2011年7月29日金曜日

伊那谷の母系社会―畑美樹の川柳

加島祥造はかつて英米文学の翻訳者として活躍し、フォークナーの『八月の光』の翻訳は私も読んだことがある。加島は60代半ばで信州の伊那谷に移り住み、詩集『求めない』や老子の思想を血肉化した『伊那谷の老子』は広く読まれている。先日、朝日新聞の夕刊(7月19日~22日)に彼のインタビュー記事が掲載されていて、なつかしく思った。

伊那谷は漂泊の俳人・井上井月(いのうえ・せいげつ)のゆかりの地としても知られている。井月は石川淳の『諸国畸人伝』にも登場するし、つげ義春の漫画『無能の人』にも描かれているが、最近、映画「伊那の井月・ほかいびと」(監督・北村皆雄)が製作され、この11月には伊那で上映される予定と聞いている。

「私が住む家のすぐ近くに、漂白の俳人井上井月終焉の地がある。芭蕉を崇拝し、奥の細道をたどったこともあるという井月、晩年、中央アルプスを見渡せるその地で、

  何処やらに鶴の声聞く霞かな

という句を残した。実際、本当にアルプスを見上げて作ったのか、定かではないけれど、我が家の庭からも見える山々の頂と霞む谷の情景は、和紙に墨がにじんでいくように、私の中にもなじんでいく」

畑美樹は井月についてこんなふうに書いている(「柳の家」、セレクション柳人『畑美樹集』所収)。「バックストローク」編集長の畑美樹は伊那在住の川柳人である。
数年前、伊那の友人の山荘に連句人が集まって、歌仙を巻いたことがある。畑美樹にも参加してもらって、井月ゆかりの地を案内してもらった。六道堤で話が野草のことになったとき、畑は堤の斜面をこともなく歩き降り、野草を手にとって私たちに説明した。都会人ならすべったり転んだりしそうな斜面である。このとき私は畑美樹の自然人としての面を実感したのである。

「Leaf」4号(7月15日発行)に吉澤久良が「感性に拠る―畑美樹論」を書いている。畑美樹の作品に「まんなか」という語が頻出することを指摘したあと、吉澤はこんなふうに述べている。

《 自分の〈位置〉が「まんなか」であると、なぜ畑に感じられるのか。それは、〈位置〉計測の基点となる羅針盤が畑の感性の中に据えられているからである 》

ここで問題にされているのは畑美樹における「感性」「感覚」の在り方である。ただし、吉澤は続けて次のようにも書いている。

《 もちろん畑は、自己の〈位置〉が「まんなか」であると常に思っていられるほどの自信家でも楽天家でもない。「まんなか」「正確」「まっすぐ」とは、〈位置〉への希求として表現されているのだ 》
《 しかし、その希求は同時に、自分の〈位置〉が本当に「正確」で「まっすぐ」であるだろうかという不安によって、常に揺さぶられている。感覚とは本質的に揺らぐものなのである 》

「Leaf」4号から畑美樹の作品を引用してみる。

夕立ちをかすかに光らせる左辺   畑美樹
一滴のこだまを抱いている左辺

「夕立ちを」と「一滴の」はともに「左辺」に収束して対応している。兵頭全郎はこの両句を「抵抗」というキーワードで読み、「光らせる」「抱いている」という能動的な動詞に注目して、次のように述べている。

《 今回の畑作品はおおむね作中主体が能動的に動いているが、自発的な能動性というより、むしろある状況に置かれた中でどうにか動かざるを得ない、ならばせめてもの抵抗を、といった感じだ 》

骨としてうぐいすとして出迎える  畑美樹
泣きそうな馬をさがしに行くところ

この二句について清水かおりは次のように述べる。

《 畑美樹の作品に漂う、ゆだねるような感覚は、書かれた主体の持つ意識が希薄なところから来ている。》《 全ての物事、全ての存在は流動的で一時も同じところに留まってはいない。私達が固有の存在と思っている自己のことを、畑の作品というフィルターを通して見てみると突然あやふやなものになってくる 》

そして、清水は「畑は句を書くときに読者のこういう反応を考えたことがあるだろうか」と問い、「畑は読者を意識しない。こちら側から作品の向こう側を指さしているだけなのである」という。

包丁は遠くで匂う与論島    畑美樹
一握の砂を東に曲がるふね

「一握の砂」は単なる記号ではなく、私には強い意味を発信しているように感じられる。啄木的なもの、短歌的なものに対する畑の嗜好・親和を語っている。兵頭全郎は啄木を読み込んだ読者と単純に「ひとにぎりの砂」と読む読者とでは解釈に差が出てくると述べているが、この句の場合は啄木を意識しないわけにはいかない。短歌憧憬は畑の低音部なのであろうか。

前掲の加島祥造のインタビューで、彼はこんなふうに述べている。

人間だってずっと以前、母系社会だったころは「共に生きる」が原則の生活だったのに、父権社会になって、争いが始まったのだと分かり始めました。自然と老子の両方から知ったことです。

加島も井月も伊那の母系社会の中で再生することができたのだろう。
他所からやって来た男たちはそれでいい。では、伊那の女性たちの心の底は本当のところどうなのだろうと考えてしまう。
「伊那井月会」発行の「井上井月・夏の五十句」から井月の夏の句を紹介しておく。

よき水に豆腐切り込む暑さかな     井月
茹ものは皆水替へて明け易し
みな清水ならざるはなし奥の院
短夜や筧の音の耳につく

この時評は昨年の8月にスタートしたから、今月末で丸一年になる。
大学時代に学んだゲルマニズム(ドイツ文学)では「ギリシア精神(ヘレニズム)」と「ユダヤ精神(ヘブライズム)」ということを言う。ギリシア精神は過去のすべてが現在の一点に凝縮されているととらえる。ユダヤ精神はひたすら未来をめざして進んでいく。砂漠の民は次のオアシスを目指して歩み続けなければ生きてゆけないのである。
このブログも、存在するかどうか曖昧なオアシスをめざして書き継いできたが、過去を振り向くことなく、これからも進み続けるほかない。

2011年7月22日金曜日

川柳句集の句評会

7月17日、アウィーナ大阪で渡辺隆夫句集『魚命魚辞』、小池正博句集『水牛の余波』の合同句評会が開催された。いわゆる出版記念会・祝賀会ではなく、句集の読みと評価に的を絞った純粋の句評会で、関西在住の川柳人を中心に俳人・歌人も含めて、45名が集まった。
短歌・俳句では批評会がしばしば開かれている。20代・30代で第一歌集・句集が出され、その評価を参考にして次の第二歌集・句集の方向性を模索することができる。歌集・句集が到達点ではなく、次に進むための出発点となるのだ。従って、儀礼的な祝賀は若い歌人・俳人にとって意味がない。次のステップに進むために、弱点は容赦なく指摘されることになる。もちろん短歌・俳句であっても儀礼的な祝賀会はあるのだろうが、川柳界では批評会というものはほとんど見られない。短歌史・俳句史のなかでその歌集・句集が位置づけられるのとは異なって、川柳史における句集の評価という作業は行われないのだ。渡辺隆夫の第一句集『宅配の馬』が出されたとき、渡辺は58歳だったという。今回第一句集を出した『水牛の余波』の小池は56歳。短歌・俳句に比べて川柳人の出発は遅い。

川柳における出版記念会について少し振り返ってみたい。1998年12月に尼崎で開催された森田栄一句集『パストラル』の出版会の際には、公開討論会「現代川柳は21世紀に生き残れるか」が行われた。司会は高橋古啓。
翌年発行された記念誌「川柳アトリエの会」50号(1999年6月)を読むと、このときのディスカッションでは句集『パストラル』の句について誰も一句も触れていない。パネラー各自が自己の意見を述べているだけで、具体的作品が俎上にのぼってこないのだ。むしろ同時期に発行された渡辺隆夫句集『都鳥』についての発言が多く、たまりかねた司会者が「今日は『パストラル』の記念会です」と牽制している。奇妙なことであり、句評会という意識はパネラーにはなかったのだろう。
1999年8月に姫路で開催された樋口由紀子句集『容顔』の出版記念会では、「ボーイフレンドが読む『容顔』」と題してパネルディスカッションが行われた。コーディネーターは堀本吟。パネラーが大井恒行(俳句)、荻原裕幸(短歌)、高山れおな(俳句)、長岡千尋(短歌)、藤田踏青(自由律俳句)、渡辺隆夫(川柳)である。ここでは「作品例に関して特に主張したいこと」「共鳴句」「樋口由紀子へのアドヴァイス」「短詩型現状についていちばんいいたいこと」などが挙げられている。
2001年に大阪で開催された「川柳ジャンクション」は、合同句集『現代川柳の精鋭たち』の出版にちなんだもの。「川柳の立っている場所」というテーマで荻原裕幸・藤原龍一郎・堀本吟による鼎談があった。
2006年大阪で開催された「セレクション柳人出版記念大会」は13句集を一挙に読むもので、個々の作品の読みにまで踏み込めなかった。純粋な批評会ではなく、第二部で句会が開催された。
以上、関西で開催された出版会について管見に入ったものだけを取り上げたが、『容顔』の出版会を除いて「句評会」と呼べるものではなかったことが分かる。ただ、こうした川柳における出版記念会の流れを振り返ってみると、次の二つの志向を認めることができる。
①「川柳についての放談」から「具体的作品にもとづいた根拠ある発言」へ
②「歌人・俳人のパネラー」から「川柳人自身によるパネラー」へ

さて、今回の句評会であるが、第一部『魚命魚辞』は、司会・堺利彦、パネラー・吉澤久良、小池正博、野口裕。第二部『水牛の余波』は、司会・樋口由紀子、パネラー・湊圭史、渡辺隆夫、彦坂美喜子。
第一部では司会・堺利彦の「柳界ではめずらしいパネルディスカッション形式による句集の句評会なるものを試みてみたい」という発言に続いて、パネラーの吉澤は次のように述べた(発言要旨)。

『魚命魚辞』には、パロディー、語呂合わせ、ずり落としの句が満載である。パロディーや語呂合わせは、「ああ、このことを下敷きにしているな」という〈答え〉がわかれば、それで終ってしまうことが多い。けれども、渡辺隆夫の句集には、わずかではあるが〈答え〉に収束しない句がある。

「〈答え〉に収束しない句」として吉澤は次のような句を取り上げた。これらの句は渡辺隆夫の〈柔らかい部分〉であり、それは、叙情性であったり、不条理であったり、古川柳的な情感であったりする、と吉澤はいう。

硬直の紡錘体が秋の魚
炎天下百歩歩いて皆トカゲ
縁談に土用の丑が来て座る
地の蓋を開けて極月のぞき込む
原子力銭湯へ行っておいでバカボン

続いて、小池は隆夫川柳を「私性の抹殺」「批評対象の創出」「キャラクター川柳」という三つの視点からとらえ、本句集のキーワードは「昭和」であり、隆夫の「昭和」に対する落とし前のつけ方として読んだと述べた。
隆夫は「バックストローク」創刊号の「隣りは何をする人ぞ」(「セレクション柳論」に所収)で、「現代における一般的な読みとはマンガ的読みだ」と書いている。「船団」の久留島元によると、マンガ俳句と漫画的俳句とは違う。マンガ俳句はアニメ・マンガのキャラクターを素材として詠んだ俳句。「鉄腕アトム」や「ドラえもん」などのマンガのヒーローは素材になりやすい。それに対して、漫画的俳句は素材の問題ではなくて、漫画の手法を用いた俳句ということ。隆夫の川柳にも「原子力銭湯へ行っておいでバカボン」「テポドンに紅の豚ぶちかまし」などマンガ・アニメのキャラクターを用いたものがある。けれども、これらの句は、「キャラクター川柳」ではなく、むしろ次のような句にキャラクター川柳の方法があらわれている。

乙姫社の魚語辞典はまだ出ぬか
シーラカンスは魚気の多い編集長
昭和史を他山の石とはせぬぞ、御意
魚命魚辞、また勅語かと朕びびる

「魚の国」があって、魚の出版社「乙姫社」がある。編集長はシーラカンス。この漫画的乗りをおもしろいと思わない人にはこの句集は無縁である。人間なら「ヤマ気」が多いのだが、魚だから「魚気」が多い。出そうとしている本は『魚語辞典』である。このようにして一句一句を積み上げることによって、隆夫はひとつのセカイを創り上げてゆく。では、何のためにセカイを創り上げるか。そのセカイを風刺対象にするためである。風刺対象がなければ風刺することができない。「魚の国」に「魚の天皇」がいて、御名御璽のかわりに魚命魚辞を押す。国民は魚意魚意といいながらミサイルを発射するのである。キャラクター川柳は風刺対象を作り出しつつそれを風刺する。作者と作品の間に距離をおくための絶妙の方法である。

野口は、渡辺隆夫に対する批判的な見地から次のように述べた。
『魚命魚辞』は面白い句が並んでいる句集とは思えない。野口は退屈と思える要因として次の諸点を挙げている。
①「それがどうした」感。句材の取り合わせが安易であったり、既視感がある、あるいは句材そのものが陳腐な場合に「それがどうした」感が起こりやすい。

乙女座に九十年もいて男 (女に男という当たり前すぎる配置)
北緯60度スコットランドは準白夜 (隆夫の旅吟は「絵葉書」俳句)
遠雷や生命保険の人が来る (雷から死を連想し、それが生命保険に結びつく流れ常識的な発想)

②「なんじゃこりゃ」感。句材の突飛さに頼って書いていると感じる句。その突飛さに驚けば、句としては成功なのだろうが、突飛であればあるほど鼻白む読者もあろうし、どんなに突飛でも「それで?」と問い返す読者もある。

上野駅トイレにしゃがむ西郷どん
衛兵のキルトの下はノーパンツ
ウンコなテポドン便器なニッポン

③「ああ、またか」感。やたらと同音・同字が句に出てくる。同一手法の繰り返しも、度が過ぎる。

肉欲と海水浴はオトモダチ
薔薇は咲いたかベルばらまだか
草津ヨイトコ二人はイトコ
亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む

④面白いと思った句。渡辺隆夫の言葉遊び満載の句集の中に、ねっとりとした良い味を発見する句がある。今のところ、珍重すべきほどの頻度だが、今後はこの方向に行くべき人なのではないだろうか。

デパ地下を鮮魚が泳ぐ現代の午後
頬被りてめえ松方弘樹だな
シウマイは若きシングルマザーの味
妹の背に人魚のころの銛の跡
大陸移動が骨盤にひびくの

司会の堺利彦は、「1990年代から2000年代にかけての現代川柳に大きなインパクトを与えた隆夫川柳の、そのインパクトがどういうところにあるのか、また、一部のファンから高い評価を得ているにもかかわらず、なぜ川柳界に隆夫川柳の亜流なり模倣が登場しないのか」という問題意識をもっていたようだが、パネラーの発言は必ずしもこの問いに応えるものではなかった。けれども、具体的な句を挙げながら、作品の「読み」を語ることによって、この集まりは曲がりなりにも川柳の句評会のかたちをなしていたのではないだろうか。単独句ではなくて、一冊の句集としての評価が川柳の世界でもこれから問われていくことになるだろう。
第二部については長くなるので省略させていただく。

2011年7月15日金曜日

句会・大会考

句会・大会は川柳人にとって作品発表の主要な場であるが、川柳作品の文芸的価値を重視する川柳人の中には句会・大会を否定する者もいる。山村祐や河野春三などは大会否定論者であった。選者が作品を選句するというシステムそのものの中にジレンマがあって、選者の川柳観に合致しない作品は最初から排除されてしまうのである。そもそも選者が投句される作品をきちんと理解しているのかどうかに対する不信感が根底にあるから、没になった人々からは常に選者への不満がささやかれることになる。
大会のマイナス面を克服しようとして、これまでさまざまな工夫がされてきた。7月3日に岡山県の玉野市で開催された「玉野市民川柳大会」はそのひとつの形を示している。主催者の前田一石は「題」と「選者」の選定に精力を傾け、一年かけて次年度のラインナップを決定する。各題は共選であり、同じ題に対して男性選者と女性選者を組み合わせる。投句者は二人の選者に対して同じ句を提出するから、選者の川柳観によってどのように選句が異なってくるかが見どころとなる。
「バックストローク」ホームページに発表された「第62回玉野市民川柳大会」の作品の一部(選者の軸吟と特選・準特選)を紹介しよう。詳細についてはいずれ発行される発表誌をご覧いただきたい。

「 日本 」石田柊馬選
   軸吟  なんとなく日本はサラミソーセージ   石田柊馬
   特選  七月の雨にっぽんが濡れている     大西泰世
   準特選 噴水は獅子の口から日本デスマスク   小池正博
「 日本 」吉田三千子選
   軸吟  にっぽんのぶどうだなにはなつきたる  吉田三千子
   特選  プチトマト落果日本は半裸体      吉澤久良
   準特選 なんとなく日本はサラミソーセージ   石田柊馬
「 憂い 」石部明選
軸吟  酢昆布を永遠の憂いと思いけり      石部明
 特選  憂いまで三つ足りない螺子の穴     樋口由紀子
 準特選 憂いが尖る鉛筆を置きなさい      清水かおり
「 憂い 」黒田るみ子選
   軸吟  何を憂えて喪の色まとうのか鴉     黒田るみ子
   特選  湿ってる憂い天日に干してある     伊藤かぎう
   準特選 憂いてもブラックホールに勝てはせず  原修二

選にはその川柳人がたどってきた川柳歴や川柳観のすべてが反映する。複数の選者を比べてみたときの川柳の幅と、ひとりの選者の中での川柳の幅。許容範囲の広い選をすることがよいとも言えないし、選者の川柳観に反する句をすべて排除するというのも狭量である。投句者の方はどのような考えで投句するか。玉野の場合、二人の選者に同一の二句を出すことになるが、選者の選句傾向が分かっているとき、
①二句とも選者Aに当て込んだ句を作句する
②一句を選者A当て込みに、もう一句を選者B当て込みに作句する
③二句を選者B当て込みに作句する
④そんなことは考えずに、あくまで自分らしい句を作句する
という四通りの態度が考えられる。
文芸の作者としては④の立場で作句するのが当然であるが、そこに多少の邪念が入り込むことも避けにくい。川柳人にとって「全ボツ(一句も抜けないこと)」ほどの屈辱はないからだ。俳句結社に投句する人が、主宰の俳句観と選句眼をひたすら信じて、主宰の胸を借りるようにして句を送り続けるのとは事情を異にしている。
前回このブログで紹介した石田柊馬の「川柳味の変転」(「翔臨」71号)で、「句会(題詠)」と「創作」を別項として立て、題詠の方に川柳味が濃く現れるとしているのは、川柳人の感覚を反映しているものと見ることができる。

「バックストローク岡山大会」でも共選を一組実施している。
ここでは共選も単独選でも、選者による選評を付けるのが特徴である。また発表誌には一ページの選評を書くことが義務づけられている。今年の第四回大会では俳人の関悦史と川柳人の草地豊子が「点」という題で共選した。選評も含め、今月下旬には発表誌「バックストローク」35号が発行されるので、お読みいただきたい。

「ふらすこてん」の三人選も独自の形である。ここでは同一の題について三人の選者が選句する。もちろん単独選もあるが、この三人選が句会の目玉である。「ふらすこてん」16号から、六月句会の三人選を紹介しておこう。題は「マイナス」である。

兵頭全郎選 
  負い目だったか葵の上だったか    洋子
  プラスだったかも知れず尾行メモ   泰子
  風船を取り合っているピエロたち   えんじぇる
  減点法そしてだーれもいない海    和枝
石田柊馬選
  プラスだったかも知れず尾行メモ   泰子
筒井祥文選
  左目はまだ氷点下60度       茂俊
  先頭のラクダの瘤はマイナスイオン  多佳子
  HV型色鉛筆の芯は陰湿       勝比古

三人選となると句の評価はさらに多様化する。この句会では同時に参加者の互選も取り入れて、得点を集計するから、選句基盤はさらに不安定である。なぜ選んだか、なぜ選ばなかったのかという討論が毎回行われている。

結局、句会・大会の刷新は「選者」を中心課題としている。
この選者の問題を追及しているのが尾藤三柳著『選者考』である。尾藤は歌合の判者にはじまり、連歌・俳諧の点者から前句付の評者を経て明治以降に選者として固定するに至る、選者の歴史を丹念に拾い出している。
「選者は単なる選別者ではなく、同時に批評家であり、選(判)と批評(判詞)は表裏をなすものであった」
選から批評へという道筋は短詩型文学にとって必然的なものであり、判者・点者に対する批判は昔から連綿と続いてきたことが分かる。それを克服するものが説得力のある批評であり、批評は実作の要請に基づいて実践的に発展してくるものである。川柳だけが例外であってよいはずがない。
心敬の連歌論書『ささめごと』には、「我が句を面白く作るよりも、聞くは遙かに至りがたしといへり」とあるらしい。「聞く」は他人の句を正しく認識することであり、作句力と鑑賞力は並行すべきものである。

「選」という方式はどこまでいってもジレンマなのだ。
「選者が本当によいと思う句は特選ではなくて、その次くらいに置くのがよい」という心得を耳にしたことがある。最上と思うのなら特選にすべきだろうが、そこに別の価値基準が働くのだろう。選者が自分の結社の主宰の句を必ず取るという傾向もある。字や句風でわかるのだが、主宰の作品だと信じて採った句が筆跡の似た別人の句で真っ青になるという悲喜劇もある。
「選」という不安定な足場の中で、誰にでも支持される川柳を可とするか、少数の選者に理解される文芸的作品を目指すのか。マイナス面だけを見て句会・大会を否定すると、一種のデラシネ(根なし草)になってしまう。優れた選者によって新しい川柳人が育っていくことも事実である。いま各地で行われている川柳の句会・大会のさまざまな試みが実を結び、選→選評→批評というかたちで底上げされていくことによって、川柳の実作と選句とが互いに高めあうような情況が生れることを期待したい。

2011年7月10日日曜日

川柳における省略―「翔臨」71号・石田柊馬論文をめぐって

時評とはけっこう困難な作業である。
音楽評論で有名な吉田秀和は、相撲の解説から批評の要諦を悟ったと述べている。現在の相撲解説は愚にもつかぬものだが(そういえば相撲自体の存続もあやぶまれる状況が続いている)、かつては相撲解説者に神風と玉の海がいて、名解説者の評価をほしいままにした。一瞬の取り口を言葉によって鮮やかに解説してみせるそのやり方は、相撲ファンのワクを越えて視聴者を魅了したのであった。
吉田秀和の評論集『主題と変奏』に収録されているシューマン論には「常に本質を語れ」(ベートーベン)というエピグラムが掲げられている。消え去るもの、移り変わる状況を取り上げながら、常に本質を見失わないこと。そこに時評なり批評なりの面目はあるのだろう。

竹中宏編集・発行による俳誌「翔臨」71号に、石田柊馬が「川柳味の変転」を執筆している。〈川柳味の場「句会」〉〈川柳の近代化〉〈川柳味と創作〉〈川柳味と詩性〉〈省略の川柳味〉の五項に分けて、前句付を出自とする川柳が近代化を目指すなかで川柳味がどのように変転してきたか、その見取り図を提示している。石田柊馬の川柳史観については、以前このブログで触れたことがある(2010年11月26日)。柊馬史観は川柳の近現代にたいするパースペクティヴを私たちに与えてくれる。

〈川柳味の場「句会」〉で柊馬は次のように述べている。

「近代化を目指した明治の時代に、先達は前句附けの受動性から、近代的な能動性を求めた。野球でいえばキャッチャーからピッチャーに変わっても川柳が書けると判断した」
「俳句で、写生という思想に基づいた実践と考察が行われていた同じ時期に、前句附けから離れた五七五だけの句を川柳と称して、川柳味と川柳の書き方をどのようにするかが個々人にゆだねられた」

ここで問われているのは、「川柳味と川柳の書き方」が川柳の近代化の中でどのように変遷してきたのか、という問題である。
前句付と『柳多留』では「うがち」と「省略」が一体化していた。川柳の近代化はこの両者の融合が分化していく過程だと柊馬は見る。前句付が題詠に変化したとき、前句付における「飛躍」「うがち」「省略」が弱くなった。題詠は主として問答体の書き方として川柳の句会に定着する。川柳を近代化した井上剣花坊と阪井久良伎は前句付の書き方を引き継いでいたが、その後の近代川柳が「題詠」より「創作」(自己表出としての「雑詠」「自由詠」)を重視するようになると、川柳味は薄められていった。
〈川柳味と創作〉では次のように述べられている。

「近代川柳の佳作の多くは、題詠から離れた創作として書かれたが、大方のレベルは自己表出と共感性の合致する位相にとどまって飽和、袋小路の内閉性を自ら好む意識が、川柳味の棚上げ状態を続けさせた」
「もちろん近代川柳の優れた句は自己表出を上位に据えつつ、川柳的な書き方を採っていた。うがちによる戯画化や暗喩などに川柳味が活きて、省略と収斂が溶け合い、それらの句は、退屈な川柳への批判を宿していた」

ところで、「退屈な川柳」とは何か。

「ちなみに、有季の俳句の日常詠にくらべて、川柳の日常詠は圧倒的に退屈なのだ。有季の俳句は、主意が退屈であれ、こころに触れない句であっても、主意と、季語や景との関わりが感じられる。主意が言葉となり一句となる往還が立ち上がるのだが、川柳の方は、日常性の断片があるだけなのだ。皮肉な見方をすれば、近代川柳では日常の断片を切り取ることにうがちが感じられ、五七五への納め方に省略が働いたのだ」

竹中宏は「翔臨」の後記「地水火風」で「俳句にもっとも近くもっとも遠い川柳に近年おこりつつある新しい波の意味あいと問題点を、今号の川柳作家石田柊馬氏の明確な分析は教えてくれる」と述べたうえで、上記の部分について「こちら(俳人)の胸にもっともつき刺さるはず。わたくしたちがなぜのんびり形式によりかかっていられるか、そのわけを、辛辣に指摘されているのだから」と感想をもらしている。

古川柳では一体化していた「うがち」と「省略」は、川柳の近代化のなかで弱体化し分化する。省略は単に表現技術と受け止められ、「詩性」の獲得が今日的な川柳、発展的な革新と意識され、省略による川柳味は顧みられなくなったという。
〈川柳味と詩性〉では次のように述べられている。

「共感性と問答体の書き方が詩性に適って、うがちの視線が自己客体化になり、喩の多様に向かった中で川柳的な省略はほとんど見られなくなった。私性と詩性が溶け合うところに表出の手応えがあったのだ。作中主体、句に書かれる作者の存在感が喩の追求を重んじさせると、川柳的な省略は表現を軽くすると感じられるのであった」

詩性川柳は「象徴語への依存」と「暗喩の追求」を専らとした。
近代川柳を超克する道として柊馬が重視するのは、「省略」である。「五七五に納める技術」と思われている「省略」を川柳味へ取り戻そうとする川柳人として、柊馬は樋口由紀子と筒井祥文の2人を挙げている。

字幕には「魚の臭いのする両手」     樋口由紀子
一から百を数えるまではカレー味

「樋口由紀子は省略の名手である。川柳そのものを求める意識が強いのである。この句(注・1句目)、強烈な省略が、言葉や意味の発信者と受信者のシチュエーションを創造させた。省略の強さは読者へ預けるちからの強さになる」

そういえば、「バックストローク」33号の「アクア・ノーツを読む」で柊馬は次のように述べていた。

「渡辺の川柳は親しそうな表情を見せているが、よほどそそっかしい読者でない限り、読者の参入を許さない孤立感を持っている。樋口の川柳は省略の厳しさで、一見読者が参入し難い感があるが、省略された量が多いということ自体、川柳では読者の参入、読者の裁量を多分に受け入れて、一句の完成は読者とともに、という川柳なのだ」

隆夫の川柳は読者の参加を許さず、樋口の川柳が読者参加型、という指摘は興味深い。省略と読者の読みへの参加(創造的読み)とはつながっている。

良いことがあってベンツは裏返る   筒井祥文

「筒井は、表現する事象にあまり拘らない川柳人であり、句会上手に多いタイプである」「『ベンツ』を課題にすれば一回りして見たあれこれは、それぞれの一句として何句も書けるのだ。しかし、世俗へ幾分か還ったところで、はじめて『ベンツ』という言葉が問いとなって、作者に問答がはじまる」

最後に柊馬は次のように言う。「ブリューゲルの有名な絵『農家の婚礼』は、婚礼としながら、花婿の姿が描かれていない」
描かれていない花婿は読者の想像に預けられている。それを読むのが読者の創造的読みであろう。

川柳における「詩性」をどう評価するかは柊馬史観のキイ・ポイントである。
「省略」という書き方を川柳味の主要なものと見るかどうか。また、「省略」と「飛躍」の差はあるのだろうか。ゆっくり考えてみたいと思った。

2011年7月1日金曜日

たむらちせい句集『菫歌』について

古代人にとって自然は人間と同じように言葉を発するものであった。たとえば『風土記』には「草木言問ひしとき…」という表現が出てくる。
現在でも草木や水の流れが言葉を語っているように感じられる土地があるとすれば、それは飛鳥や大和であろう。『万葉集』の故地である飛鳥を訪れると、風にそよぐ草がまるで人語を語っているかのように感じられる。
たむらちせいの第6句集『菫歌』(きんか)の「あとがき」に曰く、「古代人の高感度の聴力では、草や木の言葉を聞きとめたという。その中でも菫の発する言葉がもっともわかりやすかったそうだ。菫の歌う声も感じることができたであろう」
従ってこの句集のタイトルは「菫が歌う」という意味で、菫が主語であって、星菫派の抒情ではない。
「あとがき」には次のようにも書かれている。「前句集『雨飾』では〈三輪山や菫の言葉聞きもらす〉と詠じた。大和の山の辺の道を歩き、三輪山に遊んだとき、万葉人に還ったような気分になったのだった」

春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける  山部赤人
大大和野のまぐはひに菫敷き      たむらちせい

大和の草木の言問いと土佐の草木の言問いとはおのずから差異があるだろう。私たちは古代人そのものではありえないから、関西の風土を通じて聞き取るアニミズムのあり方と土佐の風土を通じて聞き取るアニミズムのあり方との間にはズレあって当然だろう。『菫歌』は作者の通過してきた時の流れを感じさせて、とてもおもしろい句読体験をもたらす句集である。

肉食らふ私と桜が鏡裡ヒトラー忌
鏡より翔ちたるは揚羽か姉か
時雨るると鏡の奥を濡れてきし
夢の端鶯笛の鳴つてゐし

「鏡」と「夢」と「蝶」。
「鏡」「鏡像」の句はたくさん収録されている。その中で「ヒトラー忌」の句が最も印象的であった。鏡の中に「肉食らふ私」と「桜」が映っている。忌日にもいろいろあるが、「ヒトラー忌」というのはインパクトがある。

芹洗ふ長女賢し仁淀川
カマキリの貌よく見れば乃木大将
少し考へて藁塚を離れけり
鶴の絵を百枚描きて描き足らぬ
糸巻に身をくねらせて春の息子
少年の閨の荒びや蝉丸忌
にんにくや土佐鬼国に我等棲み

何もかも風土に還元する読み方は好まないが、背景に土佐の風土があることは無視できない。セレクション柳人『古谷恭一集』(邑書林)の解説で私は次のように書いたことがある。

〈 土佐は古来、佐渡や隠岐と同じように都から流人が配流されてくる「遠流の国」であった。源平合戦の頃には多数の落武者が逃げのびてきたともいわれる。「遠流の国」はまた「鬼の国」でもあって、土佐人には中央と周縁というせめぎあいの意識が強いようだ。「真葛原分けて都を探しにゆく」という、土佐の俳人・たむらちせいの句の心情は、恭一の作品世界の根底にも流れているだろう 〉

たむらちせいの名を私が知ったのは、平成16年5月に高知で開催された「川柳木馬創立25周年記念大会」のときであった。この大会には、たむらちせい・味元昭次両氏が参加していたのに、お話する機会がなかったのは残念である。

山椒魚になりたる夢のあとの貌
千年後この水仙にまみえむか
火星より来て億年の曼珠沙華
流され皇子みまかりし地の鈴虫草
来世はおほむらさきとなるきつと

これらの句ではアニミズムというより荘子の斉物論に近くなる。胡蝶の夢。母も家族も友人も、生者死者の区別なく、夢の中ではみな生きている。時空の区別もなく、対象は千年というタイムスケールでとらえられている。老境と言うよりむしろ艶なる境地のように思えるのだ。

手に触れて女体のごとし秋の瀧
白菜割ってとつぜん妻若し
少年の日は鎌鼬居りにけり