいらないたとえば祖国朝鮮 野樹かずみ
そんなこと忘れていたが父母はかつて日本の国民だった
それも遺品のひとつとなりし押捺の母の指紋が眠る引出し
この歌について、作者は在日朝鮮人だとして、その当事者性を評価する批評があった。けれども、作者は日本人であり、作中の「私」は当然「虚構の私」であると思っていたのだった。その一連の経緯を紹介したあとで、山田は次のように述べている。
「作者の素生や体験や人となりが作歌の段階で何らかの形で作品に影響を与えることは間違いないと思うし、本格的な歌人論を書く際にそこまでを視野に入れるアプローチのし方は大いにありうるだろう。だが、作品と読者との最初の出会いの時点においては、作者や作歌の背景に関する情報は、読みを歪ませるよけいな雑音でしかない。もし、個人情報抜きには鑑賞が成り立たない歌があったとすれば、それは文学作品以前の代物ということになるのではないか」
以上、短歌誌「ES」を読みながら、短歌における「私性」と「作者」の問題を瞥見してみた。では、俳句や川柳では、「私性」の問題はどのようにとらえられているのだろう。
まず、俳句では「超新撰21」竟宴の第2部で「私性」が少し話題になったことが思い浮かぶ。上田信治が提出した資料では、「新撰」「超新撰」世代の150句が「過去志向」「超越志向」「表面性」「私性」「空項」の五つに分類されている。その第4項〈私性=ノーバディな私による「私」語り〉には次のような句が挙げられていた。
蝸牛やごはん残さず人殺めず 小川軽舟
コンビにのおでんが好きで星きれい 神野紗希
空は晴れて自転車を磨く布はないのだ 山田耕司
円山町に飛雪私はモンスター 柴田千晶
梨を落とすよ見たいなら見てもいゝけど 外山一機
冬の金魚家は安全だと思う 越智友亮
俳句では「作者主体」と「作中主体」との区別が話題になることはあまりない。主語が書かれていない場合は、主語は作者であるという前提で読むのが暗黙の了解であろう。引用した句においても、おおむねそれで間違いなさそうだが、ここでは強烈な「私性」というものは感じとれず、上田が〈ノーバディな私による「私」語り〉の呼んだのもそのためだろう。
ただ、柴田千晶の句だけは虚構意識が濃厚である。作中主体が作者自身ではなくて、東電OLになっているのだ。「私」は柴田千晶ではなくて、「円山町」という地名の連想から東電OLだという読みになるだろう。「私はモンスター」というフレーズもそうでなければ意味をなさない。東電OL事件が起こったとき、多くの女性が「東電OLは私だ」と感じたという。ここには前述の山田消児の「彼は自分かもしれないという感覚」と共通するものがありそうだ。
翻って、川柳においては「私性」の問題はどのように考えられているのだろうか。
「バックストロークin大阪」(2009年9月)で〈「私」のいる川柳/「私」のいない川柳〉というシンポジウムが開催されたあと、川柳における「私性」の問題はそれほど深められてはいない。
山田消児は『短歌が人を騙すとき』(彩流社)に収録されている〈「私」に関する三つの小感〉で川柳についてこんなふうに書いている。
〈「私性」と言ったときに、短歌と川柳では意味するものが微妙にずれるのだろうかとも思う。より短い川柳では人一人の思いを十分に述べることがそもそも困難だという物理的制約も、その差を生み出す要因のひとつになっているのかもしれない〉
〈川柳作家たちが川柳について書いた文章には、「私性」のほかに「詩性」「社会性」といった言葉もしばしば登場する。おそらく、作家による個人差や時代による潮流の変化の中で、それらがせめぎ合い混じり合いながら現在の川柳状況が形作られてきたというのが実際のところなのだろう〉
このような短歌の視線を意識しながら、ここでは広瀬ちえみの作品を取り上げておきたい。
流れ着くワカメ、コンブを巻きつけて 広瀬ちえみ
爪切ってもらう檻から手を出して
ニワトリの声で電話に出てしまう
これらの句では主語が省略されている。では、作中主体は「私」であろうか。主語が省略されている場合は「私」を補って読む―そのような読み方がここでは必ずしも通用するとは限らない。広瀬ちえみの川柳において、作中主体は「私」であると同時に「私」を越えた存在でもあるという多義性をもっている。作中主体を意識的に隠すことによって多彩な実存のイメージが喚起されるのだ。
最後にもう一度、山田消児の文章から引用する。
「短歌における〈私〉とは、第一義的には、その作中限りにおける〈私〉だと、私は思っている。したがって、作者がもし自己の内面なり体験なりを、私的な告白ではなく文学として表現したいと思うなら、作中で一人歩きする〈私〉にどこまで自分を反映させていけるかに成否は懸かってくることになる。加えて、作中の〈私〉が、読者をもまた当事者として内部に取り込むだけの吸引力を持つ存在たりえたなら、歌はさらに凝縮された内実を具えることになるだろう。そのとき、〈私〉は、作中の〈私〉であると同時に、作者でもあり、また読者でもある複合的な〈私〉に変身しているはずだ」
実作者の経験に裏づけられた言説であり、その射程距離は深い。
短詩型文学の諸形式における「私性」の問題。その問題意識を共有しながら、実作者はそれぞれの表現領域で自らの作品世界を切り開こうとしているのである。
2011年1月14日金曜日
俳句と川柳における「言葉派」
「超新撰21」の竟宴で高野ムツオが「言葉派」という用語を用いたのが印象的だった。高野は「ニューウェイブ」以前の俳句の傾向をそう呼んだのだが、現代川柳においても「思い」よりも「言葉」から出発する川柳を「言葉派」と呼ぶことがあるので、高野の発言はとても興味深かったのである。
俳句における「言葉派」とは、飯島晴子や阿部完市などのことを指すらしい。
「ぶるうまりん」16号(2010年12月発行)ではちょうど「言葉(ロゴス)としての俳句・短歌」という特集を組んでいて、飯島晴子や阿部完市などについての言及が見られる。
たとえば小倉康雄の「貴俗としての俳句・短歌」では、言語について「実用的な伝達手段=非詩的言語」「文学的な虚構などを構築するために用いられる非実用的言語=詩的言語」に二分しながら、詩的言語に関して飯島晴子の次のような言説を引用している。
「散文の言葉は内容を伝達すれば役目の終る、いわば道具だが、詩の言葉は言葉自体が目的であり、いつまでも存在し続けるものである」(「詩の言葉」、『葛の花』所収)
「言葉の向こうに、言葉を通して、現実にはない或る一つの時空が顕つかどうかというのが、一句の決め手である」(『飯島晴子読本』)
小倉の引用している飯島晴子の作品は次の2句である。
吊柿鳥に顎なき夕べかな 飯島晴子
月光の象番にならぬかといふ
また、土江香子は「物質であり精神である俳句」において、意味を拒否する俳人として阿部完市を挙げ、次のような句を取り上げている。
水色はごくんと言いLはからだ 阿部完市『地動説』
川岸ごらん郡上八幡小駄良川岸 『純白諸事』
純粋にあゆをならべてはこわす 『軽のやまめ』
故西脇順三郎氏訳つるのことば 『水売』
「花神現代俳句」の『阿部完市』(平成9年)には加藤克巳の「阿部完市とその俳句・覚書」という文章が収録されていて、阿部の特質を次のようにとらえている。
「彼の俳句は、意味の結合、構成ではなく、非意味を提示し、非意味を表記する、そこから何かの存在を一瞬とらえようとするのであろう」
「また、言葉は、句は、ひとつひとつ独立したものとして、なるべく論理的結合をさけ、結合以前にあらしめようとする」
「阿部完市にあっては、意味が先行して、それをことばで綴って表現するのではなく、ことばが先行し、言葉が詩を発見する」
以上のような飯島晴子と阿部完市の論作に加藤郁乎を加えれば、俳句における「言葉派」の輪郭がほぼ見えてくる。「言葉派」という捉え方が俳句界でどれだけ定着しているのかは分からないが、「俳句における詩的言語の追求」「言葉は意味に先行する」「非意味」「脱意味」などにその方向性があることは間違いないだろう。
詩的言語をそれぞれの詩型で追求するとき、そのジャンル固有の問題と遭遇する。
それでは翻って、川柳における「言葉派」にはどのような問題性があるだろうか。
そもそも川柳において「言葉派」という表現を最初に用いたのは誰なのかについては曖昧であるが、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社・2000年)の「編集後記」に樋口由紀子が〈「言葉」より「思い」が先行してきた今までの流れの中からあらためて言葉の力を信じる世代が出現してきた〉と書いたあたりを嚆矢とするだろう。また、堺利彦も現代川柳の傾向を「言葉派」あるいは「新言語派」と呼んでいたように記憶する(その出典をいま特定できない)。
言葉には意味があるが、言葉自体は意味に限定されず、意味に先行するものである。けれども、用いられた言葉は意味にしたがって理解され、解釈されてしまう。詩的言語として発せられた言葉が伝達手段(非詩的言語)として理解されてしまうのである。けれども、非詩として理解されることが川柳にとって常にマイナスかというと、必ずしもそうとは言いきれない。川柳はそのような二律背反をかかえこんでいる。「川柳の意味性」といわれる所以である。樋口由紀子は、あざ蓉子の俳句と自分の川柳とを比べてこんなふうに書いたことがある。
「あざの俳句はさっといさぎよく空高く飛んでいく風船で、私の川柳は風船の紐に紙やおもりがついているために、いつまでたっても空高く飛べず、粘り強く低空飛行を続けている。紙やおもりは意味である」(「華麗なるテクニック」、「豈」34号)
このような「意味性の錘」を外す方向に現代川柳は進んでいるように思われるが、「意味性の錘」をどこまで外せるかはまだ分からない。意味性に限定されない「言葉の力」をどのように使うか、その微妙なバランスについて、攝津幸彦の次のような発言がある。
「以前は自分の生理に見合ったことばを強引に押し込めれば、別段、意味がとれなくてもいいんだという感じがあったけど、この頃は最低限、意味はとれなくてはだめだと思うようになりました。そのためにはある程度、自分の型を決めることも必要でしょうね。高邁で濃厚なチャカシ、つまり静かな談林といったところを狙っているんです」(1994年12月「太陽」特集/百人一句)
「自分の生理に見合ったことば」と「意味性」の間でどのような地点に着地するか、実作者が苦労するところだろう。私たちは攝津の「静かな談林」をも乗り越えるような、新たな表現を切り開くべき地平にさしかかっているのではないだろうか。
俳句における「言葉派」とは、飯島晴子や阿部完市などのことを指すらしい。
「ぶるうまりん」16号(2010年12月発行)ではちょうど「言葉(ロゴス)としての俳句・短歌」という特集を組んでいて、飯島晴子や阿部完市などについての言及が見られる。
たとえば小倉康雄の「貴俗としての俳句・短歌」では、言語について「実用的な伝達手段=非詩的言語」「文学的な虚構などを構築するために用いられる非実用的言語=詩的言語」に二分しながら、詩的言語に関して飯島晴子の次のような言説を引用している。
「散文の言葉は内容を伝達すれば役目の終る、いわば道具だが、詩の言葉は言葉自体が目的であり、いつまでも存在し続けるものである」(「詩の言葉」、『葛の花』所収)
「言葉の向こうに、言葉を通して、現実にはない或る一つの時空が顕つかどうかというのが、一句の決め手である」(『飯島晴子読本』)
小倉の引用している飯島晴子の作品は次の2句である。
吊柿鳥に顎なき夕べかな 飯島晴子
月光の象番にならぬかといふ
また、土江香子は「物質であり精神である俳句」において、意味を拒否する俳人として阿部完市を挙げ、次のような句を取り上げている。
水色はごくんと言いLはからだ 阿部完市『地動説』
川岸ごらん郡上八幡小駄良川岸 『純白諸事』
純粋にあゆをならべてはこわす 『軽のやまめ』
故西脇順三郎氏訳つるのことば 『水売』
「花神現代俳句」の『阿部完市』(平成9年)には加藤克巳の「阿部完市とその俳句・覚書」という文章が収録されていて、阿部の特質を次のようにとらえている。
「彼の俳句は、意味の結合、構成ではなく、非意味を提示し、非意味を表記する、そこから何かの存在を一瞬とらえようとするのであろう」
「また、言葉は、句は、ひとつひとつ独立したものとして、なるべく論理的結合をさけ、結合以前にあらしめようとする」
「阿部完市にあっては、意味が先行して、それをことばで綴って表現するのではなく、ことばが先行し、言葉が詩を発見する」
以上のような飯島晴子と阿部完市の論作に加藤郁乎を加えれば、俳句における「言葉派」の輪郭がほぼ見えてくる。「言葉派」という捉え方が俳句界でどれだけ定着しているのかは分からないが、「俳句における詩的言語の追求」「言葉は意味に先行する」「非意味」「脱意味」などにその方向性があることは間違いないだろう。
詩的言語をそれぞれの詩型で追求するとき、そのジャンル固有の問題と遭遇する。
それでは翻って、川柳における「言葉派」にはどのような問題性があるだろうか。
そもそも川柳において「言葉派」という表現を最初に用いたのは誰なのかについては曖昧であるが、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社・2000年)の「編集後記」に樋口由紀子が〈「言葉」より「思い」が先行してきた今までの流れの中からあらためて言葉の力を信じる世代が出現してきた〉と書いたあたりを嚆矢とするだろう。また、堺利彦も現代川柳の傾向を「言葉派」あるいは「新言語派」と呼んでいたように記憶する(その出典をいま特定できない)。
言葉には意味があるが、言葉自体は意味に限定されず、意味に先行するものである。けれども、用いられた言葉は意味にしたがって理解され、解釈されてしまう。詩的言語として発せられた言葉が伝達手段(非詩的言語)として理解されてしまうのである。けれども、非詩として理解されることが川柳にとって常にマイナスかというと、必ずしもそうとは言いきれない。川柳はそのような二律背反をかかえこんでいる。「川柳の意味性」といわれる所以である。樋口由紀子は、あざ蓉子の俳句と自分の川柳とを比べてこんなふうに書いたことがある。
「あざの俳句はさっといさぎよく空高く飛んでいく風船で、私の川柳は風船の紐に紙やおもりがついているために、いつまでたっても空高く飛べず、粘り強く低空飛行を続けている。紙やおもりは意味である」(「華麗なるテクニック」、「豈」34号)
このような「意味性の錘」を外す方向に現代川柳は進んでいるように思われるが、「意味性の錘」をどこまで外せるかはまだ分からない。意味性に限定されない「言葉の力」をどのように使うか、その微妙なバランスについて、攝津幸彦の次のような発言がある。
「以前は自分の生理に見合ったことばを強引に押し込めれば、別段、意味がとれなくてもいいんだという感じがあったけど、この頃は最低限、意味はとれなくてはだめだと思うようになりました。そのためにはある程度、自分の型を決めることも必要でしょうね。高邁で濃厚なチャカシ、つまり静かな談林といったところを狙っているんです」(1994年12月「太陽」特集/百人一句)
「自分の生理に見合ったことば」と「意味性」の間でどのような地点に着地するか、実作者が苦労するところだろう。私たちは攝津の「静かな談林」をも乗り越えるような、新たな表現を切り開くべき地平にさしかかっているのではないだろうか。
2011年1月7日金曜日
柴田午朗の「痩せた虹」
2010年12月8日、柴田午朗が亡くなった。享年104歳。
柴田午朗は明治39年4月28日、島根県生まれ。島根県川柳協会初代理事長。
松江高等学校時代から川柳に興味を持ち、京都帝国大学経済学部在学中に番傘川柳社の本社句会に通う。昭和31年、句集『母里』発行。序文は岸本水府、母里(もり)は午朗の故郷の地名である。
今回は「番傘」の川柳に大きな足跡を残したこの川柳人のことを取り上げる。
昭和44年(1969年)1月から昭和46年12月まで、柴田午朗は「番傘」一般近詠選者を務めた。この頃に出た句集『痩せた虹』の「自序」には次のように書かれている。
「お隣の俳句の世界を覗いてみると、その作品に理論に、われわれの世界とは比較にならぬ大波に揺れ動いている。まさに壮絶という外はない。ではいったい現代川柳はどうあるべきか。それはなかなかむずかしい問題で、たゆまぬ作句の努力と研究なくしては、容易に結論の出せる筈のものではない。私は現在番傘近詠の選を担当しているが、少しでも番傘川柳前進の目的に近づくために、若干の努力を試みている。然しこれはなかなか困難な仕事で、自分の力不足を嘆くばかりである」
ここには「現代川柳はどうあるべきか」という真摯な危機意識がうかがえる。「自序」では上記の引用部分に先立って次のような文章が書かれていた。
「昭和のはじめ頃、岸本水府、小田夢路、木村小太郎の諸先輩に可愛がられ、私の川柳作句の道は、まことに楽しく順調であったともいえよう。しかし四年前に逝かれた水府先生を最後に、今はこうした大先輩はこの世にない。しかも1970年代という未曽有の変革時代に一歩を踏み入れた現代である。私は自分の作品の未熟さを反省しながらも、現代川柳はこれでいいのか、と再びおもうのである」
岸本水府をはじめとする川柳の先達はもういない。1970年代を迎えて「現代川柳はこれでいいのか」「どうあるべきか」という問題意識と責任感が伝わってくる。
それでは、柴田午朗の選とはどのようなものだったのだろうか。『川柳総合大事典・人物編』(雄山閣)には「〈川柳に詩性を〉として番傘川柳の流れを変える。この時代に若い作家が多く育った」とある。この柴田午朗の選に共鳴していろいろな人が投句したが、金築雨学もそのひとりだった。
午朗の言う「番傘川柳前進」「若干の努力」とは〈川柳に詩性を〉ということだったようだ。〈川柳に詩性を〉という場合、それがどのような〈詩性〉であるかが問われるところである。『痩せた虹』の「自序」にも「生活詩」という言葉があるから、それは日野草城の言う「諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩」のようなものだったかも知れない。
句集『痩せた虹』(昭和45年)から何句か引用してみよう。
落ちる鴨少年の目に残る 柴田午朗
姥の面美しすぎて裏がえす
爪切りを嫌いなひとに借りられる
だまって読みだまって返すほかはなし
友だちに叛いてひとり詩を愛す
ふるさとを跨いで痩せた虹が立つ
人も道具も素朴に生きるほかはなし
「痩せた虹」とはポエジーに満ちた言葉である。午朗の愛用語だろう。
続いて『黐の木』(もちのき・昭和54年)から少し引用する。
男老いてコップの水をひといきに
裏切ってみかんの筋が歯に残る
遠花火わびしきものは何ならん
おもしろくおかしく笛は吹くものぞ
『空鉄砲』(昭和62年)では句集名を次のように説明している。
「出雲地方には『空鉄砲』という言葉がある。秋の田に群る雀おどしの空砲のことだが、考えてみると、私の一生は長いばかりで、丁度この空鉄砲のようなものではなかったか、と自嘲をこめて反省している」「だがたった一つ、この長い間を、たゆまずに続けたことがある。川柳作句だ」
子が欲しやくちなわ掴む子が欲しや
点前しずかに脱税のはかりごと
君の句も古い古いと風そよぐ
人間の不幸をたべて虫は死んだ
良寛読む隠岐は佐渡よりやや南
村おこし牛の言葉が分らない
逢いにゆく道ふくろうが知っている
そして旅今日は魚臭の町をゆく
子に見せる勲章を持つカタツムリ
一日に玉子を一つ生んで青葉
隠岐の海カレイの唄に雪が降る
よもぎ餅くやしきものが掌にのこる
茄子焼いてあしたは好きなひとが来る
冬の蠅冬の蜂みなわれに似る
晩年になってからも句集を出し続けたが、95歳のときの句集『重い雨戸』(平成13年)を取り上げてみよう。
椎の老木芽を出した僕も生きる
何故だろうふるさとの虹が痩せる
僕の顔色猫に分かってこまります
なぜここにある僕のメガネが
若い頃にもマラソンは嫌だった
昔の人は山に登って何をした
くすり指と名づけた人は誰だろう
歌人の小高賢は最近「老いの歌の可能性」についてしばしば述べている。高齢歌人の短歌には思いがけない面白さがあるのではないかと言うのだ。高齢歌人の私性には、若年歌人の私性とは一味違った「私性の朧化」があり、そこに積極的な面白さを見ていこうということのようだ。
柴田午朗は高齢川柳人と呼ばれるにふさわしい仕事を残している。『重い雨戸』には永田暁風が「跋」を書いている。午朗は暁風の句集にすべて序文を書いている。今度は逆に暁風が跋文を書いたのである。午朗は暁風より三歳上。ちなみに、暁風が第五句集『ベレー帽』(2002年)を出したのは92歳のときである。
「痩せた虹」は川柳人・柴田午朗が生み出したもっとも美しい言葉である。伝統川柳の良質の部分を体現した人がまた一人いなくなった。
柴田午朗は明治39年4月28日、島根県生まれ。島根県川柳協会初代理事長。
松江高等学校時代から川柳に興味を持ち、京都帝国大学経済学部在学中に番傘川柳社の本社句会に通う。昭和31年、句集『母里』発行。序文は岸本水府、母里(もり)は午朗の故郷の地名である。
今回は「番傘」の川柳に大きな足跡を残したこの川柳人のことを取り上げる。
昭和44年(1969年)1月から昭和46年12月まで、柴田午朗は「番傘」一般近詠選者を務めた。この頃に出た句集『痩せた虹』の「自序」には次のように書かれている。
「お隣の俳句の世界を覗いてみると、その作品に理論に、われわれの世界とは比較にならぬ大波に揺れ動いている。まさに壮絶という外はない。ではいったい現代川柳はどうあるべきか。それはなかなかむずかしい問題で、たゆまぬ作句の努力と研究なくしては、容易に結論の出せる筈のものではない。私は現在番傘近詠の選を担当しているが、少しでも番傘川柳前進の目的に近づくために、若干の努力を試みている。然しこれはなかなか困難な仕事で、自分の力不足を嘆くばかりである」
ここには「現代川柳はどうあるべきか」という真摯な危機意識がうかがえる。「自序」では上記の引用部分に先立って次のような文章が書かれていた。
「昭和のはじめ頃、岸本水府、小田夢路、木村小太郎の諸先輩に可愛がられ、私の川柳作句の道は、まことに楽しく順調であったともいえよう。しかし四年前に逝かれた水府先生を最後に、今はこうした大先輩はこの世にない。しかも1970年代という未曽有の変革時代に一歩を踏み入れた現代である。私は自分の作品の未熟さを反省しながらも、現代川柳はこれでいいのか、と再びおもうのである」
岸本水府をはじめとする川柳の先達はもういない。1970年代を迎えて「現代川柳はこれでいいのか」「どうあるべきか」という問題意識と責任感が伝わってくる。
それでは、柴田午朗の選とはどのようなものだったのだろうか。『川柳総合大事典・人物編』(雄山閣)には「〈川柳に詩性を〉として番傘川柳の流れを変える。この時代に若い作家が多く育った」とある。この柴田午朗の選に共鳴していろいろな人が投句したが、金築雨学もそのひとりだった。
午朗の言う「番傘川柳前進」「若干の努力」とは〈川柳に詩性を〉ということだったようだ。〈川柳に詩性を〉という場合、それがどのような〈詩性〉であるかが問われるところである。『痩せた虹』の「自序」にも「生活詩」という言葉があるから、それは日野草城の言う「諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩」のようなものだったかも知れない。
句集『痩せた虹』(昭和45年)から何句か引用してみよう。
落ちる鴨少年の目に残る 柴田午朗
姥の面美しすぎて裏がえす
爪切りを嫌いなひとに借りられる
だまって読みだまって返すほかはなし
友だちに叛いてひとり詩を愛す
ふるさとを跨いで痩せた虹が立つ
人も道具も素朴に生きるほかはなし
「痩せた虹」とはポエジーに満ちた言葉である。午朗の愛用語だろう。
続いて『黐の木』(もちのき・昭和54年)から少し引用する。
男老いてコップの水をひといきに
裏切ってみかんの筋が歯に残る
遠花火わびしきものは何ならん
おもしろくおかしく笛は吹くものぞ
『空鉄砲』(昭和62年)では句集名を次のように説明している。
「出雲地方には『空鉄砲』という言葉がある。秋の田に群る雀おどしの空砲のことだが、考えてみると、私の一生は長いばかりで、丁度この空鉄砲のようなものではなかったか、と自嘲をこめて反省している」「だがたった一つ、この長い間を、たゆまずに続けたことがある。川柳作句だ」
子が欲しやくちなわ掴む子が欲しや
点前しずかに脱税のはかりごと
君の句も古い古いと風そよぐ
人間の不幸をたべて虫は死んだ
良寛読む隠岐は佐渡よりやや南
村おこし牛の言葉が分らない
逢いにゆく道ふくろうが知っている
そして旅今日は魚臭の町をゆく
子に見せる勲章を持つカタツムリ
一日に玉子を一つ生んで青葉
隠岐の海カレイの唄に雪が降る
よもぎ餅くやしきものが掌にのこる
茄子焼いてあしたは好きなひとが来る
冬の蠅冬の蜂みなわれに似る
晩年になってからも句集を出し続けたが、95歳のときの句集『重い雨戸』(平成13年)を取り上げてみよう。
椎の老木芽を出した僕も生きる
何故だろうふるさとの虹が痩せる
僕の顔色猫に分かってこまります
なぜここにある僕のメガネが
若い頃にもマラソンは嫌だった
昔の人は山に登って何をした
くすり指と名づけた人は誰だろう
歌人の小高賢は最近「老いの歌の可能性」についてしばしば述べている。高齢歌人の短歌には思いがけない面白さがあるのではないかと言うのだ。高齢歌人の私性には、若年歌人の私性とは一味違った「私性の朧化」があり、そこに積極的な面白さを見ていこうということのようだ。
柴田午朗は高齢川柳人と呼ばれるにふさわしい仕事を残している。『重い雨戸』には永田暁風が「跋」を書いている。午朗は暁風の句集にすべて序文を書いている。今度は逆に暁風が跋文を書いたのである。午朗は暁風より三歳上。ちなみに、暁風が第五句集『ベレー帽』(2002年)を出したのは92歳のときである。
「痩せた虹」は川柳人・柴田午朗が生み出したもっとも美しい言葉である。伝統川柳の良質の部分を体現した人がまた一人いなくなった。