tag:blogger.com,1999:blog-503249665887850889.post6176041338211332525..comments2023-05-06T23:13:39.311+09:00Comments on 週刊「川柳時評」: 池田澄子と樋口由紀子如月和泉http://www.blogger.com/profile/18113498084813823571noreply@blogger.comBlogger2125tag:blogger.com,1999:blog-503249665887850889.post-83115278392250837622012-09-27T22:25:47.863+09:002012-09-27T22:25:47.863+09:00正岡さん、書き込みありがとうございます。
「現代俳句と現代川柳の混淆―これは重大なことである」
「こ...正岡さん、書き込みありがとうございます。<br />「現代俳句と現代川柳の混淆―これは重大なことである」<br />「このことについて、批評家も作家も全然触れようとしない」<br />「俳句の真の秩序が見失われている証左であろう」<br />という富澤赤黄男の言葉を思い出したりします。<br />が、それはそれとして、ヒエラルキー意識なしに俳句と川柳が向かい合える今の状況が私は嫌いではありませんが、それも幻想かもしれません。<br />東寺吟行会またできればいいですね。如月和泉https://www.blogger.com/profile/18113498084813823571noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-503249665887850889.post-12854774471323466382012-09-26T21:57:18.682+09:002012-09-26T21:57:18.682+09:00こんばんわ。正岡です。先日の会は盛会でよかったですね。さて、私のツイッターの文が引用されていますが、...こんばんわ。正岡です。先日の会は盛会でよかったですね。さて、私のツイッターの文が引用されていますが、私にはいま川柳作家のほうが「俳句を書かない」ことを意識して川柳を作っているようには思えます。「『何か』から遠ざかろうとしている言葉」、(その「何か」は具体的にあげられないですが)それを今の川柳の作り手たちは求めているような。あと、それでも私は「俳句を書くということは川柳を書かないということだった」ころの俳句の方に、個人的には親しみを覚えます。それは「俳句」の「言葉」に内在してると思われる「選民性」へ愛憎や葛藤を抱きながら多くはそれをあからさまにせぬままに、自らの句作行為の中へ着地点を追い求めてゆくところに古典的なロマンチックさを私が感じるからだろうと思います。まあそういう「読み手」はたぶん高齢化していていなくなるんでしょうけどねえ。ということで。正岡豊https://www.blogger.com/profile/14772787644962719429noreply@blogger.com