10月17日(土)に東京の日本出版クラブ会館で詩歌梁山泊主催のシンポジウムが開催された。約130名の参加者があり盛況だったようで、ネットを中心にその模様が報告されている。私は残念ながら参加できなかったが、さまざまなレポートをもとにこの集まりの意義について考えてみたい。
詩歌梁山泊は詩人の森川雅美を代表として立ち上げられた。まず、主催者の意図を「詩歌梁山泊」ブログから引用してみよう。
http://siikaryouzannpaku.blogspot.com/
「現在の日本には、短歌、俳句、自由詩(狭義の詩)という三つの詩型があり、共存しているといって良いでしょう。三つの詩型はお互いに影響しあっていますが、住み分けがされているのが現状です。そのことが日本の詩にとって幸せなのかは、はなはだ疑問です。当企画ではシンポジウム、ホームページ、印刷媒体などを媒介とし、三つの型の交友の促進を目的とします。それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります。戦後の詩歌の時間を問いなおす試みでもあります。」(詩歌梁山泊~三詩型交流企画ごあいさつ)
ここに明示されているように、三詩型とは「短歌」「俳句」「自由詩」であり、「川柳」は入っていない。いま、そのことをあげつらってみてもあまり意味はないが、森川雅美は現代詩サイドの人であり、彼の視野に入っている短詩型は「短歌」「俳句」にとどまるということだろう。実際問題として、川柳人でこのシンポジウムに出席したのは堺利彦ただ1人であり、「バックストローク」掲示板に長文の報告を書いている。堺の孤軍奮闘はともかく、短詩型の現在の動向に対してアンテナを出し切れていない川柳側の意識も問われるところである。
http://8418.teacup.com/akuru/bbs
それにしても、なぜ三詩型なのか。
このイベントの実行委員であり、当日第二部のパネラーの1人でもある筑紫磐井は、「俳句樹」第2号の「詩歌梁山泊第1回シンポジウムと『超新撰21』竟宴シンポジウムと」で次のように述べている。
http://haiku-tree.blogspot.com/
「かつて拙著にいろいろご指導いただいた人類学者川田順造氏は、氏の独特の方法論で三角測量という考え方を提案している。川田氏の場合は、日本、フランス、アフリカという三つの地点を設定され、ここからから文化や民族を観察し解釈するとき2項対立とは全く違う思考が生まれる。(中略)
いままで、俳句―詩、俳句―短歌、俳句―川柳の断片談判で考えられて来た俳句論を少し見直してみる。日本、フランス、アフリカほど異質な、短歌、俳句、自由詩の視点から、「詩歌」という単一理念を3点測量することは魅力的であると思う」
「2項対立」から「3点測量へ」というのは興味深い観点ではある。少なくとも筑紫の視野には「川柳」の存在は入っているが、4詩型ではなく3詩型として始めようという意識があったのだろう。
さて、シンポジウムの第1部は「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」というテーマで比較的若手のパネラーによって進行された。第1部は若手に、第2部はベテランにというのがコーディネーターの意志だったようだ。
第1部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」
歌人/佐藤弓生、今橋愛
俳人/田中亜美、山口優夢
詩人/杉本徹 、文月悠光
司会/森川雅美
まず短歌だが、佐藤弓生が光森裕樹『鈴を産むひばり』( 2010)を、今橋愛が野口あや子『くびすじの欠片』(短歌研究社 / 2009)を取り上げてコメントした。
光森裕樹『鈴を産むひばり』より
鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。
だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて
野口あや子『くびすじの欠片』より
互いしか知らぬジョークで笑い合うふたりに部屋を貸して下さい
ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる
俳句では山口優夢が高柳克弘『未踏』(ふらんす堂 / 2009)を、田中亜美が御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」を取り上げてコメントした。
髙柳克弘『未踏』(ふらんす堂)より
ことごとく未踏なりけり冬の星
亡びゆくあかるさを蟹走りけり
洋梨とタイプライター日が昇る
御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」より
じきに死ぬくらげをどりながら上陸
結果より過程と滝に言へるのか
季語が無い夜空を埋める雲だった
現代詩では杉本徹が中尾太一『御世の戦示の木の下で』(思潮社 / 2009)を、文月悠光が大江麻衣「昭和以降に恋愛はない」(「新潮」2010年7月号)を取り上げて報告した。現代詩の引用は長いので省略させていただく。
この第1部については、「週刊俳句」に野口る理のレポートが掲載されているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。野口はこんなふうにまとめている。
http://weekly-haiku.blogspot.com/
「パネリスト各氏の選んだ作品は、もちろん意図的に、対照的である。古典的なつくり方に現代性を感じさせる【光森】作品と、恋や性愛を通して現代に生きる自分を描く【野口】作品。流麗な文語を用いすみずみまで洗練されている【高柳】作品と、口語も文語も混ぜ乱反射させる【御中】作品。引き裂かれるような切実さのある独自の物語を紡ぐ【中尾】作品と、自在な散文を用いネット上でも多くの人に読まれ共感を得る【大江】作品」
「今をときめく若手作家であるパネリストたちが、今をときめく若手作家の作品について議論するという豪華な企画であったが、なにぶんパネリストが多いのと、ただでさえ3詩型が集まり要素が多く、また自由度が高すぎるのとで、話はあまりまとまらなかった印象である。しかし、3詩型それぞれの若手の問題意識や現在をうかがい知ることが出来、これからまだまだ前へ進む力強さを体感することができたシンポジウムであった」
続く第2部は「宛名、機会詩、自然~三詩型は何を共有できるのか」である。
歌人/藤原龍一郎
俳人/筑紫磐井
詩人/野村喜和夫
司会/高山れおな
この第2部については「俳句樹」第3号に筑紫磐井が「詩歌梁山泊シンポジウムに出られなかった人のための偏私的報告・宛名、機会詩、自然」を書いているので、そちらを参照されたい。
http://haiku-tree.blogspot.com/2010/10/blog-post_4110.html
筑紫磐井は次のように述べている。
「こうしたシンポジウムでは明快な結論が出ないのはやむを得ないことかも知れない、しかし、ここで提起された問題が次にどう続くかと言うことの方が大事であろう。そして実はそうしたことを最初から期待していた向きもある。短歌・俳句・詩という三詩型交流を目指したシンポジウムだが、実は俳句の周辺にはさらに多くの他ジャンルが存在している。12月刊行予定で、現在、鋭意編集を進めている『超新撰21』は、意図して『新撰21』を超えてはるかに広く、川柳や自由律俳句の作家に参加してもらっている。刊行後の12月23日(木・祝)午後には、アルカディア市ヶ谷でシンポジウムが開かれるが、ここでは三詩型交流を超えた多詩型交流の場が実現するであろう。今回のシンポジウムで提起された問題、あるいはより一層深く論ぜられるべき問題はそちらで孵化されることを期待している」
『超新撰21』には川柳側から清水かおりが参加しており、清水かおり論は俳人の堺谷真人が執筆することになっている。短詩型文学のフィールドの中で、清水かおりの言葉の世界がどのように展開されているのか。このアンソロジー自体はまだ出ていないが、発行されるのが待ち遠しい。12月23日のシンポジウムには、川柳人も参加する余地がある。筑紫のいう「三詩型交流を超えた多詩型交流の場」が想定されているのだ。
お膳立てはすでに出来ている。このイベントに川柳人はどのように参画していくのかが逆に問われている。
2010年10月29日金曜日
2010年10月22日金曜日
意表派とは何か
川柳句評の場面で最近「意表」という言葉を耳にする。石田柊馬や吉澤久良などがしばしば使用している。「読者の意表をついた川柳作品」というくらいの意味だろうと思って聞いているのだが、今回は「意表」ということにどのような問題性があるのかを考えてみたい。
吉澤久良は「Leaf」に「〈読み〉についての覚え書」という文章を連載しているが、創刊号では〈「意表派」のナルシシズム〉という項目を立ててこんなふうに述べている。
〔 現在、自分の〈思い〉を書くことをよしとせず、コトバそのものに向かった一部の柳人がおり、難解句を書いている。コトバの日常的意味のつながりに意表を持ち込んだのである(以下、本稿ではこのように意表を眼目とした書き方の柳人を「意表派」と呼ぶことにする) 〕〔 「意表派」の句のほとんどはナルシシズムにまみれている。意表をついたコトバの関係を作れたと満足し、インスピレーションだ、新しい書き方だと一人で悦に入っている。そこには自分がなぜ川柳を書くのかという知的考察はない 〕
吉澤は「意表派」の具体例を挙げていないので、どのような作品が該当するのか、分かりにくいところがある。具体的作品は挙げにくいのは確かだが、とりあえず一般論として受け取っておくことにしよう。吉澤は「Leaf」第2号でも〈私性川柳と意表派〉という項目を立て、私性川柳のナルシシズムについて触れたあと、さらに意表派について言及している。
〔このような私性川柳の理解の延長上で、意表派の川柳も理解することができる。(中略)その多くは恣意的な言葉が並べられただけの句であり、コトバにこだわるという意匠でごまかしている。意表派の柳人は自分の感性を追求し、句が自分自身に向けた〈答え〉でありさえすればよかったのだ。ここでも、そのような感性を持つ自分とはどのようなものかは問われなかった。いわば、私性川柳と意表派は、同病の双子の兄弟だった 〕
吉澤は「私性川柳」と「意表派」とを「同病の双子の兄弟」だという。作者個人のナマの「私」が検証されることなく垂れ流しにされる「私性川柳」と、自分の感覚的・恣意的な言葉の感性を検証しようとしない「意表派」とをナルシシズムという点では同根と見るのである。読者論の立場に立って創造的読みの必要性を提唱している吉澤らしい言説である。
「意表」という言葉を用い始めたのは、おそらく石田柊馬だった。「意表」を正面から論じた柊馬の評論をいま探し出せないが、たとえば次のような文章に柊馬の問題意識がうかがわれる。
〔前句附けは七七に五七五を附ける言語遊戯であったので、川柳にはもともと、句語に句語を附けてあとは勝手に読んでくれという突き放しの性状があるのだが、安直無責任な突き放しの不毛を退けるところに意味性があり、選があったと思っていいだろう。意味への拘りの典型が狂句であったとも言える。狂句を排除した近代の川柳の多くは共感性に則って意味が書かれた。下って、意味や言葉の感覚的附け合わせ、言い変えれば詩性が共感レベルで書かれた。現在、詩性の評価は、共感性よりも作者個人の発語であることを上位とする方向にあり、良質の選の多くに見られる。これが共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考を招いたらしい〕(「ふらすこてん」第6号・2009年11月)
「共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考」が吉澤のいう「意表派」と同じ傾向を指しているとすれば、柊馬の指摘は吉澤の提起している問題をより一般的かつ実践的に捉えたものと言えるだろう。川柳作品を放恣な飛躍から救うものは共感性や意味性の錘だということだろう。では、そのことと「共感性」から「作者個人」へという現代川柳の流れとは、どのように統一されるのであろうか。
柊馬は続けて次のように説いている。
〔問題点は三つある。
(a)作者の世界(人間)観の深みや洞察眼が感覚的表現となった句の、飛躍の測りづらさという読者側の問題〕
(b)川柳の表現領域を広げるイメージの創造や、言葉を契機とする書き方についての読者の無理解。
(c)逆に、これとこれとの組み合わせで、ちょっと感興があるように感じます、という作者側の無責任。〕
そして、(c)が氾濫状態なのだという。
石田・吉澤の指摘から私が連想するのは、俳諧史における談林派の存在である。
貞門俳諧の退屈さを超克して、奇抜な言葉の取り合わせを生命線とすることで、談林派は燎原の火のように全国に広がったが、言葉の飛躍は同時に無数の「飛びそこない」を生み出し、わずか10年で終息した。けれども、談林俳諧を通過することなしに芭蕉俳諧は生まれなかったとも言われる。
「意表派」はこの「談林派」に似ているが、そもそも「意表派」という川柳の流派が存在すると言うよりは、川柳作品において「詩的飛躍に成功した作品」と「飛躍に失敗した作品(飛びそこない)」があるだけだというのが実際のところだろう。
難解句の問題も含めて現代川柳におけるコトバの問題は、作者論と読者論のせめぎあいの中で生まれている。その場合の「作者」「読者」が、「生身の作者」「川柳に一読明快を求める読者」ではないことは言うまでもない。
吉澤久良は「Leaf」に「〈読み〉についての覚え書」という文章を連載しているが、創刊号では〈「意表派」のナルシシズム〉という項目を立ててこんなふうに述べている。
〔 現在、自分の〈思い〉を書くことをよしとせず、コトバそのものに向かった一部の柳人がおり、難解句を書いている。コトバの日常的意味のつながりに意表を持ち込んだのである(以下、本稿ではこのように意表を眼目とした書き方の柳人を「意表派」と呼ぶことにする) 〕〔 「意表派」の句のほとんどはナルシシズムにまみれている。意表をついたコトバの関係を作れたと満足し、インスピレーションだ、新しい書き方だと一人で悦に入っている。そこには自分がなぜ川柳を書くのかという知的考察はない 〕
吉澤は「意表派」の具体例を挙げていないので、どのような作品が該当するのか、分かりにくいところがある。具体的作品は挙げにくいのは確かだが、とりあえず一般論として受け取っておくことにしよう。吉澤は「Leaf」第2号でも〈私性川柳と意表派〉という項目を立て、私性川柳のナルシシズムについて触れたあと、さらに意表派について言及している。
〔このような私性川柳の理解の延長上で、意表派の川柳も理解することができる。(中略)その多くは恣意的な言葉が並べられただけの句であり、コトバにこだわるという意匠でごまかしている。意表派の柳人は自分の感性を追求し、句が自分自身に向けた〈答え〉でありさえすればよかったのだ。ここでも、そのような感性を持つ自分とはどのようなものかは問われなかった。いわば、私性川柳と意表派は、同病の双子の兄弟だった 〕
吉澤は「私性川柳」と「意表派」とを「同病の双子の兄弟」だという。作者個人のナマの「私」が検証されることなく垂れ流しにされる「私性川柳」と、自分の感覚的・恣意的な言葉の感性を検証しようとしない「意表派」とをナルシシズムという点では同根と見るのである。読者論の立場に立って創造的読みの必要性を提唱している吉澤らしい言説である。
「意表」という言葉を用い始めたのは、おそらく石田柊馬だった。「意表」を正面から論じた柊馬の評論をいま探し出せないが、たとえば次のような文章に柊馬の問題意識がうかがわれる。
〔前句附けは七七に五七五を附ける言語遊戯であったので、川柳にはもともと、句語に句語を附けてあとは勝手に読んでくれという突き放しの性状があるのだが、安直無責任な突き放しの不毛を退けるところに意味性があり、選があったと思っていいだろう。意味への拘りの典型が狂句であったとも言える。狂句を排除した近代の川柳の多くは共感性に則って意味が書かれた。下って、意味や言葉の感覚的附け合わせ、言い変えれば詩性が共感レベルで書かれた。現在、詩性の評価は、共感性よりも作者個人の発語であることを上位とする方向にあり、良質の選の多くに見られる。これが共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考を招いたらしい〕(「ふらすこてん」第6号・2009年11月)
「共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考」が吉澤のいう「意表派」と同じ傾向を指しているとすれば、柊馬の指摘は吉澤の提起している問題をより一般的かつ実践的に捉えたものと言えるだろう。川柳作品を放恣な飛躍から救うものは共感性や意味性の錘だということだろう。では、そのことと「共感性」から「作者個人」へという現代川柳の流れとは、どのように統一されるのであろうか。
柊馬は続けて次のように説いている。
〔問題点は三つある。
(a)作者の世界(人間)観の深みや洞察眼が感覚的表現となった句の、飛躍の測りづらさという読者側の問題〕
(b)川柳の表現領域を広げるイメージの創造や、言葉を契機とする書き方についての読者の無理解。
(c)逆に、これとこれとの組み合わせで、ちょっと感興があるように感じます、という作者側の無責任。〕
そして、(c)が氾濫状態なのだという。
石田・吉澤の指摘から私が連想するのは、俳諧史における談林派の存在である。
貞門俳諧の退屈さを超克して、奇抜な言葉の取り合わせを生命線とすることで、談林派は燎原の火のように全国に広がったが、言葉の飛躍は同時に無数の「飛びそこない」を生み出し、わずか10年で終息した。けれども、談林俳諧を通過することなしに芭蕉俳諧は生まれなかったとも言われる。
「意表派」はこの「談林派」に似ているが、そもそも「意表派」という川柳の流派が存在すると言うよりは、川柳作品において「詩的飛躍に成功した作品」と「飛躍に失敗した作品(飛びそこない)」があるだけだというのが実際のところだろう。
難解句の問題も含めて現代川柳におけるコトバの問題は、作者論と読者論のせめぎあいの中で生まれている。その場合の「作者」「読者」が、「生身の作者」「川柳に一読明快を求める読者」ではないことは言うまでもない。
2010年10月15日金曜日
『番傘川柳百年史』を読む
2008年10月に『番傘川柳百年史』(編者・番傘川柳本社、製作・創元社)が発行された。1909年(明治42年)に番傘の前身である「関西川柳社」が創立され、そこから数えて百年目の記念事業として出版されたものであった。
西田当百を中心として設立された「関西川柳社」は1913年(大正2年)、「番傘」を創刊し、当百の引退後は岸本水府に受け継がれて、社名も「番傘川柳社」、「番傘川柳本社」と変更された。関西川柳界の「本流」と言うべき、伝統的川柳結社である。
伝統的結社であるだけに、これに飽きたらず批判する川柳人も多い。また、「番傘」の同人の中からも「番傘」の現状に対して批判的言辞を聞くことがあるが、そのような場合にも私は批判者の「番傘」に対する愛着を感じることがある。真に形骸化した結社であれば、無視するか脱退すればよいのである。
『番傘川柳百年史』は資料的な価値が高く、「番傘」の先人たちの川柳観が各ページから立ち上がってくる。伝統川柳(本格川柳)が川柳をどうとらえてきたかが分かって興味深いのである。
今回は、『番傘川柳百年史』に対する2年遅れの書評として、「伝統川柳」の川柳観を検討してみたい。
第1章「関西川柳社から番傘川柳社への歩み」第2章「意気盛んな昭和初期から戦争混迷期」など戦前の番傘の歴史も捨てがたいが、ここでは第3章「戦後の復興から第4運動、水府逝く」以降の戦後川柳史を中心にみていくことにする。そこには現在にも直結する問題があるからだ。
〈短詩型文学のことを書いた本を読めば短歌、俳句のことをいって川柳がその中に入っていない。本屋の棚を見ても短歌、俳句は文学の部にあって、川柳は娯楽趣味の中に置かれている。こういう傾向は戦後特に激しい。これでいいとは思えない〉
昭和29年3月号に掲載された水府の言葉である。この現状認識と危機意識は川柳人全体が共有しなければならないものである。川柳の社会的・文芸上の位置は今でも変っていない。
ここから水府は川柳の第4運動を提唱した。
第4運動とは何か。
第1は田中五呂八・川上日車などの新興川柳運動。
第2は阪井久良伎による古川柳・江戸趣味の称揚。
第3は「川柳」という名称を「寸句」「草詩」にしようと提唱した近藤飴ン坊・高木角恋坊などの提唱。
そして水府の提唱する第4運動は「川柳は娯楽に非ず、文学なり」を骨子とし、川柳に対する世俗の偏見を是正することだという。具体的には、不真面目な柳号、天地人の階級廃止、懸賞の追放である。番傘の主催する川柳大会では賞品は一切出さない。
東野大八は水府の第4運動に胚胎する番傘内部の矛盾を指摘している(『川柳の群像』集英社)。即ち、本格川柳を唱えることで川柳の大衆化を進める一方で、第4運動を展開することで番傘内部の月並川柳を排除しなければならないという二律背反である。確かにそういう面はあったかも知れず、その帰結は水府自身の身にも降りかかってきたのだろうが、それでも「川柳は文学なり」を唱えた水府は偉大であっただろう。ただし、俳句における正岡子規のようにはうまくいかなっかった。水府は川柳の地位向上に努めたが、短詩型文学の中に川柳が確固とした位置を認知されているかと言えば、現在でもこころもとない状況である。
昭和31年7月号掲載の水府の文章「柳界は革新されているか」も心をうつものがある。
〈川柳家は手を握り合っているのであろうか。虎視たんたんの世界を築いているのではあるまいか。少数がバラバラの世界を作っているのではあるまいか。句会をレクリエーションのような気で催しているのではないか。今にしていう未開墾の柳界。本質的にもその機構にも反省の余地充分の柳界。誰がそのままにしてよいというのであろうか〉
水府以後、番傘川柳はどのような軌跡を辿ったであろうか。二代目の主幹となったのが近江砂人である。砂人は「番傘」1971年(昭和46年)1月号で次のような年頭所感を述べている。
〈番傘本社をはじめ、親類の二七会、瓦版の会等が揃って隆盛になっていくのは欣快に堪えない。(中略)我々は主義主張があって、番傘川柳本社を組織しているのである。その一員である以上、我々の川柳上の行動を明らかにせねばならぬ〉
さらに具体的には、同人としてのプライドと自覚、川柳界の前進に努めること、抽象川柳は認めないが新しい表現の川柳は番傘川柳の幅を広げる意味で必要であること、柳社を超えた川柳人の交流を図ること、などを述べているという。
砂人という人は明確な組織論を持つ川柳人であったことが分かる。
ここで近江砂人の川柳観を少し見ておくことにしよう。砂人は『番傘』1975年(昭和50年)7月号で次のように述べている。
〈川柳には、伝統派川柳、詩性川柳、抽象川柳といった流れがある。『番傘』は、今までは伝統派川柳一筋だったが、戦後の社会情勢の細分化に伴う多様化は、我々が経験したことがない社会現象で、詩性川柳も、番傘川柳の中に収容してきた。しかし詩性川柳と隣り合わせに抽象川柳がある。抽象川柳は、全く文字の遊びの感があるし、事実一読理解できない作品が多い〉
詩性川柳までは認めるが抽象川柳は認めないという立場である。ここで問われるのは「詩性川柳」「抽象川柳」の内実であろう。同じ「詩性川柳」の名で呼ばれていても、その中身が全く違っていたりするのはよくある話だ。
番傘本社創立85年を記念して出版された『川柳 その作り方・味わい方』(創元社)という入門書がある。この本では「詩性」について次のように述べられている。この項目を書いているのは亀山恭太である。
〈昔から言われている川柳の三要素「ユーモア」「うがち」「軽み」に、今や「詩性」を加えて四要素にしなければならないと言われたのは平成三年に亡くなられた四国坂出の三木時雨郎さんである。川柳の特徴の一つは「自由」であるから、その幅がどんどん広がり、私たちが川柳を始めた頃には番傘の主流を占めていた「軽み」の句が減って、代わりに今まで川柳とは無縁と思われていた詩情のある句が目立って増加してきた〉
例として挙げられているのは中村冨二の「パチンコ屋オヤあなたにも影がない」である。冨二の作品が伝統派にも受け入れやすいものであったことが分かる。
では、軽みとは何か。同書では次のような句が例に挙げられている。
ない筈はない抽斗を持って来い 西田当百
琵琶湖からモロコ一匹釣り上げる 高橋散二
高橋散二は「ハンカチを若草山に二枚しく」などで知られている好作家である。
ついでに、亀山恭太が「難解句」についてどう述べているかを見ておこう。「ひとりよがり(難解句)」の項である。
〈出来上がった句は書き留めてから一度忘れるほど放置し、何日か後で何回も読み直すのがよいと書いた。その際に、「ひとにわかってもらえるかどうか」を考えながら読むことも大切である〉
ひとりよがりで意味のわからない句として次の句が挙げられている。
美しい誤解にあった水の音
階段の上から人が落ちてくる
山襞をたどれば母の膝頭
変化球投げて幸せ待つ女
どのような句を番傘では難解と読んでいるか、ということがはっきり分かる。これらの句は私の目から見れば難解でも何でもない。「山襞を」などは陳腐なほど分かりやすい伝統的川柳に思える。番傘という結社の「川柳」の幅、許容範囲がよく分かる。
『番傘川柳百年史』に話を戻すと、この本は伝統川柳の川柳観を知る意味でたいへん興味深かった。近江砂人は次のような句を詠んでいる。
佳句佳吟一読明快いつの世も 砂人
「一読明快」の句しか認めないことが川柳人の読みの力の低下を招き、ひいては川柳作品の低下を招くとしたら、それは砂人の志に反することだろう。
最後に本格川柳の代表的作品として岸本水府の二句を挙げておしまいにしよう。
洛北の虫一千をきいて寝る 岸本水府
壁がさみしいから逆立ちをする男
西田当百を中心として設立された「関西川柳社」は1913年(大正2年)、「番傘」を創刊し、当百の引退後は岸本水府に受け継がれて、社名も「番傘川柳社」、「番傘川柳本社」と変更された。関西川柳界の「本流」と言うべき、伝統的川柳結社である。
伝統的結社であるだけに、これに飽きたらず批判する川柳人も多い。また、「番傘」の同人の中からも「番傘」の現状に対して批判的言辞を聞くことがあるが、そのような場合にも私は批判者の「番傘」に対する愛着を感じることがある。真に形骸化した結社であれば、無視するか脱退すればよいのである。
『番傘川柳百年史』は資料的な価値が高く、「番傘」の先人たちの川柳観が各ページから立ち上がってくる。伝統川柳(本格川柳)が川柳をどうとらえてきたかが分かって興味深いのである。
今回は、『番傘川柳百年史』に対する2年遅れの書評として、「伝統川柳」の川柳観を検討してみたい。
第1章「関西川柳社から番傘川柳社への歩み」第2章「意気盛んな昭和初期から戦争混迷期」など戦前の番傘の歴史も捨てがたいが、ここでは第3章「戦後の復興から第4運動、水府逝く」以降の戦後川柳史を中心にみていくことにする。そこには現在にも直結する問題があるからだ。
〈短詩型文学のことを書いた本を読めば短歌、俳句のことをいって川柳がその中に入っていない。本屋の棚を見ても短歌、俳句は文学の部にあって、川柳は娯楽趣味の中に置かれている。こういう傾向は戦後特に激しい。これでいいとは思えない〉
昭和29年3月号に掲載された水府の言葉である。この現状認識と危機意識は川柳人全体が共有しなければならないものである。川柳の社会的・文芸上の位置は今でも変っていない。
ここから水府は川柳の第4運動を提唱した。
第4運動とは何か。
第1は田中五呂八・川上日車などの新興川柳運動。
第2は阪井久良伎による古川柳・江戸趣味の称揚。
第3は「川柳」という名称を「寸句」「草詩」にしようと提唱した近藤飴ン坊・高木角恋坊などの提唱。
そして水府の提唱する第4運動は「川柳は娯楽に非ず、文学なり」を骨子とし、川柳に対する世俗の偏見を是正することだという。具体的には、不真面目な柳号、天地人の階級廃止、懸賞の追放である。番傘の主催する川柳大会では賞品は一切出さない。
東野大八は水府の第4運動に胚胎する番傘内部の矛盾を指摘している(『川柳の群像』集英社)。即ち、本格川柳を唱えることで川柳の大衆化を進める一方で、第4運動を展開することで番傘内部の月並川柳を排除しなければならないという二律背反である。確かにそういう面はあったかも知れず、その帰結は水府自身の身にも降りかかってきたのだろうが、それでも「川柳は文学なり」を唱えた水府は偉大であっただろう。ただし、俳句における正岡子規のようにはうまくいかなっかった。水府は川柳の地位向上に努めたが、短詩型文学の中に川柳が確固とした位置を認知されているかと言えば、現在でもこころもとない状況である。
昭和31年7月号掲載の水府の文章「柳界は革新されているか」も心をうつものがある。
〈川柳家は手を握り合っているのであろうか。虎視たんたんの世界を築いているのではあるまいか。少数がバラバラの世界を作っているのではあるまいか。句会をレクリエーションのような気で催しているのではないか。今にしていう未開墾の柳界。本質的にもその機構にも反省の余地充分の柳界。誰がそのままにしてよいというのであろうか〉
水府以後、番傘川柳はどのような軌跡を辿ったであろうか。二代目の主幹となったのが近江砂人である。砂人は「番傘」1971年(昭和46年)1月号で次のような年頭所感を述べている。
〈番傘本社をはじめ、親類の二七会、瓦版の会等が揃って隆盛になっていくのは欣快に堪えない。(中略)我々は主義主張があって、番傘川柳本社を組織しているのである。その一員である以上、我々の川柳上の行動を明らかにせねばならぬ〉
さらに具体的には、同人としてのプライドと自覚、川柳界の前進に努めること、抽象川柳は認めないが新しい表現の川柳は番傘川柳の幅を広げる意味で必要であること、柳社を超えた川柳人の交流を図ること、などを述べているという。
砂人という人は明確な組織論を持つ川柳人であったことが分かる。
ここで近江砂人の川柳観を少し見ておくことにしよう。砂人は『番傘』1975年(昭和50年)7月号で次のように述べている。
〈川柳には、伝統派川柳、詩性川柳、抽象川柳といった流れがある。『番傘』は、今までは伝統派川柳一筋だったが、戦後の社会情勢の細分化に伴う多様化は、我々が経験したことがない社会現象で、詩性川柳も、番傘川柳の中に収容してきた。しかし詩性川柳と隣り合わせに抽象川柳がある。抽象川柳は、全く文字の遊びの感があるし、事実一読理解できない作品が多い〉
詩性川柳までは認めるが抽象川柳は認めないという立場である。ここで問われるのは「詩性川柳」「抽象川柳」の内実であろう。同じ「詩性川柳」の名で呼ばれていても、その中身が全く違っていたりするのはよくある話だ。
番傘本社創立85年を記念して出版された『川柳 その作り方・味わい方』(創元社)という入門書がある。この本では「詩性」について次のように述べられている。この項目を書いているのは亀山恭太である。
〈昔から言われている川柳の三要素「ユーモア」「うがち」「軽み」に、今や「詩性」を加えて四要素にしなければならないと言われたのは平成三年に亡くなられた四国坂出の三木時雨郎さんである。川柳の特徴の一つは「自由」であるから、その幅がどんどん広がり、私たちが川柳を始めた頃には番傘の主流を占めていた「軽み」の句が減って、代わりに今まで川柳とは無縁と思われていた詩情のある句が目立って増加してきた〉
例として挙げられているのは中村冨二の「パチンコ屋オヤあなたにも影がない」である。冨二の作品が伝統派にも受け入れやすいものであったことが分かる。
では、軽みとは何か。同書では次のような句が例に挙げられている。
ない筈はない抽斗を持って来い 西田当百
琵琶湖からモロコ一匹釣り上げる 高橋散二
高橋散二は「ハンカチを若草山に二枚しく」などで知られている好作家である。
ついでに、亀山恭太が「難解句」についてどう述べているかを見ておこう。「ひとりよがり(難解句)」の項である。
〈出来上がった句は書き留めてから一度忘れるほど放置し、何日か後で何回も読み直すのがよいと書いた。その際に、「ひとにわかってもらえるかどうか」を考えながら読むことも大切である〉
ひとりよがりで意味のわからない句として次の句が挙げられている。
美しい誤解にあった水の音
階段の上から人が落ちてくる
山襞をたどれば母の膝頭
変化球投げて幸せ待つ女
どのような句を番傘では難解と読んでいるか、ということがはっきり分かる。これらの句は私の目から見れば難解でも何でもない。「山襞を」などは陳腐なほど分かりやすい伝統的川柳に思える。番傘という結社の「川柳」の幅、許容範囲がよく分かる。
『番傘川柳百年史』に話を戻すと、この本は伝統川柳の川柳観を知る意味でたいへん興味深かった。近江砂人は次のような句を詠んでいる。
佳句佳吟一読明快いつの世も 砂人
「一読明快」の句しか認めないことが川柳人の読みの力の低下を招き、ひいては川柳作品の低下を招くとしたら、それは砂人の志に反することだろう。
最後に本格川柳の代表的作品として岸本水府の二句を挙げておしまいにしよう。
洛北の虫一千をきいて寝る 岸本水府
壁がさみしいから逆立ちをする男
2010年10月8日金曜日
「Leaf」はクローズドな柳誌なのか
今年1月に創刊された川柳同人誌「Leaf」は、7月には第2号が発行され、年2回というペースを守って順調に活動を続けている。今週はこの「Leaf」をめぐって、川柳同人誌のあり方について考えてみたい。
「Leaf」は吉澤久良(発行人)・兵頭全郎(編集人)・畑美樹・清水かおりの四人誌である。毎号、巻頭言と四者共詠、同人作品に互評とエッセイが付く。四者共詠は創刊号では「空間」、第2号では「剥離」というテーマに基いて各5句が掲載されている。第2号から引用してみよう。
水面から水面へ置いていく舌 畑美樹
「炎上やね」湯葉掬う箸の先 清水かおり
現実として一行の外套膜 兵頭全郎
桃の字に闇をイメージできない奴ら 吉澤久良
3句目、「一行」には「いっこう」とルビが付いている。
テーマを設定した共詠・競詠という点では、俳誌「quatre」(キャトル)のことが思い浮かぶ。「quatre」は杉浦圭佑・金山桜子・上森敦代・中田美子の四人誌である。少し古いが手元にある「quatre」27号(2008年6月)から「食卓」のテーマ詠を引用してみる。
夏空やヴァスコ・ダ・ガマの胡椒壺 中田美子
花冷えのドレッシングのみどりいろ 上森敦代
トーストを二枚並べて囀れり 杉浦圭佑
梅干を爆弾と言う子等のいて 金山桜子
「quatre」ではこれにテーマ・食卓にちなんだエッセイが付いている。同じようにテーマ詠という設定であっても、川柳と俳句では言葉の手触りが異なるし、テーマとなる単語が「Leaf」の場合は抽象的であるのに対して、「quatre」の場合は具象的という違いはある。これを川柳と俳句の差異とまで一般化できるかどうかは分からないが、前句付の前句が抽象化したところに川柳が発生したことと少しは関係するだろう。
さて、「Leaf」では、「四者共詠」のテーマとは別に、各号全体のテーマも設定されている。創刊号のテーマは「コトバへの挑戦」、第2号は「融解し浮遊するコトバ」である。同人たちの関心が「コトバ」にあることがわかる。それは、伝達手段としての「言葉」ではなく、異化された「コトバ」のようだ。創刊号の巻頭言に吉澤は次のように書いている。
〈私たちの関心は《コトバ》にあり、本誌では《コトバ》についてさまざまな思考を積み重ね、《川柳に何ができるか》を模索していくつもりである〉
〈句と句評は両輪である。句と向き合った批評のないところにすぐれた作品が生まれるのは困難である〉
〈すぐれた作品はその背後に豊かな知的土壌を持っている。川柳という表現行為が生きていくことの中でなんらかの価値を持ちうるとしたら、おそらくこの意味においてしかない。だからそのために、各号ごとに《コトバ》に関するテーマを決め、それぞれが文章を書く。表現の現場では書き手は常に単独者であるが、他者と一緒に同じテーマに向き合うことで、単独者の思考は影響を受けきっと厚みを増すだろう〉
大きな目標を掲げたものである。コトバの本質についてはソシュール以来の言語学的洞察があり、日常言語と詩的言語の関係についても現代詩や俳句で論作両面から探求されているが、川柳におけるコトバのはたらきについて本質的に洞察した川柳人はまだいない。「Leaf」の試みが今後どのような地平を開いていくかは予断を許さないが、コトバについて思考するために「Leaf」では「互評」が重視されているのは特徴的だ。
川柳誌では前号批評が多いが、本誌は作品と批評を同じ号に載せるというやり方である。「バックストローク」も同じやり方をとっている。
ここで思い浮かぶのは2001年から2002年にかけて5巻発行された川柳誌「WE ARE!」である。「WE ARE!」は、なかはられいこと倉富洋子の二人誌で、ゲスト作品と同人作品が掲載されていた。ゲストは同人作品を鑑賞し、同人はゲスト作品を鑑賞するというやり方であった。それに比べて「Leaf」は4人の同人の中で閉じている。発行人である吉澤が「私たちの壁であり支えであるのは、他の三人の存在である。少なくとも当面は、私たち四人が互いに批判しあうことを通じて自分を確認するという内向きの姿勢に傾くことになりそうだ」(創刊号・巻頭言)と述べているように、意識的にこのような態度をとっているのだ。
クローズドとオープンという二分法で言えば、「Leaf」はクローズドなスタンスをとっているように見える。「川柳の読み」という場合、読みの対象となるのは古今の多様な川柳作品であってよいはずである。同人作品の互評という形で読みを限定するのは、そこにこの雑誌の矜持があるからだろう。第2号の巻頭言では次のように述べられている。
〈きちんと句を読む風土が充分ではない川柳界において、私たちが創刊号で互いに他人の句に向き合おうとしたことは、誇ってもいいのではないかと思っている。四人全員が互評を書くという形は、私たちだけではなく、読者にとっても新鮮な刺激だったのではないだろうか〉
互評というものは本来、読者にとってあまり興味を持てないものである。互評が本人たちにとって刺激的なのは分かるが、読者にとっても刺激的かどうかは分からないことである。それは読者が決めることであって、本人たちが言うべきことではない。おそらく「Leaf」の同人たちにとって作品をきちんと読みたい、読んでほしいという強い願望があって、その際、最も信頼できる読者が同人たち自身であるということなのだろう。作品と批評の両輪を同人全員が受け持ち、それを可視化するのが「互評」という誌面上のカタチである。
問題は互評がどのように機能しているか、ということだろう。
たとえば、第2号から次の作品を取り上げてみよう。
オブラートあげる 間引かれよ 清水かおり
〈「オブラートあげる」の寛容から、「間引かれよ」へのめくるめくような落下の感覚。端正な冷徹さとでもいえばよいか。このようなコトバの尖り方に、清水かおりの句を読んでいるという快感がある〉(吉澤久良)
〈清水の句には、時折ぐっと短縮されたものがでてくる。この句をこのまま読めば自殺の手ほどきであるが、注目すべきは「あげる」のあとの「空き」であろう。定型で言えば四音が隠されている。私はここに「間引かれよ」と指図する者の存在を見た。多分間引かれるまで、ただただオブラートのみを渡しつづけるのだろう。先の二句(引用者注・「空色の器に蝉を入れる人」「腰椎に生えている売れ筋の木」)に比べて、こちらの人には孤高な感じがある。指図されている方の姿が見えないからだ。四音の省略で想像させるものを造り、さらに想像させない役割も持たせる。ぜひとも盗みたいテクニックである〉(兵頭全郎)
こういう読みの積み重ねを通じて作品は深められていくし、同人各人の資質が読み方に表われてくるのも興味深いことである。ただ、このような読みが印象批評的な読みとどう異なり、従来の読みに何を付け加えているのかは改めて問われるところだろう。評によって作品の魅力がどれだけ立ち上がってくるか、評とは諸刃の刃なのだ。
以上、新誌「Leaf」の川柳同人誌としての特徴点を見てきた。雑誌は生きものであり、これからも生成発展していくことだろうから、第3号以降にどのような変化があるか(あるいはないか)は予測できない。川柳においても短詩型の他ジャンルと同様に「詠み」と「読み」とは車の両輪であることをアピールする「Leaf」の今後に注目していきたい。
「Leaf」は吉澤久良(発行人)・兵頭全郎(編集人)・畑美樹・清水かおりの四人誌である。毎号、巻頭言と四者共詠、同人作品に互評とエッセイが付く。四者共詠は創刊号では「空間」、第2号では「剥離」というテーマに基いて各5句が掲載されている。第2号から引用してみよう。
水面から水面へ置いていく舌 畑美樹
「炎上やね」湯葉掬う箸の先 清水かおり
現実として一行の外套膜 兵頭全郎
桃の字に闇をイメージできない奴ら 吉澤久良
3句目、「一行」には「いっこう」とルビが付いている。
テーマを設定した共詠・競詠という点では、俳誌「quatre」(キャトル)のことが思い浮かぶ。「quatre」は杉浦圭佑・金山桜子・上森敦代・中田美子の四人誌である。少し古いが手元にある「quatre」27号(2008年6月)から「食卓」のテーマ詠を引用してみる。
夏空やヴァスコ・ダ・ガマの胡椒壺 中田美子
花冷えのドレッシングのみどりいろ 上森敦代
トーストを二枚並べて囀れり 杉浦圭佑
梅干を爆弾と言う子等のいて 金山桜子
「quatre」ではこれにテーマ・食卓にちなんだエッセイが付いている。同じようにテーマ詠という設定であっても、川柳と俳句では言葉の手触りが異なるし、テーマとなる単語が「Leaf」の場合は抽象的であるのに対して、「quatre」の場合は具象的という違いはある。これを川柳と俳句の差異とまで一般化できるかどうかは分からないが、前句付の前句が抽象化したところに川柳が発生したことと少しは関係するだろう。
さて、「Leaf」では、「四者共詠」のテーマとは別に、各号全体のテーマも設定されている。創刊号のテーマは「コトバへの挑戦」、第2号は「融解し浮遊するコトバ」である。同人たちの関心が「コトバ」にあることがわかる。それは、伝達手段としての「言葉」ではなく、異化された「コトバ」のようだ。創刊号の巻頭言に吉澤は次のように書いている。
〈私たちの関心は《コトバ》にあり、本誌では《コトバ》についてさまざまな思考を積み重ね、《川柳に何ができるか》を模索していくつもりである〉
〈句と句評は両輪である。句と向き合った批評のないところにすぐれた作品が生まれるのは困難である〉
〈すぐれた作品はその背後に豊かな知的土壌を持っている。川柳という表現行為が生きていくことの中でなんらかの価値を持ちうるとしたら、おそらくこの意味においてしかない。だからそのために、各号ごとに《コトバ》に関するテーマを決め、それぞれが文章を書く。表現の現場では書き手は常に単独者であるが、他者と一緒に同じテーマに向き合うことで、単独者の思考は影響を受けきっと厚みを増すだろう〉
大きな目標を掲げたものである。コトバの本質についてはソシュール以来の言語学的洞察があり、日常言語と詩的言語の関係についても現代詩や俳句で論作両面から探求されているが、川柳におけるコトバのはたらきについて本質的に洞察した川柳人はまだいない。「Leaf」の試みが今後どのような地平を開いていくかは予断を許さないが、コトバについて思考するために「Leaf」では「互評」が重視されているのは特徴的だ。
川柳誌では前号批評が多いが、本誌は作品と批評を同じ号に載せるというやり方である。「バックストローク」も同じやり方をとっている。
ここで思い浮かぶのは2001年から2002年にかけて5巻発行された川柳誌「WE ARE!」である。「WE ARE!」は、なかはられいこと倉富洋子の二人誌で、ゲスト作品と同人作品が掲載されていた。ゲストは同人作品を鑑賞し、同人はゲスト作品を鑑賞するというやり方であった。それに比べて「Leaf」は4人の同人の中で閉じている。発行人である吉澤が「私たちの壁であり支えであるのは、他の三人の存在である。少なくとも当面は、私たち四人が互いに批判しあうことを通じて自分を確認するという内向きの姿勢に傾くことになりそうだ」(創刊号・巻頭言)と述べているように、意識的にこのような態度をとっているのだ。
クローズドとオープンという二分法で言えば、「Leaf」はクローズドなスタンスをとっているように見える。「川柳の読み」という場合、読みの対象となるのは古今の多様な川柳作品であってよいはずである。同人作品の互評という形で読みを限定するのは、そこにこの雑誌の矜持があるからだろう。第2号の巻頭言では次のように述べられている。
〈きちんと句を読む風土が充分ではない川柳界において、私たちが創刊号で互いに他人の句に向き合おうとしたことは、誇ってもいいのではないかと思っている。四人全員が互評を書くという形は、私たちだけではなく、読者にとっても新鮮な刺激だったのではないだろうか〉
互評というものは本来、読者にとってあまり興味を持てないものである。互評が本人たちにとって刺激的なのは分かるが、読者にとっても刺激的かどうかは分からないことである。それは読者が決めることであって、本人たちが言うべきことではない。おそらく「Leaf」の同人たちにとって作品をきちんと読みたい、読んでほしいという強い願望があって、その際、最も信頼できる読者が同人たち自身であるということなのだろう。作品と批評の両輪を同人全員が受け持ち、それを可視化するのが「互評」という誌面上のカタチである。
問題は互評がどのように機能しているか、ということだろう。
たとえば、第2号から次の作品を取り上げてみよう。
オブラートあげる 間引かれよ 清水かおり
〈「オブラートあげる」の寛容から、「間引かれよ」へのめくるめくような落下の感覚。端正な冷徹さとでもいえばよいか。このようなコトバの尖り方に、清水かおりの句を読んでいるという快感がある〉(吉澤久良)
〈清水の句には、時折ぐっと短縮されたものがでてくる。この句をこのまま読めば自殺の手ほどきであるが、注目すべきは「あげる」のあとの「空き」であろう。定型で言えば四音が隠されている。私はここに「間引かれよ」と指図する者の存在を見た。多分間引かれるまで、ただただオブラートのみを渡しつづけるのだろう。先の二句(引用者注・「空色の器に蝉を入れる人」「腰椎に生えている売れ筋の木」)に比べて、こちらの人には孤高な感じがある。指図されている方の姿が見えないからだ。四音の省略で想像させるものを造り、さらに想像させない役割も持たせる。ぜひとも盗みたいテクニックである〉(兵頭全郎)
こういう読みの積み重ねを通じて作品は深められていくし、同人各人の資質が読み方に表われてくるのも興味深いことである。ただ、このような読みが印象批評的な読みとどう異なり、従来の読みに何を付け加えているのかは改めて問われるところだろう。評によって作品の魅力がどれだけ立ち上がってくるか、評とは諸刃の刃なのだ。
以上、新誌「Leaf」の川柳同人誌としての特徴点を見てきた。雑誌は生きものであり、これからも生成発展していくことだろうから、第3号以降にどのような変化があるか(あるいはないか)は予測できない。川柳においても短詩型の他ジャンルと同様に「詠み」と「読み」とは車の両輪であることをアピールする「Leaf」の今後に注目していきたい。
2010年10月1日金曜日
俳文と川柳的エッセイ
ブームというほどでもないが、「俳文」というものの存在をアピールする動きが俳句・連句界の一部に広がっている。「俳文」といえば、江戸時代の『鶉衣』などが思い浮かぶが、明治以降はあまり耳にすることがなく、現代ではむしろ英米で盛んに書かれているらしい。俳文顕彰の動きとして管見に入ったのは次の二つである。
「船団」86号では「俳文―俳人たちの散文」を特集している。座談会「俳文の時代がやってくる」では坪内稔典・内田美紗・宮嵜亀が俳文の可能性について語っている。正岡子規以来「写生文」はあったが「俳文」というものはあまり書かれなかった。「船団」では「俳文の会」という研究会があって、当初は散文だけを書いていたが、文章に俳句を添えた作品も現れるようになったという。
宮嵜は外国人の書いたハイブンについて触れている。ウィリアム・ヒギンソンの『ハイク・ハンドブック』(1985年)にハイク・プローズ(散文)の章があり、ジャパニーズ・ハイブンという言葉が出てくるそうだ。宮嵜は「デタッチメントの態度で文章を書こうというのは米英の人たちにとって案外自然なことで気楽なことなのかもしれません」と言っている。本誌ではK・ジョーンズの「魔法」というハイブンが掲載されている。
坪内が昨年出版した『高三郎と出会った日』(沖積舎)は「俳句と俳文」と銘うたれており、彼が俳文の可能性を意識的に追求していることがわかる。
俳文の顕彰に努めているもうひとつの結社は「其角座」である。今年は其角の生誕350年に当たり、俳文を多く残した其角にちなんで、俳文コンテストが開催された。「其角座」主催の俳文コンテストで日本語部門と英語部門に分かれ、今年は第2回である。授賞式は7月に行われ、「俳文の未来」のテーマのシンポジウムもあった。「俳句界」の10月号にもその紹介が出ている。「今、日本は鎖国状態なのでは」とか「日本の俳文は十年遅れている」とかいう発言が飛び交ったらしい。
以上、俳句における散文の可能性として「俳文」を取り上げたが、ひるがえって川柳における散文はどうだろうか。評論はさておくとして、川柳においても散文やエッセイがもっと書かれてもいいのに、身辺雑記や前号批評に終始して、川柳人の散文はあまり充実していないように思われる。滋味のあふれるエッセイは本来川柳の得意分野ではなかっただろうか。
古い例だが、大正時代の「番傘」に連載された浅井五葉の散文は読者が待ち望むものであった。次に引用するのは、大正15年4月「番傘」の「水府様」という文章で、川柳句会が終ったあと参加者が次々に別れていくところである。引用は田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』による。
〈 夏にしろ冬にしろその心には別段変りはありません。中座の前や明文堂の側を通つて、何だか物足らぬ腹の虫の軽い欲求や、あたまのゆるい旋回を抑へつつ、灘万の前を、やがては戎橋の南詰の四つ角に立つのであります。十人程はこゝで別れねばならぬのであります。佳汀氏は西へ、九郎右衛門町の方へ、私等はどうせ橋筋へ出なければならぬのであります。惜しい別れはどうも致方がありません。ままならぬが浮世のならひであります。これでよいのであります。これを決行せねばならぬのであります。そして川柳だけの友達としてつきあはねばなりません。友達とはいひ条これも真剣なる舞台だと心得たいのであります。川柳では他人たらねばなりません。自分が自分の川柳をよまねばなりませぬ。「さよなら」戎橋では斯う別れて了ひます。あなたがまだ四五人と立つて居られる姿も人も遮ぎられて見えぬやうになります。もう四五間を隔てて私等二三人の南行の者は多少惜しい気もしながら、も一度振り返り、斯うして橋筋の人通りの中に消えて行くのであります。〉
大阪の地名や場所の名がまるで道行のように散りばめられていて、句会のあとの名残り惜しい句友たちの別れの気分が伝わってくる。同時に、川柳の友人たちとの馴れ合い的な付き合いを厳しく戒める文学精神もうかがわれる。五葉は寡黙な人だったらしいが、いったん筆を取ると伸びやかな文章を綴るのであった。代表句として「大仏の鐘杉を抜け杉を抜け」がある。
川柳に関する散文としては、日本の名随筆別巻53『川柳』に収録されている文章や佐藤愛子、時実新子などのエッセイが思い浮かぶ。時実新子は川柳をベースとして、エッセイストとしても成功した唯一の人であろう。
「バックストローク」に連載されている松永千秋の「言葉の波間」は好エッセイであるが、ここではそれとは別に、「草を引く」という文章を引用してみよう。セレクション柳人『松永千秋集』に収録されている、草取りの話である。
〈 次々と目の前の草を抜く。時間のことなどすっかり忘れてしまう。
ふと気づくと側の欅の梢で鳥が囀っていたりする。
人間関係のイライラも、今日のオカズの心配も川柳の締切りのことも、何もかも忘れてしまう。少々の頭痛など何所吹く風である。
草を取るという作業は心を無にしてくれる。〉
草を取るという作業。草によって力の入れ具合を微妙に変えたり、自然の中で無心になれる瞬間は貴重なものである。しかし、松永千秋は次のように書くことも忘れないのである。
〈 ならば、ずっと草さえ取っていれば幸せか、といえば、それはまた別のはなしである。〉
川柳作品が入っていてもいなくても、川柳人が書く文章は俳文や俳人が書く文章とはどこか異なっているだろう。川柳眼によって眺められた世界は、どこか不調和で変容されている。『セレクション柳論』に収録された佐藤みさ子のエッセイ「裁縫箱」には他者との関係性の違和感がはっきりと記されている。
〈 セルロイドの赤い裁縫箱をもらった。花や蝶の模様がついていた。小学三年生の頃だったと思うが、朝礼で一番前になるのが○○さんで、私は二番目に小さかった。やさしい大きな目の○○さんがそれを差し出した時、私はとても困った顔になったと思う。生まれて初めて他人からの贈り物をかかえてとぼとぼ家へ帰った事を覚えている。
私の裁縫箱は母のお古であった。繭のように白く光ってこんもりとした形だった。材質が何だったかのか今はわからない。紙のようなあたたかな肌ざわりが好きだった。
それでも明日になれば○○さんからもらった赤いセルロイドに糸やハサミを入れて学校へ行かなければならない。私の何かが否定されたような気がした。人がそれぞれ違う価値観を持っていることに、その時初めて気がついたと言えば大げさだろうか。その頃友人の多くが赤いセルロイドを持っていたとすれば、私はかわいそうな子に見えたのだろう。私は無口で暗い子供だった。そして私は今もなお、赤い裁縫箱をかかえたまま、途方に暮れている。○○さんの優しい大きな目を今も忘れることができない。〉
これは全文である。ここには佐藤みさ子という川柳人の見方がはっきりと表現されている。川柳作品の一編を書く場合と同様に、作者の独自の見方がいやおうなく刻印されているのである。
かつて村上春樹はデタッチメントとコミットメントということを言った。それまで村上春樹の文学はデタッチメントの文学だと思われていたのだが、オーム真理教事件を契機として村上文学はコミットメントの文学に変質したのである。
俳文はデタッチメントだろうが、川柳人の文章はデタッチメントではすまされない面がある。それは政治への参画とか社会性などの表層的な意味ではなく、現実や人間との関係性の問題である。現実や日常性への違和感をもとにした屈折した感覚を川柳人はどこかで持っている。おびただしい過去の川柳作品は川柳人の財産である。それを散文と結びつけて、川柳の魅力を伝えていくことは川柳人にしかできない課題だろう。川柳眼に裏打ちされた川柳的エッセイをもっと読んでみたいものだ。
「船団」86号では「俳文―俳人たちの散文」を特集している。座談会「俳文の時代がやってくる」では坪内稔典・内田美紗・宮嵜亀が俳文の可能性について語っている。正岡子規以来「写生文」はあったが「俳文」というものはあまり書かれなかった。「船団」では「俳文の会」という研究会があって、当初は散文だけを書いていたが、文章に俳句を添えた作品も現れるようになったという。
宮嵜は外国人の書いたハイブンについて触れている。ウィリアム・ヒギンソンの『ハイク・ハンドブック』(1985年)にハイク・プローズ(散文)の章があり、ジャパニーズ・ハイブンという言葉が出てくるそうだ。宮嵜は「デタッチメントの態度で文章を書こうというのは米英の人たちにとって案外自然なことで気楽なことなのかもしれません」と言っている。本誌ではK・ジョーンズの「魔法」というハイブンが掲載されている。
坪内が昨年出版した『高三郎と出会った日』(沖積舎)は「俳句と俳文」と銘うたれており、彼が俳文の可能性を意識的に追求していることがわかる。
俳文の顕彰に努めているもうひとつの結社は「其角座」である。今年は其角の生誕350年に当たり、俳文を多く残した其角にちなんで、俳文コンテストが開催された。「其角座」主催の俳文コンテストで日本語部門と英語部門に分かれ、今年は第2回である。授賞式は7月に行われ、「俳文の未来」のテーマのシンポジウムもあった。「俳句界」の10月号にもその紹介が出ている。「今、日本は鎖国状態なのでは」とか「日本の俳文は十年遅れている」とかいう発言が飛び交ったらしい。
以上、俳句における散文の可能性として「俳文」を取り上げたが、ひるがえって川柳における散文はどうだろうか。評論はさておくとして、川柳においても散文やエッセイがもっと書かれてもいいのに、身辺雑記や前号批評に終始して、川柳人の散文はあまり充実していないように思われる。滋味のあふれるエッセイは本来川柳の得意分野ではなかっただろうか。
古い例だが、大正時代の「番傘」に連載された浅井五葉の散文は読者が待ち望むものであった。次に引用するのは、大正15年4月「番傘」の「水府様」という文章で、川柳句会が終ったあと参加者が次々に別れていくところである。引用は田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』による。
〈 夏にしろ冬にしろその心には別段変りはありません。中座の前や明文堂の側を通つて、何だか物足らぬ腹の虫の軽い欲求や、あたまのゆるい旋回を抑へつつ、灘万の前を、やがては戎橋の南詰の四つ角に立つのであります。十人程はこゝで別れねばならぬのであります。佳汀氏は西へ、九郎右衛門町の方へ、私等はどうせ橋筋へ出なければならぬのであります。惜しい別れはどうも致方がありません。ままならぬが浮世のならひであります。これでよいのであります。これを決行せねばならぬのであります。そして川柳だけの友達としてつきあはねばなりません。友達とはいひ条これも真剣なる舞台だと心得たいのであります。川柳では他人たらねばなりません。自分が自分の川柳をよまねばなりませぬ。「さよなら」戎橋では斯う別れて了ひます。あなたがまだ四五人と立つて居られる姿も人も遮ぎられて見えぬやうになります。もう四五間を隔てて私等二三人の南行の者は多少惜しい気もしながら、も一度振り返り、斯うして橋筋の人通りの中に消えて行くのであります。〉
大阪の地名や場所の名がまるで道行のように散りばめられていて、句会のあとの名残り惜しい句友たちの別れの気分が伝わってくる。同時に、川柳の友人たちとの馴れ合い的な付き合いを厳しく戒める文学精神もうかがわれる。五葉は寡黙な人だったらしいが、いったん筆を取ると伸びやかな文章を綴るのであった。代表句として「大仏の鐘杉を抜け杉を抜け」がある。
川柳に関する散文としては、日本の名随筆別巻53『川柳』に収録されている文章や佐藤愛子、時実新子などのエッセイが思い浮かぶ。時実新子は川柳をベースとして、エッセイストとしても成功した唯一の人であろう。
「バックストローク」に連載されている松永千秋の「言葉の波間」は好エッセイであるが、ここではそれとは別に、「草を引く」という文章を引用してみよう。セレクション柳人『松永千秋集』に収録されている、草取りの話である。
〈 次々と目の前の草を抜く。時間のことなどすっかり忘れてしまう。
ふと気づくと側の欅の梢で鳥が囀っていたりする。
人間関係のイライラも、今日のオカズの心配も川柳の締切りのことも、何もかも忘れてしまう。少々の頭痛など何所吹く風である。
草を取るという作業は心を無にしてくれる。〉
草を取るという作業。草によって力の入れ具合を微妙に変えたり、自然の中で無心になれる瞬間は貴重なものである。しかし、松永千秋は次のように書くことも忘れないのである。
〈 ならば、ずっと草さえ取っていれば幸せか、といえば、それはまた別のはなしである。〉
川柳作品が入っていてもいなくても、川柳人が書く文章は俳文や俳人が書く文章とはどこか異なっているだろう。川柳眼によって眺められた世界は、どこか不調和で変容されている。『セレクション柳論』に収録された佐藤みさ子のエッセイ「裁縫箱」には他者との関係性の違和感がはっきりと記されている。
〈 セルロイドの赤い裁縫箱をもらった。花や蝶の模様がついていた。小学三年生の頃だったと思うが、朝礼で一番前になるのが○○さんで、私は二番目に小さかった。やさしい大きな目の○○さんがそれを差し出した時、私はとても困った顔になったと思う。生まれて初めて他人からの贈り物をかかえてとぼとぼ家へ帰った事を覚えている。
私の裁縫箱は母のお古であった。繭のように白く光ってこんもりとした形だった。材質が何だったかのか今はわからない。紙のようなあたたかな肌ざわりが好きだった。
それでも明日になれば○○さんからもらった赤いセルロイドに糸やハサミを入れて学校へ行かなければならない。私の何かが否定されたような気がした。人がそれぞれ違う価値観を持っていることに、その時初めて気がついたと言えば大げさだろうか。その頃友人の多くが赤いセルロイドを持っていたとすれば、私はかわいそうな子に見えたのだろう。私は無口で暗い子供だった。そして私は今もなお、赤い裁縫箱をかかえたまま、途方に暮れている。○○さんの優しい大きな目を今も忘れることができない。〉
これは全文である。ここには佐藤みさ子という川柳人の見方がはっきりと表現されている。川柳作品の一編を書く場合と同様に、作者の独自の見方がいやおうなく刻印されているのである。
かつて村上春樹はデタッチメントとコミットメントということを言った。それまで村上春樹の文学はデタッチメントの文学だと思われていたのだが、オーム真理教事件を契機として村上文学はコミットメントの文学に変質したのである。
俳文はデタッチメントだろうが、川柳人の文章はデタッチメントではすまされない面がある。それは政治への参画とか社会性などの表層的な意味ではなく、現実や人間との関係性の問題である。現実や日常性への違和感をもとにした屈折した感覚を川柳人はどこかで持っている。おびただしい過去の川柳作品は川柳人の財産である。それを散文と結びつけて、川柳の魅力を伝えていくことは川柳人にしかできない課題だろう。川柳眼に裏打ちされた川柳的エッセイをもっと読んでみたいものだ。