川柳を中心とする短詩型サイト「s/c」が9月はじめに立ち上げられた。運営している湊圭史は俳人・詩人・外国文学研究者であり、最近は川柳人として「バックストローク」「ふらすこてん」などに作品を発表している。「s/c」の意味はいまのところ不明であるが、sは川柳のことかと憶測している。短詩作品欄には樋口由紀子の川柳や荒木時彦の短詩、久留島元の俳句などが掲載され、評論欄には湊自身の評論が掲載されている。
さて、先日そこに掲載された彼の評論〈 現代川柳とは何か?―「なかはられいこと川柳の現在」を読む― 〉は現代川柳の問題点に鋭く切り込む内容となっている。湊はこんなふうに述べている。
〈川柳ジャンルにおいては、「川柳の奥深さ」といった経験則からの実感の吐露か、「誰でも出来る」といった類の一般向けの惹句、また歴史的発展をどこかで止めて割り出したジャンル規定には出くわすものの、現代までの発展に則って現在の社会と対峙するようなジャンル像で説得力のあるものにはなかなかお目にかかれない。〉
〈「長くやれば分かる」という経験一辺倒の姿勢で、新しく参入したものに手掛かりとなるパースペクティヴもまったく見せられないようでは、ジャンルとしての発展も望めないのではないか。要するに、外部を意識した自己省察があまりにもなさ過ぎるのだ。〉
こういう問題意識から彼は、なかはられいこの第二句集『脱衣場のアリス』の巻末対談「なかはられいこと川柳の現在」を取り上げる。この句集は2001年4月に発行されていて、すでに過去の話だろうと思っていたが、今回の湊による読み直しによって巻末対談の現代的意義が甦ったことになる。この対談は本来、なかはらとその句集『アリス』のおもしろさをアピールするためにプロデューサー役の荻原裕幸によって企画されたものであるが、穂村弘というすぐれた表現者の眼にさらされ、川柳とは何かという問いをつきつけられることで、現代川柳全体が強力な外部・他者と向かい合うことになった。ここでは、湊の引用している穂村弘の発言をもう一度たどりながら整理し、最後に湊自身の提言について検討してみることにしたい。
議論の発端は、倉本朝世がこの句集を象徴している一句として「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」を挙げたのに対して、穂村弘がこの句は全然よくないと疑義を呈したところからはじまる。湊も引用している穂村弘の発言を改めて確認してみよう。
《この句の「鳥」の持っている衝撃力と、さっきあげていた、〈五月闇またまちがって動く舌〉の「舌」が持っている衝撃力では、もう格段に「舌」の方が強いと思うんです。あるいは、
開脚の踵にあたるお母さま
という句の「お母さま」が持っている衝撃力は、もしそれを測る装置があれば、非情に高い値になると思うんです。》
《これは想像なんですが、「またまちがって動く舌」とか、「踵にあたるお母さま」という句は、フォルムの要請というか、定型で書いてこられて、その中でつかんできた言葉なんじゃないか。それに対して「えんぴつは」の句は初めから持ってらしたある世界観みたいなものではないでしょうか。》
《ぼくはこういう内容がいけないとは思わないけど、これをフォルムの中で提示されたときに、まったく反論の余地がないという点で、逆に意味がないんじゃないかというふうに思うんです。》
ここで例句として取り上げられているのは次の3句である。
えんぴつは書きたい鳥は生まれたい
五月闇またまちがって動く舌
開脚の踵にあたるお母さま
「えんぴつは」の句は作句のモチーフそのものである。倉本はこれをなかはらの現在を象徴する句だと見ており、また、「五月闇」については季語を川柳ではこういうふうに使えるんだよと提示している点を評価する。一方、穂村は作者の世界観をそのまま提示することに意味はないと言う。穂村の発言を敷衍すれば、「えんびつは書きたい鳥は生まれたい」という思いが最初にあったとしても、それをたとえば「鳥は書きたいえんぴつはうまれたい」と無理にでも反転させるところに創作の意味があるということだろう。穂村は定型のなかでつかみとってこられた言葉の衝撃力という点で「五月闇」「開脚の」の方を高く評価している。
十年後の今日の眼で見れば、「えんぴつは」は共感と普遍性に基づいた書き方であり、「五月闇」「開脚の」は言葉の力による書き方のように見える。穂村のよく知られた「共感と驚異」という二分法で言えば、「えんぴつ」は共感の句、「五月闇」「開脚」は驚異の句ということだろう。
では、倉本が「えんぴつは」を評価した根拠は何か。「もちろん、言葉の衝撃力という点ではもっといいのがたくさんあります。でも、等身大の彼女が一番よく表われているのは、やっぱりこれだと思うんです」という発言から、その根拠は「作者」ということになるだろう。作品の背後には作者が貼り付いているというのは、川柳の世界では根強い考え方である。湊はこの倉本発言を「後退した視点」と見る。穂村はテクスト論の話をしているのに倉本の発言は作者論の話になっているからだ。作者から自立した川柳作品の可能性が探られていたこの時期に「等身大の彼女」を根拠とすることは確かに弱点をもつ捉え方である。ただ、「等身大の作者」ではなくて、「作品を通して構築される作者」まで否定できるかどうかはまだ川柳の世界では論議されていない。
問題はこの両傾向の作品が一冊の句集の中に混在していることである。穂村はこんなふうに発言している。
《ぼくは「お母さま」とか「またまちがって動く舌」という方向へどんどん行けばいいのにと思う、結果がどうなるのか、それはわからないけど。〈えんぴつは書きたい鳥は生まれたい〉とか、第一句集の〈にんげんがふたりよりそうさみしいね〉は、ぼくにはどうしてもネガティブにしか見えないんですけど、もしかすると、そこに見えていない価値観っていうのか、川柳の価値観があるのかな。》
これに対して石田柊馬はこう答えている。
《石田 これは、場の要請というか、座の要請、その場によって思考レベルを上下させることが川柳には多くあります。
穂村 場というのは、読者ですか。
石田 句会とか、大会とか、そこに集まる人たち、その理解レベル、読解レベルです。 》
湊はこの発言を的外れだと言っている。確かにテクスト論から言えば的外れだろうが、石田はそう言うしかなかっただろう。短歌の読者と川柳の読者は違う。短歌のような純粋読者は川柳には存在せず、句会・大会で出会う川柳人がそのまま川柳の読者そのものであるからだ。句会・大会ではよほど偏狭な選者でない限り、どのような傾向の作品でも一定以上の水準にある作品であればそれを選ぶだろう。一般論として、そのような習慣が句集の編纂に影響しないとは言えない。
大会・句会の座における多様な価値観が一冊の句集という文学的テクストにまで持ち込まれるのはなぜか。提示されているのは次のような考え方である。
1 石田柊馬の言う「座の要請」あるいは「記録性」という考え方
2 荻原裕幸の言う「地と文(もん)」という考え方
3 穂村弘の言う川柳的価値観(ストレート・アッパー・フックを繰り出す自在感)
この点については最後にもう一度触れる。
穂村はさらに「川柳のアイデンティティ」について質問している。
《穂村 川柳のアイデンティティというか、川柳の生命線というか、俳句から川柳を分けて、なおかつそこに存在意義を与えている本質は何か、ということを明らかにしたいんです。》
川柳性とは何かというのは危険な問いである。
まして、現代川柳史の流れのなかで『脱衣場のアリス』のどこに川柳性があるのか、という問いに答えることは至難の業であろう。「俳句とは何か」という問いに簡単には答えられないように、「川柳とは何か」という問いにもまた簡単には答えられない。無理に簡単に答えようとすれば、「穿ち」と「機知」などという後退した答えになってしまう。石田柊馬の次の指摘は、歴史的な視点からの一つの示唆を与えてくれる。
《石田 昭和三十年代に現代川柳をかなり先鋭的にやってくれた、河野春三や堀豊次さんたちの句集についての考え方は、川柳の句集を出す場合には時系列でありたいという、これは一つの川柳観なんです。かなり大胆な発言ですが、川柳というものを自分に引きつけての発言と思います。一人の人間像としてやっているんですね。》
《穂村 この(=『脱衣場のアリス』の)タイトルといい、冒頭の文といい、読者を誘導しようという意図で付けられている。すると、それはぼくたちがふだん慣れ親しんだ価値観だからよくわかるのだけれど、川柳の句集は時系列でありたいとか、座によって表現が変わってくるっていうのは、見慣れない、聞き慣れない価値観なんです。いつも最高の場を想定して書けばいいじゃないかと思うんです。実際には存在しないほどの最高の場に向けて、最高の言葉で書けばいいんじゃないかと。それで驚異的なものを含まないものは、全部落としてしまえばいいじゃないかと、そういう発想になってしまうんです。》
河野春三を中心とする現代川柳は川柳におけるモダンの確立を目指していたのであり、一人の人間の自己表現であった。そういう川柳観から別の川柳観へと移行するところに『脱衣場のアリス』は生まれたのであり、にもかかわらず作者論の残滓は残っているのである。即ち、「作者の思い」を根拠とする作品と「言葉の強度」を根拠とする作品とが混在するところに、この句集の過渡的性格がうかがえる。現在の時点から見ると、そんなふうに思えるが、ただし、「言葉の強度」だけで成立している一冊の川柳句集はまだ存在しないとも言える。
では、そろそろまとめに入っていこう。
湊圭史は『脱衣場のアリス』を河野春三流の時系列を重視する価値観とは対極にあるものと見ている。一人の人間像ではなく、むしろ統一的人間像が困難になっていくゼロ年代の状況を提示していると見るのだ。では、この句集における「川柳性」はどこにあるのか。穂村が川柳についてイメージしたような自在感を、川柳の根拠として川柳人の言葉として理論的・戦略的に構築していくことを湊は求めているようだ。「最高の場」を固定することなく、場から場へとフットワークを生かしながら、有効打を放っていく自在性が逆に川柳の魅力ではないか、というのが湊の立場である。「こうした自由度を川柳が持つ、というのは、魅力的な視点ではないか」
繰り返すが、湊の文章によって改めて問いかけられているのは、価値観の異なる句が一冊の句集に混在するのは何か、それを許容する川柳的価値観があるのか、そのような「川柳性」とは何か、ということである。この問いに直接答えることは難しいが、一般化したかたちで整理してみる。
1 それは「座の文芸」としての川柳の性格による。「前近代の可能性」という視点はここから派生する。
2 それは川柳が連句の平句をルーツとすることによる。連句の平句における変化、ヴァラエティが川柳にも引き継がれているという湊圭史自身の考え方。
3 それは「川柳の幅」である。「川柳の幅」とは、伝統川柳と革新川柳の混在を抱え込む立場から用いられた言葉であるが、ここでは「作者の思い」を根拠とする作品と「言葉の強度」を根拠とする作品との過渡的なせめぎあいという意味で使用する。
4 場から場へと転じるフットワークの自在さこそ川柳の魅力である。これも湊圭史の考え方による。
5 それは元来、川柳というジャンルが不純物を含み、ひとつの統一的原理からはみ出す領域を常にかかえているからである。これは川柳の弱点ではなく、大きな魅力である。
「川柳性」とは何かという問いに答えることはとても難しい。私が川柳に関心をもった10年以前にも、川柳とは何かという問いに対するヒントとなるのは、石田柊馬の「幻の前句」「前句からの飛躍」論と樋口由紀子の「ことばの力」、渡辺隆夫の「何でもありの五七五」くらいしかなかった。元来、川柳は自律的ジャンル論では割り切れない不純な部分を含む文芸である。どのような規定もそこから大切な部分が抜け落ちてしまう。従来の「川柳性」を規定しようとする論者が失敗したり、複数要素の複合としてしか規定できなかったのはそのためである。石田柊馬が「川柳が川柳であるところの川柳性」とだけ言ってその内実を言おうとしないのは、はぐらかしというより賢明な態度である。
「川柳性」については問い続けられなければならないが、それは戦略的な問いであり、本質的には一人の川柳人が生涯をかけて問い続けるべきものであると思う。
2010年9月24日金曜日
2010年9月17日金曜日
川柳木馬の30年
来る9月19日(日)、高知で「第2回川柳木馬大会」が開催される。2004年5月の第1回大会から6年ぶりに開かれることになる。大会の様子は事後報告されることになるだろうが、現代川柳の一角に重要な足跡を残してきた「川柳木馬ぐるーぷ」の30年の歩みを改めて振り返りながら、この大会に臨みたい。
高知の「川柳木馬」は昭和54年(1979年)に設立された。
高知では若手の川柳グループ「四季の会」というのがあったらしい。昭和53年秋、田中好啓、橘高薫風が高知を訪れ、海地大破・北村泰章らと歓談しているうちに「高知から新しい柳誌を出してはどうか」という話になったという。大破はすでに「いずみの会」(昭和42年結成)のメンバーとして、田中・橘高らと交流があった。「川柳木馬」は「四季の会」を母胎に昭和54年7月に創刊。創立理念は「川柳の文学性と柳論の確立」「陋習の打破と個性の尊重」であった。
創刊同人は山下比呂与・海地大破・久保内あつ子・土居富美子・西川富江・太田周作・村長虹子・北村泰章・古谷恭一・津野和代・石建嘉美。発行人・海地大破、編集人・北村泰章をはじめ古谷恭一、西川富江(会計)などの意欲と実力のある若い柳人たちの出発であった。
創刊号は残念ながら見たことがないが、私の手元にあるのは創刊1年後の第5号である。巻頭言「昨日・今日・明日」で海地大破はこんなふうに書いている。
〈 木馬ぐるーぷは創立一周年を迎えた。
「木馬」は、県内柳人に祝福されて誕生したとはけっしていえない。むしろ異端者として受難の一歩をしるしたのである。しかし私たちは主義主張を超越して、古川柳から現代川柳に至るまでの歴史を振り返り、明日の川柳を確立するために、作品の質の向上と理論の体系化をめざしてお互いに切磋琢磨し、川柳に対する社会通念を払拭していかなければならない。 〉
同じ号には「創立一周年記念座談会」が掲載されていて、発刊1年の時点での展望と反省がまとめられている。座談会の出席者は大破・富江・泰章・恭一の4人。ここでは、木馬創刊によって得られたものとして「他ジャンルとの交流ができたこと」「中央柳界との交流が深まったこと」が挙げられている。
ここで改めて問うことにしよう。「川柳木馬ぐるーぷ」は何を目指していたのか。
1 川柳の文学性と柳論の確立
2 陋習の打破と個性の確立
3 他ジャンルとの交流
4 中央柳界との交流
いずれも現代川柳にとって不可欠の理念であり、いまでも色褪せないテーマである。これだけ高い理念を掲げる川柳誌はそうあるものではない。「中央柳界との交流」という点に関しては、「川柳界」が崩壊あるいは曖昧化し、中央と地方という対立軸が相対化した現在では、状況の変化があるかもしれない。いまは、各地のグループがゆるやかなネットワークで繋がりながら、それぞれの川柳活動を進めていく時代である。
さて、理念は理念として、実際の川柳活動を担うのは人である。海地大破を中心にして、高校教師という教育者の顔をもつ北村泰章、無頼派の一面をもつ古谷恭一、それぞれ個性的というかツワモノ揃いというか、独特の存在感をもっていたのだ。
彼らは高知の地方作家というわけではない。大破は「川柳展望」の創立会員であったし、泰章は京都の「平安川柳社」を通じてのネットワークをもっていた。また、恭一は俳人・たむらちせいとの交流など俳人としての一面も持っている。文学的志向性が強いのである。
「昭和2桁生まれの作家群像」が始まったのは、第13号(昭和57年7月)からである。第1回は「酒谷愛郷篇」。寺尾俊平と泉淳夫が作家論を書いている。以下、第2回「村上秋善篇」、第3回「岩村憲篇」と続き、「木馬」誌の看板シリーズとなっていく。
この連載は、2001年に『現代川柳の群像』上下2巻にまとめられた。計52人の現代川柳作家の作品とそれぞれの作家について二編ずつの作家論がまとめられている。資料的にも価値の高いものである。このシリーズは現在の「木馬」誌では「作家群像」とタイトルを変えて続いている。
大破・泰章・恭一はまた次世代の川柳人を育てることにも成功した。「木馬」には清水かおり、山本三香子、高橋由美などの個性的な女流川柳人がいて、それぞれ存在感を発揮している。
たとえば高橋由美は「川柳木馬」83号(平成12年春)の巻頭言で、〈 三十も後半の私を捕まえて、『若い世代』などと銘打ってくれるな。これほどまでに老いてしまった世界をもっと嘆こう 〉とタンカをきり、全国の柳人の度肝を抜いたのであった。
2007年8月、北村泰章が急逝した。木馬同人はその悲しみを乗り越えて、発行人・古谷恭一、編集人・清水かおりという体制で再スタートしている。北村泰章時代にあった「新刊紹介」「いほり」(同人の動きを中心とした川柳界の情報)「声」(読者の感想)の欄を廃止し、誌面がよりシンプルになった。川柳の内実だけを問う姿勢が感じられる。
「川柳木馬」は2009年10月に30周年記念合併号を出し、現在創刊31年目に入っている。
30年を越えるこのぐるーぷに、もし「木馬精神」とでも言うべきものがあるとすれば、それは何であろうか。海地大破の言葉を二つ並べてみよう。
〈今後は、「木馬」が権威主義に陥らないよう戒めるとともに、明日に向かって大きくはばたくために、若い力を結集して、一歩ずつ確実に前進していきたいと願っているのである〉「川柳木馬」第5号
〈才能は好むと好まざるとにかかわらず必ず衰えていくものなのです。衰えと気づいたときには、スムーズに世代交替を図っていくことが川柳の発展に繋っていくのではないでしょうか。作品本位から遠くはずれた所での権力の座への執着は、川柳を後退させるばかりでなく、混乱を招く結果にもなります〉「創」第14号
この人には権力に執着することへの羞恥とでもいうべき反権力的志向がある。
また、古谷恭一も「川柳木馬」最新号(125号)の巻頭言で、次のように述べている。
〈『川柳木馬』も三十年という節目を越えてしまったが、文芸といえども、企業と同じく、人材の若返り、自己変革なしには、当然、衰退の一途を辿って行くように思われる。前例主義や世間体にこだわることなく、前身『木馬』と違った生き方も必要であろう〉
現在、「川柳木馬」を牽引している清水かおりは、「バックストローク」だけではなく、新誌「Leaf」の創刊同人となるなど、多方面で活躍している。
昨年、俳句界で話題になった『新撰21』(邑書林)は若手俳人のアンソロジーであるが、今秋にはその続編として『超新撰21』が刊行されることになっている。清水かおりは俳人たちに混じってただ一人川柳人として21人の中に選ばれている。そのことは、彼女の作品が川柳というジャンルを越えて広く短詩型文学の中でテクストとして読まれていく契機となるだろう。言っておくが、俳句作品と並んで、ことばの力だけで伍していくことにはさまざまな困難が伴うだろう。川柳界の中だけにいる方がよほど安全無事なのである。けれども、清水かおりの軌跡は何も川柳のためではなく、彼女自身の自然な道程なのである。
大破・泰章・恭一から清水かおりへと受け継がれる権威主義を嫌う木馬精神は、これからも現代川柳に一石を投じ続けていくことだろう。
高知の「川柳木馬」は昭和54年(1979年)に設立された。
高知では若手の川柳グループ「四季の会」というのがあったらしい。昭和53年秋、田中好啓、橘高薫風が高知を訪れ、海地大破・北村泰章らと歓談しているうちに「高知から新しい柳誌を出してはどうか」という話になったという。大破はすでに「いずみの会」(昭和42年結成)のメンバーとして、田中・橘高らと交流があった。「川柳木馬」は「四季の会」を母胎に昭和54年7月に創刊。創立理念は「川柳の文学性と柳論の確立」「陋習の打破と個性の尊重」であった。
創刊同人は山下比呂与・海地大破・久保内あつ子・土居富美子・西川富江・太田周作・村長虹子・北村泰章・古谷恭一・津野和代・石建嘉美。発行人・海地大破、編集人・北村泰章をはじめ古谷恭一、西川富江(会計)などの意欲と実力のある若い柳人たちの出発であった。
創刊号は残念ながら見たことがないが、私の手元にあるのは創刊1年後の第5号である。巻頭言「昨日・今日・明日」で海地大破はこんなふうに書いている。
〈 木馬ぐるーぷは創立一周年を迎えた。
「木馬」は、県内柳人に祝福されて誕生したとはけっしていえない。むしろ異端者として受難の一歩をしるしたのである。しかし私たちは主義主張を超越して、古川柳から現代川柳に至るまでの歴史を振り返り、明日の川柳を確立するために、作品の質の向上と理論の体系化をめざしてお互いに切磋琢磨し、川柳に対する社会通念を払拭していかなければならない。 〉
同じ号には「創立一周年記念座談会」が掲載されていて、発刊1年の時点での展望と反省がまとめられている。座談会の出席者は大破・富江・泰章・恭一の4人。ここでは、木馬創刊によって得られたものとして「他ジャンルとの交流ができたこと」「中央柳界との交流が深まったこと」が挙げられている。
ここで改めて問うことにしよう。「川柳木馬ぐるーぷ」は何を目指していたのか。
1 川柳の文学性と柳論の確立
2 陋習の打破と個性の確立
3 他ジャンルとの交流
4 中央柳界との交流
いずれも現代川柳にとって不可欠の理念であり、いまでも色褪せないテーマである。これだけ高い理念を掲げる川柳誌はそうあるものではない。「中央柳界との交流」という点に関しては、「川柳界」が崩壊あるいは曖昧化し、中央と地方という対立軸が相対化した現在では、状況の変化があるかもしれない。いまは、各地のグループがゆるやかなネットワークで繋がりながら、それぞれの川柳活動を進めていく時代である。
さて、理念は理念として、実際の川柳活動を担うのは人である。海地大破を中心にして、高校教師という教育者の顔をもつ北村泰章、無頼派の一面をもつ古谷恭一、それぞれ個性的というかツワモノ揃いというか、独特の存在感をもっていたのだ。
彼らは高知の地方作家というわけではない。大破は「川柳展望」の創立会員であったし、泰章は京都の「平安川柳社」を通じてのネットワークをもっていた。また、恭一は俳人・たむらちせいとの交流など俳人としての一面も持っている。文学的志向性が強いのである。
「昭和2桁生まれの作家群像」が始まったのは、第13号(昭和57年7月)からである。第1回は「酒谷愛郷篇」。寺尾俊平と泉淳夫が作家論を書いている。以下、第2回「村上秋善篇」、第3回「岩村憲篇」と続き、「木馬」誌の看板シリーズとなっていく。
この連載は、2001年に『現代川柳の群像』上下2巻にまとめられた。計52人の現代川柳作家の作品とそれぞれの作家について二編ずつの作家論がまとめられている。資料的にも価値の高いものである。このシリーズは現在の「木馬」誌では「作家群像」とタイトルを変えて続いている。
大破・泰章・恭一はまた次世代の川柳人を育てることにも成功した。「木馬」には清水かおり、山本三香子、高橋由美などの個性的な女流川柳人がいて、それぞれ存在感を発揮している。
たとえば高橋由美は「川柳木馬」83号(平成12年春)の巻頭言で、〈 三十も後半の私を捕まえて、『若い世代』などと銘打ってくれるな。これほどまでに老いてしまった世界をもっと嘆こう 〉とタンカをきり、全国の柳人の度肝を抜いたのであった。
2007年8月、北村泰章が急逝した。木馬同人はその悲しみを乗り越えて、発行人・古谷恭一、編集人・清水かおりという体制で再スタートしている。北村泰章時代にあった「新刊紹介」「いほり」(同人の動きを中心とした川柳界の情報)「声」(読者の感想)の欄を廃止し、誌面がよりシンプルになった。川柳の内実だけを問う姿勢が感じられる。
「川柳木馬」は2009年10月に30周年記念合併号を出し、現在創刊31年目に入っている。
30年を越えるこのぐるーぷに、もし「木馬精神」とでも言うべきものがあるとすれば、それは何であろうか。海地大破の言葉を二つ並べてみよう。
〈今後は、「木馬」が権威主義に陥らないよう戒めるとともに、明日に向かって大きくはばたくために、若い力を結集して、一歩ずつ確実に前進していきたいと願っているのである〉「川柳木馬」第5号
〈才能は好むと好まざるとにかかわらず必ず衰えていくものなのです。衰えと気づいたときには、スムーズに世代交替を図っていくことが川柳の発展に繋っていくのではないでしょうか。作品本位から遠くはずれた所での権力の座への執着は、川柳を後退させるばかりでなく、混乱を招く結果にもなります〉「創」第14号
この人には権力に執着することへの羞恥とでもいうべき反権力的志向がある。
また、古谷恭一も「川柳木馬」最新号(125号)の巻頭言で、次のように述べている。
〈『川柳木馬』も三十年という節目を越えてしまったが、文芸といえども、企業と同じく、人材の若返り、自己変革なしには、当然、衰退の一途を辿って行くように思われる。前例主義や世間体にこだわることなく、前身『木馬』と違った生き方も必要であろう〉
現在、「川柳木馬」を牽引している清水かおりは、「バックストローク」だけではなく、新誌「Leaf」の創刊同人となるなど、多方面で活躍している。
昨年、俳句界で話題になった『新撰21』(邑書林)は若手俳人のアンソロジーであるが、今秋にはその続編として『超新撰21』が刊行されることになっている。清水かおりは俳人たちに混じってただ一人川柳人として21人の中に選ばれている。そのことは、彼女の作品が川柳というジャンルを越えて広く短詩型文学の中でテクストとして読まれていく契機となるだろう。言っておくが、俳句作品と並んで、ことばの力だけで伍していくことにはさまざまな困難が伴うだろう。川柳界の中だけにいる方がよほど安全無事なのである。けれども、清水かおりの軌跡は何も川柳のためではなく、彼女自身の自然な道程なのである。
大破・泰章・恭一から清水かおりへと受け継がれる権威主義を嫌う木馬精神は、これからも現代川柳に一石を投じ続けていくことだろう。
2010年9月10日金曜日
川柳の未来
「俳句空間 豈」50号が「21世紀を語ろう 10年目の検証」「21世紀の俳句を占う」という特集を行っている。21世紀の俳句を占い、俳句の未来を考える、という趣旨のようだ。
「10年目の検証」では次のような文章が印象に残った。
〈 二十一世紀の俳句を占うというテーマに即して結論を先にいうならば、二十一世紀といえども人生が豊かになるような気付きをもたらす俳句という詩型の力は揺るぎないということである。それだけ五・七・五、十七音の詩型は強固であり、究極の短詩型として成熟していると思うのである 〉(牛田修嗣)
〈 現代を詠むとは、例えば「地下鉄サリン事件」そのものを詠むことではなく、「地下鉄サリン事件」を背景に「切実な自己」を詠むことだ 〉(柴田千晶)
前者は、俳句形式に対する揺るぎない信頼を代表する意見。後者は、時代と私性との関係についての意見である。一般にこの特集では前者のような意見が多かったが、それは単なる信仰告白のようなもので、俳句の門外漢にとってはそれほど興味をもてなかった。短詩型に関心のある者にとって共通の問題意識となりうるのは、後者のような視点である。
「週刊俳句」173号の「豈50号を読む」で野口裕はこの特集について、〈 若い頃、富士正晴の文章を読みすぎたせいか、ことあるごとに彼の小説のタイトル「どうなとなれ」が頭の中で響いて困る。こんな特集はなおさらのところがある 〉と述べている。
「俳句の未来」についてなら「どうなとなれ」でもいいのだが、翻って、「川柳の未来」について考えてみると、そう言ってもいられない。
いささか旧聞に属するが、6月6日に青森で開催された「川柳ステーション2010」(おかじょうき川柳社)のトークセッションでは「川柳に未来はあるのか?」というテーマが掲げられた。発表誌「おかじょうき」7月号を読むと、パネラーの畑美樹が次のような発言をしている。
〈 川柳に未来はあるのかと言うことですが、人的な若さ、いわゆる世代交代のことと、川柳そのものの未来ということの二つのことがあると思います 〉
一番目の問題「人的な若さ」「世代交代」とは、たぶん川柳人の高齢化とか、結社の後継者不足とか、若い世代にどうやって川柳に関心を持ってもらうか、とかいう問題だろう。二番目の問題「川柳そのものの未来」とは、現代川柳が今後どのように展開していくか、川柳のことばはどうなっていくか、川柳という形式に新しい表現領域の可能性があるか、などの問いであろう。二番目の問いを抜きにして、いきなり一番目の問いを問題にするところに現在の川柳界の傾向が見られる。結社経営と経済の問題はここから出てくる。けれども、本質的なのは第二の問いであり、これに正面から応えるようなシンポジウムはほとんど見られない。多くの場合、「川柳の未来は大丈夫」という根拠のない楽観論で終わってしまうのである。
多くの川柳人は啓蒙主義的な川柳観をもっているふしがある。
即ち、川柳はおもしろいのだが、そのおもしろさが十分普及していないから、特に若い世代の人に川柳のおもしろさをアピールしていかなくてはならない、という考え方である。けれども、川柳は本当におもしろいのだろうか。本当におもしろければ、放っておいても一定数の十代・二十代の人たちが参加してくるはずではないか。
啓蒙主義的な川柳観を乗り越えて、冷徹に川柳形式を見直したときに、真の意味での危機意識が生まれてくる。川柳というジャンルなり詩形が未来にわたって生命力を持ち続けるかどうか、という問題である。文芸としての刺激に乏しいジャンルはいずれ滅亡するほかはないだろう。石田柊馬の「最後の川柳ランナー」論はそこから出てくる。
次の世代に川柳のバトンを渡していく。ところが、渡そうとしても次の走者が誰もいない…誰だってそんな悲惨な目にはあいたくないだろう。
「川柳の未来」― 富士正晴にならって、「どうなとなれ」と言いたくなってきたが、蛇足を続ける。
ゼロ年代以降、川柳にニュー・ウェイヴが起こり多様化が加速した。
それは同時に、現代川柳が川柳界だけではなくて、短詩型文学全体に向けて発信する動きでもあった。
クローズドからオープンへ。
文芸としての刺激は他ジャンルとの交流の中で川柳を問い直すことから生まれるものだろう。川柳の未来は川柳だけを考えていても見出しにくいものである。川柳もまた短詩型文学全体の動きと連動している。
一方で、川柳の未来を問うことは、川柳の現在位置を問うことでもある。いま求められているのは、新しい現代川柳史だろう。
座の文芸として句会・大会を楽しむこと、外に向かって川柳をアピールしていくこと、川柳が作者の手から離れてテクストとして自律すること、近代・現代川柳のアンソロジーを作ること、川柳において批評が一定の役割を果たすこと。川柳の世界でなされるべきことはまだいろいろあるはずだ。そういう意味では、川柳はまだ行き詰まってはいない、と言っていいかも知れない。
「10年目の検証」では次のような文章が印象に残った。
〈 二十一世紀の俳句を占うというテーマに即して結論を先にいうならば、二十一世紀といえども人生が豊かになるような気付きをもたらす俳句という詩型の力は揺るぎないということである。それだけ五・七・五、十七音の詩型は強固であり、究極の短詩型として成熟していると思うのである 〉(牛田修嗣)
〈 現代を詠むとは、例えば「地下鉄サリン事件」そのものを詠むことではなく、「地下鉄サリン事件」を背景に「切実な自己」を詠むことだ 〉(柴田千晶)
前者は、俳句形式に対する揺るぎない信頼を代表する意見。後者は、時代と私性との関係についての意見である。一般にこの特集では前者のような意見が多かったが、それは単なる信仰告白のようなもので、俳句の門外漢にとってはそれほど興味をもてなかった。短詩型に関心のある者にとって共通の問題意識となりうるのは、後者のような視点である。
「週刊俳句」173号の「豈50号を読む」で野口裕はこの特集について、〈 若い頃、富士正晴の文章を読みすぎたせいか、ことあるごとに彼の小説のタイトル「どうなとなれ」が頭の中で響いて困る。こんな特集はなおさらのところがある 〉と述べている。
「俳句の未来」についてなら「どうなとなれ」でもいいのだが、翻って、「川柳の未来」について考えてみると、そう言ってもいられない。
いささか旧聞に属するが、6月6日に青森で開催された「川柳ステーション2010」(おかじょうき川柳社)のトークセッションでは「川柳に未来はあるのか?」というテーマが掲げられた。発表誌「おかじょうき」7月号を読むと、パネラーの畑美樹が次のような発言をしている。
〈 川柳に未来はあるのかと言うことですが、人的な若さ、いわゆる世代交代のことと、川柳そのものの未来ということの二つのことがあると思います 〉
一番目の問題「人的な若さ」「世代交代」とは、たぶん川柳人の高齢化とか、結社の後継者不足とか、若い世代にどうやって川柳に関心を持ってもらうか、とかいう問題だろう。二番目の問題「川柳そのものの未来」とは、現代川柳が今後どのように展開していくか、川柳のことばはどうなっていくか、川柳という形式に新しい表現領域の可能性があるか、などの問いであろう。二番目の問いを抜きにして、いきなり一番目の問いを問題にするところに現在の川柳界の傾向が見られる。結社経営と経済の問題はここから出てくる。けれども、本質的なのは第二の問いであり、これに正面から応えるようなシンポジウムはほとんど見られない。多くの場合、「川柳の未来は大丈夫」という根拠のない楽観論で終わってしまうのである。
多くの川柳人は啓蒙主義的な川柳観をもっているふしがある。
即ち、川柳はおもしろいのだが、そのおもしろさが十分普及していないから、特に若い世代の人に川柳のおもしろさをアピールしていかなくてはならない、という考え方である。けれども、川柳は本当におもしろいのだろうか。本当におもしろければ、放っておいても一定数の十代・二十代の人たちが参加してくるはずではないか。
啓蒙主義的な川柳観を乗り越えて、冷徹に川柳形式を見直したときに、真の意味での危機意識が生まれてくる。川柳というジャンルなり詩形が未来にわたって生命力を持ち続けるかどうか、という問題である。文芸としての刺激に乏しいジャンルはいずれ滅亡するほかはないだろう。石田柊馬の「最後の川柳ランナー」論はそこから出てくる。
次の世代に川柳のバトンを渡していく。ところが、渡そうとしても次の走者が誰もいない…誰だってそんな悲惨な目にはあいたくないだろう。
「川柳の未来」― 富士正晴にならって、「どうなとなれ」と言いたくなってきたが、蛇足を続ける。
ゼロ年代以降、川柳にニュー・ウェイヴが起こり多様化が加速した。
それは同時に、現代川柳が川柳界だけではなくて、短詩型文学全体に向けて発信する動きでもあった。
クローズドからオープンへ。
文芸としての刺激は他ジャンルとの交流の中で川柳を問い直すことから生まれるものだろう。川柳の未来は川柳だけを考えていても見出しにくいものである。川柳もまた短詩型文学全体の動きと連動している。
一方で、川柳の未来を問うことは、川柳の現在位置を問うことでもある。いま求められているのは、新しい現代川柳史だろう。
座の文芸として句会・大会を楽しむこと、外に向かって川柳をアピールしていくこと、川柳が作者の手から離れてテクストとして自律すること、近代・現代川柳のアンソロジーを作ること、川柳において批評が一定の役割を果たすこと。川柳の世界でなされるべきことはまだいろいろあるはずだ。そういう意味では、川柳はまだ行き詰まってはいない、と言っていいかも知れない。
2010年9月3日金曜日
ねむらん会小史
8月28日に和気鵜飼谷温泉で、「第5回ねむらん会」が開催され、21名が参加した。今回は時評とは少し異なるが、この会の歩みについてレポートしてみたい。
2002年2月、西大寺川柳大会の折に、石田柊馬・田中博造・前田一石・石部明・樋口由紀子の5人は川柳の昔話で盛り上がっていた。その中に、京都の平安川柳社の徹夜句会の話題があり、そのおもしろさを石田柊馬は少年のように眼を輝かせて語った。それでは、眠らないで川柳を遊びながら作る会を開いてみようと、一気に話がまとまったという。
第1回は2002年8月24日に和気鵜飼谷温泉で開催。参加者16名。
第一部は前田一石による句会。「ぎりぎり」「だけど」「たそがれ」の兼題とイメージ吟。ここまでは真面目な句会である。
第二部が石田柊馬による句会。紅白に分かれてチームを作り、キャプテンは赤組・田中博造、白組・石田柊馬。ゲームごとに得点を入れていき、勝敗を競う。勝ち負けがからむと眠気ざましにもなる。
まず始まったのが紙切りゲームで、一枚の新聞紙でどれだけ長いものを作れるかという競争である。続いて、現代詩を書く、スプーンレース、短歌を書く、などがあり、いよいよ恐怖の「三分間吟」が始まる。
恨んだら百円ショップへ行こう 畑美樹
人形を越えて人形病んでいる 松永千秋
花火あげようかコロッケ食べようか 樋口由紀子
血管の太い九月を逆上がり 駒木根ギイ
戦いのまず座布団を放り投げ 石部明
三十秒たつと鼻はふくらむぞ 石田柊馬
美術館の入場券はバナナです 井出節
翌日は、閑谷学校を観光した。第1回参加の井出節さんは、その後死去されたのが惜しまれる。
第2回は2004年8月28日、場所は同じく和気鵜飼谷温泉。参加者14名。
このときの記録が見つからないので詳細は不明。翌日は伊部を訪れ、備前陶芸美術館などを散策した。
第3回は、2006年8月19日、犬島。参加者19名。岡山県西大寺の小さな漁村から船に乗る。船中でさっそく課題吟「いざなう」が出される。10分で犬島に到着。大正時代には銅の精錬所が繁栄したというが、その跡地は廃墟のようになっている。島は現在、キャンプ場や海水浴で夏場にはけっこう観光客も来るという。
この年の企画で印象的だったのは、『悪魔の辞典』にならって「桜」「うどん」「酒」「台風」などを考えたこと。
桜 日本人で良かったと思わせるために靖国が増やしているもの。
酒 人生という砂漠を越えてきた旅人が一番最初に欲しがる液体。ただし量をすぎると友人を 失うこともあるので注意。
台風 何度も北極点に到着しようと試みるが、ついに一度も成功したことのないひねくれ者。
第4回は2008年8月23日、会場を再び和気鵜飼谷温泉に戻して開催。参加者16名。この時のことは「週刊俳句」71号に「ねむらん会」参加録を羽田野令と野口裕が書いているので、そちらに譲る。
そして、今回が第5回である。2010年8月28日、和気鵜飼谷温泉にて。参加者21名。
午後3時過ぎにホテルに到着。ちょうど地元の祭の日で、ホテル前は老若男女で賑わっていた。人混みをかき分けてチェックイン。5時に出句締切なので、急いで投句し、入浴をすませる。
夕食前にさっそく恒例の前田一石句会。共選方式である。「ミラクル」(石田柊馬・内田真理子)「和風」(野口裕・小西瞬夏)「ほとり」(松本仁・樋口由紀子)「右も左も」(田中博造・吉澤久良)「ん?」(石部明・畑美樹)、ここまでが兼題。年によってはイメージ吟が出されることもあるが、今回は席題「抜く」(小池正博・松永千秋)であった。
机上のミラクル橋上のミラクル 圭史
妖怪を和風ランチでたいらげる 仁
おじいさんのほとりおばあさんのほとり梟のほとり 柊馬
草刈民代右も左も金属音 彰子
「ん?」には「ん?」で返してくる糞ころがし 多佳子
姉ちゃんを抜くのは絶えずひっかかる あきこ
句会のあと続いて連句に挑戦。
こぼれ萩眠りの精は眠らない 正博
草書体にも吹く秋の風 あきこ
鉄塔とぼくらを汚す青い月 瞬夏
バイク響かせ裏側へ行く 柊馬
里山に埋蔵金があるという 久良
夢の中では西瓜鈴なり 真理子
空蝉の自転車カゴにしがみつき 圭史
不正受給もやむをえぬ仕儀 久良
ばあさんはベッドの下で寝ています 由紀子
赤ずきんやら青ずきんやら 久良
花散って空襲警報鳴り止んで 圭史
連れ立つときは四月一日 柊馬
ここまでで午後7時少し前。ようやく夕食・宴会となる。
午後8時から体操・ゲームタイム。
石田柊馬による頭の体操の出題は、毎回趣向を凝らしているが、今回は「①乗っていた飛行機が墜落するとき作った歌」→「②奇跡的に墜落を免れたときの一句」→「③生還した機長の記者会見での一句」という関連のある課題がおもしろかった。
①落ちてゆく落ちてゆくふっとトンボの目玉になって 千秋
②親指を噛んでしんしんする安堵 瞬夏
③道連れにするにはちょっと多すぎた 由紀子
また、写真を見ながらシナリオを書くという新趣向もあった。
いよいよ三分間吟が始まる。「ボタン」(畑美樹)「屋」(樋口由紀子)「裏」(前田ひろえ)「樹」(吉澤久良)「手首」(湊圭史)「高」(たむらあきこ)「真ん中」(石部明)「雲」(田中博造)「声」(小西瞬夏)「逃げる」(斉藤幸男)「虫」(岩田多佳子)「詐」(野口裕)「サラサラ」(なかむらせつこ)「こつんこつん」(岩根彰子)「椅子」(内田真理子)「爪」(松永千秋)「含む」(小池正博)「血潮」(松本仁)「戸」(石田柊馬)「あ」(前田一石)と次々に席題が出されていく。席題が発表された瞬間からストップウォッチで計られる三分間ひたすら句を書き続ける。軸吟はなし。1人で10句書く人もいる。1句を18秒で書く計算になる。平均5句くらいは書いただろうから、1人当たり100句以上になるだろう。句箋が足りなくなって、選が終った分の没句の裏に書いたりした。「下手な句の裏に書くと、こっちまで下手になる」とぼやく人も。参加者20人だから、5人終ったところで選句と披講。これを4回繰り返す。自分が何を書いたか覚えていられないから、句箋の字を見せられて呼名する人も多い。
このレポートを書くために、秀句を記録しておくつもりだったが、ふと気がつくと作句に夢中になっていて、それどころではなかった。
この三分間吟は無意識を開放して書いているから、本能的な自分の句が出る。普段は推敲によってマンネリ化した自分の癖を直したり、それを越えるものを目指したりするのだが、三分間ではそんな余裕がないから、旧来の自分の句が突然出現したりする。仕方なくそのまま出すのである。
三分間吟が終って、午前5時前に布団にもぐりこんだ。午前7時には起床。前田一石はすでに早朝句会の準備に余念がなかった。
2002年2月、西大寺川柳大会の折に、石田柊馬・田中博造・前田一石・石部明・樋口由紀子の5人は川柳の昔話で盛り上がっていた。その中に、京都の平安川柳社の徹夜句会の話題があり、そのおもしろさを石田柊馬は少年のように眼を輝かせて語った。それでは、眠らないで川柳を遊びながら作る会を開いてみようと、一気に話がまとまったという。
第1回は2002年8月24日に和気鵜飼谷温泉で開催。参加者16名。
第一部は前田一石による句会。「ぎりぎり」「だけど」「たそがれ」の兼題とイメージ吟。ここまでは真面目な句会である。
第二部が石田柊馬による句会。紅白に分かれてチームを作り、キャプテンは赤組・田中博造、白組・石田柊馬。ゲームごとに得点を入れていき、勝敗を競う。勝ち負けがからむと眠気ざましにもなる。
まず始まったのが紙切りゲームで、一枚の新聞紙でどれだけ長いものを作れるかという競争である。続いて、現代詩を書く、スプーンレース、短歌を書く、などがあり、いよいよ恐怖の「三分間吟」が始まる。
恨んだら百円ショップへ行こう 畑美樹
人形を越えて人形病んでいる 松永千秋
花火あげようかコロッケ食べようか 樋口由紀子
血管の太い九月を逆上がり 駒木根ギイ
戦いのまず座布団を放り投げ 石部明
三十秒たつと鼻はふくらむぞ 石田柊馬
美術館の入場券はバナナです 井出節
翌日は、閑谷学校を観光した。第1回参加の井出節さんは、その後死去されたのが惜しまれる。
第2回は2004年8月28日、場所は同じく和気鵜飼谷温泉。参加者14名。
このときの記録が見つからないので詳細は不明。翌日は伊部を訪れ、備前陶芸美術館などを散策した。
第3回は、2006年8月19日、犬島。参加者19名。岡山県西大寺の小さな漁村から船に乗る。船中でさっそく課題吟「いざなう」が出される。10分で犬島に到着。大正時代には銅の精錬所が繁栄したというが、その跡地は廃墟のようになっている。島は現在、キャンプ場や海水浴で夏場にはけっこう観光客も来るという。
この年の企画で印象的だったのは、『悪魔の辞典』にならって「桜」「うどん」「酒」「台風」などを考えたこと。
桜 日本人で良かったと思わせるために靖国が増やしているもの。
酒 人生という砂漠を越えてきた旅人が一番最初に欲しがる液体。ただし量をすぎると友人を 失うこともあるので注意。
台風 何度も北極点に到着しようと試みるが、ついに一度も成功したことのないひねくれ者。
第4回は2008年8月23日、会場を再び和気鵜飼谷温泉に戻して開催。参加者16名。この時のことは「週刊俳句」71号に「ねむらん会」参加録を羽田野令と野口裕が書いているので、そちらに譲る。
そして、今回が第5回である。2010年8月28日、和気鵜飼谷温泉にて。参加者21名。
午後3時過ぎにホテルに到着。ちょうど地元の祭の日で、ホテル前は老若男女で賑わっていた。人混みをかき分けてチェックイン。5時に出句締切なので、急いで投句し、入浴をすませる。
夕食前にさっそく恒例の前田一石句会。共選方式である。「ミラクル」(石田柊馬・内田真理子)「和風」(野口裕・小西瞬夏)「ほとり」(松本仁・樋口由紀子)「右も左も」(田中博造・吉澤久良)「ん?」(石部明・畑美樹)、ここまでが兼題。年によってはイメージ吟が出されることもあるが、今回は席題「抜く」(小池正博・松永千秋)であった。
机上のミラクル橋上のミラクル 圭史
妖怪を和風ランチでたいらげる 仁
おじいさんのほとりおばあさんのほとり梟のほとり 柊馬
草刈民代右も左も金属音 彰子
「ん?」には「ん?」で返してくる糞ころがし 多佳子
姉ちゃんを抜くのは絶えずひっかかる あきこ
句会のあと続いて連句に挑戦。
こぼれ萩眠りの精は眠らない 正博
草書体にも吹く秋の風 あきこ
鉄塔とぼくらを汚す青い月 瞬夏
バイク響かせ裏側へ行く 柊馬
里山に埋蔵金があるという 久良
夢の中では西瓜鈴なり 真理子
空蝉の自転車カゴにしがみつき 圭史
不正受給もやむをえぬ仕儀 久良
ばあさんはベッドの下で寝ています 由紀子
赤ずきんやら青ずきんやら 久良
花散って空襲警報鳴り止んで 圭史
連れ立つときは四月一日 柊馬
ここまでで午後7時少し前。ようやく夕食・宴会となる。
午後8時から体操・ゲームタイム。
石田柊馬による頭の体操の出題は、毎回趣向を凝らしているが、今回は「①乗っていた飛行機が墜落するとき作った歌」→「②奇跡的に墜落を免れたときの一句」→「③生還した機長の記者会見での一句」という関連のある課題がおもしろかった。
①落ちてゆく落ちてゆくふっとトンボの目玉になって 千秋
②親指を噛んでしんしんする安堵 瞬夏
③道連れにするにはちょっと多すぎた 由紀子
また、写真を見ながらシナリオを書くという新趣向もあった。
いよいよ三分間吟が始まる。「ボタン」(畑美樹)「屋」(樋口由紀子)「裏」(前田ひろえ)「樹」(吉澤久良)「手首」(湊圭史)「高」(たむらあきこ)「真ん中」(石部明)「雲」(田中博造)「声」(小西瞬夏)「逃げる」(斉藤幸男)「虫」(岩田多佳子)「詐」(野口裕)「サラサラ」(なかむらせつこ)「こつんこつん」(岩根彰子)「椅子」(内田真理子)「爪」(松永千秋)「含む」(小池正博)「血潮」(松本仁)「戸」(石田柊馬)「あ」(前田一石)と次々に席題が出されていく。席題が発表された瞬間からストップウォッチで計られる三分間ひたすら句を書き続ける。軸吟はなし。1人で10句書く人もいる。1句を18秒で書く計算になる。平均5句くらいは書いただろうから、1人当たり100句以上になるだろう。句箋が足りなくなって、選が終った分の没句の裏に書いたりした。「下手な句の裏に書くと、こっちまで下手になる」とぼやく人も。参加者20人だから、5人終ったところで選句と披講。これを4回繰り返す。自分が何を書いたか覚えていられないから、句箋の字を見せられて呼名する人も多い。
このレポートを書くために、秀句を記録しておくつもりだったが、ふと気がつくと作句に夢中になっていて、それどころではなかった。
この三分間吟は無意識を開放して書いているから、本能的な自分の句が出る。普段は推敲によってマンネリ化した自分の癖を直したり、それを越えるものを目指したりするのだが、三分間ではそんな余裕がないから、旧来の自分の句が突然出現したりする。仕方なくそのまま出すのである。
三分間吟が終って、午前5時前に布団にもぐりこんだ。午前7時には起床。前田一石はすでに早朝句会の準備に余念がなかった。