12月23日、東京・市ヶ谷の「アルカディア市ヶ谷」(私学会館)で「超新撰21竟宴」が開催された。当日の様子は今後あちこちで報告されることだろうが、今回は川柳側から見たレポートを書いてみたい。
参加者は約190人。『新撰21』『超新撰21』に入集の俳人や小論執筆者のほか、俳人・歌人・川柳人などジャンルを越えて短詩型文学に関心のある人々が集まった。テーマは「定型 親和と破壊」。
シンポジウムの第1部「『新撰21』『超新撰21』に見る俳句定型への信・不信」は筑紫磐井の司会で進行した。「一年ぶりのごぶさたでございます。昨年は私が若手をいじめたという風評が流布しましたので、今年はしぶしぶ司会をいたします」というのが司会者冒頭の弁である。
筑紫は「俳句の歴史は新人の歴史であった」という観点から、戦後65年間の俳句における新人の歴史を次の4つにまとめた。
①「戦後新人五〇人集」(「俳句」昭和31年4月号特集)
②「第四世代」新人(「俳句」昭和37年1月特集)
③牧羊社処女句集シリーズ新人
④『新撰21』『超新撰21』新人
『新撰21』『超新撰21』に対して「若い者を甘やかすな」という声もあるらしいが、筑紫は「新人は甘やかされて育つ」という反語的な発言によって「時代は新人を待望している」ことを強調した。
磐井発言を受けパネラーの高野ムツオは牧羊社処女句集シリーズに「精鋭句集シリーズ」と「処女句集シリーズ」の二種類があったことを指摘し、そのほかに「50句競作」が印象的だったことを体験的に語った。『新撰21』『超新撰21』はこれらとは性格を異にしていて、個々人の句集として見ることもできるし、世代的・集団的な俳句の概観としても見ることができる、ということである。高野が釘をさしたのは、『新撰21』『超新撰21』に入った人たちは「ひとつの俎板に乗ったのであって、作品の価値が認められたのではない。参加者は勘違いしない方がよい」ということであった。
続いて対馬康子・小川軽舟の発言があり、それぞれ体験的に自らの新人時代を語るものだった。小川は「プロデュースだけでは実りにならない。俳句甲子園などで層が厚くなっていたところにうまくプロデュースができたのではないか」と語った。
鴇田智哉は読者としての立場から、『新撰21』は想定内だったのに対して、『超新撰21』は幅が揺れている、読みきれないという印象を語った。
パネラーの発言が一巡したところで、『超新撰21』の特色に話題が移った。俳壇では「俳句」と「俳句に似たもの」論争があったが、『超新撰21』は『新撰21』より枠組みが拡がっている。
鴇田は「言葉の世界は2階にある」という比喩的な語り方をした。「言葉の世界は2階にあり、その上に3階がある(たとえば「歳時記」による世界)。それは特殊な3階であり、それだけでやっていけるのかと思うときもある。一度2階に降りてみる。そうすれば違う3階があるのではないか」というのだ。これはなかなか興味深い捉え方である。
小川は『超新撰21』についてある種の読みにくさがあると言う。『新撰21』はバランスのとれた句集であるが、『超新撰21』は編集者の意図がギラギラしている。テーマ性があるのだ。小川は種田スガルや清水かおりの作品は「俳句」としてはおもしろく読めなかったという。このあたりから話が核心に入るのかと期待されたが、意外だったのは小川が御中虫はおもしろいと言ったこと。御中虫には「型の引力」が感じられるのだという。え、そうなのか?
最後の高野ムツオの発言は第1部のまとめのような位置を占める。高野は社会性俳句から言葉派(飯島晴子・安井浩司など)への変化によって俳句が難解になった。それがニューウエイブになって俳句を大衆のもとに戻したのではないか、という。それをとらえたのが牧羊社の処女句集シリーズだった。前衛的な俳句のあり方から伝統的な俳句のあり方までさまざまな中で若い世代が活発化した。『新撰21』『超新撰21』についても、従来、新人の発掘は結社単位であったのが、結社主宰者の評価とは別の観点があることが示され、刺激となった。高野は種田スガル・清水かおりの作品について新鮮ではないと言った。島津亮・加藤郁乎に比べると…というのだが、それは比べる方が酷だろう。小川・高野の2人とも評価基準は異なるものの種田・清水の両者に対して否定的だったことは興味深いことである。それでは『超新撰21』の俳句プロパーの作者の作品についてはどんな評価になるのかが問われるところである。俳句自体のおもしろさとは何なのだろう。
高野が最後に「言葉としてどうなのかということが、俳句であるとかないとかいう議論の前に必要」「ひとつの価値観にまとまらないことを前提にしながら議論していく」と述べたのは同感であり、示唆的な発言であったと受け止めている。
シンポジウム第2部「君は定型にプロポーズされたか」は関悦史の司会、パネラーは清水かおり・上田信治・柴田千晶・ドゥーグルJ.リンズィー・高山れおなで進行した。
冒頭で関は「アフォーダンス」ということを述べ、ものが人に働きかけることを指摘した。たとえば、バットがあれば人はそれを振る。ボールがあれば人はそれを投げる。バットを投げる、ボールを振るということは普通しない。同様に形式(俳句)が人に何をさせるか、というのである。
けれどもこの観点を関自身がすぐに引っ込め、上田信治提出資料の「新撰」「超新撰」世代150人150句を中心に話が進行した。
まず、上田は「何も言っていない俳句」について述べ、好きな俳人は素十・爽波であり、「何も言っていないことを取り払ったあとの、うっすらとした感情」について語った。
続いてドゥーグルは海洋生物学者としての体験を述べながら、「事実ではなく真実」「科学研究ではできない側面」について語った。日本語でも英語でも成り立つものはあるが、言語に依存する部分も大きいので、当面は日本語で俳句を書くという。オワンクラゲの話など興味深かった。
清水かおりは「川柳は広くて、統一的な評価基準はない」と述べつつ、読み捨てられる膨大な川柳作品の中で『超新撰21』の形で作品を読んでもらえることは幸せだと言った。『超新撰21』の座談会や小論で自作品と前衛俳句との類似が指摘されていたが、前衛俳句を特に読んだことはない。川柳におけるリアリティについて、事実だけをとらえた日常的・報告的作品が多いが、精神的なリアリティというものがあるとも述べた。
関が「セレクション柳人」シリーズを読んだ印象について、「川柳の作品は一人の作者の顔に結晶しないが、清水作品は作者の顔が見える」と語ったのに対して、清水は「自分は〈私のいる川柳〉を書いているつもりだが、現代川柳の流れとしては作者が見えないといけないという点から解放されている」と答えた。
関悦史には「バックストローク」33号(2011年1月下旬発行予定)に寄稿してもらっており、彼の川柳についての見方についてはそちらを読んでいただければ幸いである。
柴田千晶は「詩」「シナリオ」「俳句」の三つのジャンルにかかわってきたことを体験的に述べながら、「テーマは同じ、いろいろな方法で表現したい」「現代にこだわって書いていきたい」と述べた。柴田のいう「創作の根源にある生きがたさ」については、すべての表現者が思い当たることだろう。
最後に、高山れおなは「メタ俳句」について、「昔はそういう意識はあったが、今は苦しまぎれ」「好きなのは芭蕉と蕪村」「自作は本歌取りと地口で写生句は少ない」「俳句ではなくて発句」などと語った。
パネラーの話が一巡したあと、上田信治が選んだ150句選をめぐって話が進行したが、もう長くなるので省略させていただく。
さて、昨年の『新撰21』と今回の『新撰21』の宴に参加して感じたのは、昨年が俳句だけの閉鎖的な議論だったのに対して、今年はジャンル越境の視点が少しあったので聞いていて居心地がよかったということである。会場には「詩歌梁山泊」の森川雅美が来ていて、宴会二次会で話す機会があった。「詩歌梁山泊」のシンポジウムでは現代詩・俳句・短歌の3点セットだったが、何も川柳を排除したのではなくて川柳に対しても充分好意的であることが分かった。
他ジャンルとの交流が安易には達成できないことは経験的にもよくわかっている。いずれにせよ、しっかりした作品を書いていれば、どこかで人の目に留まるということだ。『超新撰21』に清水かおりが入集したのも、作品そのものが存在してこそのことである。何も肯定的評価とは限らず、これから厳しい批判の目にさらされるとしても、それは句集を出した他の作者にしても同じことだろう。
Aというジャンルにおいておもしろいと言われている作品がBという別のフィールドでは古くさい陳腐な表現にすぎないことがある。だからこそ短詩型の諸ジャンルに対して常に言葉のアンテナを出しておくことが必要なのである。
次週金曜日は大晦日ですので、「週刊川柳時評」は休みます。1月7日から再開する予定です。では、よいお年を。
2010年12月24日金曜日
2010年12月17日金曜日
『超新撰21』を読む
かねて予告されていた『超新撰21』(邑書林)がこのほど発行された。昨年話題になった『新撰21』に続いて、「セレクション俳人」に二冊目の「プラス」が付くことになった。短詩型文学に関心をもつ者にとっては、年末を飾る話題の一冊と言うべきであろう。
巻頭、種田スガルの自由律俳句は、玉石混淆で平凡な句もあるが、とてもおもしろかった。「俳号の種田は高祖母の兄であった種田山頭火から」とあるように、山頭火の血縁にあたる人らしい。けれども、DNAだけで作品が書けるわけもないから、サムシング・エルスの持ち主なのだろう。高山れおなの小論によると、たまたま手にした『新撰21』の北大路翼の作品に触発されて句作をしてみたというのだから、ユニークである。他の作者が顔写真を公開しているのに、「薔薇」の花を掲載しているところ、かつて「豈」で上野遊馬が自分の写真の代わりに「馬」の写真を掲載したときと同じような爽快さを感じる。「薔薇」を持っている指が写っているが、この指だけが種田スガルのものなのだろう。
アンチ定型の自由律は「一人一律」「一句一律」を標榜する。定型に乗せてうたうのではなく、句の内容によってリズムが変わるのである。
母の慈愛降り積もりて 発狂する多摩川べり
開け放つ繊細な谷間に 無毒の侵入りこむところ
伊達メガネ越し 異空間に脳内恋愛す
これらの句の一字空けは川柳人にとっても馴染みのあるものだ。俳句の切れの変わりに、一字空けによって飛躍する。
一方で、発想の平凡を感じさせるのは次のような句である。
終わり方知らぬ堕落の途
無人駅にころがるつぶれたランドセルの記憶
格子路地艶めく京の春の宵
親孝行にしばしの逃避旅行
普遍性によりかかった常識的な発想であったり、安易に定型に近づいてしまったりする。「無人駅のランドセル」という陳腐な風景を私たちはこれまでどれほど見せられてきたことだろう。この人のベースにあるのはエレクトラ・コンプレックスではないのかという気がしないでもない。
けれども、そのような失敗作にも関わらず、この作者には「可能性としての自由律」を感じさせる何かがある。
山村祐はかつて「一呼吸の詩」ということを唱えた。一呼吸の長さによって、句の長さが決定される。呼吸の長さは作者の個性である。ここから短律派と長律派が分かれる。種田スガルの一呼吸はそれほど長くはない。適度の長さといえば良いだろうか。
結合の相性で決まるペンギンの飛距離
猶予を何に賭しはてる
後者は100句の中でただひとつの短律作品である。
事前に発表されていた21人の作者と小論の論者のラインアップを眺めながら、最も期待していたのは山田耕司と四ツ谷龍の組合せである。作品、小論ともに期待を裏切らないものであった。
山田耕司は桐生高校の俳句クラブで今泉康弘とともに俳句を始めた。現在は「円錐」の同人である。
少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ
木と生まれ俎板となる地獄かな
狼よ誰より借りし傘だらう
一生にまぶた一枚玉椿
春の夜に釘たつぷりとこぼしけり
100句の中に「長岡裕一郎の急逝の報に接し李白の詩一編により 十三句」が含まれている。
浮雲に定型は無しただ往けり
行く春やゆくならちやんと手を渾れよ
連想するのは「豈」47号に今泉康弘が寄稿した「ミモザの天蓋―長岡裕一郎評伝―」である。長岡は2008年、アルコール依存症の果に肝硬変で亡くなった。句集『花文字館』が残されたが、長岡は「豈」のほかに「円錐」にも句を発表していた。長岡裕一郎の追悼文の中で今泉の文章を越えるものを寡聞にして知らない。
さて、山田耕司についての小論を四ッ谷龍は次のように書き始めている。
「精神の自由を保つということは、人にとりもっとも大切な価値の一つである。とくに創作者にとっては、世間の束縛を受けず自由を維持するという意思は重要なものである」
「常に本質を語れ」というのが批評の要諦であるにもかかわらず、本質論から語り始める批評家はいまどき多くはない。この一節こそ『超新撰21』の白眉であろう。
21人のトリを飾るのが川柳人・清水かおりである。
眦の深き奴隷に一礼す
相似形だから荒縄で縛るよ
想念の檻 かたちとして桔梗
エリジウム踵を削る音がする
手探りでビスマスを塗る青い部屋
落ちたのは海 一瞥の林檎よ
小論は堺谷真人が書いている。堺谷は「収斂進化」について述べている。
「異種の生物が同様の生態学的環境に置かれたとき、身体的特徴が似てくることがある。モグラとケラの前足、魚類とイルカの背鰭などがその好例だ。起源の異なる器官が、互いによく似た機能と構造を持つに至る」
このような観点から、堺谷は清水かおりの作品と昭和30年代の前衛俳句との類似を言挙げする。
他ジャンルと接するときの態度は難しいものである。「川柳」という「他者」を理解しようとするときに、俳人は「俳句」ジャンルにおける類似したものを通路として理解しようとする。それが「前衛俳句」である。
たとえば「俳句」ジャンルにおいて「詩」を表現しようとするときに、「俳句」は「俳句」なのだから、「詩」を表現したければ「詩」ジャンルに行けばよい、という立場がある。以前、堺谷の話を聞いた時に、彼は「詩の場で詩を表現するのではなくて、俳句の場で詩を表現したいのであれば、それも認められるべきだ」というようなことを言っていた。賢明な堺谷は「川柳」に対しても同様のスタンスをとっている。
俳句・短歌を中心とする表現史の中に川柳が加わっていく場合、従来のコンセプトの中で何がしかの位置づけをされることは避けられないかもしれない。「川柳」は「無季俳句」の一種だとか、「俳句ニューウェイヴ」の亜流だとかいう言説を私たちはどれほど聞かされてきたことだろう。
「収斂進化」という捉え方は、従来の柳俳交流史のなかで一歩前進と言えるかもしれない。清水かおりの作品は前衛俳句とは何の関係もないが、彼女の作品が俳句のセレクションの中で遜色なく言葉の力を発揮しているとすれば、それは新たな対話がはじまる契機となるに違いない。
巻頭、種田スガルの自由律俳句は、玉石混淆で平凡な句もあるが、とてもおもしろかった。「俳号の種田は高祖母の兄であった種田山頭火から」とあるように、山頭火の血縁にあたる人らしい。けれども、DNAだけで作品が書けるわけもないから、サムシング・エルスの持ち主なのだろう。高山れおなの小論によると、たまたま手にした『新撰21』の北大路翼の作品に触発されて句作をしてみたというのだから、ユニークである。他の作者が顔写真を公開しているのに、「薔薇」の花を掲載しているところ、かつて「豈」で上野遊馬が自分の写真の代わりに「馬」の写真を掲載したときと同じような爽快さを感じる。「薔薇」を持っている指が写っているが、この指だけが種田スガルのものなのだろう。
アンチ定型の自由律は「一人一律」「一句一律」を標榜する。定型に乗せてうたうのではなく、句の内容によってリズムが変わるのである。
母の慈愛降り積もりて 発狂する多摩川べり
開け放つ繊細な谷間に 無毒の侵入りこむところ
伊達メガネ越し 異空間に脳内恋愛す
これらの句の一字空けは川柳人にとっても馴染みのあるものだ。俳句の切れの変わりに、一字空けによって飛躍する。
一方で、発想の平凡を感じさせるのは次のような句である。
終わり方知らぬ堕落の途
無人駅にころがるつぶれたランドセルの記憶
格子路地艶めく京の春の宵
親孝行にしばしの逃避旅行
普遍性によりかかった常識的な発想であったり、安易に定型に近づいてしまったりする。「無人駅のランドセル」という陳腐な風景を私たちはこれまでどれほど見せられてきたことだろう。この人のベースにあるのはエレクトラ・コンプレックスではないのかという気がしないでもない。
けれども、そのような失敗作にも関わらず、この作者には「可能性としての自由律」を感じさせる何かがある。
山村祐はかつて「一呼吸の詩」ということを唱えた。一呼吸の長さによって、句の長さが決定される。呼吸の長さは作者の個性である。ここから短律派と長律派が分かれる。種田スガルの一呼吸はそれほど長くはない。適度の長さといえば良いだろうか。
結合の相性で決まるペンギンの飛距離
猶予を何に賭しはてる
後者は100句の中でただひとつの短律作品である。
事前に発表されていた21人の作者と小論の論者のラインアップを眺めながら、最も期待していたのは山田耕司と四ツ谷龍の組合せである。作品、小論ともに期待を裏切らないものであった。
山田耕司は桐生高校の俳句クラブで今泉康弘とともに俳句を始めた。現在は「円錐」の同人である。
少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ
木と生まれ俎板となる地獄かな
狼よ誰より借りし傘だらう
一生にまぶた一枚玉椿
春の夜に釘たつぷりとこぼしけり
100句の中に「長岡裕一郎の急逝の報に接し李白の詩一編により 十三句」が含まれている。
浮雲に定型は無しただ往けり
行く春やゆくならちやんと手を渾れよ
連想するのは「豈」47号に今泉康弘が寄稿した「ミモザの天蓋―長岡裕一郎評伝―」である。長岡は2008年、アルコール依存症の果に肝硬変で亡くなった。句集『花文字館』が残されたが、長岡は「豈」のほかに「円錐」にも句を発表していた。長岡裕一郎の追悼文の中で今泉の文章を越えるものを寡聞にして知らない。
さて、山田耕司についての小論を四ッ谷龍は次のように書き始めている。
「精神の自由を保つということは、人にとりもっとも大切な価値の一つである。とくに創作者にとっては、世間の束縛を受けず自由を維持するという意思は重要なものである」
「常に本質を語れ」というのが批評の要諦であるにもかかわらず、本質論から語り始める批評家はいまどき多くはない。この一節こそ『超新撰21』の白眉であろう。
21人のトリを飾るのが川柳人・清水かおりである。
眦の深き奴隷に一礼す
相似形だから荒縄で縛るよ
想念の檻 かたちとして桔梗
エリジウム踵を削る音がする
手探りでビスマスを塗る青い部屋
落ちたのは海 一瞥の林檎よ
小論は堺谷真人が書いている。堺谷は「収斂進化」について述べている。
「異種の生物が同様の生態学的環境に置かれたとき、身体的特徴が似てくることがある。モグラとケラの前足、魚類とイルカの背鰭などがその好例だ。起源の異なる器官が、互いによく似た機能と構造を持つに至る」
このような観点から、堺谷は清水かおりの作品と昭和30年代の前衛俳句との類似を言挙げする。
他ジャンルと接するときの態度は難しいものである。「川柳」という「他者」を理解しようとするときに、俳人は「俳句」ジャンルにおける類似したものを通路として理解しようとする。それが「前衛俳句」である。
たとえば「俳句」ジャンルにおいて「詩」を表現しようとするときに、「俳句」は「俳句」なのだから、「詩」を表現したければ「詩」ジャンルに行けばよい、という立場がある。以前、堺谷の話を聞いた時に、彼は「詩の場で詩を表現するのではなくて、俳句の場で詩を表現したいのであれば、それも認められるべきだ」というようなことを言っていた。賢明な堺谷は「川柳」に対しても同様のスタンスをとっている。
俳句・短歌を中心とする表現史の中に川柳が加わっていく場合、従来のコンセプトの中で何がしかの位置づけをされることは避けられないかもしれない。「川柳」は「無季俳句」の一種だとか、「俳句ニューウェイヴ」の亜流だとかいう言説を私たちはどれほど聞かされてきたことだろう。
「収斂進化」という捉え方は、従来の柳俳交流史のなかで一歩前進と言えるかもしれない。清水かおりの作品は前衛俳句とは何の関係もないが、彼女の作品が俳句のセレクションの中で遜色なく言葉の力を発揮しているとすれば、それは新たな対話がはじまる契機となるに違いない。
2010年12月10日金曜日
川柳・今年の10大ニュース
早いもので今年もあと3週間になりました。2010年を振り返り、10大ニュースを選んでみました。もとより川柳の世界全体を見渡したものではなく、極私的なものであることをお断りしておきます。
①「Leaf」創刊 1月
新年早々に川柳同人誌「Leaf」が創刊された。同人は吉澤久良・清水かおり・畑美樹・兵頭全郎。4人とも「バックストローク」同人であるが、畑美樹は「バックストローク」編集人、清水かおりは「川柳木馬」の編集人、兵頭全郎は「ふらすこてん」編集人でもある。吉澤久良は「Leaf」の発行人となった。それぞれ作品発表の場を持ちながら、個としての4人が新たな川柳活動の拠点として新誌を立ち上げたことに注目される。その創刊理念は「互評」であるが、この点については、当欄でも「Leafはクローズドな柳誌なのか」で触れたことがある。また、6月の「1+1の会」において吉澤と兵頭による創刊の経緯についての報告があったが、「ナニ、互評をやりたいために創刊したのか」と口の悪い参加者たちから集中砲火を浴びせられることになった。批判も無視も糧にして、やがて川柳の次世代を担うであろう彼らにはどんどん前へ進んでいってほしい。年2回発行で、現在第2号まで出ている。次の3号が真価を問われるところとなるだろう。
②「週刊俳句」まるごと川柳号 3月7日
「週間俳句」3月7日号は「バックストローク」プロデュースによる、まるごと川柳号。石部明・石田柊馬・渡辺隆夫・樋口由紀子・小池正博・広瀬ちえみの作品と川柳小説「小島六厘坊物語」(小池)、「川柳に関する20のアフォリズム」(樋口)、「おしゃべりな風―絵本と川柳」(山田ゆみ葉)、「フィールドに立つ裸形のことば」(湊圭史)から構成。作品と湊の評論は「バックストローク」30号に転載される。まるごと川柳号を機に、「MANO」掲示板のカウンターが一気にまわるかと期待されたが、そういうこともなかった。
③「グループ明暗」ラスト句会 3月
3月21日に「グループ明暗」のラスト句会が豊中市立市民会館ホールで開催された。参加者約80名。「明暗」は定金冬二の「一枚の会」を継承する形で平成9年に発足した。前田芙巳代は岡橋宣介の「せんば」を経て冬二とともに川柳活動を続けた。「せんば」→「一枚の会」→「グループ明暗」という現代川柳のひとつの流れは、ここでひとまず途絶えたことになる。
当日の作品は「明暗」39号(2010年5月発行)に掲載されている。
④「第四回バックストロークおかやま大会」 4月
2007年にはじまったこの大会も今年で四回目を迎えた。参加者約90名。
第1部「石部明を三枚おろし」では、発行人・石部明が自らの川柳歴と川柳の現状について、縦横に語った。
第2部・川柳大会の選者はくんじろう・松永千秋・前田一石・井上せい子・平賀胤壽、共選は佐藤文香・石田柊馬。佐藤文香の「その句がこの社会にどれだけ貢献しないか」という選句基準は大いに反響を呼んだ。
大会の記録は「バックストローク」31号に掲載。
⑤「ハンセン病文学全集」第9巻「俳句・川柳」 7月
「ハンセン病文学全集」全10巻(皓星社)が7月に刊行された「俳句・川柳」編で完結した。この全集は1980年代半ばに企画され、鶴見俊輔・大岡信・加賀乙彦・大谷藤郎の四人が責任編集を務めた。2002年から刊行が始まり、「俳句・川柳」編では田口麦彦が川柳の選と解説を担当した。収録された約4000句は1940年から2003年までに発表された作品群。
麻痺の手に計れぬ重さ小鳥の死
故郷の米洗った水も花へやり
里帰りわたしの村を通るだけ
生きよ生きよ玉菜に肉を包みこむ
本名捨てて人間回復とは何か
⑥第2回木馬川柳大会 9月
9月19日、高知パレスホテルにて開催。
第1回大会が2004年だから6年ぶりの開催である。
事前投句の合評が行われ、林嗣夫(詩誌「兆」主宰)・石田柊馬・吉澤久良の三人によって選と句評が述べられた。選句基準が異なり、選ばれた句も三人それぞれで、違いが際立ったところが興味深かった。
句会に移り、選者は松永千秋・前田ひろえ・原田否可立・小笠原望・古谷恭一。
高知は独自の文学空間であり、その中心に清水かおりがいる。「Leaf」の刊行、木馬大会の成功、『超新撰21』への参加と、この人の活躍から目が離せない。
⑦詩のボクシング全国大会でくんじろうが優勝 10月
7月17日に「詩のボクシング」三重大会で優勝したくんじろうが、10月16日の全国大会でも見事チャンピオンの栄冠に輝いた。詩の朗読という分野でくんじろうが川柳の存在感をアピールした意味は大きい。
なかはられいこはかつて「朗読」というフィールドに打って出ようとしたが、その試みは途中で消えてしまった。くんじろうは全く違った角度から朗読の世界に登場した。「違った角度」というのは語弊があるかもしれない。くんじろうは「川柳」自体の素顔のままで「朗読」フィールドに乱入したのである。彼の朗読は五七五の定型を基本とし、共感と普遍性に基づくこれまでの川柳の書き方を踏襲している。現代詩にあわせて自分を捨てるのではなく、そのまま自己の川柳を持ち込んだのである。これはある意味でコロンブスの卵であった。
今後くんじろうはどのような方向に進んでいくだろうか。
10月から彼は「北田辺句会」を始めて、川柳の普及に努めている。来年も独自の存在感を発揮することだろう。
⑧s/c ゼロ年代50句選
9月に湊圭史が立ち上げた「短詩型サイト」s/cは川柳を中心に短詩型文学の作品・評論・鑑賞を精力的に掲載している。特に〈川柳誌「バックストローク」50句選&鑑賞〉は今年の彼の重要な仕事となった。
この50句選には経緯があって、発端は「現代詩手帖」6月号に「ゼロ年代の短歌100選」「ゼロ年代の俳句100選」が掲載されたことによる。また、高山れおなは「豈Weekly」で独自の100選を発表し、それには評まで付いていた。これらの動きを横目に眺めながら、それでは川柳でも「ゼロ年代の100選」はできないものか、という問題意識が生まれて、湊が自分でやってみようとしたのである。ただ、句集があまり刊行されず、作品が流通しにくい川柳界では全体を展望することが困難なので、「バックストローク」一誌に限定して、作品数も50にしぼったということだろう。
これがこの川柳人を代表する句だろうか?と首をかしげる部分も湊の選にはあるが、彼の50句選を契機として、ゼロ年代の川柳を振り返ってみる作業は必要だし有益でもあるだろう。
⑨『麻生路郎読本』
川柳六大家のひとり麻生路郎についての資料を網羅した一冊。柳誌「川柳塔」は「川柳雑誌」の時代から数えて1000号となり、それを記念して発行された。これで一昨年の『番傘川柳百年史』とあわせて、関西川柳界の両巨頭である路郎・水府、および「川柳塔」「番傘」の歴史が展望できるようになった。
路郎・水府ともにそれぞれの個人史があり、特に若き日の川柳活動にはさまざまな可能性がある。そういう紆余曲折を経て、彼らは「路郎」あるいは「水府」になったのであり、あとに続く者は彼らの権威を鵜呑みにしてはいけないだろう。後進は彼らを乗り越えて進むべきであるし、後進を最も痛烈に批判するものは先人がそれぞれの時点で残した言動であるはずだ。もし「伝統」に意味があるとすればそういう作業を通じてであって、そのための貴重な資料が出揃ったことになる。
⑩『超新撰21』発行 12月
昨年話題になった『新撰21』の続編。『新撰21』がunder40だったのに対して、『超新撰21』は年齢制限がunder50だという。川柳人では清水かおりが入集している。本書の発行がやや遅れ、本日の時点でまだ手元に届いていないので、来週の時評で改めて取り上げることにしたい。
①「Leaf」創刊 1月
新年早々に川柳同人誌「Leaf」が創刊された。同人は吉澤久良・清水かおり・畑美樹・兵頭全郎。4人とも「バックストローク」同人であるが、畑美樹は「バックストローク」編集人、清水かおりは「川柳木馬」の編集人、兵頭全郎は「ふらすこてん」編集人でもある。吉澤久良は「Leaf」の発行人となった。それぞれ作品発表の場を持ちながら、個としての4人が新たな川柳活動の拠点として新誌を立ち上げたことに注目される。その創刊理念は「互評」であるが、この点については、当欄でも「Leafはクローズドな柳誌なのか」で触れたことがある。また、6月の「1+1の会」において吉澤と兵頭による創刊の経緯についての報告があったが、「ナニ、互評をやりたいために創刊したのか」と口の悪い参加者たちから集中砲火を浴びせられることになった。批判も無視も糧にして、やがて川柳の次世代を担うであろう彼らにはどんどん前へ進んでいってほしい。年2回発行で、現在第2号まで出ている。次の3号が真価を問われるところとなるだろう。
②「週刊俳句」まるごと川柳号 3月7日
「週間俳句」3月7日号は「バックストローク」プロデュースによる、まるごと川柳号。石部明・石田柊馬・渡辺隆夫・樋口由紀子・小池正博・広瀬ちえみの作品と川柳小説「小島六厘坊物語」(小池)、「川柳に関する20のアフォリズム」(樋口)、「おしゃべりな風―絵本と川柳」(山田ゆみ葉)、「フィールドに立つ裸形のことば」(湊圭史)から構成。作品と湊の評論は「バックストローク」30号に転載される。まるごと川柳号を機に、「MANO」掲示板のカウンターが一気にまわるかと期待されたが、そういうこともなかった。
③「グループ明暗」ラスト句会 3月
3月21日に「グループ明暗」のラスト句会が豊中市立市民会館ホールで開催された。参加者約80名。「明暗」は定金冬二の「一枚の会」を継承する形で平成9年に発足した。前田芙巳代は岡橋宣介の「せんば」を経て冬二とともに川柳活動を続けた。「せんば」→「一枚の会」→「グループ明暗」という現代川柳のひとつの流れは、ここでひとまず途絶えたことになる。
当日の作品は「明暗」39号(2010年5月発行)に掲載されている。
④「第四回バックストロークおかやま大会」 4月
2007年にはじまったこの大会も今年で四回目を迎えた。参加者約90名。
第1部「石部明を三枚おろし」では、発行人・石部明が自らの川柳歴と川柳の現状について、縦横に語った。
第2部・川柳大会の選者はくんじろう・松永千秋・前田一石・井上せい子・平賀胤壽、共選は佐藤文香・石田柊馬。佐藤文香の「その句がこの社会にどれだけ貢献しないか」という選句基準は大いに反響を呼んだ。
大会の記録は「バックストローク」31号に掲載。
⑤「ハンセン病文学全集」第9巻「俳句・川柳」 7月
「ハンセン病文学全集」全10巻(皓星社)が7月に刊行された「俳句・川柳」編で完結した。この全集は1980年代半ばに企画され、鶴見俊輔・大岡信・加賀乙彦・大谷藤郎の四人が責任編集を務めた。2002年から刊行が始まり、「俳句・川柳」編では田口麦彦が川柳の選と解説を担当した。収録された約4000句は1940年から2003年までに発表された作品群。
麻痺の手に計れぬ重さ小鳥の死
故郷の米洗った水も花へやり
里帰りわたしの村を通るだけ
生きよ生きよ玉菜に肉を包みこむ
本名捨てて人間回復とは何か
⑥第2回木馬川柳大会 9月
9月19日、高知パレスホテルにて開催。
第1回大会が2004年だから6年ぶりの開催である。
事前投句の合評が行われ、林嗣夫(詩誌「兆」主宰)・石田柊馬・吉澤久良の三人によって選と句評が述べられた。選句基準が異なり、選ばれた句も三人それぞれで、違いが際立ったところが興味深かった。
句会に移り、選者は松永千秋・前田ひろえ・原田否可立・小笠原望・古谷恭一。
高知は独自の文学空間であり、その中心に清水かおりがいる。「Leaf」の刊行、木馬大会の成功、『超新撰21』への参加と、この人の活躍から目が離せない。
⑦詩のボクシング全国大会でくんじろうが優勝 10月
7月17日に「詩のボクシング」三重大会で優勝したくんじろうが、10月16日の全国大会でも見事チャンピオンの栄冠に輝いた。詩の朗読という分野でくんじろうが川柳の存在感をアピールした意味は大きい。
なかはられいこはかつて「朗読」というフィールドに打って出ようとしたが、その試みは途中で消えてしまった。くんじろうは全く違った角度から朗読の世界に登場した。「違った角度」というのは語弊があるかもしれない。くんじろうは「川柳」自体の素顔のままで「朗読」フィールドに乱入したのである。彼の朗読は五七五の定型を基本とし、共感と普遍性に基づくこれまでの川柳の書き方を踏襲している。現代詩にあわせて自分を捨てるのではなく、そのまま自己の川柳を持ち込んだのである。これはある意味でコロンブスの卵であった。
今後くんじろうはどのような方向に進んでいくだろうか。
10月から彼は「北田辺句会」を始めて、川柳の普及に努めている。来年も独自の存在感を発揮することだろう。
⑧s/c ゼロ年代50句選
9月に湊圭史が立ち上げた「短詩型サイト」s/cは川柳を中心に短詩型文学の作品・評論・鑑賞を精力的に掲載している。特に〈川柳誌「バックストローク」50句選&鑑賞〉は今年の彼の重要な仕事となった。
この50句選には経緯があって、発端は「現代詩手帖」6月号に「ゼロ年代の短歌100選」「ゼロ年代の俳句100選」が掲載されたことによる。また、高山れおなは「豈Weekly」で独自の100選を発表し、それには評まで付いていた。これらの動きを横目に眺めながら、それでは川柳でも「ゼロ年代の100選」はできないものか、という問題意識が生まれて、湊が自分でやってみようとしたのである。ただ、句集があまり刊行されず、作品が流通しにくい川柳界では全体を展望することが困難なので、「バックストローク」一誌に限定して、作品数も50にしぼったということだろう。
これがこの川柳人を代表する句だろうか?と首をかしげる部分も湊の選にはあるが、彼の50句選を契機として、ゼロ年代の川柳を振り返ってみる作業は必要だし有益でもあるだろう。
⑨『麻生路郎読本』
川柳六大家のひとり麻生路郎についての資料を網羅した一冊。柳誌「川柳塔」は「川柳雑誌」の時代から数えて1000号となり、それを記念して発行された。これで一昨年の『番傘川柳百年史』とあわせて、関西川柳界の両巨頭である路郎・水府、および「川柳塔」「番傘」の歴史が展望できるようになった。
路郎・水府ともにそれぞれの個人史があり、特に若き日の川柳活動にはさまざまな可能性がある。そういう紆余曲折を経て、彼らは「路郎」あるいは「水府」になったのであり、あとに続く者は彼らの権威を鵜呑みにしてはいけないだろう。後進は彼らを乗り越えて進むべきであるし、後進を最も痛烈に批判するものは先人がそれぞれの時点で残した言動であるはずだ。もし「伝統」に意味があるとすればそういう作業を通じてであって、そのための貴重な資料が出揃ったことになる。
⑩『超新撰21』発行 12月
昨年話題になった『新撰21』の続編。『新撰21』がunder40だったのに対して、『超新撰21』は年齢制限がunder50だという。川柳人では清水かおりが入集している。本書の発行がやや遅れ、本日の時点でまだ手元に届いていないので、来週の時評で改めて取り上げることにしたい。
2010年12月3日金曜日
川柳における自由律
「俳句界」12月号の特集「こんなに面白い!現代の自由律俳句」は、「座談会」「自由律俳句 句セレクション」「論考(永田龍太郎)」「私の好きな自由律俳句」から構成されている。自由律俳句といえば放哉・山頭火や住宅顕信がよく話題になるが、現代の自由律作品が取り上げられるのは珍しい。
「句セレクション」「私の好きな自由律俳句」のコーナーから何句か引用する。
生返事の口紅つけている 岡田幸生
どの蟻もつかれていない隊商のラクダだ 塩野谷西呂
今宵さくらと残業いたします 湯原幸三
あじさいといっしょに萎びる 湯原幸三
裸 星降る 中原紫重
虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル 近木圭之介
また同誌ではレポートのコーナーで藤田踏青が「でんでん虫の会」について書いている。今年9月19日の句会についての報告である。
少し死に少し生まれて透明都市 藤田踏青
エコー飛び交う海底臓器販売書 吉田久美子
それでも素通り出来ぬポルノ館 前田芙巳代
アリエッティの腸内旅行 本日曇天 吉田健治
これらの句はブラジルの現代美術家エルネスト・ネトの「身体・宇宙船・精神」のイメージ吟であるという。
さて、川柳においても「自由律川柳」の長い歴史がある。
川柳における自由律について展望するのに便利なのは、『自由律川柳合同句集Ⅰ』(昭和16年1月発行、平成5年3月復刻版)の巻末に掲載されている鈴木小寒郎の「自由律川柳小史」である。というよりこの文章以外にはほとんど資料らしいものがないのだ。小寒郎の文章をもとに、自由律川柳の歴史を素描してみよう。
小寒郎が自由律川柳前史として取り上げているものに、井上剣花坊が「江戸時代之川柳」で述べた「破格より向上へ」の理念がある。
年々歳々人同じからず債鬼 井上剣花坊
母のきんちやくから黒い銀貨が出た
剣花坊調と呼ばれる「怒号叱咤的風格」は柳樽寺系破調・自由律川柳に流れている性格であるという。
大正時代に自由律川柳として突出した作品を書いたのが、川上日車である。
信州小諸ただそれだけでよし 川上日車
焔をつかんでは捨てる
鋏できつてしまつた
大正7年1月、岡山で「街燈」が創刊され、河野鉄羅漢・中原我楽太・亀山寶年坊によって自由律川柳が推進された。小寒郎はこの「街燈」を自由律川柳の意識的出発とみなしている。しかし、「街燈」は1年後に休刊し自由律川柳は「分散時代」に入ることになる。
昭和6年、観田鶴太郎は「ふあうすと」誌上に「寺から帰る母へ月夜となつた」「毛糸買ひに出る妻へ時雨れる」などの自由律作品を発表した。「ふあうすと」内部の自由律派の誕生である。やがて鶴太郎は「ふあうすと」を脱退し、昭和10年3月、神戸で自由律川柳の専門誌「視野」を創刊する。
大阪では昭和8年に「手」が、京都では昭和10年に「川柳ビル」が創刊されている。
小寒郎はこの時期を「分散時代」から「集中期の段階」へ入るものと述べている。
貰って来た大根の寒さである 小寒郎
人の噂にならうとする林檎さくりと噛む 鶴太郎
犬は犬の尾に甘んじてゐる 豊次
小寒郎の記述は昭和10年代で終わっている。
戦後の自由律川柳としては、墨作二郎の長律作品が注目されるが、定型とは異なる「一人一律」「一句一律」の可能性は「短詩」誌における短律派と長律派との分裂などを経て、次第に風化していった。
現在、川柳の世界で自由律が論じられる機会は少ないが、実作者としてどのような立場をとるにせよ、自由律川柳の歴史そのものに対して無関心であってはならないだろう。
土ほれば 土 土ほれば土と水 日車
「句セレクション」「私の好きな自由律俳句」のコーナーから何句か引用する。
生返事の口紅つけている 岡田幸生
どの蟻もつかれていない隊商のラクダだ 塩野谷西呂
今宵さくらと残業いたします 湯原幸三
あじさいといっしょに萎びる 湯原幸三
裸 星降る 中原紫重
虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル 近木圭之介
また同誌ではレポートのコーナーで藤田踏青が「でんでん虫の会」について書いている。今年9月19日の句会についての報告である。
少し死に少し生まれて透明都市 藤田踏青
エコー飛び交う海底臓器販売書 吉田久美子
それでも素通り出来ぬポルノ館 前田芙巳代
アリエッティの腸内旅行 本日曇天 吉田健治
これらの句はブラジルの現代美術家エルネスト・ネトの「身体・宇宙船・精神」のイメージ吟であるという。
さて、川柳においても「自由律川柳」の長い歴史がある。
川柳における自由律について展望するのに便利なのは、『自由律川柳合同句集Ⅰ』(昭和16年1月発行、平成5年3月復刻版)の巻末に掲載されている鈴木小寒郎の「自由律川柳小史」である。というよりこの文章以外にはほとんど資料らしいものがないのだ。小寒郎の文章をもとに、自由律川柳の歴史を素描してみよう。
小寒郎が自由律川柳前史として取り上げているものに、井上剣花坊が「江戸時代之川柳」で述べた「破格より向上へ」の理念がある。
年々歳々人同じからず債鬼 井上剣花坊
母のきんちやくから黒い銀貨が出た
剣花坊調と呼ばれる「怒号叱咤的風格」は柳樽寺系破調・自由律川柳に流れている性格であるという。
大正時代に自由律川柳として突出した作品を書いたのが、川上日車である。
信州小諸ただそれだけでよし 川上日車
焔をつかんでは捨てる
鋏できつてしまつた
大正7年1月、岡山で「街燈」が創刊され、河野鉄羅漢・中原我楽太・亀山寶年坊によって自由律川柳が推進された。小寒郎はこの「街燈」を自由律川柳の意識的出発とみなしている。しかし、「街燈」は1年後に休刊し自由律川柳は「分散時代」に入ることになる。
昭和6年、観田鶴太郎は「ふあうすと」誌上に「寺から帰る母へ月夜となつた」「毛糸買ひに出る妻へ時雨れる」などの自由律作品を発表した。「ふあうすと」内部の自由律派の誕生である。やがて鶴太郎は「ふあうすと」を脱退し、昭和10年3月、神戸で自由律川柳の専門誌「視野」を創刊する。
大阪では昭和8年に「手」が、京都では昭和10年に「川柳ビル」が創刊されている。
小寒郎はこの時期を「分散時代」から「集中期の段階」へ入るものと述べている。
貰って来た大根の寒さである 小寒郎
人の噂にならうとする林檎さくりと噛む 鶴太郎
犬は犬の尾に甘んじてゐる 豊次
小寒郎の記述は昭和10年代で終わっている。
戦後の自由律川柳としては、墨作二郎の長律作品が注目されるが、定型とは異なる「一人一律」「一句一律」の可能性は「短詩」誌における短律派と長律派との分裂などを経て、次第に風化していった。
現在、川柳の世界で自由律が論じられる機会は少ないが、実作者としてどのような立場をとるにせよ、自由律川柳の歴史そのものに対して無関心であってはならないだろう。
土ほれば 土 土ほれば土と水 日車
2010年11月26日金曜日
石田柊馬の川柳史観
現代川柳の「いま、ここ」を明らかにしようとする場合、現在の短詩型文学の状況に目配りすると同時に、川柳の歴史的展開をも踏まえておくことが必要である。よく言われる言葉で言えば、共時性と通時性の切り結ぶところに川柳の現在があるのだ。そこで問われるのが川柳史観である。「川柳」という単一のものがあるのではなくて、史的展開をふまえた「様々な川柳の可能性」がある。川柳の「いま」を論じるときに、どのようなパースペクティヴをもって現代川柳を捉えているのかが問われることになる。
石田柊馬はそのような「川柳史観」を感じさせる数少ない批評家の一人である。今回は「バックストローク」32号に掲載された「詩性川柳の実質」をもとにしながら、石田柊馬の川柳史観について検討してみたい。
「詩性川柳の実質」は「バックストローク」に連載されている長編評論である。30号・32号では石部明論の形をとりながら、その背後に柊馬の川柳史観が明瞭に読み取れる。一人の川柳人を論じることが、現代川柳の史的展開を論じることとなるのは川柳批評の醍醐味と言ってよいだろう。
さて、柊馬はこんなふうに述べている。
「第一句集から第二句集への道程で、石部は主題を初発点にする書き方を心得つつ、言葉を初発点にする書き方に体重が掛かってゆく。川柳的な共感性の担保であった現実感が、書かれた句語の後追いをすることになる」
石部明の第一句集『賑やかな箱』から第二句集『遊魔系』への展開を、石田柊馬はまずおおざっぱに「主題を初発点にする書き方」から「言葉を初発点にする書き方」へと規定してみせる。「句語の後追い」とは何であろうか。意味があって言葉が書かれるのではなくて、言葉が先にあって意味があとからついてくるような書き方を念頭においていることは間違いない。したがって柊馬は次のように続けている。
「一句の意味性は、句の書かれたあとからついて来るものとなるので、川柳的な飛躍の錘であったリアリズムから作句が解放されたのである。意味性は、句語や言葉と言葉の関係性へ直感的に飛来してくる。つまり、まだ意味性や作者の思いを背負わされていない素の言葉、あるいは、言葉と言葉の関係性が作者のアンテナに触れてスパークする手応えが一句を創り上げる」
「意味なんてあとからついてくるのよ」とは本間三千子の言葉だと伝え聞いている。作品の意味は何かと問われて、本間は意味なんてあとからついてくるのだとタンカをきったのである。言葉には意味があるが、言葉は意味そのものではない。言葉は意味よりももっと広いものであるはずだ。「川柳の意味性」と言われているものは、川柳の持ち味を「言葉の意味」という一点に集中することによって強度なインパクトをめざす一方法だったのである。それを意味という一点に封じ込めてしまうことは、川柳の可能性を限定してしまうことになる。しかし、同時に「意味性」は野放図な「川柳的な飛躍」を制御するための安全弁の役割をも果たしていた。どこへ飛んでいくか分からない言葉の飛躍を制御するために、「意味性」の錘は有効だったのである。少なくとも従来の川柳はそういう書き方をされていた。
それでは「意味の錘」を外したとすれば、言葉はどこへ飛躍していくのだろうか。それはおそらく「言葉と言葉の関係性」の世界へ入っていくのである。
「前句附けというシステム、七七という問いに五七五で答えるルールを書き方の原初とする川柳では、言葉と言葉の関係性に敏感であったはずだが、およそ百年の近代化の中で作者の思いを書くことだけが重視されて、言葉との付き合いの自由を軽視する狭いリアリズムが横行した。しかし古川柳は折口信夫に言語遊戯と断じられるほど、川柳は言語との関係に自由であったはずなのだ」
このあたりから柊馬の川柳史観が明瞭になっていく。前句付をルーツとする川柳が「言葉と言葉の関係性」に敏感であったという指摘は新鮮である。川柳は雑俳の一種と考えられるが、雑俳のさまざまな形式は「言葉と言葉の関係性」によってのみ成立していると言っても過言ではない。それを「言語遊戯」として退け、「作者の思い」の表現に限定してしまったのは「川柳」の特殊事情であり、「近代」という時代の要請である。
「戦後の革新派が句会を嫌った理由には、ダンナ芸や膝ポン川柳などの俗物性への批判があったが、俗物性の中にも流れている言語遊戯の性状については思考の対象としなかった。河野春三の言う『人間諷詠』が川柳の近代化であったが、近代化のなかで書かれた佳作は、多くの場合、古川柳から受け継がれた人情という共感要素を現実から抽出したものであり、結果、私川柳の飽和に至って袋小路に突き当たったのであった」
河野春三が「川柳における近代」の代表的存在であったことは、現在の眼から見てますます明らかになりつつある。春三の近代とは川柳における「私」の確立であり、その実質が「人間諷詠」であったのだ。そこから「思いを書く」という川柳観へはわずかに一歩の距離にすぎない。
川柳は近代化を急ぐあまりに大切なものを見落としてきたのではないか。近代的自我の確立というテーゼは「思いの表現」に矮小化されたが、「私」の表現はもっと深く広い領域を含んでいる。石田柊馬の川柳史観をたたき台にして、さらに複眼的な川柳史観を構築することが後発の世代には求められている。
石田柊馬はそのような「川柳史観」を感じさせる数少ない批評家の一人である。今回は「バックストローク」32号に掲載された「詩性川柳の実質」をもとにしながら、石田柊馬の川柳史観について検討してみたい。
「詩性川柳の実質」は「バックストローク」に連載されている長編評論である。30号・32号では石部明論の形をとりながら、その背後に柊馬の川柳史観が明瞭に読み取れる。一人の川柳人を論じることが、現代川柳の史的展開を論じることとなるのは川柳批評の醍醐味と言ってよいだろう。
さて、柊馬はこんなふうに述べている。
「第一句集から第二句集への道程で、石部は主題を初発点にする書き方を心得つつ、言葉を初発点にする書き方に体重が掛かってゆく。川柳的な共感性の担保であった現実感が、書かれた句語の後追いをすることになる」
石部明の第一句集『賑やかな箱』から第二句集『遊魔系』への展開を、石田柊馬はまずおおざっぱに「主題を初発点にする書き方」から「言葉を初発点にする書き方」へと規定してみせる。「句語の後追い」とは何であろうか。意味があって言葉が書かれるのではなくて、言葉が先にあって意味があとからついてくるような書き方を念頭においていることは間違いない。したがって柊馬は次のように続けている。
「一句の意味性は、句の書かれたあとからついて来るものとなるので、川柳的な飛躍の錘であったリアリズムから作句が解放されたのである。意味性は、句語や言葉と言葉の関係性へ直感的に飛来してくる。つまり、まだ意味性や作者の思いを背負わされていない素の言葉、あるいは、言葉と言葉の関係性が作者のアンテナに触れてスパークする手応えが一句を創り上げる」
「意味なんてあとからついてくるのよ」とは本間三千子の言葉だと伝え聞いている。作品の意味は何かと問われて、本間は意味なんてあとからついてくるのだとタンカをきったのである。言葉には意味があるが、言葉は意味そのものではない。言葉は意味よりももっと広いものであるはずだ。「川柳の意味性」と言われているものは、川柳の持ち味を「言葉の意味」という一点に集中することによって強度なインパクトをめざす一方法だったのである。それを意味という一点に封じ込めてしまうことは、川柳の可能性を限定してしまうことになる。しかし、同時に「意味性」は野放図な「川柳的な飛躍」を制御するための安全弁の役割をも果たしていた。どこへ飛んでいくか分からない言葉の飛躍を制御するために、「意味性」の錘は有効だったのである。少なくとも従来の川柳はそういう書き方をされていた。
それでは「意味の錘」を外したとすれば、言葉はどこへ飛躍していくのだろうか。それはおそらく「言葉と言葉の関係性」の世界へ入っていくのである。
「前句附けというシステム、七七という問いに五七五で答えるルールを書き方の原初とする川柳では、言葉と言葉の関係性に敏感であったはずだが、およそ百年の近代化の中で作者の思いを書くことだけが重視されて、言葉との付き合いの自由を軽視する狭いリアリズムが横行した。しかし古川柳は折口信夫に言語遊戯と断じられるほど、川柳は言語との関係に自由であったはずなのだ」
このあたりから柊馬の川柳史観が明瞭になっていく。前句付をルーツとする川柳が「言葉と言葉の関係性」に敏感であったという指摘は新鮮である。川柳は雑俳の一種と考えられるが、雑俳のさまざまな形式は「言葉と言葉の関係性」によってのみ成立していると言っても過言ではない。それを「言語遊戯」として退け、「作者の思い」の表現に限定してしまったのは「川柳」の特殊事情であり、「近代」という時代の要請である。
「戦後の革新派が句会を嫌った理由には、ダンナ芸や膝ポン川柳などの俗物性への批判があったが、俗物性の中にも流れている言語遊戯の性状については思考の対象としなかった。河野春三の言う『人間諷詠』が川柳の近代化であったが、近代化のなかで書かれた佳作は、多くの場合、古川柳から受け継がれた人情という共感要素を現実から抽出したものであり、結果、私川柳の飽和に至って袋小路に突き当たったのであった」
河野春三が「川柳における近代」の代表的存在であったことは、現在の眼から見てますます明らかになりつつある。春三の近代とは川柳における「私」の確立であり、その実質が「人間諷詠」であったのだ。そこから「思いを書く」という川柳観へはわずかに一歩の距離にすぎない。
川柳は近代化を急ぐあまりに大切なものを見落としてきたのではないか。近代的自我の確立というテーゼは「思いの表現」に矮小化されたが、「私」の表現はもっと深く広い領域を含んでいる。石田柊馬の川柳史観をたたき台にして、さらに複眼的な川柳史観を構築することが後発の世代には求められている。
2010年11月19日金曜日
川柳における「宛名」の問題
近頃よく目にする批評用語に「宛名」がある。誰に宛てて作品を書くか、というほどの意味で使われているのだろう。
「現代詩手帖」11月号の「俳句逍遥」で田中亜美は「宛先と宛名」と題して俳誌「傘」の創刊を取り上げている。田中は次のように書いている。
「俳句の宛先はどこへ設定されるのか。その宛名はどこに記されているのか」「作者として俳句を作るとき、読者として俳句を読むとき、宛先と宛名をめぐる消息について、ふと疑念に囚われることがある。〈私〉は誰に向けてそれを発信するのか、それは本当に〈私〉へと送信されたメッセージなのか」
「傘〔karakasa〕」は越智友亮と藤田哲史が創刊し、第1号では佐藤文香の特集を行っている。彼らがウェブではなくて「雑誌」というツールを選んだのはなぜか。それはメッセージを「《効率よく》ではなく、《確かに》伝えたい。そういう気持ちをつきつめた結果、雑誌という形態に拘らざるをえなかった」からだという。
このような「傘」の発行意図について、田中はこんなふうに述べている。
「もしかしたら、それは無限の匿名性と潜在性の海に『一斉表示』するのではなく、作者の〈手〉から、読者の〈手〉へと漂流し漂着するというプライベートなメッセージの伝達のありようが、もう一度見直されている証左なのかもしれない」
たぶん田中の脳裏にはアドルノのいう「投壜通信」のイメージがあるだろう。
「アウシュビッツ以降になおも詩を書くことは野蛮である」とはドイツの哲学者アドルノの有名な言葉である。現代の商業主義に毒された社会の中で、詩の言葉は「投壜通信」のようにどこへ漂着するか分からない。誰かに届くかどうかすら分からないのだ。発信された言葉は誰かに届かなければ意味がないという考え方もあるだろう。だから性急な若者たちは言葉を届けようと必死になる。けれども、いまこの時点で届かなくても、まだ見ぬ誰かが未来において言葉を受け取ることがあるかもしれない。「投壜通信」にはそういう絶望と希望の二重のイメージがこめられている。
「宛名」で思い浮かぶのは、10月16日に東京で開催された「詩歌梁山泊シンポジウム」の第2部「宛名、機会詩、自然」である。報告者・筑紫磐井の論旨はおよそ次のようなものであったようだ(引用は「俳句樹」3号、筑紫の「私的報告」による)。
筑紫は宮澤賢治の短歌と手紙を比較して、賢治の短歌が詩とはつながらないのに対して、手紙の一部分は立派な詩に見えると述べている。「賢治の詩は若いころから熱心にやっていた短歌から生まれたものではなく、手紙を書き連ねる中でほとばしり出た文章の影響を強く受けていた」というのである。そこから筑紫は次のような結論を導きだしている。
①賢治の詩の発生は、2人称を宛名とする言説(いってみれば手紙)を契機に発生したものと考えるのがふさわしい。
②短歌の発生は1人称複数(=We)を宛名とする歌謡
③俳句の発生は宛名のない文学・つぶやき
このような筑紫の問題提起には反論もあったようだが、この「宛名」という考え方を川柳に適用するとどうなるか、というのが今回のテーマである。
川柳において「宛名」の問題はこれまで考えられてこなかった。それは自明のことであり、問題視されることはなかったのだろう。
句会・大会では、その場に集まった人々に対して作品が書かれる。もっと正確に言えば、選者に向けて作品が書かれる。宛名は選者ひとりなのである。選者はよしとする作品を句会・大会の場で披講する。選者を通して作品は間接的に参加者に届けられる。作品は共感あるいは反発をもって迎えられる。選者という2人称(You)を通過することによって作品は1人称複数(We)に共有される。
同人誌においても価値観を共有する同人・会員に宛てて作品が書かれる。広く一般読書界に流通することはないから、不特定多数の読者に対する「投壜通信」という感覚はあまりない。
このようにして川柳では、誰に宛てて書くか、どのように届けるか、という問題に意識的になる必要はなかった。宛先人は目に見える範囲に限られていたからである。
けれども、川柳においても自立した作品・テクストが書かれるようになると、それを誰に読んでもらうかという問題が浮上してくる。「どのように書くか」とともに「どのように届けるか」が重要な問題として浮かび上がってくるようになったのである。
ここで観点を少し変えて、「差出人」「宛先人」について考えてみることにしよう。
細馬宏通著『絵はがきの時代』(青土社、2006年)は、誰の目にもふれてしまう姿をしながら個人的なメッセージでもある絵はがきについて興味深い論考を展開している。特に「わたしのいない場所」の章では、差出人と宛先人との関係をめぐってこんなふうに書かれている。
「たとえば、手紙を書いているときに、たまたま宛先人であるあなたが近づいてくる。と、わたしはあわてて手紙を隠そうとする。それは明らかに近づいてくるあなたに向けて書かれているにもかかわらず、わたしはまるで、密会の現場をあやうく見つかりそうになったかのように、必死に手紙を脇にやるだろう。すっかり書き終えてからでなければ、そしてわたしのいないところでなければ、手紙をあなたに読ませるわけにはいかない」
「書くという行為は宛先人の不在によって成立する」というのが細馬のテーゼである。「宛先人に見つめられると、エクリチュールは鈍る。そして、その視線が消えるや、エクリチュールは走り出す。あたかも、宛先人の不在に力を得るように」
では、書くという行為はなぜ宛先人の不在を必要とするのだろう、と細馬は問う。
「差出人は贈り物を用意することによって、贈り物に、自分の存在と相手の不在を刻印してしまう。「差出人(わたし)のいる場所に宛先人(あなた)はいない」。それが、差出人の差し出す謎である」
「書くという行為は、単に既知のできごとを表わすためにここまで多様な形に広がったのではない。それはおそらく、贈与の行為として人々のあいだに広まったのである。でなければ、書くという行為が、なぜ執拗に宛先人の不在を必要とするのかを説明することができない。そしてエクリチュールこそは、謎をかけるのにもっとも適した贈り物だった」
これはたいへん魅力的な考え方のように私には思える。
「わたしのいない場所」「宛先人の不在」という考え方に「座の文芸」という視点を放り込んでみるとどのような事態が生じるだろうか。「座の文芸」では「宛先人の不在」どころではない。宛先人は目の前にいるのだ。けれども、川柳においても「宛先人」の問題は改めて考えられなければならないだろう。
差出人(作者)は誰に宛てて書いているか。それは仲間うちだけにしか通用しない言葉で書かれているのではないのか。また、宛先人(読者)は自分に宛てて書かれたかどうかも定かではない作品を読みかねているのではないのか。
川柳は「投壜通信」から出発しなおさなければならない。
「現代詩手帖」11月号の「俳句逍遥」で田中亜美は「宛先と宛名」と題して俳誌「傘」の創刊を取り上げている。田中は次のように書いている。
「俳句の宛先はどこへ設定されるのか。その宛名はどこに記されているのか」「作者として俳句を作るとき、読者として俳句を読むとき、宛先と宛名をめぐる消息について、ふと疑念に囚われることがある。〈私〉は誰に向けてそれを発信するのか、それは本当に〈私〉へと送信されたメッセージなのか」
「傘〔karakasa〕」は越智友亮と藤田哲史が創刊し、第1号では佐藤文香の特集を行っている。彼らがウェブではなくて「雑誌」というツールを選んだのはなぜか。それはメッセージを「《効率よく》ではなく、《確かに》伝えたい。そういう気持ちをつきつめた結果、雑誌という形態に拘らざるをえなかった」からだという。
このような「傘」の発行意図について、田中はこんなふうに述べている。
「もしかしたら、それは無限の匿名性と潜在性の海に『一斉表示』するのではなく、作者の〈手〉から、読者の〈手〉へと漂流し漂着するというプライベートなメッセージの伝達のありようが、もう一度見直されている証左なのかもしれない」
たぶん田中の脳裏にはアドルノのいう「投壜通信」のイメージがあるだろう。
「アウシュビッツ以降になおも詩を書くことは野蛮である」とはドイツの哲学者アドルノの有名な言葉である。現代の商業主義に毒された社会の中で、詩の言葉は「投壜通信」のようにどこへ漂着するか分からない。誰かに届くかどうかすら分からないのだ。発信された言葉は誰かに届かなければ意味がないという考え方もあるだろう。だから性急な若者たちは言葉を届けようと必死になる。けれども、いまこの時点で届かなくても、まだ見ぬ誰かが未来において言葉を受け取ることがあるかもしれない。「投壜通信」にはそういう絶望と希望の二重のイメージがこめられている。
「宛名」で思い浮かぶのは、10月16日に東京で開催された「詩歌梁山泊シンポジウム」の第2部「宛名、機会詩、自然」である。報告者・筑紫磐井の論旨はおよそ次のようなものであったようだ(引用は「俳句樹」3号、筑紫の「私的報告」による)。
筑紫は宮澤賢治の短歌と手紙を比較して、賢治の短歌が詩とはつながらないのに対して、手紙の一部分は立派な詩に見えると述べている。「賢治の詩は若いころから熱心にやっていた短歌から生まれたものではなく、手紙を書き連ねる中でほとばしり出た文章の影響を強く受けていた」というのである。そこから筑紫は次のような結論を導きだしている。
①賢治の詩の発生は、2人称を宛名とする言説(いってみれば手紙)を契機に発生したものと考えるのがふさわしい。
②短歌の発生は1人称複数(=We)を宛名とする歌謡
③俳句の発生は宛名のない文学・つぶやき
このような筑紫の問題提起には反論もあったようだが、この「宛名」という考え方を川柳に適用するとどうなるか、というのが今回のテーマである。
川柳において「宛名」の問題はこれまで考えられてこなかった。それは自明のことであり、問題視されることはなかったのだろう。
句会・大会では、その場に集まった人々に対して作品が書かれる。もっと正確に言えば、選者に向けて作品が書かれる。宛名は選者ひとりなのである。選者はよしとする作品を句会・大会の場で披講する。選者を通して作品は間接的に参加者に届けられる。作品は共感あるいは反発をもって迎えられる。選者という2人称(You)を通過することによって作品は1人称複数(We)に共有される。
同人誌においても価値観を共有する同人・会員に宛てて作品が書かれる。広く一般読書界に流通することはないから、不特定多数の読者に対する「投壜通信」という感覚はあまりない。
このようにして川柳では、誰に宛てて書くか、どのように届けるか、という問題に意識的になる必要はなかった。宛先人は目に見える範囲に限られていたからである。
けれども、川柳においても自立した作品・テクストが書かれるようになると、それを誰に読んでもらうかという問題が浮上してくる。「どのように書くか」とともに「どのように届けるか」が重要な問題として浮かび上がってくるようになったのである。
ここで観点を少し変えて、「差出人」「宛先人」について考えてみることにしよう。
細馬宏通著『絵はがきの時代』(青土社、2006年)は、誰の目にもふれてしまう姿をしながら個人的なメッセージでもある絵はがきについて興味深い論考を展開している。特に「わたしのいない場所」の章では、差出人と宛先人との関係をめぐってこんなふうに書かれている。
「たとえば、手紙を書いているときに、たまたま宛先人であるあなたが近づいてくる。と、わたしはあわてて手紙を隠そうとする。それは明らかに近づいてくるあなたに向けて書かれているにもかかわらず、わたしはまるで、密会の現場をあやうく見つかりそうになったかのように、必死に手紙を脇にやるだろう。すっかり書き終えてからでなければ、そしてわたしのいないところでなければ、手紙をあなたに読ませるわけにはいかない」
「書くという行為は宛先人の不在によって成立する」というのが細馬のテーゼである。「宛先人に見つめられると、エクリチュールは鈍る。そして、その視線が消えるや、エクリチュールは走り出す。あたかも、宛先人の不在に力を得るように」
では、書くという行為はなぜ宛先人の不在を必要とするのだろう、と細馬は問う。
「差出人は贈り物を用意することによって、贈り物に、自分の存在と相手の不在を刻印してしまう。「差出人(わたし)のいる場所に宛先人(あなた)はいない」。それが、差出人の差し出す謎である」
「書くという行為は、単に既知のできごとを表わすためにここまで多様な形に広がったのではない。それはおそらく、贈与の行為として人々のあいだに広まったのである。でなければ、書くという行為が、なぜ執拗に宛先人の不在を必要とするのかを説明することができない。そしてエクリチュールこそは、謎をかけるのにもっとも適した贈り物だった」
これはたいへん魅力的な考え方のように私には思える。
「わたしのいない場所」「宛先人の不在」という考え方に「座の文芸」という視点を放り込んでみるとどのような事態が生じるだろうか。「座の文芸」では「宛先人の不在」どころではない。宛先人は目の前にいるのだ。けれども、川柳においても「宛先人」の問題は改めて考えられなければならないだろう。
差出人(作者)は誰に宛てて書いているか。それは仲間うちだけにしか通用しない言葉で書かれているのではないのか。また、宛先人(読者)は自分に宛てて書かれたかどうかも定かではない作品を読みかねているのではないのか。
川柳は「投壜通信」から出発しなおさなければならない。
2010年11月12日金曜日
『麻生路郎読本』
「川柳雑誌」「川柳塔」通巻1000号記念として『麻生路郎読本』が川柳塔社から出版された。500ページを越える大冊で資料的価値が高い。「麻生路郎アルバム」「麻生路郎作品」「麻生路郎文集」「語録」「麻生路郎物語」「人と作品」「著作解題」「年譜」などから成り、川柳六大家のひとり・麻生路郎の全体像を多面的にまとめている。
これまで麻生路郎について調べるには構造社出版の川柳全集・第二巻『麻生路郎』(橘高薫風編)を利用するのが手頃であった。また、大阪市立中央図書館には麻生路郎が寄贈した川柳関係の蔵書がある。当然「川柳雑誌」のバックナンバーもそろっており、初期の「川柳雑誌」の活気に満ちた誌面に接することができる。「川柳雑誌」創刊前後の麻生路郎にはめざましいエネルギーが感じられ、私が特に関心を持っているのもこの時期である。
今回の『麻生路郎読本』で嬉しいのは、東野大八による「麻生路郎物語」が完全収録されていることである。「川柳塔」昭和50年1月号~昭和52年7月号に掲載されたものをまとめて収録している。
東野大八の文章を参考にしながら、しばらく大正期の路郎の軌跡をたどってみたい。
大正4年、路郎と川上日車は「番傘」を脱退し、8月に「雪」を創刊する。「川柳」という呼称を用いず、「新短歌」と称している。大正6年2月の終刊まで19号を発行。
日車は後年、次のように回想している。
「古川柳には、古川柳独特の味いと響をもっている。私たちは久しくそれに浸って川柳作家としての揺籃期を過ごした。だが少年期はやがて迎える青年期の前提である。少年期に『紅い』と映ったもの、それは、伝承的『紅い』であって自己の発見した『紅い』ではなかった。ここに少年期と青年期との間に一つの曲り角がある。その曲り角を意識にとめず一直線に歩みつづけるのも、透徹した一つの道ではあるが、自己に厳しい執着を持つ者にはそれが出来ない。そこに青年期の浮氷が横たわる。路郎と私が手を携えて『雪』を発行したのは、まさに此の曲り角に立った時であった。
くろぐろと道頓堀の水流る
行末はどうあろうとも火の如し
こうして路郎の眼は次ぎ次ぎと人生のあらゆる角度に拡がっていった」(「雪の頃―路郎と私」、「川柳雑誌」昭和32年7月)
「行末は」の句は路郎の心意気をよく示しているように思えるが、橘高薫風の調査によると「雪」の中にはないという。また、「くろぐろと」の句は「くろぐろとうき川竹の水流る」の形で「雪」に収録されているということだ。
「雪」終刊の翌年、大正7年7月に「土団子」が創刊される。表紙は小出楢重。創刊号の巻頭言は路郎が書いている。
「現代の柳界は例せば青い玉と赤い玉の時代である」
「青い玉は静的である。池の中の水である。水底に沈殿せる黒い土である。その土に圧せられたる朽葉である。彼等は遂に自己の流れ行く運命をさへ知らないのである」
「赤い玉は動的である。天上に燃ゆる太陽である。世にありとあらゆるものを焼かんとする火である。この故に頗る危険である。しかしながら此の危険のない処に真の革命はない筈である」
「茲に我等は青い玉の上に赤い玉を建設することを宣言する。我が『土団子』は、柳界の平和を打破して、新しい川柳王国を築くために放たれたるピストルの一弾である」
過激な宣言であるが、「土団子」もその年の10月には4号で廃刊になってしまう。
大正8年、路郎一家は萩の茶屋三日路に移り住んだ。『麻生路郎読本』巻頭の「路郎アルバム」の中には半文銭と路郎のふたりが写っている写真が掲載されている。「大正9年の春、大阪市萩の茶屋三日路の路郎居にて。左は半文銭。近所に住んでいたので、頻繁に行き来していた」とある。
やがて新興川柳運動が起こり、半文銭と日車はその中心作家となるが、路郎は同調しなかった。
「日車氏は半文銭氏と共に『小康』を出したが、私は日車の強請を断じてしりぞけ、これには参加しなかった」「お互ひ川柳家同志がいかに、可なりとして褒めちぎったところで、一歩社会へ出て見れば、まるで社会から川柳の存在が認められてゐないではないか。これではいけない。ここに眼をつけた私は日車氏等の強請懇望これつとめてくれた友情をも振り切って、社会的な柳誌、社会を対象とする柳誌刊行の計画をすすめたのであった」(「苦闘四十年」、「川柳雑誌」昭和18年2月)
ここで路郎は現実路線へと舵を切ったのである。
新興川柳との路線の違いは田中五呂八に対する次のような言葉にも表われている。
「あなたが『氷原』のために闘っていられる態度、同志のための詩集を出すための努力などに対しては涙ぐましさを感じます。けれども、あなたの評論や創作に対しては僕は唯厳正な一批評家の立場で拝読していることに心づきます」「一体革新の名によって奮闘?をしている人達は気短過ぎる共通性の欠点を持っていると思います。薄っぺらな雑誌すら出たり出なんだりで、社会から川柳に対する従来の誤解を一掃しようなどと考えて見ることすらあまりに虫のいい話だと思います」(「三十年計画―田中五呂八氏に与ふ」)
「川柳雑誌」は大正13年2月に創刊された。以後の歴史は比較的知られているだろうし、『麻生路郎読本』にも詳しく語られている。
河野春三が「詩性と大衆性との中で」で書いているように、路郎は日車・半文銭の新興川柳に同調せず、当百・水府の伝統川柳とも一線を画して、彼の青春性を示す「雪」「土団子」の高踏を自ら捨てて、「川柳の社会進出」のために奮闘したということになる。「詩性」と「大衆性」の中で文学運動を起こそうとしたのだ、と春三は見ている。これはこれで、川柳人のひとつの生き方だろう。
以下、路郎作品を少し書き留めておく。
俺に似よ俺に似るなと子を思ひ
君見たまへ菠薐草が伸びてゐる
酒とろりとろり大空のこころかも
寝転べば畳一帖ふさぐのみ
麻生路郎の辞世として、次の句が知られている。
雲の峯という手もありさらばさらばです
路郎の死は7月、俳句には「雲の峯」という季語があるが、川柳人はそのような手は使わない。
死に臨んで俳句の季語に喧嘩を売ったところに川柳人・麻生路郎の面目躍如たるものがある。
一部分しか触れられなかったが、『麻生路郎読本』には路郎とその時代を考えるための様々な材料が満載されている。
これまで麻生路郎について調べるには構造社出版の川柳全集・第二巻『麻生路郎』(橘高薫風編)を利用するのが手頃であった。また、大阪市立中央図書館には麻生路郎が寄贈した川柳関係の蔵書がある。当然「川柳雑誌」のバックナンバーもそろっており、初期の「川柳雑誌」の活気に満ちた誌面に接することができる。「川柳雑誌」創刊前後の麻生路郎にはめざましいエネルギーが感じられ、私が特に関心を持っているのもこの時期である。
今回の『麻生路郎読本』で嬉しいのは、東野大八による「麻生路郎物語」が完全収録されていることである。「川柳塔」昭和50年1月号~昭和52年7月号に掲載されたものをまとめて収録している。
東野大八の文章を参考にしながら、しばらく大正期の路郎の軌跡をたどってみたい。
大正4年、路郎と川上日車は「番傘」を脱退し、8月に「雪」を創刊する。「川柳」という呼称を用いず、「新短歌」と称している。大正6年2月の終刊まで19号を発行。
日車は後年、次のように回想している。
「古川柳には、古川柳独特の味いと響をもっている。私たちは久しくそれに浸って川柳作家としての揺籃期を過ごした。だが少年期はやがて迎える青年期の前提である。少年期に『紅い』と映ったもの、それは、伝承的『紅い』であって自己の発見した『紅い』ではなかった。ここに少年期と青年期との間に一つの曲り角がある。その曲り角を意識にとめず一直線に歩みつづけるのも、透徹した一つの道ではあるが、自己に厳しい執着を持つ者にはそれが出来ない。そこに青年期の浮氷が横たわる。路郎と私が手を携えて『雪』を発行したのは、まさに此の曲り角に立った時であった。
くろぐろと道頓堀の水流る
行末はどうあろうとも火の如し
こうして路郎の眼は次ぎ次ぎと人生のあらゆる角度に拡がっていった」(「雪の頃―路郎と私」、「川柳雑誌」昭和32年7月)
「行末は」の句は路郎の心意気をよく示しているように思えるが、橘高薫風の調査によると「雪」の中にはないという。また、「くろぐろと」の句は「くろぐろとうき川竹の水流る」の形で「雪」に収録されているということだ。
「雪」終刊の翌年、大正7年7月に「土団子」が創刊される。表紙は小出楢重。創刊号の巻頭言は路郎が書いている。
「現代の柳界は例せば青い玉と赤い玉の時代である」
「青い玉は静的である。池の中の水である。水底に沈殿せる黒い土である。その土に圧せられたる朽葉である。彼等は遂に自己の流れ行く運命をさへ知らないのである」
「赤い玉は動的である。天上に燃ゆる太陽である。世にありとあらゆるものを焼かんとする火である。この故に頗る危険である。しかしながら此の危険のない処に真の革命はない筈である」
「茲に我等は青い玉の上に赤い玉を建設することを宣言する。我が『土団子』は、柳界の平和を打破して、新しい川柳王国を築くために放たれたるピストルの一弾である」
過激な宣言であるが、「土団子」もその年の10月には4号で廃刊になってしまう。
大正8年、路郎一家は萩の茶屋三日路に移り住んだ。『麻生路郎読本』巻頭の「路郎アルバム」の中には半文銭と路郎のふたりが写っている写真が掲載されている。「大正9年の春、大阪市萩の茶屋三日路の路郎居にて。左は半文銭。近所に住んでいたので、頻繁に行き来していた」とある。
やがて新興川柳運動が起こり、半文銭と日車はその中心作家となるが、路郎は同調しなかった。
「日車氏は半文銭氏と共に『小康』を出したが、私は日車の強請を断じてしりぞけ、これには参加しなかった」「お互ひ川柳家同志がいかに、可なりとして褒めちぎったところで、一歩社会へ出て見れば、まるで社会から川柳の存在が認められてゐないではないか。これではいけない。ここに眼をつけた私は日車氏等の強請懇望これつとめてくれた友情をも振り切って、社会的な柳誌、社会を対象とする柳誌刊行の計画をすすめたのであった」(「苦闘四十年」、「川柳雑誌」昭和18年2月)
ここで路郎は現実路線へと舵を切ったのである。
新興川柳との路線の違いは田中五呂八に対する次のような言葉にも表われている。
「あなたが『氷原』のために闘っていられる態度、同志のための詩集を出すための努力などに対しては涙ぐましさを感じます。けれども、あなたの評論や創作に対しては僕は唯厳正な一批評家の立場で拝読していることに心づきます」「一体革新の名によって奮闘?をしている人達は気短過ぎる共通性の欠点を持っていると思います。薄っぺらな雑誌すら出たり出なんだりで、社会から川柳に対する従来の誤解を一掃しようなどと考えて見ることすらあまりに虫のいい話だと思います」(「三十年計画―田中五呂八氏に与ふ」)
「川柳雑誌」は大正13年2月に創刊された。以後の歴史は比較的知られているだろうし、『麻生路郎読本』にも詳しく語られている。
河野春三が「詩性と大衆性との中で」で書いているように、路郎は日車・半文銭の新興川柳に同調せず、当百・水府の伝統川柳とも一線を画して、彼の青春性を示す「雪」「土団子」の高踏を自ら捨てて、「川柳の社会進出」のために奮闘したということになる。「詩性」と「大衆性」の中で文学運動を起こそうとしたのだ、と春三は見ている。これはこれで、川柳人のひとつの生き方だろう。
以下、路郎作品を少し書き留めておく。
俺に似よ俺に似るなと子を思ひ
君見たまへ菠薐草が伸びてゐる
酒とろりとろり大空のこころかも
寝転べば畳一帖ふさぐのみ
麻生路郎の辞世として、次の句が知られている。
雲の峯という手もありさらばさらばです
路郎の死は7月、俳句には「雲の峯」という季語があるが、川柳人はそのような手は使わない。
死に臨んで俳句の季語に喧嘩を売ったところに川柳人・麻生路郎の面目躍如たるものがある。
一部分しか触れられなかったが、『麻生路郎読本』には路郎とその時代を考えるための様々な材料が満載されている。
2010年11月5日金曜日
くんじろうの川柳
さる10月16日(土)、第10回詩のボクシング全国大会が東京・日経ホールで開催され、くんじろう(竹下勲二朗、「ふらすこてん」「バックストローク」同人、「空の会」主宰)がチャンピオンの座に輝いた。川柳界から新しい朗読ボクサーの誕生である。
くんじろうが三重県代表として出場したのは、阪本きりり(松本きりり)の薦めによる。7月17日(土)に鈴鹿市文化会館で開催された三重県大会のことから改めて報告すると、くんじろうは、1回戦・鈴鹿のJUN、2回戦・ISAMU、3回戦・みおよしきを快調に打ち破り、決勝に進んだ。「にいちゃんが盗った、ぼくが手伝った」「そのへんの石になろうと決めた石」など、くんじろうの朗読は五七五を基本とし、聞き手の共感を得るような語り方である。泣かせるツボを心得ているのだ。そういう意味では、彼の朗読はいわゆる「現代詩」とは無縁である。三重大会でもっとも「現代詩」を感じさせたのは池上宣久という人で、詩のおもしろさと朗読技術の確かさという点では抜きん出ていた。
審査員は現代詩の専門家ではないから、詩の内容だけではなく、朗読者の存在感自体も評価の対象となったようだ。
決勝戦でくんじろうはやまぎり萌と対戦した。やまぎりはこれまで何回か三重大会に出場経験のある、車椅子の障がい者であるが、その朗読には迫力がある。圧巻は即興詩で、先攻のやまぎりには「うどん」という題が、後攻のくんじろうには「そば」という題が出た。やまぎりの即興詩もユーモアを交えたおもしろいものだったが、くんじろうの「そば風呂」の話は落語的ナンセンスと川柳の題詠で鍛えられた技で会場を大いに沸かせた。本人の弁によると「神様が降りてきた」ということである。くんじろうの芸が勝ったということだろう。
私は全国大会を聞きに行くことができなかったが、堺利彦の報告によると、全国大会でもほぼ事情は同じだったようだ。「バックストローク」の掲示板で、堺は次のように書いている。
〈ところで、試合は、トーナメント方式により行われ、くんじろうさんは、第一回戦では、第8回徳島大会チャンピオンの新田千恵子さんと対戦、私の見た感じでは、どうも、これが事実上の決勝戦のように厳しい戦いでありました。くんじろうさんは、メルヘンチックなストーリの詩を河内の方言も交えてリズミカルに、かつ、郷愁を含んだ軽やかな声で発表。一方の千恵子さんは、歌舞伎の八方を踏むパホーマンスを取り入れ、「カン」の脚韻の面白さを取り入れた言葉の遊びこころと音律の心地良さを合わせた身振りによる詩の発表と対照的でありましたが、結果は、かろうじて、4対3の勝利でありました。
「詩のボクシング」は、初めて観戦しましたが、その審査基準が何かはよく分かりませんでした。詩の内容からすれば、北海道大会のチャンピオンである二条千河さんの詩などは、非日常的モチーフによって人間の根源を衝いていて、どきりとされましたが、審査員の先生方が詩の専門家ではありませんから、あまり難しい内容のものは敬遠されたのかなあと感じた次第です。くんじろうさんの対戦相手である千恵子さんの詩も、ことば遊びの楽しさという点からすれば、高く評価されてもいい内容のものと思いましたが、そこは、連戦琢磨のくんじろうさん、「共感」を誘う落としどころを心得ていて、お涙頂戴式でポイントを稼いだものと感じ入った次第です。これは、川柳で言うところの、選者の傾向に合わせて作品を投句するという「当て込み」と呼ばれるテクニックと同じもので、句会で鍛えたくんじろうさんにとっては、お手のものといえるでしょう〉
くんじろうのルーツである川柳・落語が確固として彼の朗読を支えていることが分かる。
ふだん「バックストロークは嫌いだ」と公言しているくんじろうは、川柳においても共感と普遍性に基づく書き方をよしとしているのだ。そのような彼の方向性は、朗読という観客の反応が直接的に見える場において、きわめて効果的に発揮されたということができる。
「週刊俳句」183号に、くんじろうの川柳「ちょいとそこまで」10句が掲載された。その前半を紹介しておこう。
うどん屋の湯呑みですから箸ですから
茄子ありがとうございます 鰯
ぶかぶかの長靴桃は腐らない
郭まで母を迎えにゆく蛙
ご祝儀にしてはトーテムポールかな
読者に預ける書き方というものが川柳には見られる。1句目、「ですから」何だというのだろう。それは読者にまかされている。もともと「ですから」には深い意味はなく、湯飲みと箸があるだけなのだ。この湯飲みと箸には庶民性の匂いがある。
2句目は手紙形式になっている。差出人は鰯である。食卓に茄子と鰯が並んでいる情景などが思い浮かぶ。この取合せを鰯自身は気に入っているらしい。茄子と鰯の親和力である。
3句目、ドイツロマン派には「長靴をはいた猫」という作品があるが、ぶかぶかの長靴をはいているのは子どもかも知れない。「桃は腐らない」との間に飛躍がある。現実の桃は腐るけれども、永遠を感じさせる桃のイメージだろう。
4句目の「蛙」は喩として常套的で分かりやすいが、5句目の「トーテムポール」には言葉の飛躍がある。
市井に生きる庶民の哀歓をベースにしているが、感情過多の作品に陥ることから救っているのは川柳的飛躍に基づく言葉の切れ味による。くんじろうの川柳の今後の展開に期待したい。
先日、くんじろうは「川柳・北田辺」という句会を立ち上げた。案内文に「おもろい句会になったらええなぁ~」とある。はじめての人にも川柳のおもしろさを伝えたいという熱意が伝わってくるが、川柳の伝道者としてだけではなく、さらにパワフルな彼自身の作品を書いていってほしいものである。
くんじろうが三重県代表として出場したのは、阪本きりり(松本きりり)の薦めによる。7月17日(土)に鈴鹿市文化会館で開催された三重県大会のことから改めて報告すると、くんじろうは、1回戦・鈴鹿のJUN、2回戦・ISAMU、3回戦・みおよしきを快調に打ち破り、決勝に進んだ。「にいちゃんが盗った、ぼくが手伝った」「そのへんの石になろうと決めた石」など、くんじろうの朗読は五七五を基本とし、聞き手の共感を得るような語り方である。泣かせるツボを心得ているのだ。そういう意味では、彼の朗読はいわゆる「現代詩」とは無縁である。三重大会でもっとも「現代詩」を感じさせたのは池上宣久という人で、詩のおもしろさと朗読技術の確かさという点では抜きん出ていた。
審査員は現代詩の専門家ではないから、詩の内容だけではなく、朗読者の存在感自体も評価の対象となったようだ。
決勝戦でくんじろうはやまぎり萌と対戦した。やまぎりはこれまで何回か三重大会に出場経験のある、車椅子の障がい者であるが、その朗読には迫力がある。圧巻は即興詩で、先攻のやまぎりには「うどん」という題が、後攻のくんじろうには「そば」という題が出た。やまぎりの即興詩もユーモアを交えたおもしろいものだったが、くんじろうの「そば風呂」の話は落語的ナンセンスと川柳の題詠で鍛えられた技で会場を大いに沸かせた。本人の弁によると「神様が降りてきた」ということである。くんじろうの芸が勝ったということだろう。
私は全国大会を聞きに行くことができなかったが、堺利彦の報告によると、全国大会でもほぼ事情は同じだったようだ。「バックストローク」の掲示板で、堺は次のように書いている。
〈ところで、試合は、トーナメント方式により行われ、くんじろうさんは、第一回戦では、第8回徳島大会チャンピオンの新田千恵子さんと対戦、私の見た感じでは、どうも、これが事実上の決勝戦のように厳しい戦いでありました。くんじろうさんは、メルヘンチックなストーリの詩を河内の方言も交えてリズミカルに、かつ、郷愁を含んだ軽やかな声で発表。一方の千恵子さんは、歌舞伎の八方を踏むパホーマンスを取り入れ、「カン」の脚韻の面白さを取り入れた言葉の遊びこころと音律の心地良さを合わせた身振りによる詩の発表と対照的でありましたが、結果は、かろうじて、4対3の勝利でありました。
「詩のボクシング」は、初めて観戦しましたが、その審査基準が何かはよく分かりませんでした。詩の内容からすれば、北海道大会のチャンピオンである二条千河さんの詩などは、非日常的モチーフによって人間の根源を衝いていて、どきりとされましたが、審査員の先生方が詩の専門家ではありませんから、あまり難しい内容のものは敬遠されたのかなあと感じた次第です。くんじろうさんの対戦相手である千恵子さんの詩も、ことば遊びの楽しさという点からすれば、高く評価されてもいい内容のものと思いましたが、そこは、連戦琢磨のくんじろうさん、「共感」を誘う落としどころを心得ていて、お涙頂戴式でポイントを稼いだものと感じ入った次第です。これは、川柳で言うところの、選者の傾向に合わせて作品を投句するという「当て込み」と呼ばれるテクニックと同じもので、句会で鍛えたくんじろうさんにとっては、お手のものといえるでしょう〉
くんじろうのルーツである川柳・落語が確固として彼の朗読を支えていることが分かる。
ふだん「バックストロークは嫌いだ」と公言しているくんじろうは、川柳においても共感と普遍性に基づく書き方をよしとしているのだ。そのような彼の方向性は、朗読という観客の反応が直接的に見える場において、きわめて効果的に発揮されたということができる。
「週刊俳句」183号に、くんじろうの川柳「ちょいとそこまで」10句が掲載された。その前半を紹介しておこう。
うどん屋の湯呑みですから箸ですから
茄子ありがとうございます 鰯
ぶかぶかの長靴桃は腐らない
郭まで母を迎えにゆく蛙
ご祝儀にしてはトーテムポールかな
読者に預ける書き方というものが川柳には見られる。1句目、「ですから」何だというのだろう。それは読者にまかされている。もともと「ですから」には深い意味はなく、湯飲みと箸があるだけなのだ。この湯飲みと箸には庶民性の匂いがある。
2句目は手紙形式になっている。差出人は鰯である。食卓に茄子と鰯が並んでいる情景などが思い浮かぶ。この取合せを鰯自身は気に入っているらしい。茄子と鰯の親和力である。
3句目、ドイツロマン派には「長靴をはいた猫」という作品があるが、ぶかぶかの長靴をはいているのは子どもかも知れない。「桃は腐らない」との間に飛躍がある。現実の桃は腐るけれども、永遠を感じさせる桃のイメージだろう。
4句目の「蛙」は喩として常套的で分かりやすいが、5句目の「トーテムポール」には言葉の飛躍がある。
市井に生きる庶民の哀歓をベースにしているが、感情過多の作品に陥ることから救っているのは川柳的飛躍に基づく言葉の切れ味による。くんじろうの川柳の今後の展開に期待したい。
先日、くんじろうは「川柳・北田辺」という句会を立ち上げた。案内文に「おもろい句会になったらええなぁ~」とある。はじめての人にも川柳のおもしろさを伝えたいという熱意が伝わってくるが、川柳の伝道者としてだけではなく、さらにパワフルな彼自身の作品を書いていってほしいものである。
2010年10月29日金曜日
詩歌梁山泊・三詩型交流企画
10月17日(土)に東京の日本出版クラブ会館で詩歌梁山泊主催のシンポジウムが開催された。約130名の参加者があり盛況だったようで、ネットを中心にその模様が報告されている。私は残念ながら参加できなかったが、さまざまなレポートをもとにこの集まりの意義について考えてみたい。
詩歌梁山泊は詩人の森川雅美を代表として立ち上げられた。まず、主催者の意図を「詩歌梁山泊」ブログから引用してみよう。
http://siikaryouzannpaku.blogspot.com/
「現在の日本には、短歌、俳句、自由詩(狭義の詩)という三つの詩型があり、共存しているといって良いでしょう。三つの詩型はお互いに影響しあっていますが、住み分けがされているのが現状です。そのことが日本の詩にとって幸せなのかは、はなはだ疑問です。当企画ではシンポジウム、ホームページ、印刷媒体などを媒介とし、三つの型の交友の促進を目的とします。それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります。戦後の詩歌の時間を問いなおす試みでもあります。」(詩歌梁山泊~三詩型交流企画ごあいさつ)
ここに明示されているように、三詩型とは「短歌」「俳句」「自由詩」であり、「川柳」は入っていない。いま、そのことをあげつらってみてもあまり意味はないが、森川雅美は現代詩サイドの人であり、彼の視野に入っている短詩型は「短歌」「俳句」にとどまるということだろう。実際問題として、川柳人でこのシンポジウムに出席したのは堺利彦ただ1人であり、「バックストローク」掲示板に長文の報告を書いている。堺の孤軍奮闘はともかく、短詩型の現在の動向に対してアンテナを出し切れていない川柳側の意識も問われるところである。
http://8418.teacup.com/akuru/bbs
それにしても、なぜ三詩型なのか。
このイベントの実行委員であり、当日第二部のパネラーの1人でもある筑紫磐井は、「俳句樹」第2号の「詩歌梁山泊第1回シンポジウムと『超新撰21』竟宴シンポジウムと」で次のように述べている。
http://haiku-tree.blogspot.com/
「かつて拙著にいろいろご指導いただいた人類学者川田順造氏は、氏の独特の方法論で三角測量という考え方を提案している。川田氏の場合は、日本、フランス、アフリカという三つの地点を設定され、ここからから文化や民族を観察し解釈するとき2項対立とは全く違う思考が生まれる。(中略)
いままで、俳句―詩、俳句―短歌、俳句―川柳の断片談判で考えられて来た俳句論を少し見直してみる。日本、フランス、アフリカほど異質な、短歌、俳句、自由詩の視点から、「詩歌」という単一理念を3点測量することは魅力的であると思う」
「2項対立」から「3点測量へ」というのは興味深い観点ではある。少なくとも筑紫の視野には「川柳」の存在は入っているが、4詩型ではなく3詩型として始めようという意識があったのだろう。
さて、シンポジウムの第1部は「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」というテーマで比較的若手のパネラーによって進行された。第1部は若手に、第2部はベテランにというのがコーディネーターの意志だったようだ。
第1部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」
歌人/佐藤弓生、今橋愛
俳人/田中亜美、山口優夢
詩人/杉本徹 、文月悠光
司会/森川雅美
まず短歌だが、佐藤弓生が光森裕樹『鈴を産むひばり』( 2010)を、今橋愛が野口あや子『くびすじの欠片』(短歌研究社 / 2009)を取り上げてコメントした。
光森裕樹『鈴を産むひばり』より
鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。
だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて
野口あや子『くびすじの欠片』より
互いしか知らぬジョークで笑い合うふたりに部屋を貸して下さい
ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる
俳句では山口優夢が高柳克弘『未踏』(ふらんす堂 / 2009)を、田中亜美が御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」を取り上げてコメントした。
髙柳克弘『未踏』(ふらんす堂)より
ことごとく未踏なりけり冬の星
亡びゆくあかるさを蟹走りけり
洋梨とタイプライター日が昇る
御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」より
じきに死ぬくらげをどりながら上陸
結果より過程と滝に言へるのか
季語が無い夜空を埋める雲だった
現代詩では杉本徹が中尾太一『御世の戦示の木の下で』(思潮社 / 2009)を、文月悠光が大江麻衣「昭和以降に恋愛はない」(「新潮」2010年7月号)を取り上げて報告した。現代詩の引用は長いので省略させていただく。
この第1部については、「週刊俳句」に野口る理のレポートが掲載されているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。野口はこんなふうにまとめている。
http://weekly-haiku.blogspot.com/
「パネリスト各氏の選んだ作品は、もちろん意図的に、対照的である。古典的なつくり方に現代性を感じさせる【光森】作品と、恋や性愛を通して現代に生きる自分を描く【野口】作品。流麗な文語を用いすみずみまで洗練されている【高柳】作品と、口語も文語も混ぜ乱反射させる【御中】作品。引き裂かれるような切実さのある独自の物語を紡ぐ【中尾】作品と、自在な散文を用いネット上でも多くの人に読まれ共感を得る【大江】作品」
「今をときめく若手作家であるパネリストたちが、今をときめく若手作家の作品について議論するという豪華な企画であったが、なにぶんパネリストが多いのと、ただでさえ3詩型が集まり要素が多く、また自由度が高すぎるのとで、話はあまりまとまらなかった印象である。しかし、3詩型それぞれの若手の問題意識や現在をうかがい知ることが出来、これからまだまだ前へ進む力強さを体感することができたシンポジウムであった」
続く第2部は「宛名、機会詩、自然~三詩型は何を共有できるのか」である。
歌人/藤原龍一郎
俳人/筑紫磐井
詩人/野村喜和夫
司会/高山れおな
この第2部については「俳句樹」第3号に筑紫磐井が「詩歌梁山泊シンポジウムに出られなかった人のための偏私的報告・宛名、機会詩、自然」を書いているので、そちらを参照されたい。
http://haiku-tree.blogspot.com/2010/10/blog-post_4110.html
筑紫磐井は次のように述べている。
「こうしたシンポジウムでは明快な結論が出ないのはやむを得ないことかも知れない、しかし、ここで提起された問題が次にどう続くかと言うことの方が大事であろう。そして実はそうしたことを最初から期待していた向きもある。短歌・俳句・詩という三詩型交流を目指したシンポジウムだが、実は俳句の周辺にはさらに多くの他ジャンルが存在している。12月刊行予定で、現在、鋭意編集を進めている『超新撰21』は、意図して『新撰21』を超えてはるかに広く、川柳や自由律俳句の作家に参加してもらっている。刊行後の12月23日(木・祝)午後には、アルカディア市ヶ谷でシンポジウムが開かれるが、ここでは三詩型交流を超えた多詩型交流の場が実現するであろう。今回のシンポジウムで提起された問題、あるいはより一層深く論ぜられるべき問題はそちらで孵化されることを期待している」
『超新撰21』には川柳側から清水かおりが参加しており、清水かおり論は俳人の堺谷真人が執筆することになっている。短詩型文学のフィールドの中で、清水かおりの言葉の世界がどのように展開されているのか。このアンソロジー自体はまだ出ていないが、発行されるのが待ち遠しい。12月23日のシンポジウムには、川柳人も参加する余地がある。筑紫のいう「三詩型交流を超えた多詩型交流の場」が想定されているのだ。
お膳立てはすでに出来ている。このイベントに川柳人はどのように参画していくのかが逆に問われている。
詩歌梁山泊は詩人の森川雅美を代表として立ち上げられた。まず、主催者の意図を「詩歌梁山泊」ブログから引用してみよう。
http://siikaryouzannpaku.blogspot.com/
「現在の日本には、短歌、俳句、自由詩(狭義の詩)という三つの詩型があり、共存しているといって良いでしょう。三つの詩型はお互いに影響しあっていますが、住み分けがされているのが現状です。そのことが日本の詩にとって幸せなのかは、はなはだ疑問です。当企画ではシンポジウム、ホームページ、印刷媒体などを媒介とし、三つの型の交友の促進を目的とします。それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります。戦後の詩歌の時間を問いなおす試みでもあります。」(詩歌梁山泊~三詩型交流企画ごあいさつ)
ここに明示されているように、三詩型とは「短歌」「俳句」「自由詩」であり、「川柳」は入っていない。いま、そのことをあげつらってみてもあまり意味はないが、森川雅美は現代詩サイドの人であり、彼の視野に入っている短詩型は「短歌」「俳句」にとどまるということだろう。実際問題として、川柳人でこのシンポジウムに出席したのは堺利彦ただ1人であり、「バックストローク」掲示板に長文の報告を書いている。堺の孤軍奮闘はともかく、短詩型の現在の動向に対してアンテナを出し切れていない川柳側の意識も問われるところである。
http://8418.teacup.com/akuru/bbs
それにしても、なぜ三詩型なのか。
このイベントの実行委員であり、当日第二部のパネラーの1人でもある筑紫磐井は、「俳句樹」第2号の「詩歌梁山泊第1回シンポジウムと『超新撰21』竟宴シンポジウムと」で次のように述べている。
http://haiku-tree.blogspot.com/
「かつて拙著にいろいろご指導いただいた人類学者川田順造氏は、氏の独特の方法論で三角測量という考え方を提案している。川田氏の場合は、日本、フランス、アフリカという三つの地点を設定され、ここからから文化や民族を観察し解釈するとき2項対立とは全く違う思考が生まれる。(中略)
いままで、俳句―詩、俳句―短歌、俳句―川柳の断片談判で考えられて来た俳句論を少し見直してみる。日本、フランス、アフリカほど異質な、短歌、俳句、自由詩の視点から、「詩歌」という単一理念を3点測量することは魅力的であると思う」
「2項対立」から「3点測量へ」というのは興味深い観点ではある。少なくとも筑紫の視野には「川柳」の存在は入っているが、4詩型ではなく3詩型として始めようという意識があったのだろう。
さて、シンポジウムの第1部は「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」というテーマで比較的若手のパネラーによって進行された。第1部は若手に、第2部はベテランにというのがコーディネーターの意志だったようだ。
第1部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」
歌人/佐藤弓生、今橋愛
俳人/田中亜美、山口優夢
詩人/杉本徹 、文月悠光
司会/森川雅美
まず短歌だが、佐藤弓生が光森裕樹『鈴を産むひばり』( 2010)を、今橋愛が野口あや子『くびすじの欠片』(短歌研究社 / 2009)を取り上げてコメントした。
光森裕樹『鈴を産むひばり』より
鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。
だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて
野口あや子『くびすじの欠片』より
互いしか知らぬジョークで笑い合うふたりに部屋を貸して下さい
ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる
俳句では山口優夢が高柳克弘『未踏』(ふらんす堂 / 2009)を、田中亜美が御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」を取り上げてコメントした。
髙柳克弘『未踏』(ふらんす堂)より
ことごとく未踏なりけり冬の星
亡びゆくあかるさを蟹走りけり
洋梨とタイプライター日が昇る
御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」より
じきに死ぬくらげをどりながら上陸
結果より過程と滝に言へるのか
季語が無い夜空を埋める雲だった
現代詩では杉本徹が中尾太一『御世の戦示の木の下で』(思潮社 / 2009)を、文月悠光が大江麻衣「昭和以降に恋愛はない」(「新潮」2010年7月号)を取り上げて報告した。現代詩の引用は長いので省略させていただく。
この第1部については、「週刊俳句」に野口る理のレポートが掲載されているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。野口はこんなふうにまとめている。
http://weekly-haiku.blogspot.com/
「パネリスト各氏の選んだ作品は、もちろん意図的に、対照的である。古典的なつくり方に現代性を感じさせる【光森】作品と、恋や性愛を通して現代に生きる自分を描く【野口】作品。流麗な文語を用いすみずみまで洗練されている【高柳】作品と、口語も文語も混ぜ乱反射させる【御中】作品。引き裂かれるような切実さのある独自の物語を紡ぐ【中尾】作品と、自在な散文を用いネット上でも多くの人に読まれ共感を得る【大江】作品」
「今をときめく若手作家であるパネリストたちが、今をときめく若手作家の作品について議論するという豪華な企画であったが、なにぶんパネリストが多いのと、ただでさえ3詩型が集まり要素が多く、また自由度が高すぎるのとで、話はあまりまとまらなかった印象である。しかし、3詩型それぞれの若手の問題意識や現在をうかがい知ることが出来、これからまだまだ前へ進む力強さを体感することができたシンポジウムであった」
続く第2部は「宛名、機会詩、自然~三詩型は何を共有できるのか」である。
歌人/藤原龍一郎
俳人/筑紫磐井
詩人/野村喜和夫
司会/高山れおな
この第2部については「俳句樹」第3号に筑紫磐井が「詩歌梁山泊シンポジウムに出られなかった人のための偏私的報告・宛名、機会詩、自然」を書いているので、そちらを参照されたい。
http://haiku-tree.blogspot.com/2010/10/blog-post_4110.html
筑紫磐井は次のように述べている。
「こうしたシンポジウムでは明快な結論が出ないのはやむを得ないことかも知れない、しかし、ここで提起された問題が次にどう続くかと言うことの方が大事であろう。そして実はそうしたことを最初から期待していた向きもある。短歌・俳句・詩という三詩型交流を目指したシンポジウムだが、実は俳句の周辺にはさらに多くの他ジャンルが存在している。12月刊行予定で、現在、鋭意編集を進めている『超新撰21』は、意図して『新撰21』を超えてはるかに広く、川柳や自由律俳句の作家に参加してもらっている。刊行後の12月23日(木・祝)午後には、アルカディア市ヶ谷でシンポジウムが開かれるが、ここでは三詩型交流を超えた多詩型交流の場が実現するであろう。今回のシンポジウムで提起された問題、あるいはより一層深く論ぜられるべき問題はそちらで孵化されることを期待している」
『超新撰21』には川柳側から清水かおりが参加しており、清水かおり論は俳人の堺谷真人が執筆することになっている。短詩型文学のフィールドの中で、清水かおりの言葉の世界がどのように展開されているのか。このアンソロジー自体はまだ出ていないが、発行されるのが待ち遠しい。12月23日のシンポジウムには、川柳人も参加する余地がある。筑紫のいう「三詩型交流を超えた多詩型交流の場」が想定されているのだ。
お膳立てはすでに出来ている。このイベントに川柳人はどのように参画していくのかが逆に問われている。
2010年10月22日金曜日
意表派とは何か
川柳句評の場面で最近「意表」という言葉を耳にする。石田柊馬や吉澤久良などがしばしば使用している。「読者の意表をついた川柳作品」というくらいの意味だろうと思って聞いているのだが、今回は「意表」ということにどのような問題性があるのかを考えてみたい。
吉澤久良は「Leaf」に「〈読み〉についての覚え書」という文章を連載しているが、創刊号では〈「意表派」のナルシシズム〉という項目を立ててこんなふうに述べている。
〔 現在、自分の〈思い〉を書くことをよしとせず、コトバそのものに向かった一部の柳人がおり、難解句を書いている。コトバの日常的意味のつながりに意表を持ち込んだのである(以下、本稿ではこのように意表を眼目とした書き方の柳人を「意表派」と呼ぶことにする) 〕〔 「意表派」の句のほとんどはナルシシズムにまみれている。意表をついたコトバの関係を作れたと満足し、インスピレーションだ、新しい書き方だと一人で悦に入っている。そこには自分がなぜ川柳を書くのかという知的考察はない 〕
吉澤は「意表派」の具体例を挙げていないので、どのような作品が該当するのか、分かりにくいところがある。具体的作品は挙げにくいのは確かだが、とりあえず一般論として受け取っておくことにしよう。吉澤は「Leaf」第2号でも〈私性川柳と意表派〉という項目を立て、私性川柳のナルシシズムについて触れたあと、さらに意表派について言及している。
〔このような私性川柳の理解の延長上で、意表派の川柳も理解することができる。(中略)その多くは恣意的な言葉が並べられただけの句であり、コトバにこだわるという意匠でごまかしている。意表派の柳人は自分の感性を追求し、句が自分自身に向けた〈答え〉でありさえすればよかったのだ。ここでも、そのような感性を持つ自分とはどのようなものかは問われなかった。いわば、私性川柳と意表派は、同病の双子の兄弟だった 〕
吉澤は「私性川柳」と「意表派」とを「同病の双子の兄弟」だという。作者個人のナマの「私」が検証されることなく垂れ流しにされる「私性川柳」と、自分の感覚的・恣意的な言葉の感性を検証しようとしない「意表派」とをナルシシズムという点では同根と見るのである。読者論の立場に立って創造的読みの必要性を提唱している吉澤らしい言説である。
「意表」という言葉を用い始めたのは、おそらく石田柊馬だった。「意表」を正面から論じた柊馬の評論をいま探し出せないが、たとえば次のような文章に柊馬の問題意識がうかがわれる。
〔前句附けは七七に五七五を附ける言語遊戯であったので、川柳にはもともと、句語に句語を附けてあとは勝手に読んでくれという突き放しの性状があるのだが、安直無責任な突き放しの不毛を退けるところに意味性があり、選があったと思っていいだろう。意味への拘りの典型が狂句であったとも言える。狂句を排除した近代の川柳の多くは共感性に則って意味が書かれた。下って、意味や言葉の感覚的附け合わせ、言い変えれば詩性が共感レベルで書かれた。現在、詩性の評価は、共感性よりも作者個人の発語であることを上位とする方向にあり、良質の選の多くに見られる。これが共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考を招いたらしい〕(「ふらすこてん」第6号・2009年11月)
「共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考」が吉澤のいう「意表派」と同じ傾向を指しているとすれば、柊馬の指摘は吉澤の提起している問題をより一般的かつ実践的に捉えたものと言えるだろう。川柳作品を放恣な飛躍から救うものは共感性や意味性の錘だということだろう。では、そのことと「共感性」から「作者個人」へという現代川柳の流れとは、どのように統一されるのであろうか。
柊馬は続けて次のように説いている。
〔問題点は三つある。
(a)作者の世界(人間)観の深みや洞察眼が感覚的表現となった句の、飛躍の測りづらさという読者側の問題〕
(b)川柳の表現領域を広げるイメージの創造や、言葉を契機とする書き方についての読者の無理解。
(c)逆に、これとこれとの組み合わせで、ちょっと感興があるように感じます、という作者側の無責任。〕
そして、(c)が氾濫状態なのだという。
石田・吉澤の指摘から私が連想するのは、俳諧史における談林派の存在である。
貞門俳諧の退屈さを超克して、奇抜な言葉の取り合わせを生命線とすることで、談林派は燎原の火のように全国に広がったが、言葉の飛躍は同時に無数の「飛びそこない」を生み出し、わずか10年で終息した。けれども、談林俳諧を通過することなしに芭蕉俳諧は生まれなかったとも言われる。
「意表派」はこの「談林派」に似ているが、そもそも「意表派」という川柳の流派が存在すると言うよりは、川柳作品において「詩的飛躍に成功した作品」と「飛躍に失敗した作品(飛びそこない)」があるだけだというのが実際のところだろう。
難解句の問題も含めて現代川柳におけるコトバの問題は、作者論と読者論のせめぎあいの中で生まれている。その場合の「作者」「読者」が、「生身の作者」「川柳に一読明快を求める読者」ではないことは言うまでもない。
吉澤久良は「Leaf」に「〈読み〉についての覚え書」という文章を連載しているが、創刊号では〈「意表派」のナルシシズム〉という項目を立ててこんなふうに述べている。
〔 現在、自分の〈思い〉を書くことをよしとせず、コトバそのものに向かった一部の柳人がおり、難解句を書いている。コトバの日常的意味のつながりに意表を持ち込んだのである(以下、本稿ではこのように意表を眼目とした書き方の柳人を「意表派」と呼ぶことにする) 〕〔 「意表派」の句のほとんどはナルシシズムにまみれている。意表をついたコトバの関係を作れたと満足し、インスピレーションだ、新しい書き方だと一人で悦に入っている。そこには自分がなぜ川柳を書くのかという知的考察はない 〕
吉澤は「意表派」の具体例を挙げていないので、どのような作品が該当するのか、分かりにくいところがある。具体的作品は挙げにくいのは確かだが、とりあえず一般論として受け取っておくことにしよう。吉澤は「Leaf」第2号でも〈私性川柳と意表派〉という項目を立て、私性川柳のナルシシズムについて触れたあと、さらに意表派について言及している。
〔このような私性川柳の理解の延長上で、意表派の川柳も理解することができる。(中略)その多くは恣意的な言葉が並べられただけの句であり、コトバにこだわるという意匠でごまかしている。意表派の柳人は自分の感性を追求し、句が自分自身に向けた〈答え〉でありさえすればよかったのだ。ここでも、そのような感性を持つ自分とはどのようなものかは問われなかった。いわば、私性川柳と意表派は、同病の双子の兄弟だった 〕
吉澤は「私性川柳」と「意表派」とを「同病の双子の兄弟」だという。作者個人のナマの「私」が検証されることなく垂れ流しにされる「私性川柳」と、自分の感覚的・恣意的な言葉の感性を検証しようとしない「意表派」とをナルシシズムという点では同根と見るのである。読者論の立場に立って創造的読みの必要性を提唱している吉澤らしい言説である。
「意表」という言葉を用い始めたのは、おそらく石田柊馬だった。「意表」を正面から論じた柊馬の評論をいま探し出せないが、たとえば次のような文章に柊馬の問題意識がうかがわれる。
〔前句附けは七七に五七五を附ける言語遊戯であったので、川柳にはもともと、句語に句語を附けてあとは勝手に読んでくれという突き放しの性状があるのだが、安直無責任な突き放しの不毛を退けるところに意味性があり、選があったと思っていいだろう。意味への拘りの典型が狂句であったとも言える。狂句を排除した近代の川柳の多くは共感性に則って意味が書かれた。下って、意味や言葉の感覚的附け合わせ、言い変えれば詩性が共感レベルで書かれた。現在、詩性の評価は、共感性よりも作者個人の発語であることを上位とする方向にあり、良質の選の多くに見られる。これが共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考を招いたらしい〕(「ふらすこてん」第6号・2009年11月)
「共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考」が吉澤のいう「意表派」と同じ傾向を指しているとすれば、柊馬の指摘は吉澤の提起している問題をより一般的かつ実践的に捉えたものと言えるだろう。川柳作品を放恣な飛躍から救うものは共感性や意味性の錘だということだろう。では、そのことと「共感性」から「作者個人」へという現代川柳の流れとは、どのように統一されるのであろうか。
柊馬は続けて次のように説いている。
〔問題点は三つある。
(a)作者の世界(人間)観の深みや洞察眼が感覚的表現となった句の、飛躍の測りづらさという読者側の問題〕
(b)川柳の表現領域を広げるイメージの創造や、言葉を契機とする書き方についての読者の無理解。
(c)逆に、これとこれとの組み合わせで、ちょっと感興があるように感じます、という作者側の無責任。〕
そして、(c)が氾濫状態なのだという。
石田・吉澤の指摘から私が連想するのは、俳諧史における談林派の存在である。
貞門俳諧の退屈さを超克して、奇抜な言葉の取り合わせを生命線とすることで、談林派は燎原の火のように全国に広がったが、言葉の飛躍は同時に無数の「飛びそこない」を生み出し、わずか10年で終息した。けれども、談林俳諧を通過することなしに芭蕉俳諧は生まれなかったとも言われる。
「意表派」はこの「談林派」に似ているが、そもそも「意表派」という川柳の流派が存在すると言うよりは、川柳作品において「詩的飛躍に成功した作品」と「飛躍に失敗した作品(飛びそこない)」があるだけだというのが実際のところだろう。
難解句の問題も含めて現代川柳におけるコトバの問題は、作者論と読者論のせめぎあいの中で生まれている。その場合の「作者」「読者」が、「生身の作者」「川柳に一読明快を求める読者」ではないことは言うまでもない。
2010年10月15日金曜日
『番傘川柳百年史』を読む
2008年10月に『番傘川柳百年史』(編者・番傘川柳本社、製作・創元社)が発行された。1909年(明治42年)に番傘の前身である「関西川柳社」が創立され、そこから数えて百年目の記念事業として出版されたものであった。
西田当百を中心として設立された「関西川柳社」は1913年(大正2年)、「番傘」を創刊し、当百の引退後は岸本水府に受け継がれて、社名も「番傘川柳社」、「番傘川柳本社」と変更された。関西川柳界の「本流」と言うべき、伝統的川柳結社である。
伝統的結社であるだけに、これに飽きたらず批判する川柳人も多い。また、「番傘」の同人の中からも「番傘」の現状に対して批判的言辞を聞くことがあるが、そのような場合にも私は批判者の「番傘」に対する愛着を感じることがある。真に形骸化した結社であれば、無視するか脱退すればよいのである。
『番傘川柳百年史』は資料的な価値が高く、「番傘」の先人たちの川柳観が各ページから立ち上がってくる。伝統川柳(本格川柳)が川柳をどうとらえてきたかが分かって興味深いのである。
今回は、『番傘川柳百年史』に対する2年遅れの書評として、「伝統川柳」の川柳観を検討してみたい。
第1章「関西川柳社から番傘川柳社への歩み」第2章「意気盛んな昭和初期から戦争混迷期」など戦前の番傘の歴史も捨てがたいが、ここでは第3章「戦後の復興から第4運動、水府逝く」以降の戦後川柳史を中心にみていくことにする。そこには現在にも直結する問題があるからだ。
〈短詩型文学のことを書いた本を読めば短歌、俳句のことをいって川柳がその中に入っていない。本屋の棚を見ても短歌、俳句は文学の部にあって、川柳は娯楽趣味の中に置かれている。こういう傾向は戦後特に激しい。これでいいとは思えない〉
昭和29年3月号に掲載された水府の言葉である。この現状認識と危機意識は川柳人全体が共有しなければならないものである。川柳の社会的・文芸上の位置は今でも変っていない。
ここから水府は川柳の第4運動を提唱した。
第4運動とは何か。
第1は田中五呂八・川上日車などの新興川柳運動。
第2は阪井久良伎による古川柳・江戸趣味の称揚。
第3は「川柳」という名称を「寸句」「草詩」にしようと提唱した近藤飴ン坊・高木角恋坊などの提唱。
そして水府の提唱する第4運動は「川柳は娯楽に非ず、文学なり」を骨子とし、川柳に対する世俗の偏見を是正することだという。具体的には、不真面目な柳号、天地人の階級廃止、懸賞の追放である。番傘の主催する川柳大会では賞品は一切出さない。
東野大八は水府の第4運動に胚胎する番傘内部の矛盾を指摘している(『川柳の群像』集英社)。即ち、本格川柳を唱えることで川柳の大衆化を進める一方で、第4運動を展開することで番傘内部の月並川柳を排除しなければならないという二律背反である。確かにそういう面はあったかも知れず、その帰結は水府自身の身にも降りかかってきたのだろうが、それでも「川柳は文学なり」を唱えた水府は偉大であっただろう。ただし、俳句における正岡子規のようにはうまくいかなっかった。水府は川柳の地位向上に努めたが、短詩型文学の中に川柳が確固とした位置を認知されているかと言えば、現在でもこころもとない状況である。
昭和31年7月号掲載の水府の文章「柳界は革新されているか」も心をうつものがある。
〈川柳家は手を握り合っているのであろうか。虎視たんたんの世界を築いているのではあるまいか。少数がバラバラの世界を作っているのではあるまいか。句会をレクリエーションのような気で催しているのではないか。今にしていう未開墾の柳界。本質的にもその機構にも反省の余地充分の柳界。誰がそのままにしてよいというのであろうか〉
水府以後、番傘川柳はどのような軌跡を辿ったであろうか。二代目の主幹となったのが近江砂人である。砂人は「番傘」1971年(昭和46年)1月号で次のような年頭所感を述べている。
〈番傘本社をはじめ、親類の二七会、瓦版の会等が揃って隆盛になっていくのは欣快に堪えない。(中略)我々は主義主張があって、番傘川柳本社を組織しているのである。その一員である以上、我々の川柳上の行動を明らかにせねばならぬ〉
さらに具体的には、同人としてのプライドと自覚、川柳界の前進に努めること、抽象川柳は認めないが新しい表現の川柳は番傘川柳の幅を広げる意味で必要であること、柳社を超えた川柳人の交流を図ること、などを述べているという。
砂人という人は明確な組織論を持つ川柳人であったことが分かる。
ここで近江砂人の川柳観を少し見ておくことにしよう。砂人は『番傘』1975年(昭和50年)7月号で次のように述べている。
〈川柳には、伝統派川柳、詩性川柳、抽象川柳といった流れがある。『番傘』は、今までは伝統派川柳一筋だったが、戦後の社会情勢の細分化に伴う多様化は、我々が経験したことがない社会現象で、詩性川柳も、番傘川柳の中に収容してきた。しかし詩性川柳と隣り合わせに抽象川柳がある。抽象川柳は、全く文字の遊びの感があるし、事実一読理解できない作品が多い〉
詩性川柳までは認めるが抽象川柳は認めないという立場である。ここで問われるのは「詩性川柳」「抽象川柳」の内実であろう。同じ「詩性川柳」の名で呼ばれていても、その中身が全く違っていたりするのはよくある話だ。
番傘本社創立85年を記念して出版された『川柳 その作り方・味わい方』(創元社)という入門書がある。この本では「詩性」について次のように述べられている。この項目を書いているのは亀山恭太である。
〈昔から言われている川柳の三要素「ユーモア」「うがち」「軽み」に、今や「詩性」を加えて四要素にしなければならないと言われたのは平成三年に亡くなられた四国坂出の三木時雨郎さんである。川柳の特徴の一つは「自由」であるから、その幅がどんどん広がり、私たちが川柳を始めた頃には番傘の主流を占めていた「軽み」の句が減って、代わりに今まで川柳とは無縁と思われていた詩情のある句が目立って増加してきた〉
例として挙げられているのは中村冨二の「パチンコ屋オヤあなたにも影がない」である。冨二の作品が伝統派にも受け入れやすいものであったことが分かる。
では、軽みとは何か。同書では次のような句が例に挙げられている。
ない筈はない抽斗を持って来い 西田当百
琵琶湖からモロコ一匹釣り上げる 高橋散二
高橋散二は「ハンカチを若草山に二枚しく」などで知られている好作家である。
ついでに、亀山恭太が「難解句」についてどう述べているかを見ておこう。「ひとりよがり(難解句)」の項である。
〈出来上がった句は書き留めてから一度忘れるほど放置し、何日か後で何回も読み直すのがよいと書いた。その際に、「ひとにわかってもらえるかどうか」を考えながら読むことも大切である〉
ひとりよがりで意味のわからない句として次の句が挙げられている。
美しい誤解にあった水の音
階段の上から人が落ちてくる
山襞をたどれば母の膝頭
変化球投げて幸せ待つ女
どのような句を番傘では難解と読んでいるか、ということがはっきり分かる。これらの句は私の目から見れば難解でも何でもない。「山襞を」などは陳腐なほど分かりやすい伝統的川柳に思える。番傘という結社の「川柳」の幅、許容範囲がよく分かる。
『番傘川柳百年史』に話を戻すと、この本は伝統川柳の川柳観を知る意味でたいへん興味深かった。近江砂人は次のような句を詠んでいる。
佳句佳吟一読明快いつの世も 砂人
「一読明快」の句しか認めないことが川柳人の読みの力の低下を招き、ひいては川柳作品の低下を招くとしたら、それは砂人の志に反することだろう。
最後に本格川柳の代表的作品として岸本水府の二句を挙げておしまいにしよう。
洛北の虫一千をきいて寝る 岸本水府
壁がさみしいから逆立ちをする男
西田当百を中心として設立された「関西川柳社」は1913年(大正2年)、「番傘」を創刊し、当百の引退後は岸本水府に受け継がれて、社名も「番傘川柳社」、「番傘川柳本社」と変更された。関西川柳界の「本流」と言うべき、伝統的川柳結社である。
伝統的結社であるだけに、これに飽きたらず批判する川柳人も多い。また、「番傘」の同人の中からも「番傘」の現状に対して批判的言辞を聞くことがあるが、そのような場合にも私は批判者の「番傘」に対する愛着を感じることがある。真に形骸化した結社であれば、無視するか脱退すればよいのである。
『番傘川柳百年史』は資料的な価値が高く、「番傘」の先人たちの川柳観が各ページから立ち上がってくる。伝統川柳(本格川柳)が川柳をどうとらえてきたかが分かって興味深いのである。
今回は、『番傘川柳百年史』に対する2年遅れの書評として、「伝統川柳」の川柳観を検討してみたい。
第1章「関西川柳社から番傘川柳社への歩み」第2章「意気盛んな昭和初期から戦争混迷期」など戦前の番傘の歴史も捨てがたいが、ここでは第3章「戦後の復興から第4運動、水府逝く」以降の戦後川柳史を中心にみていくことにする。そこには現在にも直結する問題があるからだ。
〈短詩型文学のことを書いた本を読めば短歌、俳句のことをいって川柳がその中に入っていない。本屋の棚を見ても短歌、俳句は文学の部にあって、川柳は娯楽趣味の中に置かれている。こういう傾向は戦後特に激しい。これでいいとは思えない〉
昭和29年3月号に掲載された水府の言葉である。この現状認識と危機意識は川柳人全体が共有しなければならないものである。川柳の社会的・文芸上の位置は今でも変っていない。
ここから水府は川柳の第4運動を提唱した。
第4運動とは何か。
第1は田中五呂八・川上日車などの新興川柳運動。
第2は阪井久良伎による古川柳・江戸趣味の称揚。
第3は「川柳」という名称を「寸句」「草詩」にしようと提唱した近藤飴ン坊・高木角恋坊などの提唱。
そして水府の提唱する第4運動は「川柳は娯楽に非ず、文学なり」を骨子とし、川柳に対する世俗の偏見を是正することだという。具体的には、不真面目な柳号、天地人の階級廃止、懸賞の追放である。番傘の主催する川柳大会では賞品は一切出さない。
東野大八は水府の第4運動に胚胎する番傘内部の矛盾を指摘している(『川柳の群像』集英社)。即ち、本格川柳を唱えることで川柳の大衆化を進める一方で、第4運動を展開することで番傘内部の月並川柳を排除しなければならないという二律背反である。確かにそういう面はあったかも知れず、その帰結は水府自身の身にも降りかかってきたのだろうが、それでも「川柳は文学なり」を唱えた水府は偉大であっただろう。ただし、俳句における正岡子規のようにはうまくいかなっかった。水府は川柳の地位向上に努めたが、短詩型文学の中に川柳が確固とした位置を認知されているかと言えば、現在でもこころもとない状況である。
昭和31年7月号掲載の水府の文章「柳界は革新されているか」も心をうつものがある。
〈川柳家は手を握り合っているのであろうか。虎視たんたんの世界を築いているのではあるまいか。少数がバラバラの世界を作っているのではあるまいか。句会をレクリエーションのような気で催しているのではないか。今にしていう未開墾の柳界。本質的にもその機構にも反省の余地充分の柳界。誰がそのままにしてよいというのであろうか〉
水府以後、番傘川柳はどのような軌跡を辿ったであろうか。二代目の主幹となったのが近江砂人である。砂人は「番傘」1971年(昭和46年)1月号で次のような年頭所感を述べている。
〈番傘本社をはじめ、親類の二七会、瓦版の会等が揃って隆盛になっていくのは欣快に堪えない。(中略)我々は主義主張があって、番傘川柳本社を組織しているのである。その一員である以上、我々の川柳上の行動を明らかにせねばならぬ〉
さらに具体的には、同人としてのプライドと自覚、川柳界の前進に努めること、抽象川柳は認めないが新しい表現の川柳は番傘川柳の幅を広げる意味で必要であること、柳社を超えた川柳人の交流を図ること、などを述べているという。
砂人という人は明確な組織論を持つ川柳人であったことが分かる。
ここで近江砂人の川柳観を少し見ておくことにしよう。砂人は『番傘』1975年(昭和50年)7月号で次のように述べている。
〈川柳には、伝統派川柳、詩性川柳、抽象川柳といった流れがある。『番傘』は、今までは伝統派川柳一筋だったが、戦後の社会情勢の細分化に伴う多様化は、我々が経験したことがない社会現象で、詩性川柳も、番傘川柳の中に収容してきた。しかし詩性川柳と隣り合わせに抽象川柳がある。抽象川柳は、全く文字の遊びの感があるし、事実一読理解できない作品が多い〉
詩性川柳までは認めるが抽象川柳は認めないという立場である。ここで問われるのは「詩性川柳」「抽象川柳」の内実であろう。同じ「詩性川柳」の名で呼ばれていても、その中身が全く違っていたりするのはよくある話だ。
番傘本社創立85年を記念して出版された『川柳 その作り方・味わい方』(創元社)という入門書がある。この本では「詩性」について次のように述べられている。この項目を書いているのは亀山恭太である。
〈昔から言われている川柳の三要素「ユーモア」「うがち」「軽み」に、今や「詩性」を加えて四要素にしなければならないと言われたのは平成三年に亡くなられた四国坂出の三木時雨郎さんである。川柳の特徴の一つは「自由」であるから、その幅がどんどん広がり、私たちが川柳を始めた頃には番傘の主流を占めていた「軽み」の句が減って、代わりに今まで川柳とは無縁と思われていた詩情のある句が目立って増加してきた〉
例として挙げられているのは中村冨二の「パチンコ屋オヤあなたにも影がない」である。冨二の作品が伝統派にも受け入れやすいものであったことが分かる。
では、軽みとは何か。同書では次のような句が例に挙げられている。
ない筈はない抽斗を持って来い 西田当百
琵琶湖からモロコ一匹釣り上げる 高橋散二
高橋散二は「ハンカチを若草山に二枚しく」などで知られている好作家である。
ついでに、亀山恭太が「難解句」についてどう述べているかを見ておこう。「ひとりよがり(難解句)」の項である。
〈出来上がった句は書き留めてから一度忘れるほど放置し、何日か後で何回も読み直すのがよいと書いた。その際に、「ひとにわかってもらえるかどうか」を考えながら読むことも大切である〉
ひとりよがりで意味のわからない句として次の句が挙げられている。
美しい誤解にあった水の音
階段の上から人が落ちてくる
山襞をたどれば母の膝頭
変化球投げて幸せ待つ女
どのような句を番傘では難解と読んでいるか、ということがはっきり分かる。これらの句は私の目から見れば難解でも何でもない。「山襞を」などは陳腐なほど分かりやすい伝統的川柳に思える。番傘という結社の「川柳」の幅、許容範囲がよく分かる。
『番傘川柳百年史』に話を戻すと、この本は伝統川柳の川柳観を知る意味でたいへん興味深かった。近江砂人は次のような句を詠んでいる。
佳句佳吟一読明快いつの世も 砂人
「一読明快」の句しか認めないことが川柳人の読みの力の低下を招き、ひいては川柳作品の低下を招くとしたら、それは砂人の志に反することだろう。
最後に本格川柳の代表的作品として岸本水府の二句を挙げておしまいにしよう。
洛北の虫一千をきいて寝る 岸本水府
壁がさみしいから逆立ちをする男
2010年10月8日金曜日
「Leaf」はクローズドな柳誌なのか
今年1月に創刊された川柳同人誌「Leaf」は、7月には第2号が発行され、年2回というペースを守って順調に活動を続けている。今週はこの「Leaf」をめぐって、川柳同人誌のあり方について考えてみたい。
「Leaf」は吉澤久良(発行人)・兵頭全郎(編集人)・畑美樹・清水かおりの四人誌である。毎号、巻頭言と四者共詠、同人作品に互評とエッセイが付く。四者共詠は創刊号では「空間」、第2号では「剥離」というテーマに基いて各5句が掲載されている。第2号から引用してみよう。
水面から水面へ置いていく舌 畑美樹
「炎上やね」湯葉掬う箸の先 清水かおり
現実として一行の外套膜 兵頭全郎
桃の字に闇をイメージできない奴ら 吉澤久良
3句目、「一行」には「いっこう」とルビが付いている。
テーマを設定した共詠・競詠という点では、俳誌「quatre」(キャトル)のことが思い浮かぶ。「quatre」は杉浦圭佑・金山桜子・上森敦代・中田美子の四人誌である。少し古いが手元にある「quatre」27号(2008年6月)から「食卓」のテーマ詠を引用してみる。
夏空やヴァスコ・ダ・ガマの胡椒壺 中田美子
花冷えのドレッシングのみどりいろ 上森敦代
トーストを二枚並べて囀れり 杉浦圭佑
梅干を爆弾と言う子等のいて 金山桜子
「quatre」ではこれにテーマ・食卓にちなんだエッセイが付いている。同じようにテーマ詠という設定であっても、川柳と俳句では言葉の手触りが異なるし、テーマとなる単語が「Leaf」の場合は抽象的であるのに対して、「quatre」の場合は具象的という違いはある。これを川柳と俳句の差異とまで一般化できるかどうかは分からないが、前句付の前句が抽象化したところに川柳が発生したことと少しは関係するだろう。
さて、「Leaf」では、「四者共詠」のテーマとは別に、各号全体のテーマも設定されている。創刊号のテーマは「コトバへの挑戦」、第2号は「融解し浮遊するコトバ」である。同人たちの関心が「コトバ」にあることがわかる。それは、伝達手段としての「言葉」ではなく、異化された「コトバ」のようだ。創刊号の巻頭言に吉澤は次のように書いている。
〈私たちの関心は《コトバ》にあり、本誌では《コトバ》についてさまざまな思考を積み重ね、《川柳に何ができるか》を模索していくつもりである〉
〈句と句評は両輪である。句と向き合った批評のないところにすぐれた作品が生まれるのは困難である〉
〈すぐれた作品はその背後に豊かな知的土壌を持っている。川柳という表現行為が生きていくことの中でなんらかの価値を持ちうるとしたら、おそらくこの意味においてしかない。だからそのために、各号ごとに《コトバ》に関するテーマを決め、それぞれが文章を書く。表現の現場では書き手は常に単独者であるが、他者と一緒に同じテーマに向き合うことで、単独者の思考は影響を受けきっと厚みを増すだろう〉
大きな目標を掲げたものである。コトバの本質についてはソシュール以来の言語学的洞察があり、日常言語と詩的言語の関係についても現代詩や俳句で論作両面から探求されているが、川柳におけるコトバのはたらきについて本質的に洞察した川柳人はまだいない。「Leaf」の試みが今後どのような地平を開いていくかは予断を許さないが、コトバについて思考するために「Leaf」では「互評」が重視されているのは特徴的だ。
川柳誌では前号批評が多いが、本誌は作品と批評を同じ号に載せるというやり方である。「バックストローク」も同じやり方をとっている。
ここで思い浮かぶのは2001年から2002年にかけて5巻発行された川柳誌「WE ARE!」である。「WE ARE!」は、なかはられいこと倉富洋子の二人誌で、ゲスト作品と同人作品が掲載されていた。ゲストは同人作品を鑑賞し、同人はゲスト作品を鑑賞するというやり方であった。それに比べて「Leaf」は4人の同人の中で閉じている。発行人である吉澤が「私たちの壁であり支えであるのは、他の三人の存在である。少なくとも当面は、私たち四人が互いに批判しあうことを通じて自分を確認するという内向きの姿勢に傾くことになりそうだ」(創刊号・巻頭言)と述べているように、意識的にこのような態度をとっているのだ。
クローズドとオープンという二分法で言えば、「Leaf」はクローズドなスタンスをとっているように見える。「川柳の読み」という場合、読みの対象となるのは古今の多様な川柳作品であってよいはずである。同人作品の互評という形で読みを限定するのは、そこにこの雑誌の矜持があるからだろう。第2号の巻頭言では次のように述べられている。
〈きちんと句を読む風土が充分ではない川柳界において、私たちが創刊号で互いに他人の句に向き合おうとしたことは、誇ってもいいのではないかと思っている。四人全員が互評を書くという形は、私たちだけではなく、読者にとっても新鮮な刺激だったのではないだろうか〉
互評というものは本来、読者にとってあまり興味を持てないものである。互評が本人たちにとって刺激的なのは分かるが、読者にとっても刺激的かどうかは分からないことである。それは読者が決めることであって、本人たちが言うべきことではない。おそらく「Leaf」の同人たちにとって作品をきちんと読みたい、読んでほしいという強い願望があって、その際、最も信頼できる読者が同人たち自身であるということなのだろう。作品と批評の両輪を同人全員が受け持ち、それを可視化するのが「互評」という誌面上のカタチである。
問題は互評がどのように機能しているか、ということだろう。
たとえば、第2号から次の作品を取り上げてみよう。
オブラートあげる 間引かれよ 清水かおり
〈「オブラートあげる」の寛容から、「間引かれよ」へのめくるめくような落下の感覚。端正な冷徹さとでもいえばよいか。このようなコトバの尖り方に、清水かおりの句を読んでいるという快感がある〉(吉澤久良)
〈清水の句には、時折ぐっと短縮されたものがでてくる。この句をこのまま読めば自殺の手ほどきであるが、注目すべきは「あげる」のあとの「空き」であろう。定型で言えば四音が隠されている。私はここに「間引かれよ」と指図する者の存在を見た。多分間引かれるまで、ただただオブラートのみを渡しつづけるのだろう。先の二句(引用者注・「空色の器に蝉を入れる人」「腰椎に生えている売れ筋の木」)に比べて、こちらの人には孤高な感じがある。指図されている方の姿が見えないからだ。四音の省略で想像させるものを造り、さらに想像させない役割も持たせる。ぜひとも盗みたいテクニックである〉(兵頭全郎)
こういう読みの積み重ねを通じて作品は深められていくし、同人各人の資質が読み方に表われてくるのも興味深いことである。ただ、このような読みが印象批評的な読みとどう異なり、従来の読みに何を付け加えているのかは改めて問われるところだろう。評によって作品の魅力がどれだけ立ち上がってくるか、評とは諸刃の刃なのだ。
以上、新誌「Leaf」の川柳同人誌としての特徴点を見てきた。雑誌は生きものであり、これからも生成発展していくことだろうから、第3号以降にどのような変化があるか(あるいはないか)は予測できない。川柳においても短詩型の他ジャンルと同様に「詠み」と「読み」とは車の両輪であることをアピールする「Leaf」の今後に注目していきたい。
「Leaf」は吉澤久良(発行人)・兵頭全郎(編集人)・畑美樹・清水かおりの四人誌である。毎号、巻頭言と四者共詠、同人作品に互評とエッセイが付く。四者共詠は創刊号では「空間」、第2号では「剥離」というテーマに基いて各5句が掲載されている。第2号から引用してみよう。
水面から水面へ置いていく舌 畑美樹
「炎上やね」湯葉掬う箸の先 清水かおり
現実として一行の外套膜 兵頭全郎
桃の字に闇をイメージできない奴ら 吉澤久良
3句目、「一行」には「いっこう」とルビが付いている。
テーマを設定した共詠・競詠という点では、俳誌「quatre」(キャトル)のことが思い浮かぶ。「quatre」は杉浦圭佑・金山桜子・上森敦代・中田美子の四人誌である。少し古いが手元にある「quatre」27号(2008年6月)から「食卓」のテーマ詠を引用してみる。
夏空やヴァスコ・ダ・ガマの胡椒壺 中田美子
花冷えのドレッシングのみどりいろ 上森敦代
トーストを二枚並べて囀れり 杉浦圭佑
梅干を爆弾と言う子等のいて 金山桜子
「quatre」ではこれにテーマ・食卓にちなんだエッセイが付いている。同じようにテーマ詠という設定であっても、川柳と俳句では言葉の手触りが異なるし、テーマとなる単語が「Leaf」の場合は抽象的であるのに対して、「quatre」の場合は具象的という違いはある。これを川柳と俳句の差異とまで一般化できるかどうかは分からないが、前句付の前句が抽象化したところに川柳が発生したことと少しは関係するだろう。
さて、「Leaf」では、「四者共詠」のテーマとは別に、各号全体のテーマも設定されている。創刊号のテーマは「コトバへの挑戦」、第2号は「融解し浮遊するコトバ」である。同人たちの関心が「コトバ」にあることがわかる。それは、伝達手段としての「言葉」ではなく、異化された「コトバ」のようだ。創刊号の巻頭言に吉澤は次のように書いている。
〈私たちの関心は《コトバ》にあり、本誌では《コトバ》についてさまざまな思考を積み重ね、《川柳に何ができるか》を模索していくつもりである〉
〈句と句評は両輪である。句と向き合った批評のないところにすぐれた作品が生まれるのは困難である〉
〈すぐれた作品はその背後に豊かな知的土壌を持っている。川柳という表現行為が生きていくことの中でなんらかの価値を持ちうるとしたら、おそらくこの意味においてしかない。だからそのために、各号ごとに《コトバ》に関するテーマを決め、それぞれが文章を書く。表現の現場では書き手は常に単独者であるが、他者と一緒に同じテーマに向き合うことで、単独者の思考は影響を受けきっと厚みを増すだろう〉
大きな目標を掲げたものである。コトバの本質についてはソシュール以来の言語学的洞察があり、日常言語と詩的言語の関係についても現代詩や俳句で論作両面から探求されているが、川柳におけるコトバのはたらきについて本質的に洞察した川柳人はまだいない。「Leaf」の試みが今後どのような地平を開いていくかは予断を許さないが、コトバについて思考するために「Leaf」では「互評」が重視されているのは特徴的だ。
川柳誌では前号批評が多いが、本誌は作品と批評を同じ号に載せるというやり方である。「バックストローク」も同じやり方をとっている。
ここで思い浮かぶのは2001年から2002年にかけて5巻発行された川柳誌「WE ARE!」である。「WE ARE!」は、なかはられいこと倉富洋子の二人誌で、ゲスト作品と同人作品が掲載されていた。ゲストは同人作品を鑑賞し、同人はゲスト作品を鑑賞するというやり方であった。それに比べて「Leaf」は4人の同人の中で閉じている。発行人である吉澤が「私たちの壁であり支えであるのは、他の三人の存在である。少なくとも当面は、私たち四人が互いに批判しあうことを通じて自分を確認するという内向きの姿勢に傾くことになりそうだ」(創刊号・巻頭言)と述べているように、意識的にこのような態度をとっているのだ。
クローズドとオープンという二分法で言えば、「Leaf」はクローズドなスタンスをとっているように見える。「川柳の読み」という場合、読みの対象となるのは古今の多様な川柳作品であってよいはずである。同人作品の互評という形で読みを限定するのは、そこにこの雑誌の矜持があるからだろう。第2号の巻頭言では次のように述べられている。
〈きちんと句を読む風土が充分ではない川柳界において、私たちが創刊号で互いに他人の句に向き合おうとしたことは、誇ってもいいのではないかと思っている。四人全員が互評を書くという形は、私たちだけではなく、読者にとっても新鮮な刺激だったのではないだろうか〉
互評というものは本来、読者にとってあまり興味を持てないものである。互評が本人たちにとって刺激的なのは分かるが、読者にとっても刺激的かどうかは分からないことである。それは読者が決めることであって、本人たちが言うべきことではない。おそらく「Leaf」の同人たちにとって作品をきちんと読みたい、読んでほしいという強い願望があって、その際、最も信頼できる読者が同人たち自身であるということなのだろう。作品と批評の両輪を同人全員が受け持ち、それを可視化するのが「互評」という誌面上のカタチである。
問題は互評がどのように機能しているか、ということだろう。
たとえば、第2号から次の作品を取り上げてみよう。
オブラートあげる 間引かれよ 清水かおり
〈「オブラートあげる」の寛容から、「間引かれよ」へのめくるめくような落下の感覚。端正な冷徹さとでもいえばよいか。このようなコトバの尖り方に、清水かおりの句を読んでいるという快感がある〉(吉澤久良)
〈清水の句には、時折ぐっと短縮されたものがでてくる。この句をこのまま読めば自殺の手ほどきであるが、注目すべきは「あげる」のあとの「空き」であろう。定型で言えば四音が隠されている。私はここに「間引かれよ」と指図する者の存在を見た。多分間引かれるまで、ただただオブラートのみを渡しつづけるのだろう。先の二句(引用者注・「空色の器に蝉を入れる人」「腰椎に生えている売れ筋の木」)に比べて、こちらの人には孤高な感じがある。指図されている方の姿が見えないからだ。四音の省略で想像させるものを造り、さらに想像させない役割も持たせる。ぜひとも盗みたいテクニックである〉(兵頭全郎)
こういう読みの積み重ねを通じて作品は深められていくし、同人各人の資質が読み方に表われてくるのも興味深いことである。ただ、このような読みが印象批評的な読みとどう異なり、従来の読みに何を付け加えているのかは改めて問われるところだろう。評によって作品の魅力がどれだけ立ち上がってくるか、評とは諸刃の刃なのだ。
以上、新誌「Leaf」の川柳同人誌としての特徴点を見てきた。雑誌は生きものであり、これからも生成発展していくことだろうから、第3号以降にどのような変化があるか(あるいはないか)は予測できない。川柳においても短詩型の他ジャンルと同様に「詠み」と「読み」とは車の両輪であることをアピールする「Leaf」の今後に注目していきたい。
2010年10月1日金曜日
俳文と川柳的エッセイ
ブームというほどでもないが、「俳文」というものの存在をアピールする動きが俳句・連句界の一部に広がっている。「俳文」といえば、江戸時代の『鶉衣』などが思い浮かぶが、明治以降はあまり耳にすることがなく、現代ではむしろ英米で盛んに書かれているらしい。俳文顕彰の動きとして管見に入ったのは次の二つである。
「船団」86号では「俳文―俳人たちの散文」を特集している。座談会「俳文の時代がやってくる」では坪内稔典・内田美紗・宮嵜亀が俳文の可能性について語っている。正岡子規以来「写生文」はあったが「俳文」というものはあまり書かれなかった。「船団」では「俳文の会」という研究会があって、当初は散文だけを書いていたが、文章に俳句を添えた作品も現れるようになったという。
宮嵜は外国人の書いたハイブンについて触れている。ウィリアム・ヒギンソンの『ハイク・ハンドブック』(1985年)にハイク・プローズ(散文)の章があり、ジャパニーズ・ハイブンという言葉が出てくるそうだ。宮嵜は「デタッチメントの態度で文章を書こうというのは米英の人たちにとって案外自然なことで気楽なことなのかもしれません」と言っている。本誌ではK・ジョーンズの「魔法」というハイブンが掲載されている。
坪内が昨年出版した『高三郎と出会った日』(沖積舎)は「俳句と俳文」と銘うたれており、彼が俳文の可能性を意識的に追求していることがわかる。
俳文の顕彰に努めているもうひとつの結社は「其角座」である。今年は其角の生誕350年に当たり、俳文を多く残した其角にちなんで、俳文コンテストが開催された。「其角座」主催の俳文コンテストで日本語部門と英語部門に分かれ、今年は第2回である。授賞式は7月に行われ、「俳文の未来」のテーマのシンポジウムもあった。「俳句界」の10月号にもその紹介が出ている。「今、日本は鎖国状態なのでは」とか「日本の俳文は十年遅れている」とかいう発言が飛び交ったらしい。
以上、俳句における散文の可能性として「俳文」を取り上げたが、ひるがえって川柳における散文はどうだろうか。評論はさておくとして、川柳においても散文やエッセイがもっと書かれてもいいのに、身辺雑記や前号批評に終始して、川柳人の散文はあまり充実していないように思われる。滋味のあふれるエッセイは本来川柳の得意分野ではなかっただろうか。
古い例だが、大正時代の「番傘」に連載された浅井五葉の散文は読者が待ち望むものであった。次に引用するのは、大正15年4月「番傘」の「水府様」という文章で、川柳句会が終ったあと参加者が次々に別れていくところである。引用は田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』による。
〈 夏にしろ冬にしろその心には別段変りはありません。中座の前や明文堂の側を通つて、何だか物足らぬ腹の虫の軽い欲求や、あたまのゆるい旋回を抑へつつ、灘万の前を、やがては戎橋の南詰の四つ角に立つのであります。十人程はこゝで別れねばならぬのであります。佳汀氏は西へ、九郎右衛門町の方へ、私等はどうせ橋筋へ出なければならぬのであります。惜しい別れはどうも致方がありません。ままならぬが浮世のならひであります。これでよいのであります。これを決行せねばならぬのであります。そして川柳だけの友達としてつきあはねばなりません。友達とはいひ条これも真剣なる舞台だと心得たいのであります。川柳では他人たらねばなりません。自分が自分の川柳をよまねばなりませぬ。「さよなら」戎橋では斯う別れて了ひます。あなたがまだ四五人と立つて居られる姿も人も遮ぎられて見えぬやうになります。もう四五間を隔てて私等二三人の南行の者は多少惜しい気もしながら、も一度振り返り、斯うして橋筋の人通りの中に消えて行くのであります。〉
大阪の地名や場所の名がまるで道行のように散りばめられていて、句会のあとの名残り惜しい句友たちの別れの気分が伝わってくる。同時に、川柳の友人たちとの馴れ合い的な付き合いを厳しく戒める文学精神もうかがわれる。五葉は寡黙な人だったらしいが、いったん筆を取ると伸びやかな文章を綴るのであった。代表句として「大仏の鐘杉を抜け杉を抜け」がある。
川柳に関する散文としては、日本の名随筆別巻53『川柳』に収録されている文章や佐藤愛子、時実新子などのエッセイが思い浮かぶ。時実新子は川柳をベースとして、エッセイストとしても成功した唯一の人であろう。
「バックストローク」に連載されている松永千秋の「言葉の波間」は好エッセイであるが、ここではそれとは別に、「草を引く」という文章を引用してみよう。セレクション柳人『松永千秋集』に収録されている、草取りの話である。
〈 次々と目の前の草を抜く。時間のことなどすっかり忘れてしまう。
ふと気づくと側の欅の梢で鳥が囀っていたりする。
人間関係のイライラも、今日のオカズの心配も川柳の締切りのことも、何もかも忘れてしまう。少々の頭痛など何所吹く風である。
草を取るという作業は心を無にしてくれる。〉
草を取るという作業。草によって力の入れ具合を微妙に変えたり、自然の中で無心になれる瞬間は貴重なものである。しかし、松永千秋は次のように書くことも忘れないのである。
〈 ならば、ずっと草さえ取っていれば幸せか、といえば、それはまた別のはなしである。〉
川柳作品が入っていてもいなくても、川柳人が書く文章は俳文や俳人が書く文章とはどこか異なっているだろう。川柳眼によって眺められた世界は、どこか不調和で変容されている。『セレクション柳論』に収録された佐藤みさ子のエッセイ「裁縫箱」には他者との関係性の違和感がはっきりと記されている。
〈 セルロイドの赤い裁縫箱をもらった。花や蝶の模様がついていた。小学三年生の頃だったと思うが、朝礼で一番前になるのが○○さんで、私は二番目に小さかった。やさしい大きな目の○○さんがそれを差し出した時、私はとても困った顔になったと思う。生まれて初めて他人からの贈り物をかかえてとぼとぼ家へ帰った事を覚えている。
私の裁縫箱は母のお古であった。繭のように白く光ってこんもりとした形だった。材質が何だったかのか今はわからない。紙のようなあたたかな肌ざわりが好きだった。
それでも明日になれば○○さんからもらった赤いセルロイドに糸やハサミを入れて学校へ行かなければならない。私の何かが否定されたような気がした。人がそれぞれ違う価値観を持っていることに、その時初めて気がついたと言えば大げさだろうか。その頃友人の多くが赤いセルロイドを持っていたとすれば、私はかわいそうな子に見えたのだろう。私は無口で暗い子供だった。そして私は今もなお、赤い裁縫箱をかかえたまま、途方に暮れている。○○さんの優しい大きな目を今も忘れることができない。〉
これは全文である。ここには佐藤みさ子という川柳人の見方がはっきりと表現されている。川柳作品の一編を書く場合と同様に、作者の独自の見方がいやおうなく刻印されているのである。
かつて村上春樹はデタッチメントとコミットメントということを言った。それまで村上春樹の文学はデタッチメントの文学だと思われていたのだが、オーム真理教事件を契機として村上文学はコミットメントの文学に変質したのである。
俳文はデタッチメントだろうが、川柳人の文章はデタッチメントではすまされない面がある。それは政治への参画とか社会性などの表層的な意味ではなく、現実や人間との関係性の問題である。現実や日常性への違和感をもとにした屈折した感覚を川柳人はどこかで持っている。おびただしい過去の川柳作品は川柳人の財産である。それを散文と結びつけて、川柳の魅力を伝えていくことは川柳人にしかできない課題だろう。川柳眼に裏打ちされた川柳的エッセイをもっと読んでみたいものだ。
「船団」86号では「俳文―俳人たちの散文」を特集している。座談会「俳文の時代がやってくる」では坪内稔典・内田美紗・宮嵜亀が俳文の可能性について語っている。正岡子規以来「写生文」はあったが「俳文」というものはあまり書かれなかった。「船団」では「俳文の会」という研究会があって、当初は散文だけを書いていたが、文章に俳句を添えた作品も現れるようになったという。
宮嵜は外国人の書いたハイブンについて触れている。ウィリアム・ヒギンソンの『ハイク・ハンドブック』(1985年)にハイク・プローズ(散文)の章があり、ジャパニーズ・ハイブンという言葉が出てくるそうだ。宮嵜は「デタッチメントの態度で文章を書こうというのは米英の人たちにとって案外自然なことで気楽なことなのかもしれません」と言っている。本誌ではK・ジョーンズの「魔法」というハイブンが掲載されている。
坪内が昨年出版した『高三郎と出会った日』(沖積舎)は「俳句と俳文」と銘うたれており、彼が俳文の可能性を意識的に追求していることがわかる。
俳文の顕彰に努めているもうひとつの結社は「其角座」である。今年は其角の生誕350年に当たり、俳文を多く残した其角にちなんで、俳文コンテストが開催された。「其角座」主催の俳文コンテストで日本語部門と英語部門に分かれ、今年は第2回である。授賞式は7月に行われ、「俳文の未来」のテーマのシンポジウムもあった。「俳句界」の10月号にもその紹介が出ている。「今、日本は鎖国状態なのでは」とか「日本の俳文は十年遅れている」とかいう発言が飛び交ったらしい。
以上、俳句における散文の可能性として「俳文」を取り上げたが、ひるがえって川柳における散文はどうだろうか。評論はさておくとして、川柳においても散文やエッセイがもっと書かれてもいいのに、身辺雑記や前号批評に終始して、川柳人の散文はあまり充実していないように思われる。滋味のあふれるエッセイは本来川柳の得意分野ではなかっただろうか。
古い例だが、大正時代の「番傘」に連載された浅井五葉の散文は読者が待ち望むものであった。次に引用するのは、大正15年4月「番傘」の「水府様」という文章で、川柳句会が終ったあと参加者が次々に別れていくところである。引用は田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』による。
〈 夏にしろ冬にしろその心には別段変りはありません。中座の前や明文堂の側を通つて、何だか物足らぬ腹の虫の軽い欲求や、あたまのゆるい旋回を抑へつつ、灘万の前を、やがては戎橋の南詰の四つ角に立つのであります。十人程はこゝで別れねばならぬのであります。佳汀氏は西へ、九郎右衛門町の方へ、私等はどうせ橋筋へ出なければならぬのであります。惜しい別れはどうも致方がありません。ままならぬが浮世のならひであります。これでよいのであります。これを決行せねばならぬのであります。そして川柳だけの友達としてつきあはねばなりません。友達とはいひ条これも真剣なる舞台だと心得たいのであります。川柳では他人たらねばなりません。自分が自分の川柳をよまねばなりませぬ。「さよなら」戎橋では斯う別れて了ひます。あなたがまだ四五人と立つて居られる姿も人も遮ぎられて見えぬやうになります。もう四五間を隔てて私等二三人の南行の者は多少惜しい気もしながら、も一度振り返り、斯うして橋筋の人通りの中に消えて行くのであります。〉
大阪の地名や場所の名がまるで道行のように散りばめられていて、句会のあとの名残り惜しい句友たちの別れの気分が伝わってくる。同時に、川柳の友人たちとの馴れ合い的な付き合いを厳しく戒める文学精神もうかがわれる。五葉は寡黙な人だったらしいが、いったん筆を取ると伸びやかな文章を綴るのであった。代表句として「大仏の鐘杉を抜け杉を抜け」がある。
川柳に関する散文としては、日本の名随筆別巻53『川柳』に収録されている文章や佐藤愛子、時実新子などのエッセイが思い浮かぶ。時実新子は川柳をベースとして、エッセイストとしても成功した唯一の人であろう。
「バックストローク」に連載されている松永千秋の「言葉の波間」は好エッセイであるが、ここではそれとは別に、「草を引く」という文章を引用してみよう。セレクション柳人『松永千秋集』に収録されている、草取りの話である。
〈 次々と目の前の草を抜く。時間のことなどすっかり忘れてしまう。
ふと気づくと側の欅の梢で鳥が囀っていたりする。
人間関係のイライラも、今日のオカズの心配も川柳の締切りのことも、何もかも忘れてしまう。少々の頭痛など何所吹く風である。
草を取るという作業は心を無にしてくれる。〉
草を取るという作業。草によって力の入れ具合を微妙に変えたり、自然の中で無心になれる瞬間は貴重なものである。しかし、松永千秋は次のように書くことも忘れないのである。
〈 ならば、ずっと草さえ取っていれば幸せか、といえば、それはまた別のはなしである。〉
川柳作品が入っていてもいなくても、川柳人が書く文章は俳文や俳人が書く文章とはどこか異なっているだろう。川柳眼によって眺められた世界は、どこか不調和で変容されている。『セレクション柳論』に収録された佐藤みさ子のエッセイ「裁縫箱」には他者との関係性の違和感がはっきりと記されている。
〈 セルロイドの赤い裁縫箱をもらった。花や蝶の模様がついていた。小学三年生の頃だったと思うが、朝礼で一番前になるのが○○さんで、私は二番目に小さかった。やさしい大きな目の○○さんがそれを差し出した時、私はとても困った顔になったと思う。生まれて初めて他人からの贈り物をかかえてとぼとぼ家へ帰った事を覚えている。
私の裁縫箱は母のお古であった。繭のように白く光ってこんもりとした形だった。材質が何だったかのか今はわからない。紙のようなあたたかな肌ざわりが好きだった。
それでも明日になれば○○さんからもらった赤いセルロイドに糸やハサミを入れて学校へ行かなければならない。私の何かが否定されたような気がした。人がそれぞれ違う価値観を持っていることに、その時初めて気がついたと言えば大げさだろうか。その頃友人の多くが赤いセルロイドを持っていたとすれば、私はかわいそうな子に見えたのだろう。私は無口で暗い子供だった。そして私は今もなお、赤い裁縫箱をかかえたまま、途方に暮れている。○○さんの優しい大きな目を今も忘れることができない。〉
これは全文である。ここには佐藤みさ子という川柳人の見方がはっきりと表現されている。川柳作品の一編を書く場合と同様に、作者の独自の見方がいやおうなく刻印されているのである。
かつて村上春樹はデタッチメントとコミットメントということを言った。それまで村上春樹の文学はデタッチメントの文学だと思われていたのだが、オーム真理教事件を契機として村上文学はコミットメントの文学に変質したのである。
俳文はデタッチメントだろうが、川柳人の文章はデタッチメントではすまされない面がある。それは政治への参画とか社会性などの表層的な意味ではなく、現実や人間との関係性の問題である。現実や日常性への違和感をもとにした屈折した感覚を川柳人はどこかで持っている。おびただしい過去の川柳作品は川柳人の財産である。それを散文と結びつけて、川柳の魅力を伝えていくことは川柳人にしかできない課題だろう。川柳眼に裏打ちされた川柳的エッセイをもっと読んでみたいものだ。
2010年9月24日金曜日
川柳が他者と出会うとき
川柳を中心とする短詩型サイト「s/c」が9月はじめに立ち上げられた。運営している湊圭史は俳人・詩人・外国文学研究者であり、最近は川柳人として「バックストローク」「ふらすこてん」などに作品を発表している。「s/c」の意味はいまのところ不明であるが、sは川柳のことかと憶測している。短詩作品欄には樋口由紀子の川柳や荒木時彦の短詩、久留島元の俳句などが掲載され、評論欄には湊自身の評論が掲載されている。
さて、先日そこに掲載された彼の評論〈 現代川柳とは何か?―「なかはられいこと川柳の現在」を読む― 〉は現代川柳の問題点に鋭く切り込む内容となっている。湊はこんなふうに述べている。
〈川柳ジャンルにおいては、「川柳の奥深さ」といった経験則からの実感の吐露か、「誰でも出来る」といった類の一般向けの惹句、また歴史的発展をどこかで止めて割り出したジャンル規定には出くわすものの、現代までの発展に則って現在の社会と対峙するようなジャンル像で説得力のあるものにはなかなかお目にかかれない。〉
〈「長くやれば分かる」という経験一辺倒の姿勢で、新しく参入したものに手掛かりとなるパースペクティヴもまったく見せられないようでは、ジャンルとしての発展も望めないのではないか。要するに、外部を意識した自己省察があまりにもなさ過ぎるのだ。〉
こういう問題意識から彼は、なかはられいこの第二句集『脱衣場のアリス』の巻末対談「なかはられいこと川柳の現在」を取り上げる。この句集は2001年4月に発行されていて、すでに過去の話だろうと思っていたが、今回の湊による読み直しによって巻末対談の現代的意義が甦ったことになる。この対談は本来、なかはらとその句集『アリス』のおもしろさをアピールするためにプロデューサー役の荻原裕幸によって企画されたものであるが、穂村弘というすぐれた表現者の眼にさらされ、川柳とは何かという問いをつきつけられることで、現代川柳全体が強力な外部・他者と向かい合うことになった。ここでは、湊の引用している穂村弘の発言をもう一度たどりながら整理し、最後に湊自身の提言について検討してみることにしたい。
議論の発端は、倉本朝世がこの句集を象徴している一句として「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」を挙げたのに対して、穂村弘がこの句は全然よくないと疑義を呈したところからはじまる。湊も引用している穂村弘の発言を改めて確認してみよう。
《この句の「鳥」の持っている衝撃力と、さっきあげていた、〈五月闇またまちがって動く舌〉の「舌」が持っている衝撃力では、もう格段に「舌」の方が強いと思うんです。あるいは、
開脚の踵にあたるお母さま
という句の「お母さま」が持っている衝撃力は、もしそれを測る装置があれば、非情に高い値になると思うんです。》
《これは想像なんですが、「またまちがって動く舌」とか、「踵にあたるお母さま」という句は、フォルムの要請というか、定型で書いてこられて、その中でつかんできた言葉なんじゃないか。それに対して「えんぴつは」の句は初めから持ってらしたある世界観みたいなものではないでしょうか。》
《ぼくはこういう内容がいけないとは思わないけど、これをフォルムの中で提示されたときに、まったく反論の余地がないという点で、逆に意味がないんじゃないかというふうに思うんです。》
ここで例句として取り上げられているのは次の3句である。
えんぴつは書きたい鳥は生まれたい
五月闇またまちがって動く舌
開脚の踵にあたるお母さま
「えんぴつは」の句は作句のモチーフそのものである。倉本はこれをなかはらの現在を象徴する句だと見ており、また、「五月闇」については季語を川柳ではこういうふうに使えるんだよと提示している点を評価する。一方、穂村は作者の世界観をそのまま提示することに意味はないと言う。穂村の発言を敷衍すれば、「えんびつは書きたい鳥は生まれたい」という思いが最初にあったとしても、それをたとえば「鳥は書きたいえんぴつはうまれたい」と無理にでも反転させるところに創作の意味があるということだろう。穂村は定型のなかでつかみとってこられた言葉の衝撃力という点で「五月闇」「開脚の」の方を高く評価している。
十年後の今日の眼で見れば、「えんぴつは」は共感と普遍性に基づいた書き方であり、「五月闇」「開脚の」は言葉の力による書き方のように見える。穂村のよく知られた「共感と驚異」という二分法で言えば、「えんぴつ」は共感の句、「五月闇」「開脚」は驚異の句ということだろう。
では、倉本が「えんぴつは」を評価した根拠は何か。「もちろん、言葉の衝撃力という点ではもっといいのがたくさんあります。でも、等身大の彼女が一番よく表われているのは、やっぱりこれだと思うんです」という発言から、その根拠は「作者」ということになるだろう。作品の背後には作者が貼り付いているというのは、川柳の世界では根強い考え方である。湊はこの倉本発言を「後退した視点」と見る。穂村はテクスト論の話をしているのに倉本の発言は作者論の話になっているからだ。作者から自立した川柳作品の可能性が探られていたこの時期に「等身大の彼女」を根拠とすることは確かに弱点をもつ捉え方である。ただ、「等身大の作者」ではなくて、「作品を通して構築される作者」まで否定できるかどうかはまだ川柳の世界では論議されていない。
問題はこの両傾向の作品が一冊の句集の中に混在していることである。穂村はこんなふうに発言している。
《ぼくは「お母さま」とか「またまちがって動く舌」という方向へどんどん行けばいいのにと思う、結果がどうなるのか、それはわからないけど。〈えんぴつは書きたい鳥は生まれたい〉とか、第一句集の〈にんげんがふたりよりそうさみしいね〉は、ぼくにはどうしてもネガティブにしか見えないんですけど、もしかすると、そこに見えていない価値観っていうのか、川柳の価値観があるのかな。》
これに対して石田柊馬はこう答えている。
《石田 これは、場の要請というか、座の要請、その場によって思考レベルを上下させることが川柳には多くあります。
穂村 場というのは、読者ですか。
石田 句会とか、大会とか、そこに集まる人たち、その理解レベル、読解レベルです。 》
湊はこの発言を的外れだと言っている。確かにテクスト論から言えば的外れだろうが、石田はそう言うしかなかっただろう。短歌の読者と川柳の読者は違う。短歌のような純粋読者は川柳には存在せず、句会・大会で出会う川柳人がそのまま川柳の読者そのものであるからだ。句会・大会ではよほど偏狭な選者でない限り、どのような傾向の作品でも一定以上の水準にある作品であればそれを選ぶだろう。一般論として、そのような習慣が句集の編纂に影響しないとは言えない。
大会・句会の座における多様な価値観が一冊の句集という文学的テクストにまで持ち込まれるのはなぜか。提示されているのは次のような考え方である。
1 石田柊馬の言う「座の要請」あるいは「記録性」という考え方
2 荻原裕幸の言う「地と文(もん)」という考え方
3 穂村弘の言う川柳的価値観(ストレート・アッパー・フックを繰り出す自在感)
この点については最後にもう一度触れる。
穂村はさらに「川柳のアイデンティティ」について質問している。
《穂村 川柳のアイデンティティというか、川柳の生命線というか、俳句から川柳を分けて、なおかつそこに存在意義を与えている本質は何か、ということを明らかにしたいんです。》
川柳性とは何かというのは危険な問いである。
まして、現代川柳史の流れのなかで『脱衣場のアリス』のどこに川柳性があるのか、という問いに答えることは至難の業であろう。「俳句とは何か」という問いに簡単には答えられないように、「川柳とは何か」という問いにもまた簡単には答えられない。無理に簡単に答えようとすれば、「穿ち」と「機知」などという後退した答えになってしまう。石田柊馬の次の指摘は、歴史的な視点からの一つの示唆を与えてくれる。
《石田 昭和三十年代に現代川柳をかなり先鋭的にやってくれた、河野春三や堀豊次さんたちの句集についての考え方は、川柳の句集を出す場合には時系列でありたいという、これは一つの川柳観なんです。かなり大胆な発言ですが、川柳というものを自分に引きつけての発言と思います。一人の人間像としてやっているんですね。》
《穂村 この(=『脱衣場のアリス』の)タイトルといい、冒頭の文といい、読者を誘導しようという意図で付けられている。すると、それはぼくたちがふだん慣れ親しんだ価値観だからよくわかるのだけれど、川柳の句集は時系列でありたいとか、座によって表現が変わってくるっていうのは、見慣れない、聞き慣れない価値観なんです。いつも最高の場を想定して書けばいいじゃないかと思うんです。実際には存在しないほどの最高の場に向けて、最高の言葉で書けばいいんじゃないかと。それで驚異的なものを含まないものは、全部落としてしまえばいいじゃないかと、そういう発想になってしまうんです。》
河野春三を中心とする現代川柳は川柳におけるモダンの確立を目指していたのであり、一人の人間の自己表現であった。そういう川柳観から別の川柳観へと移行するところに『脱衣場のアリス』は生まれたのであり、にもかかわらず作者論の残滓は残っているのである。即ち、「作者の思い」を根拠とする作品と「言葉の強度」を根拠とする作品とが混在するところに、この句集の過渡的性格がうかがえる。現在の時点から見ると、そんなふうに思えるが、ただし、「言葉の強度」だけで成立している一冊の川柳句集はまだ存在しないとも言える。
では、そろそろまとめに入っていこう。
湊圭史は『脱衣場のアリス』を河野春三流の時系列を重視する価値観とは対極にあるものと見ている。一人の人間像ではなく、むしろ統一的人間像が困難になっていくゼロ年代の状況を提示していると見るのだ。では、この句集における「川柳性」はどこにあるのか。穂村が川柳についてイメージしたような自在感を、川柳の根拠として川柳人の言葉として理論的・戦略的に構築していくことを湊は求めているようだ。「最高の場」を固定することなく、場から場へとフットワークを生かしながら、有効打を放っていく自在性が逆に川柳の魅力ではないか、というのが湊の立場である。「こうした自由度を川柳が持つ、というのは、魅力的な視点ではないか」
繰り返すが、湊の文章によって改めて問いかけられているのは、価値観の異なる句が一冊の句集に混在するのは何か、それを許容する川柳的価値観があるのか、そのような「川柳性」とは何か、ということである。この問いに直接答えることは難しいが、一般化したかたちで整理してみる。
1 それは「座の文芸」としての川柳の性格による。「前近代の可能性」という視点はここから派生する。
2 それは川柳が連句の平句をルーツとすることによる。連句の平句における変化、ヴァラエティが川柳にも引き継がれているという湊圭史自身の考え方。
3 それは「川柳の幅」である。「川柳の幅」とは、伝統川柳と革新川柳の混在を抱え込む立場から用いられた言葉であるが、ここでは「作者の思い」を根拠とする作品と「言葉の強度」を根拠とする作品との過渡的なせめぎあいという意味で使用する。
4 場から場へと転じるフットワークの自在さこそ川柳の魅力である。これも湊圭史の考え方による。
5 それは元来、川柳というジャンルが不純物を含み、ひとつの統一的原理からはみ出す領域を常にかかえているからである。これは川柳の弱点ではなく、大きな魅力である。
「川柳性」とは何かという問いに答えることはとても難しい。私が川柳に関心をもった10年以前にも、川柳とは何かという問いに対するヒントとなるのは、石田柊馬の「幻の前句」「前句からの飛躍」論と樋口由紀子の「ことばの力」、渡辺隆夫の「何でもありの五七五」くらいしかなかった。元来、川柳は自律的ジャンル論では割り切れない不純な部分を含む文芸である。どのような規定もそこから大切な部分が抜け落ちてしまう。従来の「川柳性」を規定しようとする論者が失敗したり、複数要素の複合としてしか規定できなかったのはそのためである。石田柊馬が「川柳が川柳であるところの川柳性」とだけ言ってその内実を言おうとしないのは、はぐらかしというより賢明な態度である。
「川柳性」については問い続けられなければならないが、それは戦略的な問いであり、本質的には一人の川柳人が生涯をかけて問い続けるべきものであると思う。
さて、先日そこに掲載された彼の評論〈 現代川柳とは何か?―「なかはられいこと川柳の現在」を読む― 〉は現代川柳の問題点に鋭く切り込む内容となっている。湊はこんなふうに述べている。
〈川柳ジャンルにおいては、「川柳の奥深さ」といった経験則からの実感の吐露か、「誰でも出来る」といった類の一般向けの惹句、また歴史的発展をどこかで止めて割り出したジャンル規定には出くわすものの、現代までの発展に則って現在の社会と対峙するようなジャンル像で説得力のあるものにはなかなかお目にかかれない。〉
〈「長くやれば分かる」という経験一辺倒の姿勢で、新しく参入したものに手掛かりとなるパースペクティヴもまったく見せられないようでは、ジャンルとしての発展も望めないのではないか。要するに、外部を意識した自己省察があまりにもなさ過ぎるのだ。〉
こういう問題意識から彼は、なかはられいこの第二句集『脱衣場のアリス』の巻末対談「なかはられいこと川柳の現在」を取り上げる。この句集は2001年4月に発行されていて、すでに過去の話だろうと思っていたが、今回の湊による読み直しによって巻末対談の現代的意義が甦ったことになる。この対談は本来、なかはらとその句集『アリス』のおもしろさをアピールするためにプロデューサー役の荻原裕幸によって企画されたものであるが、穂村弘というすぐれた表現者の眼にさらされ、川柳とは何かという問いをつきつけられることで、現代川柳全体が強力な外部・他者と向かい合うことになった。ここでは、湊の引用している穂村弘の発言をもう一度たどりながら整理し、最後に湊自身の提言について検討してみることにしたい。
議論の発端は、倉本朝世がこの句集を象徴している一句として「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」を挙げたのに対して、穂村弘がこの句は全然よくないと疑義を呈したところからはじまる。湊も引用している穂村弘の発言を改めて確認してみよう。
《この句の「鳥」の持っている衝撃力と、さっきあげていた、〈五月闇またまちがって動く舌〉の「舌」が持っている衝撃力では、もう格段に「舌」の方が強いと思うんです。あるいは、
開脚の踵にあたるお母さま
という句の「お母さま」が持っている衝撃力は、もしそれを測る装置があれば、非情に高い値になると思うんです。》
《これは想像なんですが、「またまちがって動く舌」とか、「踵にあたるお母さま」という句は、フォルムの要請というか、定型で書いてこられて、その中でつかんできた言葉なんじゃないか。それに対して「えんぴつは」の句は初めから持ってらしたある世界観みたいなものではないでしょうか。》
《ぼくはこういう内容がいけないとは思わないけど、これをフォルムの中で提示されたときに、まったく反論の余地がないという点で、逆に意味がないんじゃないかというふうに思うんです。》
ここで例句として取り上げられているのは次の3句である。
えんぴつは書きたい鳥は生まれたい
五月闇またまちがって動く舌
開脚の踵にあたるお母さま
「えんぴつは」の句は作句のモチーフそのものである。倉本はこれをなかはらの現在を象徴する句だと見ており、また、「五月闇」については季語を川柳ではこういうふうに使えるんだよと提示している点を評価する。一方、穂村は作者の世界観をそのまま提示することに意味はないと言う。穂村の発言を敷衍すれば、「えんびつは書きたい鳥は生まれたい」という思いが最初にあったとしても、それをたとえば「鳥は書きたいえんぴつはうまれたい」と無理にでも反転させるところに創作の意味があるということだろう。穂村は定型のなかでつかみとってこられた言葉の衝撃力という点で「五月闇」「開脚の」の方を高く評価している。
十年後の今日の眼で見れば、「えんぴつは」は共感と普遍性に基づいた書き方であり、「五月闇」「開脚の」は言葉の力による書き方のように見える。穂村のよく知られた「共感と驚異」という二分法で言えば、「えんぴつ」は共感の句、「五月闇」「開脚」は驚異の句ということだろう。
では、倉本が「えんぴつは」を評価した根拠は何か。「もちろん、言葉の衝撃力という点ではもっといいのがたくさんあります。でも、等身大の彼女が一番よく表われているのは、やっぱりこれだと思うんです」という発言から、その根拠は「作者」ということになるだろう。作品の背後には作者が貼り付いているというのは、川柳の世界では根強い考え方である。湊はこの倉本発言を「後退した視点」と見る。穂村はテクスト論の話をしているのに倉本の発言は作者論の話になっているからだ。作者から自立した川柳作品の可能性が探られていたこの時期に「等身大の彼女」を根拠とすることは確かに弱点をもつ捉え方である。ただ、「等身大の作者」ではなくて、「作品を通して構築される作者」まで否定できるかどうかはまだ川柳の世界では論議されていない。
問題はこの両傾向の作品が一冊の句集の中に混在していることである。穂村はこんなふうに発言している。
《ぼくは「お母さま」とか「またまちがって動く舌」という方向へどんどん行けばいいのにと思う、結果がどうなるのか、それはわからないけど。〈えんぴつは書きたい鳥は生まれたい〉とか、第一句集の〈にんげんがふたりよりそうさみしいね〉は、ぼくにはどうしてもネガティブにしか見えないんですけど、もしかすると、そこに見えていない価値観っていうのか、川柳の価値観があるのかな。》
これに対して石田柊馬はこう答えている。
《石田 これは、場の要請というか、座の要請、その場によって思考レベルを上下させることが川柳には多くあります。
穂村 場というのは、読者ですか。
石田 句会とか、大会とか、そこに集まる人たち、その理解レベル、読解レベルです。 》
湊はこの発言を的外れだと言っている。確かにテクスト論から言えば的外れだろうが、石田はそう言うしかなかっただろう。短歌の読者と川柳の読者は違う。短歌のような純粋読者は川柳には存在せず、句会・大会で出会う川柳人がそのまま川柳の読者そのものであるからだ。句会・大会ではよほど偏狭な選者でない限り、どのような傾向の作品でも一定以上の水準にある作品であればそれを選ぶだろう。一般論として、そのような習慣が句集の編纂に影響しないとは言えない。
大会・句会の座における多様な価値観が一冊の句集という文学的テクストにまで持ち込まれるのはなぜか。提示されているのは次のような考え方である。
1 石田柊馬の言う「座の要請」あるいは「記録性」という考え方
2 荻原裕幸の言う「地と文(もん)」という考え方
3 穂村弘の言う川柳的価値観(ストレート・アッパー・フックを繰り出す自在感)
この点については最後にもう一度触れる。
穂村はさらに「川柳のアイデンティティ」について質問している。
《穂村 川柳のアイデンティティというか、川柳の生命線というか、俳句から川柳を分けて、なおかつそこに存在意義を与えている本質は何か、ということを明らかにしたいんです。》
川柳性とは何かというのは危険な問いである。
まして、現代川柳史の流れのなかで『脱衣場のアリス』のどこに川柳性があるのか、という問いに答えることは至難の業であろう。「俳句とは何か」という問いに簡単には答えられないように、「川柳とは何か」という問いにもまた簡単には答えられない。無理に簡単に答えようとすれば、「穿ち」と「機知」などという後退した答えになってしまう。石田柊馬の次の指摘は、歴史的な視点からの一つの示唆を与えてくれる。
《石田 昭和三十年代に現代川柳をかなり先鋭的にやってくれた、河野春三や堀豊次さんたちの句集についての考え方は、川柳の句集を出す場合には時系列でありたいという、これは一つの川柳観なんです。かなり大胆な発言ですが、川柳というものを自分に引きつけての発言と思います。一人の人間像としてやっているんですね。》
《穂村 この(=『脱衣場のアリス』の)タイトルといい、冒頭の文といい、読者を誘導しようという意図で付けられている。すると、それはぼくたちがふだん慣れ親しんだ価値観だからよくわかるのだけれど、川柳の句集は時系列でありたいとか、座によって表現が変わってくるっていうのは、見慣れない、聞き慣れない価値観なんです。いつも最高の場を想定して書けばいいじゃないかと思うんです。実際には存在しないほどの最高の場に向けて、最高の言葉で書けばいいんじゃないかと。それで驚異的なものを含まないものは、全部落としてしまえばいいじゃないかと、そういう発想になってしまうんです。》
河野春三を中心とする現代川柳は川柳におけるモダンの確立を目指していたのであり、一人の人間の自己表現であった。そういう川柳観から別の川柳観へと移行するところに『脱衣場のアリス』は生まれたのであり、にもかかわらず作者論の残滓は残っているのである。即ち、「作者の思い」を根拠とする作品と「言葉の強度」を根拠とする作品とが混在するところに、この句集の過渡的性格がうかがえる。現在の時点から見ると、そんなふうに思えるが、ただし、「言葉の強度」だけで成立している一冊の川柳句集はまだ存在しないとも言える。
では、そろそろまとめに入っていこう。
湊圭史は『脱衣場のアリス』を河野春三流の時系列を重視する価値観とは対極にあるものと見ている。一人の人間像ではなく、むしろ統一的人間像が困難になっていくゼロ年代の状況を提示していると見るのだ。では、この句集における「川柳性」はどこにあるのか。穂村が川柳についてイメージしたような自在感を、川柳の根拠として川柳人の言葉として理論的・戦略的に構築していくことを湊は求めているようだ。「最高の場」を固定することなく、場から場へとフットワークを生かしながら、有効打を放っていく自在性が逆に川柳の魅力ではないか、というのが湊の立場である。「こうした自由度を川柳が持つ、というのは、魅力的な視点ではないか」
繰り返すが、湊の文章によって改めて問いかけられているのは、価値観の異なる句が一冊の句集に混在するのは何か、それを許容する川柳的価値観があるのか、そのような「川柳性」とは何か、ということである。この問いに直接答えることは難しいが、一般化したかたちで整理してみる。
1 それは「座の文芸」としての川柳の性格による。「前近代の可能性」という視点はここから派生する。
2 それは川柳が連句の平句をルーツとすることによる。連句の平句における変化、ヴァラエティが川柳にも引き継がれているという湊圭史自身の考え方。
3 それは「川柳の幅」である。「川柳の幅」とは、伝統川柳と革新川柳の混在を抱え込む立場から用いられた言葉であるが、ここでは「作者の思い」を根拠とする作品と「言葉の強度」を根拠とする作品との過渡的なせめぎあいという意味で使用する。
4 場から場へと転じるフットワークの自在さこそ川柳の魅力である。これも湊圭史の考え方による。
5 それは元来、川柳というジャンルが不純物を含み、ひとつの統一的原理からはみ出す領域を常にかかえているからである。これは川柳の弱点ではなく、大きな魅力である。
「川柳性」とは何かという問いに答えることはとても難しい。私が川柳に関心をもった10年以前にも、川柳とは何かという問いに対するヒントとなるのは、石田柊馬の「幻の前句」「前句からの飛躍」論と樋口由紀子の「ことばの力」、渡辺隆夫の「何でもありの五七五」くらいしかなかった。元来、川柳は自律的ジャンル論では割り切れない不純な部分を含む文芸である。どのような規定もそこから大切な部分が抜け落ちてしまう。従来の「川柳性」を規定しようとする論者が失敗したり、複数要素の複合としてしか規定できなかったのはそのためである。石田柊馬が「川柳が川柳であるところの川柳性」とだけ言ってその内実を言おうとしないのは、はぐらかしというより賢明な態度である。
「川柳性」については問い続けられなければならないが、それは戦略的な問いであり、本質的には一人の川柳人が生涯をかけて問い続けるべきものであると思う。
2010年9月17日金曜日
川柳木馬の30年
来る9月19日(日)、高知で「第2回川柳木馬大会」が開催される。2004年5月の第1回大会から6年ぶりに開かれることになる。大会の様子は事後報告されることになるだろうが、現代川柳の一角に重要な足跡を残してきた「川柳木馬ぐるーぷ」の30年の歩みを改めて振り返りながら、この大会に臨みたい。
高知の「川柳木馬」は昭和54年(1979年)に設立された。
高知では若手の川柳グループ「四季の会」というのがあったらしい。昭和53年秋、田中好啓、橘高薫風が高知を訪れ、海地大破・北村泰章らと歓談しているうちに「高知から新しい柳誌を出してはどうか」という話になったという。大破はすでに「いずみの会」(昭和42年結成)のメンバーとして、田中・橘高らと交流があった。「川柳木馬」は「四季の会」を母胎に昭和54年7月に創刊。創立理念は「川柳の文学性と柳論の確立」「陋習の打破と個性の尊重」であった。
創刊同人は山下比呂与・海地大破・久保内あつ子・土居富美子・西川富江・太田周作・村長虹子・北村泰章・古谷恭一・津野和代・石建嘉美。発行人・海地大破、編集人・北村泰章をはじめ古谷恭一、西川富江(会計)などの意欲と実力のある若い柳人たちの出発であった。
創刊号は残念ながら見たことがないが、私の手元にあるのは創刊1年後の第5号である。巻頭言「昨日・今日・明日」で海地大破はこんなふうに書いている。
〈 木馬ぐるーぷは創立一周年を迎えた。
「木馬」は、県内柳人に祝福されて誕生したとはけっしていえない。むしろ異端者として受難の一歩をしるしたのである。しかし私たちは主義主張を超越して、古川柳から現代川柳に至るまでの歴史を振り返り、明日の川柳を確立するために、作品の質の向上と理論の体系化をめざしてお互いに切磋琢磨し、川柳に対する社会通念を払拭していかなければならない。 〉
同じ号には「創立一周年記念座談会」が掲載されていて、発刊1年の時点での展望と反省がまとめられている。座談会の出席者は大破・富江・泰章・恭一の4人。ここでは、木馬創刊によって得られたものとして「他ジャンルとの交流ができたこと」「中央柳界との交流が深まったこと」が挙げられている。
ここで改めて問うことにしよう。「川柳木馬ぐるーぷ」は何を目指していたのか。
1 川柳の文学性と柳論の確立
2 陋習の打破と個性の確立
3 他ジャンルとの交流
4 中央柳界との交流
いずれも現代川柳にとって不可欠の理念であり、いまでも色褪せないテーマである。これだけ高い理念を掲げる川柳誌はそうあるものではない。「中央柳界との交流」という点に関しては、「川柳界」が崩壊あるいは曖昧化し、中央と地方という対立軸が相対化した現在では、状況の変化があるかもしれない。いまは、各地のグループがゆるやかなネットワークで繋がりながら、それぞれの川柳活動を進めていく時代である。
さて、理念は理念として、実際の川柳活動を担うのは人である。海地大破を中心にして、高校教師という教育者の顔をもつ北村泰章、無頼派の一面をもつ古谷恭一、それぞれ個性的というかツワモノ揃いというか、独特の存在感をもっていたのだ。
彼らは高知の地方作家というわけではない。大破は「川柳展望」の創立会員であったし、泰章は京都の「平安川柳社」を通じてのネットワークをもっていた。また、恭一は俳人・たむらちせいとの交流など俳人としての一面も持っている。文学的志向性が強いのである。
「昭和2桁生まれの作家群像」が始まったのは、第13号(昭和57年7月)からである。第1回は「酒谷愛郷篇」。寺尾俊平と泉淳夫が作家論を書いている。以下、第2回「村上秋善篇」、第3回「岩村憲篇」と続き、「木馬」誌の看板シリーズとなっていく。
この連載は、2001年に『現代川柳の群像』上下2巻にまとめられた。計52人の現代川柳作家の作品とそれぞれの作家について二編ずつの作家論がまとめられている。資料的にも価値の高いものである。このシリーズは現在の「木馬」誌では「作家群像」とタイトルを変えて続いている。
大破・泰章・恭一はまた次世代の川柳人を育てることにも成功した。「木馬」には清水かおり、山本三香子、高橋由美などの個性的な女流川柳人がいて、それぞれ存在感を発揮している。
たとえば高橋由美は「川柳木馬」83号(平成12年春)の巻頭言で、〈 三十も後半の私を捕まえて、『若い世代』などと銘打ってくれるな。これほどまでに老いてしまった世界をもっと嘆こう 〉とタンカをきり、全国の柳人の度肝を抜いたのであった。
2007年8月、北村泰章が急逝した。木馬同人はその悲しみを乗り越えて、発行人・古谷恭一、編集人・清水かおりという体制で再スタートしている。北村泰章時代にあった「新刊紹介」「いほり」(同人の動きを中心とした川柳界の情報)「声」(読者の感想)の欄を廃止し、誌面がよりシンプルになった。川柳の内実だけを問う姿勢が感じられる。
「川柳木馬」は2009年10月に30周年記念合併号を出し、現在創刊31年目に入っている。
30年を越えるこのぐるーぷに、もし「木馬精神」とでも言うべきものがあるとすれば、それは何であろうか。海地大破の言葉を二つ並べてみよう。
〈今後は、「木馬」が権威主義に陥らないよう戒めるとともに、明日に向かって大きくはばたくために、若い力を結集して、一歩ずつ確実に前進していきたいと願っているのである〉「川柳木馬」第5号
〈才能は好むと好まざるとにかかわらず必ず衰えていくものなのです。衰えと気づいたときには、スムーズに世代交替を図っていくことが川柳の発展に繋っていくのではないでしょうか。作品本位から遠くはずれた所での権力の座への執着は、川柳を後退させるばかりでなく、混乱を招く結果にもなります〉「創」第14号
この人には権力に執着することへの羞恥とでもいうべき反権力的志向がある。
また、古谷恭一も「川柳木馬」最新号(125号)の巻頭言で、次のように述べている。
〈『川柳木馬』も三十年という節目を越えてしまったが、文芸といえども、企業と同じく、人材の若返り、自己変革なしには、当然、衰退の一途を辿って行くように思われる。前例主義や世間体にこだわることなく、前身『木馬』と違った生き方も必要であろう〉
現在、「川柳木馬」を牽引している清水かおりは、「バックストローク」だけではなく、新誌「Leaf」の創刊同人となるなど、多方面で活躍している。
昨年、俳句界で話題になった『新撰21』(邑書林)は若手俳人のアンソロジーであるが、今秋にはその続編として『超新撰21』が刊行されることになっている。清水かおりは俳人たちに混じってただ一人川柳人として21人の中に選ばれている。そのことは、彼女の作品が川柳というジャンルを越えて広く短詩型文学の中でテクストとして読まれていく契機となるだろう。言っておくが、俳句作品と並んで、ことばの力だけで伍していくことにはさまざまな困難が伴うだろう。川柳界の中だけにいる方がよほど安全無事なのである。けれども、清水かおりの軌跡は何も川柳のためではなく、彼女自身の自然な道程なのである。
大破・泰章・恭一から清水かおりへと受け継がれる権威主義を嫌う木馬精神は、これからも現代川柳に一石を投じ続けていくことだろう。
高知の「川柳木馬」は昭和54年(1979年)に設立された。
高知では若手の川柳グループ「四季の会」というのがあったらしい。昭和53年秋、田中好啓、橘高薫風が高知を訪れ、海地大破・北村泰章らと歓談しているうちに「高知から新しい柳誌を出してはどうか」という話になったという。大破はすでに「いずみの会」(昭和42年結成)のメンバーとして、田中・橘高らと交流があった。「川柳木馬」は「四季の会」を母胎に昭和54年7月に創刊。創立理念は「川柳の文学性と柳論の確立」「陋習の打破と個性の尊重」であった。
創刊同人は山下比呂与・海地大破・久保内あつ子・土居富美子・西川富江・太田周作・村長虹子・北村泰章・古谷恭一・津野和代・石建嘉美。発行人・海地大破、編集人・北村泰章をはじめ古谷恭一、西川富江(会計)などの意欲と実力のある若い柳人たちの出発であった。
創刊号は残念ながら見たことがないが、私の手元にあるのは創刊1年後の第5号である。巻頭言「昨日・今日・明日」で海地大破はこんなふうに書いている。
〈 木馬ぐるーぷは創立一周年を迎えた。
「木馬」は、県内柳人に祝福されて誕生したとはけっしていえない。むしろ異端者として受難の一歩をしるしたのである。しかし私たちは主義主張を超越して、古川柳から現代川柳に至るまでの歴史を振り返り、明日の川柳を確立するために、作品の質の向上と理論の体系化をめざしてお互いに切磋琢磨し、川柳に対する社会通念を払拭していかなければならない。 〉
同じ号には「創立一周年記念座談会」が掲載されていて、発刊1年の時点での展望と反省がまとめられている。座談会の出席者は大破・富江・泰章・恭一の4人。ここでは、木馬創刊によって得られたものとして「他ジャンルとの交流ができたこと」「中央柳界との交流が深まったこと」が挙げられている。
ここで改めて問うことにしよう。「川柳木馬ぐるーぷ」は何を目指していたのか。
1 川柳の文学性と柳論の確立
2 陋習の打破と個性の確立
3 他ジャンルとの交流
4 中央柳界との交流
いずれも現代川柳にとって不可欠の理念であり、いまでも色褪せないテーマである。これだけ高い理念を掲げる川柳誌はそうあるものではない。「中央柳界との交流」という点に関しては、「川柳界」が崩壊あるいは曖昧化し、中央と地方という対立軸が相対化した現在では、状況の変化があるかもしれない。いまは、各地のグループがゆるやかなネットワークで繋がりながら、それぞれの川柳活動を進めていく時代である。
さて、理念は理念として、実際の川柳活動を担うのは人である。海地大破を中心にして、高校教師という教育者の顔をもつ北村泰章、無頼派の一面をもつ古谷恭一、それぞれ個性的というかツワモノ揃いというか、独特の存在感をもっていたのだ。
彼らは高知の地方作家というわけではない。大破は「川柳展望」の創立会員であったし、泰章は京都の「平安川柳社」を通じてのネットワークをもっていた。また、恭一は俳人・たむらちせいとの交流など俳人としての一面も持っている。文学的志向性が強いのである。
「昭和2桁生まれの作家群像」が始まったのは、第13号(昭和57年7月)からである。第1回は「酒谷愛郷篇」。寺尾俊平と泉淳夫が作家論を書いている。以下、第2回「村上秋善篇」、第3回「岩村憲篇」と続き、「木馬」誌の看板シリーズとなっていく。
この連載は、2001年に『現代川柳の群像』上下2巻にまとめられた。計52人の現代川柳作家の作品とそれぞれの作家について二編ずつの作家論がまとめられている。資料的にも価値の高いものである。このシリーズは現在の「木馬」誌では「作家群像」とタイトルを変えて続いている。
大破・泰章・恭一はまた次世代の川柳人を育てることにも成功した。「木馬」には清水かおり、山本三香子、高橋由美などの個性的な女流川柳人がいて、それぞれ存在感を発揮している。
たとえば高橋由美は「川柳木馬」83号(平成12年春)の巻頭言で、〈 三十も後半の私を捕まえて、『若い世代』などと銘打ってくれるな。これほどまでに老いてしまった世界をもっと嘆こう 〉とタンカをきり、全国の柳人の度肝を抜いたのであった。
2007年8月、北村泰章が急逝した。木馬同人はその悲しみを乗り越えて、発行人・古谷恭一、編集人・清水かおりという体制で再スタートしている。北村泰章時代にあった「新刊紹介」「いほり」(同人の動きを中心とした川柳界の情報)「声」(読者の感想)の欄を廃止し、誌面がよりシンプルになった。川柳の内実だけを問う姿勢が感じられる。
「川柳木馬」は2009年10月に30周年記念合併号を出し、現在創刊31年目に入っている。
30年を越えるこのぐるーぷに、もし「木馬精神」とでも言うべきものがあるとすれば、それは何であろうか。海地大破の言葉を二つ並べてみよう。
〈今後は、「木馬」が権威主義に陥らないよう戒めるとともに、明日に向かって大きくはばたくために、若い力を結集して、一歩ずつ確実に前進していきたいと願っているのである〉「川柳木馬」第5号
〈才能は好むと好まざるとにかかわらず必ず衰えていくものなのです。衰えと気づいたときには、スムーズに世代交替を図っていくことが川柳の発展に繋っていくのではないでしょうか。作品本位から遠くはずれた所での権力の座への執着は、川柳を後退させるばかりでなく、混乱を招く結果にもなります〉「創」第14号
この人には権力に執着することへの羞恥とでもいうべき反権力的志向がある。
また、古谷恭一も「川柳木馬」最新号(125号)の巻頭言で、次のように述べている。
〈『川柳木馬』も三十年という節目を越えてしまったが、文芸といえども、企業と同じく、人材の若返り、自己変革なしには、当然、衰退の一途を辿って行くように思われる。前例主義や世間体にこだわることなく、前身『木馬』と違った生き方も必要であろう〉
現在、「川柳木馬」を牽引している清水かおりは、「バックストローク」だけではなく、新誌「Leaf」の創刊同人となるなど、多方面で活躍している。
昨年、俳句界で話題になった『新撰21』(邑書林)は若手俳人のアンソロジーであるが、今秋にはその続編として『超新撰21』が刊行されることになっている。清水かおりは俳人たちに混じってただ一人川柳人として21人の中に選ばれている。そのことは、彼女の作品が川柳というジャンルを越えて広く短詩型文学の中でテクストとして読まれていく契機となるだろう。言っておくが、俳句作品と並んで、ことばの力だけで伍していくことにはさまざまな困難が伴うだろう。川柳界の中だけにいる方がよほど安全無事なのである。けれども、清水かおりの軌跡は何も川柳のためではなく、彼女自身の自然な道程なのである。
大破・泰章・恭一から清水かおりへと受け継がれる権威主義を嫌う木馬精神は、これからも現代川柳に一石を投じ続けていくことだろう。
2010年9月10日金曜日
川柳の未来
「俳句空間 豈」50号が「21世紀を語ろう 10年目の検証」「21世紀の俳句を占う」という特集を行っている。21世紀の俳句を占い、俳句の未来を考える、という趣旨のようだ。
「10年目の検証」では次のような文章が印象に残った。
〈 二十一世紀の俳句を占うというテーマに即して結論を先にいうならば、二十一世紀といえども人生が豊かになるような気付きをもたらす俳句という詩型の力は揺るぎないということである。それだけ五・七・五、十七音の詩型は強固であり、究極の短詩型として成熟していると思うのである 〉(牛田修嗣)
〈 現代を詠むとは、例えば「地下鉄サリン事件」そのものを詠むことではなく、「地下鉄サリン事件」を背景に「切実な自己」を詠むことだ 〉(柴田千晶)
前者は、俳句形式に対する揺るぎない信頼を代表する意見。後者は、時代と私性との関係についての意見である。一般にこの特集では前者のような意見が多かったが、それは単なる信仰告白のようなもので、俳句の門外漢にとってはそれほど興味をもてなかった。短詩型に関心のある者にとって共通の問題意識となりうるのは、後者のような視点である。
「週刊俳句」173号の「豈50号を読む」で野口裕はこの特集について、〈 若い頃、富士正晴の文章を読みすぎたせいか、ことあるごとに彼の小説のタイトル「どうなとなれ」が頭の中で響いて困る。こんな特集はなおさらのところがある 〉と述べている。
「俳句の未来」についてなら「どうなとなれ」でもいいのだが、翻って、「川柳の未来」について考えてみると、そう言ってもいられない。
いささか旧聞に属するが、6月6日に青森で開催された「川柳ステーション2010」(おかじょうき川柳社)のトークセッションでは「川柳に未来はあるのか?」というテーマが掲げられた。発表誌「おかじょうき」7月号を読むと、パネラーの畑美樹が次のような発言をしている。
〈 川柳に未来はあるのかと言うことですが、人的な若さ、いわゆる世代交代のことと、川柳そのものの未来ということの二つのことがあると思います 〉
一番目の問題「人的な若さ」「世代交代」とは、たぶん川柳人の高齢化とか、結社の後継者不足とか、若い世代にどうやって川柳に関心を持ってもらうか、とかいう問題だろう。二番目の問題「川柳そのものの未来」とは、現代川柳が今後どのように展開していくか、川柳のことばはどうなっていくか、川柳という形式に新しい表現領域の可能性があるか、などの問いであろう。二番目の問いを抜きにして、いきなり一番目の問いを問題にするところに現在の川柳界の傾向が見られる。結社経営と経済の問題はここから出てくる。けれども、本質的なのは第二の問いであり、これに正面から応えるようなシンポジウムはほとんど見られない。多くの場合、「川柳の未来は大丈夫」という根拠のない楽観論で終わってしまうのである。
多くの川柳人は啓蒙主義的な川柳観をもっているふしがある。
即ち、川柳はおもしろいのだが、そのおもしろさが十分普及していないから、特に若い世代の人に川柳のおもしろさをアピールしていかなくてはならない、という考え方である。けれども、川柳は本当におもしろいのだろうか。本当におもしろければ、放っておいても一定数の十代・二十代の人たちが参加してくるはずではないか。
啓蒙主義的な川柳観を乗り越えて、冷徹に川柳形式を見直したときに、真の意味での危機意識が生まれてくる。川柳というジャンルなり詩形が未来にわたって生命力を持ち続けるかどうか、という問題である。文芸としての刺激に乏しいジャンルはいずれ滅亡するほかはないだろう。石田柊馬の「最後の川柳ランナー」論はそこから出てくる。
次の世代に川柳のバトンを渡していく。ところが、渡そうとしても次の走者が誰もいない…誰だってそんな悲惨な目にはあいたくないだろう。
「川柳の未来」― 富士正晴にならって、「どうなとなれ」と言いたくなってきたが、蛇足を続ける。
ゼロ年代以降、川柳にニュー・ウェイヴが起こり多様化が加速した。
それは同時に、現代川柳が川柳界だけではなくて、短詩型文学全体に向けて発信する動きでもあった。
クローズドからオープンへ。
文芸としての刺激は他ジャンルとの交流の中で川柳を問い直すことから生まれるものだろう。川柳の未来は川柳だけを考えていても見出しにくいものである。川柳もまた短詩型文学全体の動きと連動している。
一方で、川柳の未来を問うことは、川柳の現在位置を問うことでもある。いま求められているのは、新しい現代川柳史だろう。
座の文芸として句会・大会を楽しむこと、外に向かって川柳をアピールしていくこと、川柳が作者の手から離れてテクストとして自律すること、近代・現代川柳のアンソロジーを作ること、川柳において批評が一定の役割を果たすこと。川柳の世界でなされるべきことはまだいろいろあるはずだ。そういう意味では、川柳はまだ行き詰まってはいない、と言っていいかも知れない。
「10年目の検証」では次のような文章が印象に残った。
〈 二十一世紀の俳句を占うというテーマに即して結論を先にいうならば、二十一世紀といえども人生が豊かになるような気付きをもたらす俳句という詩型の力は揺るぎないということである。それだけ五・七・五、十七音の詩型は強固であり、究極の短詩型として成熟していると思うのである 〉(牛田修嗣)
〈 現代を詠むとは、例えば「地下鉄サリン事件」そのものを詠むことではなく、「地下鉄サリン事件」を背景に「切実な自己」を詠むことだ 〉(柴田千晶)
前者は、俳句形式に対する揺るぎない信頼を代表する意見。後者は、時代と私性との関係についての意見である。一般にこの特集では前者のような意見が多かったが、それは単なる信仰告白のようなもので、俳句の門外漢にとってはそれほど興味をもてなかった。短詩型に関心のある者にとって共通の問題意識となりうるのは、後者のような視点である。
「週刊俳句」173号の「豈50号を読む」で野口裕はこの特集について、〈 若い頃、富士正晴の文章を読みすぎたせいか、ことあるごとに彼の小説のタイトル「どうなとなれ」が頭の中で響いて困る。こんな特集はなおさらのところがある 〉と述べている。
「俳句の未来」についてなら「どうなとなれ」でもいいのだが、翻って、「川柳の未来」について考えてみると、そう言ってもいられない。
いささか旧聞に属するが、6月6日に青森で開催された「川柳ステーション2010」(おかじょうき川柳社)のトークセッションでは「川柳に未来はあるのか?」というテーマが掲げられた。発表誌「おかじょうき」7月号を読むと、パネラーの畑美樹が次のような発言をしている。
〈 川柳に未来はあるのかと言うことですが、人的な若さ、いわゆる世代交代のことと、川柳そのものの未来ということの二つのことがあると思います 〉
一番目の問題「人的な若さ」「世代交代」とは、たぶん川柳人の高齢化とか、結社の後継者不足とか、若い世代にどうやって川柳に関心を持ってもらうか、とかいう問題だろう。二番目の問題「川柳そのものの未来」とは、現代川柳が今後どのように展開していくか、川柳のことばはどうなっていくか、川柳という形式に新しい表現領域の可能性があるか、などの問いであろう。二番目の問いを抜きにして、いきなり一番目の問いを問題にするところに現在の川柳界の傾向が見られる。結社経営と経済の問題はここから出てくる。けれども、本質的なのは第二の問いであり、これに正面から応えるようなシンポジウムはほとんど見られない。多くの場合、「川柳の未来は大丈夫」という根拠のない楽観論で終わってしまうのである。
多くの川柳人は啓蒙主義的な川柳観をもっているふしがある。
即ち、川柳はおもしろいのだが、そのおもしろさが十分普及していないから、特に若い世代の人に川柳のおもしろさをアピールしていかなくてはならない、という考え方である。けれども、川柳は本当におもしろいのだろうか。本当におもしろければ、放っておいても一定数の十代・二十代の人たちが参加してくるはずではないか。
啓蒙主義的な川柳観を乗り越えて、冷徹に川柳形式を見直したときに、真の意味での危機意識が生まれてくる。川柳というジャンルなり詩形が未来にわたって生命力を持ち続けるかどうか、という問題である。文芸としての刺激に乏しいジャンルはいずれ滅亡するほかはないだろう。石田柊馬の「最後の川柳ランナー」論はそこから出てくる。
次の世代に川柳のバトンを渡していく。ところが、渡そうとしても次の走者が誰もいない…誰だってそんな悲惨な目にはあいたくないだろう。
「川柳の未来」― 富士正晴にならって、「どうなとなれ」と言いたくなってきたが、蛇足を続ける。
ゼロ年代以降、川柳にニュー・ウェイヴが起こり多様化が加速した。
それは同時に、現代川柳が川柳界だけではなくて、短詩型文学全体に向けて発信する動きでもあった。
クローズドからオープンへ。
文芸としての刺激は他ジャンルとの交流の中で川柳を問い直すことから生まれるものだろう。川柳の未来は川柳だけを考えていても見出しにくいものである。川柳もまた短詩型文学全体の動きと連動している。
一方で、川柳の未来を問うことは、川柳の現在位置を問うことでもある。いま求められているのは、新しい現代川柳史だろう。
座の文芸として句会・大会を楽しむこと、外に向かって川柳をアピールしていくこと、川柳が作者の手から離れてテクストとして自律すること、近代・現代川柳のアンソロジーを作ること、川柳において批評が一定の役割を果たすこと。川柳の世界でなされるべきことはまだいろいろあるはずだ。そういう意味では、川柳はまだ行き詰まってはいない、と言っていいかも知れない。
2010年9月3日金曜日
ねむらん会小史
8月28日に和気鵜飼谷温泉で、「第5回ねむらん会」が開催され、21名が参加した。今回は時評とは少し異なるが、この会の歩みについてレポートしてみたい。
2002年2月、西大寺川柳大会の折に、石田柊馬・田中博造・前田一石・石部明・樋口由紀子の5人は川柳の昔話で盛り上がっていた。その中に、京都の平安川柳社の徹夜句会の話題があり、そのおもしろさを石田柊馬は少年のように眼を輝かせて語った。それでは、眠らないで川柳を遊びながら作る会を開いてみようと、一気に話がまとまったという。
第1回は2002年8月24日に和気鵜飼谷温泉で開催。参加者16名。
第一部は前田一石による句会。「ぎりぎり」「だけど」「たそがれ」の兼題とイメージ吟。ここまでは真面目な句会である。
第二部が石田柊馬による句会。紅白に分かれてチームを作り、キャプテンは赤組・田中博造、白組・石田柊馬。ゲームごとに得点を入れていき、勝敗を競う。勝ち負けがからむと眠気ざましにもなる。
まず始まったのが紙切りゲームで、一枚の新聞紙でどれだけ長いものを作れるかという競争である。続いて、現代詩を書く、スプーンレース、短歌を書く、などがあり、いよいよ恐怖の「三分間吟」が始まる。
恨んだら百円ショップへ行こう 畑美樹
人形を越えて人形病んでいる 松永千秋
花火あげようかコロッケ食べようか 樋口由紀子
血管の太い九月を逆上がり 駒木根ギイ
戦いのまず座布団を放り投げ 石部明
三十秒たつと鼻はふくらむぞ 石田柊馬
美術館の入場券はバナナです 井出節
翌日は、閑谷学校を観光した。第1回参加の井出節さんは、その後死去されたのが惜しまれる。
第2回は2004年8月28日、場所は同じく和気鵜飼谷温泉。参加者14名。
このときの記録が見つからないので詳細は不明。翌日は伊部を訪れ、備前陶芸美術館などを散策した。
第3回は、2006年8月19日、犬島。参加者19名。岡山県西大寺の小さな漁村から船に乗る。船中でさっそく課題吟「いざなう」が出される。10分で犬島に到着。大正時代には銅の精錬所が繁栄したというが、その跡地は廃墟のようになっている。島は現在、キャンプ場や海水浴で夏場にはけっこう観光客も来るという。
この年の企画で印象的だったのは、『悪魔の辞典』にならって「桜」「うどん」「酒」「台風」などを考えたこと。
桜 日本人で良かったと思わせるために靖国が増やしているもの。
酒 人生という砂漠を越えてきた旅人が一番最初に欲しがる液体。ただし量をすぎると友人を 失うこともあるので注意。
台風 何度も北極点に到着しようと試みるが、ついに一度も成功したことのないひねくれ者。
第4回は2008年8月23日、会場を再び和気鵜飼谷温泉に戻して開催。参加者16名。この時のことは「週刊俳句」71号に「ねむらん会」参加録を羽田野令と野口裕が書いているので、そちらに譲る。
そして、今回が第5回である。2010年8月28日、和気鵜飼谷温泉にて。参加者21名。
午後3時過ぎにホテルに到着。ちょうど地元の祭の日で、ホテル前は老若男女で賑わっていた。人混みをかき分けてチェックイン。5時に出句締切なので、急いで投句し、入浴をすませる。
夕食前にさっそく恒例の前田一石句会。共選方式である。「ミラクル」(石田柊馬・内田真理子)「和風」(野口裕・小西瞬夏)「ほとり」(松本仁・樋口由紀子)「右も左も」(田中博造・吉澤久良)「ん?」(石部明・畑美樹)、ここまでが兼題。年によってはイメージ吟が出されることもあるが、今回は席題「抜く」(小池正博・松永千秋)であった。
机上のミラクル橋上のミラクル 圭史
妖怪を和風ランチでたいらげる 仁
おじいさんのほとりおばあさんのほとり梟のほとり 柊馬
草刈民代右も左も金属音 彰子
「ん?」には「ん?」で返してくる糞ころがし 多佳子
姉ちゃんを抜くのは絶えずひっかかる あきこ
句会のあと続いて連句に挑戦。
こぼれ萩眠りの精は眠らない 正博
草書体にも吹く秋の風 あきこ
鉄塔とぼくらを汚す青い月 瞬夏
バイク響かせ裏側へ行く 柊馬
里山に埋蔵金があるという 久良
夢の中では西瓜鈴なり 真理子
空蝉の自転車カゴにしがみつき 圭史
不正受給もやむをえぬ仕儀 久良
ばあさんはベッドの下で寝ています 由紀子
赤ずきんやら青ずきんやら 久良
花散って空襲警報鳴り止んで 圭史
連れ立つときは四月一日 柊馬
ここまでで午後7時少し前。ようやく夕食・宴会となる。
午後8時から体操・ゲームタイム。
石田柊馬による頭の体操の出題は、毎回趣向を凝らしているが、今回は「①乗っていた飛行機が墜落するとき作った歌」→「②奇跡的に墜落を免れたときの一句」→「③生還した機長の記者会見での一句」という関連のある課題がおもしろかった。
①落ちてゆく落ちてゆくふっとトンボの目玉になって 千秋
②親指を噛んでしんしんする安堵 瞬夏
③道連れにするにはちょっと多すぎた 由紀子
また、写真を見ながらシナリオを書くという新趣向もあった。
いよいよ三分間吟が始まる。「ボタン」(畑美樹)「屋」(樋口由紀子)「裏」(前田ひろえ)「樹」(吉澤久良)「手首」(湊圭史)「高」(たむらあきこ)「真ん中」(石部明)「雲」(田中博造)「声」(小西瞬夏)「逃げる」(斉藤幸男)「虫」(岩田多佳子)「詐」(野口裕)「サラサラ」(なかむらせつこ)「こつんこつん」(岩根彰子)「椅子」(内田真理子)「爪」(松永千秋)「含む」(小池正博)「血潮」(松本仁)「戸」(石田柊馬)「あ」(前田一石)と次々に席題が出されていく。席題が発表された瞬間からストップウォッチで計られる三分間ひたすら句を書き続ける。軸吟はなし。1人で10句書く人もいる。1句を18秒で書く計算になる。平均5句くらいは書いただろうから、1人当たり100句以上になるだろう。句箋が足りなくなって、選が終った分の没句の裏に書いたりした。「下手な句の裏に書くと、こっちまで下手になる」とぼやく人も。参加者20人だから、5人終ったところで選句と披講。これを4回繰り返す。自分が何を書いたか覚えていられないから、句箋の字を見せられて呼名する人も多い。
このレポートを書くために、秀句を記録しておくつもりだったが、ふと気がつくと作句に夢中になっていて、それどころではなかった。
この三分間吟は無意識を開放して書いているから、本能的な自分の句が出る。普段は推敲によってマンネリ化した自分の癖を直したり、それを越えるものを目指したりするのだが、三分間ではそんな余裕がないから、旧来の自分の句が突然出現したりする。仕方なくそのまま出すのである。
三分間吟が終って、午前5時前に布団にもぐりこんだ。午前7時には起床。前田一石はすでに早朝句会の準備に余念がなかった。
2002年2月、西大寺川柳大会の折に、石田柊馬・田中博造・前田一石・石部明・樋口由紀子の5人は川柳の昔話で盛り上がっていた。その中に、京都の平安川柳社の徹夜句会の話題があり、そのおもしろさを石田柊馬は少年のように眼を輝かせて語った。それでは、眠らないで川柳を遊びながら作る会を開いてみようと、一気に話がまとまったという。
第1回は2002年8月24日に和気鵜飼谷温泉で開催。参加者16名。
第一部は前田一石による句会。「ぎりぎり」「だけど」「たそがれ」の兼題とイメージ吟。ここまでは真面目な句会である。
第二部が石田柊馬による句会。紅白に分かれてチームを作り、キャプテンは赤組・田中博造、白組・石田柊馬。ゲームごとに得点を入れていき、勝敗を競う。勝ち負けがからむと眠気ざましにもなる。
まず始まったのが紙切りゲームで、一枚の新聞紙でどれだけ長いものを作れるかという競争である。続いて、現代詩を書く、スプーンレース、短歌を書く、などがあり、いよいよ恐怖の「三分間吟」が始まる。
恨んだら百円ショップへ行こう 畑美樹
人形を越えて人形病んでいる 松永千秋
花火あげようかコロッケ食べようか 樋口由紀子
血管の太い九月を逆上がり 駒木根ギイ
戦いのまず座布団を放り投げ 石部明
三十秒たつと鼻はふくらむぞ 石田柊馬
美術館の入場券はバナナです 井出節
翌日は、閑谷学校を観光した。第1回参加の井出節さんは、その後死去されたのが惜しまれる。
第2回は2004年8月28日、場所は同じく和気鵜飼谷温泉。参加者14名。
このときの記録が見つからないので詳細は不明。翌日は伊部を訪れ、備前陶芸美術館などを散策した。
第3回は、2006年8月19日、犬島。参加者19名。岡山県西大寺の小さな漁村から船に乗る。船中でさっそく課題吟「いざなう」が出される。10分で犬島に到着。大正時代には銅の精錬所が繁栄したというが、その跡地は廃墟のようになっている。島は現在、キャンプ場や海水浴で夏場にはけっこう観光客も来るという。
この年の企画で印象的だったのは、『悪魔の辞典』にならって「桜」「うどん」「酒」「台風」などを考えたこと。
桜 日本人で良かったと思わせるために靖国が増やしているもの。
酒 人生という砂漠を越えてきた旅人が一番最初に欲しがる液体。ただし量をすぎると友人を 失うこともあるので注意。
台風 何度も北極点に到着しようと試みるが、ついに一度も成功したことのないひねくれ者。
第4回は2008年8月23日、会場を再び和気鵜飼谷温泉に戻して開催。参加者16名。この時のことは「週刊俳句」71号に「ねむらん会」参加録を羽田野令と野口裕が書いているので、そちらに譲る。
そして、今回が第5回である。2010年8月28日、和気鵜飼谷温泉にて。参加者21名。
午後3時過ぎにホテルに到着。ちょうど地元の祭の日で、ホテル前は老若男女で賑わっていた。人混みをかき分けてチェックイン。5時に出句締切なので、急いで投句し、入浴をすませる。
夕食前にさっそく恒例の前田一石句会。共選方式である。「ミラクル」(石田柊馬・内田真理子)「和風」(野口裕・小西瞬夏)「ほとり」(松本仁・樋口由紀子)「右も左も」(田中博造・吉澤久良)「ん?」(石部明・畑美樹)、ここまでが兼題。年によってはイメージ吟が出されることもあるが、今回は席題「抜く」(小池正博・松永千秋)であった。
机上のミラクル橋上のミラクル 圭史
妖怪を和風ランチでたいらげる 仁
おじいさんのほとりおばあさんのほとり梟のほとり 柊馬
草刈民代右も左も金属音 彰子
「ん?」には「ん?」で返してくる糞ころがし 多佳子
姉ちゃんを抜くのは絶えずひっかかる あきこ
句会のあと続いて連句に挑戦。
こぼれ萩眠りの精は眠らない 正博
草書体にも吹く秋の風 あきこ
鉄塔とぼくらを汚す青い月 瞬夏
バイク響かせ裏側へ行く 柊馬
里山に埋蔵金があるという 久良
夢の中では西瓜鈴なり 真理子
空蝉の自転車カゴにしがみつき 圭史
不正受給もやむをえぬ仕儀 久良
ばあさんはベッドの下で寝ています 由紀子
赤ずきんやら青ずきんやら 久良
花散って空襲警報鳴り止んで 圭史
連れ立つときは四月一日 柊馬
ここまでで午後7時少し前。ようやく夕食・宴会となる。
午後8時から体操・ゲームタイム。
石田柊馬による頭の体操の出題は、毎回趣向を凝らしているが、今回は「①乗っていた飛行機が墜落するとき作った歌」→「②奇跡的に墜落を免れたときの一句」→「③生還した機長の記者会見での一句」という関連のある課題がおもしろかった。
①落ちてゆく落ちてゆくふっとトンボの目玉になって 千秋
②親指を噛んでしんしんする安堵 瞬夏
③道連れにするにはちょっと多すぎた 由紀子
また、写真を見ながらシナリオを書くという新趣向もあった。
いよいよ三分間吟が始まる。「ボタン」(畑美樹)「屋」(樋口由紀子)「裏」(前田ひろえ)「樹」(吉澤久良)「手首」(湊圭史)「高」(たむらあきこ)「真ん中」(石部明)「雲」(田中博造)「声」(小西瞬夏)「逃げる」(斉藤幸男)「虫」(岩田多佳子)「詐」(野口裕)「サラサラ」(なかむらせつこ)「こつんこつん」(岩根彰子)「椅子」(内田真理子)「爪」(松永千秋)「含む」(小池正博)「血潮」(松本仁)「戸」(石田柊馬)「あ」(前田一石)と次々に席題が出されていく。席題が発表された瞬間からストップウォッチで計られる三分間ひたすら句を書き続ける。軸吟はなし。1人で10句書く人もいる。1句を18秒で書く計算になる。平均5句くらいは書いただろうから、1人当たり100句以上になるだろう。句箋が足りなくなって、選が終った分の没句の裏に書いたりした。「下手な句の裏に書くと、こっちまで下手になる」とぼやく人も。参加者20人だから、5人終ったところで選句と披講。これを4回繰り返す。自分が何を書いたか覚えていられないから、句箋の字を見せられて呼名する人も多い。
このレポートを書くために、秀句を記録しておくつもりだったが、ふと気がつくと作句に夢中になっていて、それどころではなかった。
この三分間吟は無意識を開放して書いているから、本能的な自分の句が出る。普段は推敲によってマンネリ化した自分の癖を直したり、それを越えるものを目指したりするのだが、三分間ではそんな余裕がないから、旧来の自分の句が突然出現したりする。仕方なくそのまま出すのである。
三分間吟が終って、午前5時前に布団にもぐりこんだ。午前7時には起床。前田一石はすでに早朝句会の準備に余念がなかった。
2010年8月27日金曜日
俳句の難解と川柳の難解
「俳句界」7月号は「この俳句さっぱりわからん?」という特集で、難解句を検証している。その中で関悦史は「在ることは謎、謎は魅惑」で「俳句に限ったことではないが、最終的に大きな謎へと開けていない作品など一度接すれば事足りてしまう。古典と化す作品とは長期に渡り魅惑的なわからなさを産出し続ける作品に他ならない」と述べて、次の四句を挙げている。
階段が無くて海鼠の日暮かな 橋間石
機関車の底まで月明か 馬盥 赤尾兜子
ニュートリノ桃抜けて悲の塊に 石母田星人
百頭女はしゃぎ負はれ蝉氷 竹中宏
これらの句は、しっかりとした難解句であり、一部の川柳誌に取り上げられているような、見る人が見れば難解でも何でもない作品とは異なっている。
関悦史はまたウェブマガジン「週刊俳句」の「俳句時評」(8月15日)で、難解句の話題を続け、「昨日の難解が今日の平易というのは俳句に限ったことではない」「それよりも気にかかるのは詩(俳句)は一義的に理解されるものでなければならない、されるのが当然であるという前提が無意識にあるようだということだ」と述べ、次のように結論づけている。
「詩的テクストのこうした面に対して「難解」という評言は何ら生産性を持たないし、そもそも批評用語たりえない。むしろごく平易で日常と地続きの水準においてすんなり意味が理解されてしまうテクストが詩になっているとき、それを詩たらしめているのは何なのか、共感という名の貧しい同調とは別の次元に詩句の感受を引き上げているものがあるとしてら、それは何がどう機能した結果なのかを問うことの方が俳句にとっても実りのある作業となる可能性はある」
さらに関悦史は「関中俳句日記(別館)」で「バックストローク」31号について触れ、川柳の方にも「難解」問題があるようだ、と述べている。
「難解が排されると驚異的なもの、綺想的なものはその居場所を失ってしまうので、読む側としてはいささか興が失せる。
川柳作品の場合は、特に『優雅に叱責する自転車』等のエドワード・ゴーリーの不条理絵本や稲垣足穂の『一千一秒物語』、あるいはある時期以降の眉村卓のSFショートショートみたいに変な状況、奇妙なイメージが合理的説明や物語性に回収されずにそのまま投げ出されていてその解放感を楽しむような作品と同列に享受すればいいのではないかと思うのだが」
そのような川柳の具体例を関は挙げていないが、たとえば次のような作品が思い浮かぶ。
わけあってバナナの皮を持ち歩く 楢崎進弘
弁当を砂漠へ取りに行ったまま 筒井祥文
人間の存在そのものが謎であって、それを安易に合理的説明や物語性に解消しないということ。推理小説などで前半の謎の部分はわくわくするほどおもしろいのに、後半の謎解きの部分になると何だそんなことかと失望することが多いのと事情は同様であろう。
以上、関悦史の文章をもとにして俳句における難解と、ひるがえって川柳における難解が俳人にはどう見えるか、という一例を見てきた。では、私たち川柳人にとって難解句とはどういうものか、という問題を改めて問うことにしたい。
まず、川柳誌で「難解句」として取り上げられている作品は、実際には難解でも何でもない作品であることが多い。その句を難解だとしている評者の読解力のなさを暴露しているだけなのである。
たとえば「川柳マガジン」では毎号「難解句鑑賞」のコーナーが掲載されているが、8月号では石田柊馬の句が取り上げられている。
順に死ぬはずのカシューナッツ並べ 石田柊馬
この句に対して次のような評が付けられている。「カシューナッツの形は動物の胚に似ている」「並べられたカシューナッツの風景は、胚の成長過程のモデルのようなものだ」「程好いアルコールが、その風景の終末に思いを馳せさせるのだろう」
カシューナッツと死は結びつかないから、この評者はそれを結びつけるものとして「動物の胚」を持ち出したのである。川柳は意味で読まなければならないという固定観念がそうさせるのだ。けれども、柊馬の句ではカシューナッツが並んでいるだけである。あるいは、言い方を変えると、カシューナッツではなくて死ぬはずの何かが並んでいるのだ。それを「動物の胚」と結びつける必要は何もない。こんな読みをされると、柊馬の句が泣くだろう。
さて、川柳では一読明快が標榜されているが、実際にはすぐれた川柳であって、しかも一読明快の作品などそれほど多くはない。断言の爽快さを感じさせる作品はあるけれども、その断言の意味は必ずしも明快ではない。ひとつの結社や共同体の中での約束事項を前提としない限り、今どき多様化した現代における一読明快など幻想ではないか。極端に言えば、難解であって当然なのだ。そう簡単に理解されてはたまらない。
その一方で、平明で深みのある作品は、川柳の理想の境地であることは事実である。石田柊馬は、このような川柳をかつて「新しい平明」と呼んだが、平明かつ深みのある作品を書くことは至難である。関悦史の問題提起のうち、平易なテクストでありながら詩であるのはなぜか、という問いは川柳にとっても重要であろう。
もう一点、先ほど引用した関悦史の文章にも触れられているが、作品は一義的でなければならないという謬見が川柳の世界においても流布している。一つの作品は一つの意味しか持ちえないものだろうか。複数の解釈というものがあってもよいし、そのことが作品の幅や深みにつながる。ときには作品の意味は「作者に聞かなければわからない」という発言まで飛び出すことがあるが、問題は作者ではなく、読者がどう読むかということである。
以上のような諸点を踏まえた上で、結局、問題にしなければならないのは、真の意味の難解句である。
関の論旨からいえば、難解さは人間存在の不可思議さ、不条理さから来ることになる。人間はこのようなものだという常識的な人間理解はわかりやすいが、そこには何の発見もない。表層的な人間理解から一歩進んで、人間の深層をのぞいてみると、そこに謎めいた実存が見えてくるのだろう。現代川柳の特徴として確かにそういう側面はあり、川柳の開拓すべき大きな領域であろう。
けれども、もう一つの側面として、難解さは言葉からも生まれる。一句を構成する個々の言葉の意味が分からないのではない。個々の言葉の意味はわかっても、文脈がわからないのである。このことが、前句付から派生した川柳の特徴である。
川柳における「難解」の問題は「読み」の問題と結びついており、難解句の検証は『柳多留』から近代川柳、新興川柳を経て現代川柳に至る、川柳の「読み」の歴史を通じて明らかにされる必要がある。それはこれからの課題だろう。
階段が無くて海鼠の日暮かな 橋間石
機関車の底まで月明か 馬盥 赤尾兜子
ニュートリノ桃抜けて悲の塊に 石母田星人
百頭女はしゃぎ負はれ蝉氷 竹中宏
これらの句は、しっかりとした難解句であり、一部の川柳誌に取り上げられているような、見る人が見れば難解でも何でもない作品とは異なっている。
関悦史はまたウェブマガジン「週刊俳句」の「俳句時評」(8月15日)で、難解句の話題を続け、「昨日の難解が今日の平易というのは俳句に限ったことではない」「それよりも気にかかるのは詩(俳句)は一義的に理解されるものでなければならない、されるのが当然であるという前提が無意識にあるようだということだ」と述べ、次のように結論づけている。
「詩的テクストのこうした面に対して「難解」という評言は何ら生産性を持たないし、そもそも批評用語たりえない。むしろごく平易で日常と地続きの水準においてすんなり意味が理解されてしまうテクストが詩になっているとき、それを詩たらしめているのは何なのか、共感という名の貧しい同調とは別の次元に詩句の感受を引き上げているものがあるとしてら、それは何がどう機能した結果なのかを問うことの方が俳句にとっても実りのある作業となる可能性はある」
さらに関悦史は「関中俳句日記(別館)」で「バックストローク」31号について触れ、川柳の方にも「難解」問題があるようだ、と述べている。
「難解が排されると驚異的なもの、綺想的なものはその居場所を失ってしまうので、読む側としてはいささか興が失せる。
川柳作品の場合は、特に『優雅に叱責する自転車』等のエドワード・ゴーリーの不条理絵本や稲垣足穂の『一千一秒物語』、あるいはある時期以降の眉村卓のSFショートショートみたいに変な状況、奇妙なイメージが合理的説明や物語性に回収されずにそのまま投げ出されていてその解放感を楽しむような作品と同列に享受すればいいのではないかと思うのだが」
そのような川柳の具体例を関は挙げていないが、たとえば次のような作品が思い浮かぶ。
わけあってバナナの皮を持ち歩く 楢崎進弘
弁当を砂漠へ取りに行ったまま 筒井祥文
人間の存在そのものが謎であって、それを安易に合理的説明や物語性に解消しないということ。推理小説などで前半の謎の部分はわくわくするほどおもしろいのに、後半の謎解きの部分になると何だそんなことかと失望することが多いのと事情は同様であろう。
以上、関悦史の文章をもとにして俳句における難解と、ひるがえって川柳における難解が俳人にはどう見えるか、という一例を見てきた。では、私たち川柳人にとって難解句とはどういうものか、という問題を改めて問うことにしたい。
まず、川柳誌で「難解句」として取り上げられている作品は、実際には難解でも何でもない作品であることが多い。その句を難解だとしている評者の読解力のなさを暴露しているだけなのである。
たとえば「川柳マガジン」では毎号「難解句鑑賞」のコーナーが掲載されているが、8月号では石田柊馬の句が取り上げられている。
順に死ぬはずのカシューナッツ並べ 石田柊馬
この句に対して次のような評が付けられている。「カシューナッツの形は動物の胚に似ている」「並べられたカシューナッツの風景は、胚の成長過程のモデルのようなものだ」「程好いアルコールが、その風景の終末に思いを馳せさせるのだろう」
カシューナッツと死は結びつかないから、この評者はそれを結びつけるものとして「動物の胚」を持ち出したのである。川柳は意味で読まなければならないという固定観念がそうさせるのだ。けれども、柊馬の句ではカシューナッツが並んでいるだけである。あるいは、言い方を変えると、カシューナッツではなくて死ぬはずの何かが並んでいるのだ。それを「動物の胚」と結びつける必要は何もない。こんな読みをされると、柊馬の句が泣くだろう。
さて、川柳では一読明快が標榜されているが、実際にはすぐれた川柳であって、しかも一読明快の作品などそれほど多くはない。断言の爽快さを感じさせる作品はあるけれども、その断言の意味は必ずしも明快ではない。ひとつの結社や共同体の中での約束事項を前提としない限り、今どき多様化した現代における一読明快など幻想ではないか。極端に言えば、難解であって当然なのだ。そう簡単に理解されてはたまらない。
その一方で、平明で深みのある作品は、川柳の理想の境地であることは事実である。石田柊馬は、このような川柳をかつて「新しい平明」と呼んだが、平明かつ深みのある作品を書くことは至難である。関悦史の問題提起のうち、平易なテクストでありながら詩であるのはなぜか、という問いは川柳にとっても重要であろう。
もう一点、先ほど引用した関悦史の文章にも触れられているが、作品は一義的でなければならないという謬見が川柳の世界においても流布している。一つの作品は一つの意味しか持ちえないものだろうか。複数の解釈というものがあってもよいし、そのことが作品の幅や深みにつながる。ときには作品の意味は「作者に聞かなければわからない」という発言まで飛び出すことがあるが、問題は作者ではなく、読者がどう読むかということである。
以上のような諸点を踏まえた上で、結局、問題にしなければならないのは、真の意味の難解句である。
関の論旨からいえば、難解さは人間存在の不可思議さ、不条理さから来ることになる。人間はこのようなものだという常識的な人間理解はわかりやすいが、そこには何の発見もない。表層的な人間理解から一歩進んで、人間の深層をのぞいてみると、そこに謎めいた実存が見えてくるのだろう。現代川柳の特徴として確かにそういう側面はあり、川柳の開拓すべき大きな領域であろう。
けれども、もう一つの側面として、難解さは言葉からも生まれる。一句を構成する個々の言葉の意味が分からないのではない。個々の言葉の意味はわかっても、文脈がわからないのである。このことが、前句付から派生した川柳の特徴である。
川柳における「難解」の問題は「読み」の問題と結びついており、難解句の検証は『柳多留』から近代川柳、新興川柳を経て現代川柳に至る、川柳の「読み」の歴史を通じて明らかにされる必要がある。それはこれからの課題だろう。
2010年8月20日金曜日
夏を振り返って
今年の夏も終盤に入った。手元にある7・8月の川柳誌・川柳同人誌から、今何が問題となっているかを探ってみたい。
◇「川柳木馬」125号
古谷恭一の巻頭言(「一塵窓」)では「会社の寿命三十年説」を話の枕にして、企業が生き続けて発展するには人材の交代が必要であり、自己変革を遂げて別の生命体に再生しなければ激変する世界を乗り切っていけないと述べている。恭一は「川柳木馬」が創立30年を越えたことと重ねているのである。今年9月には「第2回木馬川柳大会」が高知で開催されることになっている。どのような大会になるのか、期待される。
「川柳木馬」誌面に話を戻すと、清水かおりの前号評に注目した。その中で内田万貴の2句が取り上げられている。
肉厚な言葉に挟み込むわけぎ 内田万貴
冷蔵庫から桜開花を逆探知
「内田万貴の木馬作品は題吟として拵えた句が多いのだが、出来ればもっと雑詠に挑戦して欲しいと思っている。内田の言語展開は驚くほど幅がひろいからだ」と清水は述べている。
「題詠として拵えた句」から「雑詠」へ。
その間で、作者の真の個性が言葉によって立ち表れてくることを清水は述べているに違いない。
事情は少し違うが、「作家群像」のコーナーで取り上げられている富山やよいに対する野口裕の論にも似たような観点を感じた。
野口の富山やよい論では、まず「俳諧は三尺の童にさせよ」という芭蕉の言葉を引用し、富山やよいの中の子どもが万華鏡をのぞくように眼前の光景を捉えていく、という言い方をしている。しかし、その光景はどれも同じように見えてしまうのであり、その原因は言葉が作者の手の内に入っていないからだ、と野口は批評する。
よく言われることだが、「子どものような眼」というのは実は大人の目である。ミロの絵画は子どものように純粋と言われるが、もちろんミロは大人であって、大人の描いた子どものような絵であるところに意味があるのである。
野口に富山やよい論を書いてもらったことは、彼女の幸運だろう。言葉を手の内にすることによって、言葉による自己の世界が生まれる。そして、その次に、そのような言葉による自己の世界を破壊する苦しみがくる。川柳もまた言語表現であるかぎり、そういう道筋になるだろう。
◇「ふらすこてん」10号
京都から筒井祥文が発行している本誌も10号を迎えた。
玉野川柳大会で特選を取った小嶋くまひこの作品を探したが、残念ながら掲載されていない。
同人作品欄「たくらまかん」から、兵頭全郎の作品。
内海氏がもうひとりいる月の裏
区役所の木佐貫さんを別の目で
額を外すと流れ出るキョーちゃん
切捨御免あとは名札にしまいます
全郎は実体験からではなくて、モチーフを決めることによって川柳を書くタイプである。そして、そのモチーフとは言葉である。今回は「名前」である。なぜ内海氏なのかと問うことにはあまり意味がない。ただ、作者の創作過程は何となく想像がつく。「内海氏」と「月の裏」をつなぐのは、「月の海」という言葉である。ただし、真偽は保障しない。
最後の句はテーマを言いすぎていて、蛇足感がある。
◇「水脈」25号
北海道から発信されている川柳誌。(編集・浪越靖政)
筒井祥文が前号評を書いている。
興味深いのは「創連」という形式で、先行する川柳のイメージを受けて自作川柳とする。川柳と連句の中間形態と言えようか。
さむらいを乗せてうれしい縄電車 涼子
トンネルを出ると満開の花見席 むさし
どこまでもピンクあふれるカバの口 麗水
◇「点鐘じゃあなる」2010年8月号
8月4日の点鐘散歩会の記録が掲載されている。四天王寺吟行である。
川柳には珍しく、この会では吟行に出かけている。机の上で句を書くのではなく、実際に物を見て句を書くことによって新鮮な作品が生まれる、という墨作二郎の考え方による。この日は21人が参加。
長い手の先を見に行こうと思う 峯裕見子
経を読むいちにちいちじくのいちにち 辻嬉久子
凭れたら凭れかえしてくる仁王 前田芙巳代
盂蘭盆会前の四天王寺は生と死とが交錯する場であった。
◇「川柳びわこ」566号
「点鐘散歩会」のときに峯裕見子から「川柳びわこ」8月号をもらった。
平賀胤壽が「前月近詠鑑賞」を書いている。「結跏趺坐 徐々に西瓜になってゆく 美幸」についての句評はこんなふうに書かれている。「ここでは作者自身が結跏趺坐していなければならない。もちろん想像だけでもよい」「詩的表現として『西瓜』がもっとも相応しいものかどうか」―このあたりが鑑賞のポイントだろう。近詠欄から。
預かった何か動いている袋 峯裕見子
カーテンの向こうの明日はあかるいか
峯裕見子の才能をもってして、この境地にとどまっているのは、何だか残念である。誰にでも分かる平易な川柳は、他の川柳人にまかしておけばいいのだ。
◇「川柳木馬」125号
古谷恭一の巻頭言(「一塵窓」)では「会社の寿命三十年説」を話の枕にして、企業が生き続けて発展するには人材の交代が必要であり、自己変革を遂げて別の生命体に再生しなければ激変する世界を乗り切っていけないと述べている。恭一は「川柳木馬」が創立30年を越えたことと重ねているのである。今年9月には「第2回木馬川柳大会」が高知で開催されることになっている。どのような大会になるのか、期待される。
「川柳木馬」誌面に話を戻すと、清水かおりの前号評に注目した。その中で内田万貴の2句が取り上げられている。
肉厚な言葉に挟み込むわけぎ 内田万貴
冷蔵庫から桜開花を逆探知
「内田万貴の木馬作品は題吟として拵えた句が多いのだが、出来ればもっと雑詠に挑戦して欲しいと思っている。内田の言語展開は驚くほど幅がひろいからだ」と清水は述べている。
「題詠として拵えた句」から「雑詠」へ。
その間で、作者の真の個性が言葉によって立ち表れてくることを清水は述べているに違いない。
事情は少し違うが、「作家群像」のコーナーで取り上げられている富山やよいに対する野口裕の論にも似たような観点を感じた。
野口の富山やよい論では、まず「俳諧は三尺の童にさせよ」という芭蕉の言葉を引用し、富山やよいの中の子どもが万華鏡をのぞくように眼前の光景を捉えていく、という言い方をしている。しかし、その光景はどれも同じように見えてしまうのであり、その原因は言葉が作者の手の内に入っていないからだ、と野口は批評する。
よく言われることだが、「子どものような眼」というのは実は大人の目である。ミロの絵画は子どものように純粋と言われるが、もちろんミロは大人であって、大人の描いた子どものような絵であるところに意味があるのである。
野口に富山やよい論を書いてもらったことは、彼女の幸運だろう。言葉を手の内にすることによって、言葉による自己の世界が生まれる。そして、その次に、そのような言葉による自己の世界を破壊する苦しみがくる。川柳もまた言語表現であるかぎり、そういう道筋になるだろう。
◇「ふらすこてん」10号
京都から筒井祥文が発行している本誌も10号を迎えた。
玉野川柳大会で特選を取った小嶋くまひこの作品を探したが、残念ながら掲載されていない。
同人作品欄「たくらまかん」から、兵頭全郎の作品。
内海氏がもうひとりいる月の裏
区役所の木佐貫さんを別の目で
額を外すと流れ出るキョーちゃん
切捨御免あとは名札にしまいます
全郎は実体験からではなくて、モチーフを決めることによって川柳を書くタイプである。そして、そのモチーフとは言葉である。今回は「名前」である。なぜ内海氏なのかと問うことにはあまり意味がない。ただ、作者の創作過程は何となく想像がつく。「内海氏」と「月の裏」をつなぐのは、「月の海」という言葉である。ただし、真偽は保障しない。
最後の句はテーマを言いすぎていて、蛇足感がある。
◇「水脈」25号
北海道から発信されている川柳誌。(編集・浪越靖政)
筒井祥文が前号評を書いている。
興味深いのは「創連」という形式で、先行する川柳のイメージを受けて自作川柳とする。川柳と連句の中間形態と言えようか。
さむらいを乗せてうれしい縄電車 涼子
トンネルを出ると満開の花見席 むさし
どこまでもピンクあふれるカバの口 麗水
◇「点鐘じゃあなる」2010年8月号
8月4日の点鐘散歩会の記録が掲載されている。四天王寺吟行である。
川柳には珍しく、この会では吟行に出かけている。机の上で句を書くのではなく、実際に物を見て句を書くことによって新鮮な作品が生まれる、という墨作二郎の考え方による。この日は21人が参加。
長い手の先を見に行こうと思う 峯裕見子
経を読むいちにちいちじくのいちにち 辻嬉久子
凭れたら凭れかえしてくる仁王 前田芙巳代
盂蘭盆会前の四天王寺は生と死とが交錯する場であった。
◇「川柳びわこ」566号
「点鐘散歩会」のときに峯裕見子から「川柳びわこ」8月号をもらった。
平賀胤壽が「前月近詠鑑賞」を書いている。「結跏趺坐 徐々に西瓜になってゆく 美幸」についての句評はこんなふうに書かれている。「ここでは作者自身が結跏趺坐していなければならない。もちろん想像だけでもよい」「詩的表現として『西瓜』がもっとも相応しいものかどうか」―このあたりが鑑賞のポイントだろう。近詠欄から。
預かった何か動いている袋 峯裕見子
カーテンの向こうの明日はあかるいか
峯裕見子の才能をもってして、この境地にとどまっているのは、何だか残念である。誰にでも分かる平易な川柳は、他の川柳人にまかしておけばいいのだ。
2010年8月13日金曜日
「乙女」という兼題
芥川賞を受賞した赤染晶子の「乙女の密告」が評判になっている。『アンネの日記』という素材も注目されるが、日本ではよく知られている『アンネの日記』を暗唱する話に仕立てた発想がおもしろい。また、「乙女の密告」というタイトルも魅力的だ。誰がアンネ一家を密告したのだろう。
さて、7月4日に開催された第61回玉野市民川柳大会の兼題のひとつが「乙女」であった。玉野川柳社(代表・前田一石)が開催するこの大会は男女二人の選者による共選が呼び物で、個性的な参加者が集まる好大会である。今年の玉野の大会の意味を振り返ってみたい。
兼題「乙女」は石部明と富山やよいの共選である。「乙女」は作りにくい題で、「乙女の祈り」「制服のおとめ」「処女性」、逆に「乙女の残酷さ」など既成のイメージが強く作用するから、そこから抜け出ることが難しいのである。玉野では55回大会のときに「妖精」という題が出されたことがあったが、そのときと事情は似ているだろう。
川柳の題詠は大会の参加者が共通の土俵において競争するという意味をもつ。詩的飛躍を好む川柳人は題からの飛躍をはかったり、思いがけないものと乙女とを結びつけようとするかも知れない。「乙女」の本意と向かい合う作者もあるだろうし、皮肉な川柳眼から眺めようとするかも知れない。
発表誌を改めて読んでみると、「~が~になる」というパターンと「~乙女」というパターンが多かった。
前者は、乙女でないものが乙女に変化する、あるいは乙女が乙女でないものに変化する、というパターンである。
楕円形になって乙女は出ていった 坂井半升
振り向けば乙女が脱皮するところ 斉藤幸男
そのうちに乙女も枇杷の種になる 本多洋子
後者の「~乙女」というパターンは、意外な形容をつなげて乙女という名詞で止めるというもので、川柳ではよく使われる文体である。特に、富山やよい選の方にこのパターンが目につく。
羽田発7時50分の乙女 竹下勲二郎
空中戦はお好きですかという乙女 清水かおり
もこもことふわふわになる乙女 草地豊子
あと、ブラックとしては次の句が印象に残った。
乙女入り羊羹どこを切りましょう 山田ゆみ葉
そして、特選句はこれらのパターンを越えたところから選ばれている。
乙女らは長い尻尾を結びあう 小嶋くまひこ(石部明特選)
乙女らは海のラ音を聞いている 内田万貴(富山やよい特選・石部明準特選)
この2句を眺めてみると、まず「乙女ら」という主語の複数形に共通点がある。ひとりの乙女ではなく、乙女たちの関係性が主題となっているのだ。それは、特にくまひこの句に顕著である。
「長い尻尾」とは何だろう。乙女にはそのようなものはないから、これはメタファーであるか、目に見えない尻尾だと読まざるをえない。イメージとしては、女性のポニーテールなどの髪形から連想されたのかも知れない。この句にとって少し不利なのは、話題になった映画「アバター」に出てくる連結のイメージに重なることである。映画のイメージとは無関係だとすると、「長い」というところに意味性が出てくる。二人の乙女は目に見えない長い尻尾で繋がれている。それはプラス・イメージだけではなくて、あるときはマイナスのイメージをもたらすときもあるだろうが、ともかく二人の意志で結びあったのである。
内田万貴の句は「海のラ音」に焦点がある。この句の弱点は、披講の際に耳で聞いただけでは「ラ音」の意味が聞き取れないことである。「ドレミファ」は川柳でしばしば使われるが、「ラ」にしぼったのはなぜだろうか。
実景だと受け取れば、複数の乙女たちが海辺で音を聞いている。それは明るい音とはかぎらず、少し翳りのあるマイナーな音かも知れない。この句に抒情性を感じるのはそのためだ。
けれども、適度な抒情性を乗り越えようとすれば、この句の次に来る世界を読者としては見せてもらいたいと思う。「乙女ら」の「ら」とラ音の「ラ」も言葉として妙に引っかかる。
今年の玉野の作品を「乙女」を例に一瞥してみた。「乙女」という題は難しかった。飛躍しようとして力むと、かえって陥穽に落ち込むことになる。これまでさまざまな佳句が生まれてきた玉野でも、名作はそう簡単には生まれないということだろう。
さて、7月4日に開催された第61回玉野市民川柳大会の兼題のひとつが「乙女」であった。玉野川柳社(代表・前田一石)が開催するこの大会は男女二人の選者による共選が呼び物で、個性的な参加者が集まる好大会である。今年の玉野の大会の意味を振り返ってみたい。
兼題「乙女」は石部明と富山やよいの共選である。「乙女」は作りにくい題で、「乙女の祈り」「制服のおとめ」「処女性」、逆に「乙女の残酷さ」など既成のイメージが強く作用するから、そこから抜け出ることが難しいのである。玉野では55回大会のときに「妖精」という題が出されたことがあったが、そのときと事情は似ているだろう。
川柳の題詠は大会の参加者が共通の土俵において競争するという意味をもつ。詩的飛躍を好む川柳人は題からの飛躍をはかったり、思いがけないものと乙女とを結びつけようとするかも知れない。「乙女」の本意と向かい合う作者もあるだろうし、皮肉な川柳眼から眺めようとするかも知れない。
発表誌を改めて読んでみると、「~が~になる」というパターンと「~乙女」というパターンが多かった。
前者は、乙女でないものが乙女に変化する、あるいは乙女が乙女でないものに変化する、というパターンである。
楕円形になって乙女は出ていった 坂井半升
振り向けば乙女が脱皮するところ 斉藤幸男
そのうちに乙女も枇杷の種になる 本多洋子
後者の「~乙女」というパターンは、意外な形容をつなげて乙女という名詞で止めるというもので、川柳ではよく使われる文体である。特に、富山やよい選の方にこのパターンが目につく。
羽田発7時50分の乙女 竹下勲二郎
空中戦はお好きですかという乙女 清水かおり
もこもことふわふわになる乙女 草地豊子
あと、ブラックとしては次の句が印象に残った。
乙女入り羊羹どこを切りましょう 山田ゆみ葉
そして、特選句はこれらのパターンを越えたところから選ばれている。
乙女らは長い尻尾を結びあう 小嶋くまひこ(石部明特選)
乙女らは海のラ音を聞いている 内田万貴(富山やよい特選・石部明準特選)
この2句を眺めてみると、まず「乙女ら」という主語の複数形に共通点がある。ひとりの乙女ではなく、乙女たちの関係性が主題となっているのだ。それは、特にくまひこの句に顕著である。
「長い尻尾」とは何だろう。乙女にはそのようなものはないから、これはメタファーであるか、目に見えない尻尾だと読まざるをえない。イメージとしては、女性のポニーテールなどの髪形から連想されたのかも知れない。この句にとって少し不利なのは、話題になった映画「アバター」に出てくる連結のイメージに重なることである。映画のイメージとは無関係だとすると、「長い」というところに意味性が出てくる。二人の乙女は目に見えない長い尻尾で繋がれている。それはプラス・イメージだけではなくて、あるときはマイナスのイメージをもたらすときもあるだろうが、ともかく二人の意志で結びあったのである。
内田万貴の句は「海のラ音」に焦点がある。この句の弱点は、披講の際に耳で聞いただけでは「ラ音」の意味が聞き取れないことである。「ドレミファ」は川柳でしばしば使われるが、「ラ」にしぼったのはなぜだろうか。
実景だと受け取れば、複数の乙女たちが海辺で音を聞いている。それは明るい音とはかぎらず、少し翳りのあるマイナーな音かも知れない。この句に抒情性を感じるのはそのためだ。
けれども、適度な抒情性を乗り越えようとすれば、この句の次に来る世界を読者としては見せてもらいたいと思う。「乙女ら」の「ら」とラ音の「ラ」も言葉として妙に引っかかる。
今年の玉野の作品を「乙女」を例に一瞥してみた。「乙女」という題は難しかった。飛躍しようとして力むと、かえって陥穽に落ち込むことになる。これまでさまざまな佳句が生まれてきた玉野でも、名作はそう簡単には生まれないということだろう。
2010年8月6日金曜日
石部明の軌跡
「バックストローク」31号は「第三回BSおかやま川柳大会」の特集号である。2008年に始まったこの大会も今年4月で3回目を迎えたが、大会の呼び物は石部明のトーク。そしてゲスト選者とバックストローク同人による共選である。今回は石田柊馬と俳人の佐藤文香との組合せが話題になった。佐藤文香の選評に曰く、「もっと感」のある作品、「面白いでしょ?」と言っていない作品、「社会に貢献しない」作品を選んだ…と。賛否はあるかも知れないが、ユニークな基準である。
4月10日の大会がすんで4カ月が経過して発表誌が発行されたが、現時点から振り返って大会のことを思い出してみることは参加した個々の川柳人にとって意味あることだろう。また、参加できなかった川柳人にとっては、大会の記録によっておおよその雰囲気を知ることができる。発表誌の役割とはそういうものだろう。
◇個人史と現代川柳史
大会第一部「石部明を三枚おろし」は小池正博・樋口由紀子の二人のインタビュアーが石部明の話を聞くという企画である。石部のトークには定評があり、放っておいても話は面白くなるが、聞き手の小池には年代順に進めていこうという意図があって、「ますかっと」「こめの木グループ」「岡山の風・6」「ふあうすと」などについて丹念に質問している。
川柳人にはそれぞれの個人史があるが、それが大きな意味では現代川柳史とつながっている。特に、現代川柳の流れの中心にいる石部のような川柳人の軌跡は、個人史と現代川柳史をともに語ることによってはじめて浮き彫りになるだろう。
「川柳で大嘘を書いてみたい」という石部の発言が流布しているが、それがどういう文脈で語られたのかもよくわかる。
大会の選者だった石田柊馬が選を終えてから途中で第一部に参加し、発言していることも、石部本人のトークとは別の視点を入れる意味でも興味深い。
◇時実新子
「川柳展望」「川柳大学」時代のことは、樋口由紀子が聞き手になって話を進めている。
「革新の時実新子」という石部の発言が新子を怒らせ、口をきいてもらえなくなったが、「火の木賞」授賞式では「長い間よく辛抱してくれましたね」と新子から声をかけられたことなど、エピソードが披露されている。
「伝統と革新」という枠組みにまだ川柳人がとらわれていたころから、石部明にはそういう図式は無効であるという認識があったが、それがどこからきているのかが何となくわかる。
新子が亡くなったあと、樋口由紀子が「MANO」に新子論を書いているが、石部の現在の視点からのまとまった新子論を読んでみたい気がする。
◇ゼロ年代川柳のうねり
「MANO」創刊から『現代川柳の精鋭たち』『遊魔系』「バックストローク」の創刊、「セレクション柳人」の発刊と、現代川柳は動いてきた。川柳の「いま・ここ」を語るのに石部明の存在は欠かせない。トークの最後では注目している川柳人の名を挙げているが、石部自身もさらに前進していく気合充分である。『遊魔系』以後の作品をまとめた第三句集の発行を待望しておきたい。
4月10日の大会がすんで4カ月が経過して発表誌が発行されたが、現時点から振り返って大会のことを思い出してみることは参加した個々の川柳人にとって意味あることだろう。また、参加できなかった川柳人にとっては、大会の記録によっておおよその雰囲気を知ることができる。発表誌の役割とはそういうものだろう。
◇個人史と現代川柳史
大会第一部「石部明を三枚おろし」は小池正博・樋口由紀子の二人のインタビュアーが石部明の話を聞くという企画である。石部のトークには定評があり、放っておいても話は面白くなるが、聞き手の小池には年代順に進めていこうという意図があって、「ますかっと」「こめの木グループ」「岡山の風・6」「ふあうすと」などについて丹念に質問している。
川柳人にはそれぞれの個人史があるが、それが大きな意味では現代川柳史とつながっている。特に、現代川柳の流れの中心にいる石部のような川柳人の軌跡は、個人史と現代川柳史をともに語ることによってはじめて浮き彫りになるだろう。
「川柳で大嘘を書いてみたい」という石部の発言が流布しているが、それがどういう文脈で語られたのかもよくわかる。
大会の選者だった石田柊馬が選を終えてから途中で第一部に参加し、発言していることも、石部本人のトークとは別の視点を入れる意味でも興味深い。
◇時実新子
「川柳展望」「川柳大学」時代のことは、樋口由紀子が聞き手になって話を進めている。
「革新の時実新子」という石部の発言が新子を怒らせ、口をきいてもらえなくなったが、「火の木賞」授賞式では「長い間よく辛抱してくれましたね」と新子から声をかけられたことなど、エピソードが披露されている。
「伝統と革新」という枠組みにまだ川柳人がとらわれていたころから、石部明にはそういう図式は無効であるという認識があったが、それがどこからきているのかが何となくわかる。
新子が亡くなったあと、樋口由紀子が「MANO」に新子論を書いているが、石部の現在の視点からのまとまった新子論を読んでみたい気がする。
◇ゼロ年代川柳のうねり
「MANO」創刊から『現代川柳の精鋭たち』『遊魔系』「バックストローク」の創刊、「セレクション柳人」の発刊と、現代川柳は動いてきた。川柳の「いま・ここ」を語るのに石部明の存在は欠かせない。トークの最後では注目している川柳人の名を挙げているが、石部自身もさらに前進していく気合充分である。『遊魔系』以後の作品をまとめた第三句集の発行を待望しておきたい。